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礼拝説教

「義人はいない、一人もいない」
詩編 14編1~3節
ローマの信徒への手紙 3章9~22節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 「正しい者はいない。一人もいない。」と聖書は告げます。これは驚くべき言葉です。私共は、自分が完全無欠の正しい人であるとは思ってはいないでしょう。しかし、「正しい者はいない。一人もいない。」とまで言い切られると、「いや、正しい人も少しはいるのではないか。全くいない、一人もいない、というのは言いすぎではないか。」そのように思われるかもしれません。確かに、「正しい人」ではなくて「良い人」ならばいくらでもいるでしょう。しかし、聖書が告げるのは「正しい人」です。「正しい人はいない。一人もいない。」と聖書は告げます。聖書が告げる「正しい人」と、私共が言う「良い人」とは、全く違ったものです。
 「あの人は良い人だ。」と言われる人は、私共の周りにもいます。そもそも私共が「良い人」と言う時の基準は、自分の中にあります。それに、私共はその人のすべてを知っているわけではありません。ですから、私から見れば相当に「良い人」に見える人が、他の人から見ると、特に近しい人や家族などから見ると、「いや、それほどでもない」ということもありましょう。更に「良い人」というのは他の人と比べて「良い人」ということであって、その基準は自分ですから、大抵の場合は「自分はそこそこに良い人」ということになります。しかし、そのような曖昧な基準で私共の救いが決まるわけではありません。「良い人」か「悪い人」か。それは良い人の方がいいに決まっていますけれど、私共の救いというものは、いわゆる「良い人かどうか」で決まるわけではありません。
 聖書が告げているのは、「良い人かどうか」ではなく、「正しい人かどうか」ということです。「正しい人」というのは、「神様から見て」ということです。他の人と比べてということではありません。神様の御前に出て、神様から見てどうなのかということです。その基準は私の中にはありません。その基準は神様の言葉であり、神様御自身です。神様の言葉に従っているかどうか、それを判断されるのは神様です。神様は私共の心の隅々まで、私共よりもよく御存知です。自分自身でも覚えていないようなことまで、神様はすべて御存知であり、忘れたりされません。そうであるならば、確かに完全に正しいと言える人など一人もいなくなるでしょう。
 聖書が問題にしているのは、救いです。正しい人は救われる。それは説明する必要もないほどに当たり前のことです。しかし、正しい人が一人もいないとするならば、「救われる人はいない。一人もいない。」ということになってしまいます。一体、私共の誰が救われるというのでしょうか。その救いの鍵が、主イエス・キリストです。私共は確かに、神様の御前に出て、誰も正しい者ではありえません。しかし、聖書は「ただ恵みによって、主イエス・キリストを信じるすべての人に神様の義が与えられる。ただ信仰によって、神様は私共を正しい者と認めてくださり、救ってくださる。」そう告げます。それが福音です。聖書は福音を告げている書です。ですから、私共は聖書を読む度に、この福音を読み取り、この福音を聞き取らなければなりません。そうでなければ、聖書を読んだことにならないのです。

