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礼拝説教

「神の恵みにより義とされる」
申命記 6章4~15節
ローマの信徒への手紙 3章21~31節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今朝与えられております3章21節から、ローマの信徒への手紙の本論の第二部に入ります。特に21節から24節は、ローマの信徒への手紙の中でもとても大事な所です。私共が救われる筋道、すなわち福音が明確に告げられているからです。
 先週まで見て来ました1章18節から3章20節の第一部では、繰り返し罪の問題が告げられてまいりました。その結論は、3章10節の「正しい者はいない。一人もいない。」であり、20節の「律法によっては、罪の自覚しか生じない」ということです。神様の御前に立って、「私は正しい者です。」と言える人など一人もいない。それは、自分たちは神の民であり、律法を持ち、割礼を受けた者だと誇っているユダヤ人であろうと、聖書を全く知らないギリシャ人であろうと同じだというのです。勿論、日本人も同じです。だったら、人はどうして救われることが出来るでしょうか。それが記されているのが、今朝与えられております御言葉から始まる所です。

2.しかし、今や
 21節は「ところが今や」と語り始めます。口語訳では「しかし、今や」と訳されておりました。この「しかし、今や」という御言葉には、私は少し思い入れがあります。短い言葉です。しかし、ここにイエス様の救いに与った者の喜びが溢れ出ている。その喜びに自分も包まれるようにして、「しかし、今や」と何度も口ずさんだことがあったからです。
 神様の御前において、正しいとされる者は一人もいない。神様が与えられた「律法」を完全に守ることは誰も出来ないからです。「しかし、今や」です。時代が変わったのです。神様が新しい救いの道を備えてくださったからです。旧約の時代は終わり、新約の時代が始まったのです。「しかし、今や」と告げるパウロの顔は、喜びに満ちています。これは勿論、私の想像です。この手紙は口述筆記によって記されました。パウロが語り、その言葉を書記が隣で書いているわけです。この手紙を語っていたパウロは、この「しかし、今や」と告げた時、天からの光に照らされて、その顔は喜びに満ちていたに違いない。私はそう思います。
 この出来事によって時代が変わる。私共はそのような経験を何度かして来たと思います。先の大戦の終結を告げる昭和天皇の玉音放送を聞いた時、多くの日本人は「終わった」或いは「終わってしまった」と思いました。そして、様々な思いをもって「一つの時代が終わった」ことを感じたことでしょう。今日は敗戦記念日です。あれから76年たちました。あの日から、日本の新しい歩みが始まりました。しかし、世界は米ソ冷戦の時代へと入っていきました。そして、朝鮮戦争があり、ベトナム戦争がありました。それらが終わった時も、私共は「終わった」と思いました。そして、ベルリンの壁が壊された時、やはり「一つの時代が終わった」と感じました。この先どうなるのかは分かりませんでしたけれど、「一つの時代が終わった」と思いました。しかし、パウロがここで告げているのは、そのような歴史の中で何度も起きてきたような「一つの時代が終わった」ということではありません。これの前と後では世界が全く変わってしまう、根本から変わってしまう、私共の命の有りようが変わってしまう、そういう決定的な出来事です。しかも、これからどうなるか分からないけれど、という話ではありません。「しかし、今や」です。この出来事によって、すべての人に救いの道が開かれたのです。パウロは「しかし、今や」と告げながら、主イエス・キリストによって与えられた救いの光、天から降り注ぐ神様の愛の光の中に立っています。救いの確信に満たされています。