2.罪の下に
 今朝与えられている御言葉の冒頭、3章9節で「では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。」とパウロは告げます。しかし、先週見ました3章1節では同じように「ユダヤ人の優れた点は何か。」と問うて、「それはあらゆる面からいろいろ指摘できます。まず、彼らは神の言葉をゆだねられたのです。」と答えました。1節の「ユダヤ人の優れた点はいろいろある」というのと、9節の「全くありません」とでは、言っていることが全く反対と言いますか、矛盾しているように見えます。ここでパウロが告げようとしているのは、こういうことだと思います。「ユダヤ人は旧約聖書という神の言葉を与えられたという点において、全く特別な民です。神様の御心を知らされているという点において、実に優れています。しかし、罪の下にあるという点においては、ユダヤ人もギリシャ人も全く変わりません。特に優れている点など全くありません。」ということです。
 「罪の下(もと)にある」と聖書は訳していますが、この「下」(もと)という言葉には色々な字が当てられます。元・本・許・素・基などなど色々あります。みんな意味が違います。ここでは「下」(した)という字を当てていますが、これが正しく、それ以外の字をあてると意味が違ってきてしまいます。この「罪の下(もと)にある」とは、「罪の影響力の下にある」、もっと言えば「罪の支配の下にある」という意味です。「罪」というものは、神様に従おうとせず、神様を第一とせず、神様に敵対し、神様を信頼しないということです。自分を第一にし、自分の力と神様以外の何かを頼り、自分の栄光と喜びだけを求めてしまう、そのような心の有り様です。この心の有り様は、すべての人間にあるものです。ユダヤ人にだけ、ギリシャ人にだけ、あったりなかったりするものではありません。私共が「罪の下」ではなく「罪の上」にあるのであれば、私共が罪をコントロールすることも出来ましょう。しかし、私共は「罪の下」にあります。私共が罪の影響下に、罪の支配の下に置かれているのです。罪の支配下にあるということは、その状態に対して疑問を持たない、当然のこととしているということです。これは間違っている、おかしい、と逆らわないのです。ですから、当然自分たちではどうすることも出来ません。反対し、立ち向かおうという発想さえ生まれないということです。自然にしていれば、私共は自分が好きなこと、やりたいこと、自分が得することばかりに心が向いてしまいますし、そこに身も心もすべてを注いでいきます。その時、神様の御心なんて考えもしない。それが人間というものです。
 そのように、神様のことなど全く考えもせずに行動し生活するということが自然なのですから、当たり前のことなのですから、それを改めて「罪だ」と言われても、正直なところピンと来ないわけです。それはユダヤ人もギリシャ人も同じです。日本人だって同じです。何とか自分が「罪の下」にあることを知って欲しいのですけれど、これが本当に難しいのです。それは何時の時代でも、どの国、どの地域でも同じです。このことを分かってもらうことが本当に難しい。どんなに話しても中々通じない。私は結構良い人だし、そんなに悪いことをしてきたわけじゃない。みんなそう思っているからです。これは「良い人」「悪い人」というところでしか人を見ることが出来ないからです。ここに立っている限り、自分が基準なのですから、自分が罪人であるとはなりません。しかし、それでは決して、「罪の下にある」という神様の御前に立った自分の姿、罪人しての私は見えてきません。罪は、私共にその罪人としての自分を見させない、認めさせない、分からせない、そのようなあり方で影響力を行使します。それが私共が「罪の下」にあるということなのです。
 しかし、パウロは何とかユダヤ人キリスト者にそのことを分かって欲しいと思いました。そこで、旧約聖書の言葉を引用して、「神の言葉にこうある。」そう言って彼らに語りかけるのです。旧約聖書が神の言葉であることは彼らも認めていますから、そうしたのでしょう。コリントの信徒への手紙一9章20節において、パウロは「ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。」と告げましたが、まさにパウロはユダヤ人に通じるように、旧約聖書の言葉を用いて、「罪の下にある」ということを悟らせようとしたのでしょう。

3.神を求めず、神を畏れず
 10~12節は、そのままではありませんけれど、詩編の第14編1~3節からの引用です。パウロは、聖書に「正しい者はいない。一人もいない。」「善を行う者はいない。ただの一人もいない。」と記されているではないかと告げます。神様から見れば、ユダヤ人もギリシャ人も、正しい者ではなく、善を行う者でもない。自分では正しい者だと思い、善を行っていると思っているかもしれない。あの人に比べれば、ずっと良い人だと思っているかもしれない。しかし、神様が見れば、そうではない。聖書がそう言っているではないか、とパウロは言うのです。
 何よりも「神様を探し求めていない」ではないかと言うのです。神様を探し求めるということは、世界を造り、自分を造り、すべてを支配されている神様の御心を探し求めるということです。私に命を与えてくださった神様は、主人として私に何を求めておられるのかということを、探し求めるということです。この神様を探し求めない所では、私が主人になってしまいます。
 それは、18節の「彼らの目には神への畏れがない。」(詩編36編2節)と言われていることと重なります。「神様への畏れがない」とは、神様の裁きを知らず、正しいこと、神様の御心に適うことなど考えることもなく、自分の思いのままに生きる者の姿を指しています。若者たちが将来何になりたいかと聞かれた時、様々な職業を答えるかと思います。それはそれで良いのです。しかしそこで、「収入が多い」とか「社会的ステータスが良い」とか「かっこいい」とか「好きだから」ということだけではなくて、神様が私に命を与えてくださったのは何を為すためなのか、そのことを本気で考えて欲しいと思うのです。