3.「信仰によって」とは
 パウロが「しかし、今や」と言ったのは、主イエス・キリストの到来によって、イエス様の十字架・復活・昇天の出来事によって、全人類に新しい救いの道が開かれたからです。旧約において、神様はモーセを通してユダヤ人に律法を与えられました。この律法を守るようにと、神様は御心を示されました。しかし、それを完全に守れる者は一人もおりませんでした。そして神様は、遂に「律法とは別の道」を与えられたのです。それが「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに神の義が与えられる」という道です。律法を守ることによって救われるという「行いの法則による道」の外に、ただ信仰によって救われるという「信仰の法則による道」が与えられたのです。その道は、ユダヤ人にも、ギリシャ人にも、私共日本人にも、何の差別もなく与えられました。律法を知っていようといまいと、割礼を受けていようといまいと、こちら側の状態には全くよらず、「ただ信仰によって」神様が義と認め、受け入れ、神の子としてくださる。永遠の命を与えてくださる。この福音によって救われる。そういう時代が始まったのです。神様の御業による、時代の大転換です。
 ここで22節の「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」と訳されている事柄を、少し丁寧に考えてみたいと思います。ここに記されている事柄は、「信仰によって救われる」という、皆さんにはまったく当たり前のこと、耳にたこが出来るほど聞いていることかもしれません。しかし、本当にこの御言葉を正しく理解し、受け止めているかどうか。しばしば誤解されている所があると私は思っています。「イエス・キリストを信じることにより」と訳されています所は、2年半ほど前に新しく出されました聖書協会共同訳おいては、「キリストの真実によって」と訳されています。このように理解されるべきだということは聖書学者の間では言われておりましたけれど、この聖書協会共同訳において初めて採用されました。この訳の方が事柄をはっきりさせていると思います。私共が神様によって義とされるのは、つまり救われるのは、「キリストを信じる信仰による」のか、それとも「キリストの真実による」のかということです。「信仰」或いは「真実」と訳されている言葉は、ギリシャ語の「ピスティス」という言葉で、どちらにも訳せます。ただ、ここでパウロが告げようとしたことは、人間の業によらず、律法とは別の道がイエス・キリストによって開かれたということです。新共同訳の「イエス・キリストを信じることにより」ですと、何かイエス・キリストを信じる私の信仰によって、信仰があるかないかによって、神様に義としていただけるかどうかが決まる。そのように受け止められかねません。そうしますと、確かに「私の行い」ではないけれど、「私の信仰」によって救われるかどうかが決まってしまうということになります。私の信仰が救いの条件になってしまいます。しかし、それはパウロが言おうとしたことではありません。意外とそのように理解している人がいるのではないでしょうか。私共はイエス様を信じているから救われる。その通りなのですけれど、この「私は信じている」ということはどういうことなのか。私共の救いの道は、ただイエス様の十字架・復活・昇天の御業によって開かれました。父なる神様の御心に完全に従って十字架にお架かりになったイエス様の真実によって、救いの道が開かれたのです。私共は、それをただ「ありがとうございます」と受け取るだけです。このイエス様によって備えられた救いをただ受け取る。それが私共の信仰です。
 ですから、信仰が強いの弱いの、信仰が揺らぐの揺らがないの、自分の信仰は熱心だとかそうじゃないとか、そんなことは私共の救いには全く関係ないのです。強くて熱心な信仰を持つ人は救われる。そんな風に考えてはいないでしょうか。しかし、強くて熱心な信仰とはそもそも何なんでしょうか。それが、私共を救う力があるとでもいうのでしょうか。そんなことはあり得ません。23節「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」のです。そのような者の信仰が強かろうが、熱心であろうが、どれほどの力があるというのでしょうか。ただイエス様が私の一切の罪の贖いとなってくださったのです。私共はそれを感謝して受け取るだけです。それが私共の信仰です。私共の自覚的な信仰というものは、まことに頼りないものです。あるかないか分からないような、まことに小さなものです。困難なことがあれば、「とても神様なんて信じられない。」と言い出してしまうような信仰です。しかし、私の信仰は揺らいでしまうから、頼りないから、神様に救われるかどうか分からない。私の救いの確かさも揺らいでしまう。そんなことは決してありません。私共の救いの道は、私によって開かれたものではなくて、イエス様がその尊い血潮をもって開いてくださった道です。私共はただありがたく、神様がイエス様によって備えてくださった救いの恵みを受け取るだけです。

4.神の恵みとして
 それが、24節において「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」と告げられていることです。私共の救い、つまり神様によって義としていただくことは、私共の善き業の報酬でもなければ、立派な信仰の報酬でもありません。「神の恵みにより無償で」、つまり「タダで」与えられる。タダで与えられるから「恵み」なのです。こんな虫のいい話があるのか。善人や良い人が神様に救われると思っている人からすれば、まことに虫のいい話です。しかし、これが福音です。この道を開くために、イエス様は馬小屋で生まれ、罪人と共に十字架に架かり、「罪を償う供え物」となってくださったのです。神の御子が、私共に罪の赦しを得させるための「いけにえ」となってくださった。牛でもなく、羊でもなく、神の御子がです。これ以上価値のある、これ以上完全な「いけにえ」があるでしょうか。御子が私の身代わりとなってくださったのです。
 私共は自分の不信仰に振り回されたり、困窮のただ中で神様の恵みも御支配も信じられなくなるようなことがありましょう。ただ呻くだけで、祈りの言葉さえ出てこない時だってありましょう。たとえそうであっても、イエス様によって備えられた救いの道は揺らぎません。神の恵みとは、まことに圧倒的なものです。御子の尊い血潮によって与えられた救いの恵みは、決して揺らぐことはありません。私共の信仰は揺らぎます。それが私共です。しかし、そのような私共の弱さ、愚かさを突き抜けて、イエス様によって備えられた救いの恵みは、私共を捕らえて離しません。ここに私共の救いの確かさの根拠があります。救いの確かさは、私共の中にはありません。ですから、私共は自分の心の中を覗くのではなくて、ただイエス様を見上げる。そこから救いの恵みは来ます。そこから、私共は救いの確かさを受け取るのです。

5.取り除かれた人間の誇り
 このイエス様の十字架の贖いによって一切の罪を赦された者は、神様との親しい交わりに生きる者となります。それが、神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来る者とされたということです。そして、神様を父と呼ぶ者は、「私の誇り」を必要としない者とされました。これは、とても大きな変化です。人は様々なことを「誇り」として生きています。ユダヤ人が律法と割礼を誇りとしたように、ギリシャ人は文明人であるということを誇りとしました。日本人にも日本民族の誇りといったものがあるのでしょう。そんな大きな話ではなくても、自分の能力であったり、社会的な地位であったり、実績であったり、或いは家柄であったり、学歴であったり、何かしら「私の誇り」というものがあるものです。そして、人はその尺度で他の人を判断します。そして、その人を重んじたり、軽んじたりする。実に愚かなことではありますけれど、そうやって自分の価値を見出そうとするわけです。誇れる何かがないと、自分が全く価値のない者であるかのように思ってしまう。そういうことがあるのでしょう。しかし、私共の価値とはそんな所にあるのではありません。イエス様の救いに与った者は、そのことを知っています。
 イエス様の救いに与り、神様を「父よ」と呼ぶことが許された者は、目に見えるものを「自分の誇り」としなくてよくなりました。何かを誇りとするということは、それを頼りとするということでもあります。キリスト者になり、イエス様の救いをただ感謝をもって受け取ることによって、神様が私共の父となってくださいました。そこで本当に頼るべきお方が出来ました。神様です。天地を造られた、ただ独りの神様です。この方を頼りとすればいいのです。私共は神様を誇りとするのであって、それ以外のものを頼りとし誇りとする必要は全くなくなりました。
 これは実に、新しい人間の誕生です。神様の御前に立ち、ただ神様の恵みに与り、救いに与ったところで生まれる、新しい人間です。自分の持っている何かを誇るのではなくて、神様を誇る者です。神様を誇る者は、目に見える何かで人を重んじたり、軽んじたりしない。見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐからです。それは、他の人に対してだけではありません。自分に対してもです。自分が人に誇れるような何かを持っていなくても、才能と言えるほどのものが何もなくても、健康でなくても、私共の誇りは神様でありイエス様です。神様が私を愛し、御子を与え、その尊い血潮をもって贖ってくださり、我が子よと呼んでくださった。ここにこそ私の誇りがあり、私の喜びがあります。私共は、もう自分の価値を自分で決めることもやめたのです。それを決めることが出来るのは、私でも、周りの人間でも、社会でもありません。ただ独りの神様だけです。この神様が、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」(イザヤ書43章4節)と言われました。「我が子よ、あなたはわたしの目に尊い」と言ってくださるのです。