4.言葉の罪
 13節は詩編の第5編10節の引用であり、14節は詩編10編7節の引用です。ここで告げられているのは、口と言葉の問題です。私共の罪は言葉として表れているではないかと言っているわけです。この口とか言葉というものは、本当にコントロールするのが難しいものです。ヤコブの手紙3章5~8節で、「舌は小さな器官ですが、大言壮語するのです。御覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます。…舌を制御できる人は一人もいません。」と記されています。「口は災いの元」と言いますが、ほんの一言で人との関係を崩してしまうことにもなります。私共はよく「そんなつもりはなかった。」と言います。確かに故意にその人を傷つけるつもりではなかった。けれども、自分の意図しない意味で受け取られてしまった。そういう経験は誰にでもあるでしょう。けれど、イエス様は「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。」(マタイによる福音書12章34節)と言われました。私共の無意識にある思いが、口から出てしまうということなのです。そこまで言われたら、口や言葉で罪を犯したことがないと言える人はいないでしょう。パウロは、嘘をついたり、人を罵倒したり、言葉で人を傷つけたりと、誰もが心当たりのあることを思い起こさせ、自分に罪はないなんて言えないでしょうと言っているわけです。
 言葉ということでいえば、口から出るものばかりではありません。最近はスマホやパソコンを使ったSNSにおける誹謗中傷が社会的な問題になっています。匿名性ということで、平気でひどいことを言えるのかもしれません。その誹謗中傷で心が壊され、病んでしまったり、自ら命を絶ってしまうということだって起きています。これは明らかな罪です。

5.行いの罪
 そして、15~17節はイザヤ書59章7~8節の引用です。ここでは「足」が出てきますが。「足」は「歩む」ということをイメージさせ、私共の日々の行いを指しています。その行いは、血を流し、破壊と悲惨を生み、平和の道を知らないと言います。これは小さなレベルでは親子・夫婦・家族での「いさかい」や、隣り人との間の「いさかい」があるでしょう。そして、大きくは国と国との戦争というものまで含んでいます。神様によって愛の交わりを形作る者として造られたのに、愛の交わりを形作れず、既にある交わりさえも破壊してしまう。そして、そのような時私共は、自らの正しさを疑うことなく、相手を非難し、攻撃します。これに心当たりのない人はいないでしょう。平和が破られる時、声高に叫ばれるのは正義です。自分は正しい。しかし、私共は自らの正義を声高に主張出来るほどに、本当に正しいのでしょうか。そこにやましさはないのでしょうか。
 毎年8月になりますと、私共は8月6日の広島、8月9日の長崎の原爆記念日を迎えます。また、15日には敗戦記念日を迎えます。先の大戦で多くの人々が命をなくし、家族を失い、家を失いました。子どもたちは飢えの中を過ごしました。相手が悪いのだ、自分たちは被害者だ、と言う人もいるでしょう。しかし、先の大戦が神様の目に大いなる罪であることは間違いありません。私は、先の大戦が誰の責任なのか、どの国が悪かったのか、それを問うつもりはありません。ただ、あの大戦で起きたことを忘れてはなりませんし、あの大戦において、自分たちは罪なき者である、そう言える人はいないのではないでしょうか。