6.神は唯一
 このイエス様の福音による救いは、誰に与えられるのでしょうか。そこには何の差別もありません。ユダヤ人もギリシャ人も日本人も関係ありません。それは、神様が唯一のお方であって、すべての者の神であられるからです。もし神様が唯一の方ではないのであれば、色々な神様がいることになりましょう。そうであれば、ユダヤ人の神もいれば、ギリシャ人の神もいれば、日本人の神もいるでしょう。それだけではありません。風の神、火の神、雨の神、多産豊穣の神、等々言い出せば切りがありません。そうであれば、わたしの神はあなたの神とは違うということになります。そして、私は私の神様によって救われるけれども、あなたは救われないということにもなります。お互いに自分たちだけが特別で、他の者たちは救われない、ダメな奴だということにもなります。しかし、聖書の神様は唯一の方です。唯一の神とは、すべての者の神ということです。ということは、このイエス様の救いに与ることが出来るのは、イエス様の救いを受け取ることが許されるのは、すべての者であるということです。人種も民族も国籍も一切関係ありません。そこでは何を持っているとか持っていないとか、何が出来るとか出来ないとか、どんな人生を歩んできたか、そのようなことも一切関係ありません。ただ信仰です。イエス様の贖いの死を、感謝をもって受け取るかどうかです。

7.律法を確立する
 最後に、それでは律法は意味がないのか、信仰によって律法は捨てられたのか、そのことを確認して終わります。律法を守ることによって救いに至る道では誰も救われず、律法とは別の道、ただ信仰によって救われるという道がイエス様によって開かれました。行いの法則ではなく、信仰の法則による救いの道です。とすれば、ただ信仰によって救われるのだから、律法は意味のないものになったのか。パウロは「決してそうではない」(31節)と言います。そうではなくて「信仰は律法を確立する」(31節)と言うのです。
 善い行いによって救われると言わなければ、誰が善い業に励むか。みんな自分のことばかり考えて、滅茶苦茶になってしまうではないか。ただ信仰によって救われるなんてことではダメだ。これは、「ただ信仰によって救われる」という私共福音主義信仰に立つ者たちに対して昔から言われてきたことです。しかし、聖書をよく読んでみれば、律法が与えられたのは、これを守れば救われるから与えられたという順番でなかったことは明らかです。モーセを通して十戒が与えられたのは、イスラエルの民がエジプトを脱出するという、神様の救いの御業の後でした。この十戒に従ったならばエジプトから脱出させてやろう、と神様は言われたのではありません。奴隷の地であるエジプトから救い出されるという、神様の救いの恵みに与ったイスラエルに対して、これからはこのように生きなさいと神様が神の民に与えたのが十戒でした。救いの恵みが先にあるのです。そして、その恵みに感謝する歩みとして律法が機能していくのです。律法は神様の言葉であり、神様の御意志ですから、廃れたり無用になったりすることはありません。イエス様の救いの恵みに与った者が、感謝と喜びの中で律法に従って生きていくのです。嫌々ではありません。感謝と喜びの中でです。これが大切な点です。感謝と喜びの中で律法に従う。それが新しい神の民の歩みです。これが、律法が確立されるということなのです。
 このことは、「子どもが父の戒めを愛の言葉として聞き、感謝と喜びをもってそれに従う」というのに似ています。父との関係が健やかでなければ、父の戒めが愛の言葉であることが分かりません。それはただうるさい、鬱陶しい、とても聞く気になれない言葉かもしれません。人間の親と子の関係は、しばしばそのようになってしまうことがあります。それは親も子も罪人ですから、お互いにぶつかってしまうということでしょう。しかし、神様は神様ですから、その御心は慈愛に満ちたものです。イエス様の救いに与った者は、神様がどんなに自分を愛してくださっているかを知らされました。御子を与えるほどにです。ですから、神様を父と呼ぶ者は、喜んで神様の御心が現された律法に従っていくのです。それが私共に新しく与えられた歩みなのです。

 お祈りいたします。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝、あなた様は御言葉を通して、イエス様の十字架の贖いによって、何の差別もなく、ただこの恵みを信じて受け入れるだけで救われると教えてくださいました。ありがとうございます。私共はしばしば、あなた様の全能の御力と愛とを信じることが出来なくなります。その信仰の弱さの中で、救いの確信さえも揺らいでしまいます。しかし、私共の救いは、既にイエス様の御業によって確立され、揺らぐことなく備えられています。どうか、そこに私共の眼差しを向けさせてください。そして、安んじて、感謝と喜びの中で律法に従って、健やかに御国への道を歩ませてください。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年8月15日]