6.罪の自覚
 パウロはこのように、旧約聖書の言葉を引用しながら、あなたがたは「自分には罪はない」なんて言えないでしょう。そう言っているのです。あなたがたは律法を知っている。しかし、だからといって、罪を犯していないとは言えない。いや、律法を知っているが故に、他の人たちよりも自らの罪を言い逃れ出来ないこととして受け止めるしかないではないか。そして「罪の自覚が生じる」ということになるのではないか。そうパウロは言うのです。
 自分たちは神の民だ、律法を持っている、割礼を受けた者だ。それは確かに特別なこと。しかし、その特別さは「自分たちは正しく、救われる者であり、自分たち以外の者は救われない」というような所に導くものではない。他のどの民族よりも、自らの罪を自覚するように導かれるということなのではないか、そうパウロは言うのです。あなたがたも「罪の下」にあり、「正しい者はいない。一人もいない。」との御言葉をギリシャ人と一緒に受け止めよう。そして、神様の御前に自らの罪を悔い改める者として立とう。そうパウロは招くのです。
 キリスト者とて同じことです。「キリストの教会は二千年の間、罪を犯したことはありません。キリスト者は正しいのです。」そんなことは、口が裂けても言えません。私共は十戒を知っています。神様を愛し、人を愛さなければならないことを知っています。神様に仕え、人に仕えなければならないことを知っています。これを知るが故に、自らが罪人であることをはっきり自覚しないわけにはいかないのでしょう。「正しい者はいない。一人もいない。」のです。

7.差別はない
 神様の御前において罪人である。このことにおいては、ユダヤ人もギリシャ人も日本人も、何の差別もありません。この罪人という事実は、すべての者を神様の御前で完全に平等にします。その人の才能や境遇といったものでは、私共はとても平等とは言えないでしょう。みんな違うからです。今日でオリンピックが終わりますけれど、どの競技においても豊かな才能を開花させた人たちが集い、競技をしました。競技によっては、背が高い、体が大きいといった才能の差は決して小さくはないものも少なくありません。私共はそういう所に目が向いてしまうわけです。しかし、神様の御前に出れば、裁きの座に着けば、そのような自分が持っていると思っているものはすべて五十歩百歩の違いでしかなく、「ただ罪人であるという全く同じ所」に立たされるのです。良い人だ、悪い人だという違いとて、同じことです。五十歩百歩です。ただ滅びるしかない罪人であるという点において、そこには何の差別も区別もありません。
 では、全く差別のないこの罪人たちは、どのようにして救いに与ることが出来るのか。そこにもまた、全く差別はありません。ただイエス様を信じる。その一点において、神様の義が与えられ、一切の罪が赦され、神の子とされ、永遠の命に与れるのです。「正しい者はいない。一人もいない。」という、神様の裁きの場における平等は、イエス様を信じるならば「救われない者はいない。一人もいない。」という、救いの平等へと繋がっているのです。これは完全な平等です。そして、イエス様を信じることによって、私共は「罪の下」に生きる者から、「神様の下」「キリストの下」で生きる者へと変えられるのです。罪が私共の主人ではなく、神様・イエス様が私共の主人になってくださったのです。主人が替わったのです。それが救われたということです。
 勿論、もう一切罪を犯さない者になったわけではありません。しかし、もう「罪の下」にはいません。ですから、自らの犯した罪を知ることも認めることも出来ます。そして、その罪を憎み、悔い改めて、まことの主人である神様に赦しを求めることが出来ます。そして、神様の御前に健やかに、神の子として、歩んで行くことが出来るのです。何とありがたく、幸いなことでしょう。それが、私共に与えられた新しい命なのです。

お祈りいたします。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 私共は「罪の下」にあった者でしたが、御言葉によって神様から罪の自覚を与えられ、御前に悔い改めることが許され、イエス様の救いに与りました。ありがとうございます。どうか、私共がこの恵みの中に生き切り、あなた様と共なる歩みを為していくことが出来ますよう、心から祈り願います。いよいよ、あなた様を愛し、信頼し、従う者として歩ませていってください。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年8月8日]