日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「神の民の堕落」
士師記 18章1~20節
テモテへの手紙一 6章15~16節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今日は8月の最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けます。士師記の18章から御言葉を受けますが、私共が士師記でイメージします士師についての記述は16章のサムソンの話で終わりなのです。17~21章には士師は出てきません。17~18章はダン族のよろしくない話ですし、19~21章はベニヤミン族のよろしくない話です。つまり17~21章は、士師記と言いましても、士師は出てきませんし、こんなことが神の民の中で起きて良いのかというような話が記されています。それは、今日与えられております御言葉の最初の所、18章1節に「そのころ、イスラエルには王がいなかった。」とありますように、イスラエル十二部族全体をまとめる王がいなかった。他の民族が攻めてくると「士師」というリーダーが立てられましたけれど、この士師というシステムは臨時のものであり、士師もイスラエルの全部族に対して指示をしたり命令したわけではないようです。士師は自分の出身の部族に対しては権威も力もあったでしょうが、他の民族との戦いが終わった後もイスラエルの他の全部族に対して指示をしたり、命令したり、まして税金を取るなどということを行ったわけではありません。そういう中で、イスラエルはどうなっていたのか。今まで士師記を読み進めてくる中で繰り返されておりましたのが、「イスラエルの人々は、またも主の目に悪とされることを行ったので、主は彼らを○○年間、××人の手に渡された。」という言葉です。では、「イスラエルの人々が主の目に悪とされることを行った」とはどういうことなのか。その具体例が17章以下に記されていると理解して良いかと思います。17~21章の最後の言葉を見てみますと、「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」(21章25節)となっています。つまり、「王がいなかったイスラエルは、主の目に悪とされることを行った」そしてそれは、「それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」ということなのです。

2.我が家の神?氏神?
 では、「主の目に悪とされることを行った」が、それは「それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」とは、どういうことだったのか。まず17章で記されていることはこういうことです。
 17章は、「エフライムの山地に名をミカという男がいて」と始まっています。このミカという男が、自分の母から銀1100シェケルを盗みます。母親は、自分の息子が盗んだとは思わず、盗んだ人を呪います。何で母のお金を盗んだのか、その理由は記されていませんので分かりません。その後ミカは、自分が盗んだ、と言ってお金を母に返します。すると、母は200シェケルの銀で、銀細工師に彫像と鋳像を造らせます。これは御神体のようなものと考えて良いでしょう。このミカという男は神殿を持っていました。彼は、祭司が着る衣装エフォドを造り、テラフィム(これは多分、木の像のようなものではないかと思います)を造って、息子の一人を自分の祭司にしていました。聖書はこれらのことを記して、17章6節において「そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に正しいとすることを行っていた。」と告げます。自分で御神体を作って、神殿も作って、祭司も息子にやらせる、これが「自分の目に正しいとすることを行っていた」ということなのです。この神殿は、出エジプト記に記されているような正式なものではなく、ちょっとした幕屋ではなかったかと思います。要するに、自分で自分のための神殿を作り、祭司を仕立て上げ、自分のための礼拝をしていた、そこに神様の彫像と鋳像の御神体が加わった、ということです。
 そして、そこに一人のレビ人が流れてきます。彼はユダのベツレヘムにいたのですが、「適当な寄留地を求めて…旅を続けて…ミカの家まで来た」(17章8節)のです。レビ人というのは十二部族の一つですが、特別な部族です。それはもっぱら神様に仕えるための部族なのです。彼らには元々領地がありません。他の11部族がレビ人たちを養うことになっていたからです。ですから、このレビ人が流れてきたということ自体、人々が既にレビ人のための献げ物をささげなくなっていたからではないかと考える人もいます。そして、このレビ人はミカに祭司として雇われるのです。そして、このレビ人を雇ったミカは、「レビ人がわたしの祭司となったのだから、今や主がわたしを幸せにしてくださることが分かった。」(17章13節)と言います。レビ人を祭司にして、本物っぽいものにすることが出来た。これで大丈夫だと思ったわけです。この場合の「わたしを幸せにする」というのは、財産が増えるといった、目に見える「幸」を意味します。日本語でも「海の幸」「山の幸」という言い方をしますが、この「幸」を得ることが神殿を作ったミカの目的でした。究極の「私の幸せのための宗教」がここにあります。
 この話を聞いて、皆さんはどう思われるでしょうか。あまり違和感を感じないという人もいるかもしれません。これは日本の氏神様みたいなものじゃないの。そう思われる人もいるでしょう。そうかもしれません。しかし聖書は、これが「自分の目に正しいとすることを行う」ということであり、それは「主の目に悪とされること」だと言っているのです。

3.自分の目に正しいこと
 このミカという男は、自分で良いことをしていると思って疑いません。しかし、聖書は「違う」と言うのです。何が違うのでしょうか。
 第一に、この当時、全イスラエルの幕屋はシロにありました。そこには幕屋があり、祭司がおり、罪の赦しを求める祭儀が行われておりました。ミカはすべてそれらしい偽物を作って、これで良しとしたわけです。しかし、神の言葉である律法に、出エジプト記21章以下やレビ記などに、神殿の造り方から祭司の服装まで、そして祭司の行うことまで、祭儀律法として全部決められておりました。ミカはそのすべてを無視したのです。  第二に、ミカは彫像・鋳像・テラフィムという、言うなれば御神体のようなものを作ったわけです。これは、十戒の第一と第二の戒めに明らかに違反しています。
 第三に、ミカはこの自分の宗教のためにレビ人を雇いました。祭司もそれっぽくした偽物です。
 第四に、何よりも、この宗教は「自分の幸」を求めるものであったということです。神様は自分に幸を与えるための装置でしかありません。ここには、天地を造られたただ独りの神様、聖なる神様に対しての畏れがありません。神の言葉がありません。すべてがまがい物です。
 聖書は、「これは違う」と言っているわけです。

4.ダン族
そして18章です。ダン族が出てきます。イスラエルの十二部族の一つであるダンの一族には、ヨシュア記19章40節以下にあるように、神様によって嗣業とされた土地がありました。しかし彼らは、その土地を他の民族に奪われてしまい、移住することにしました。その土地を探すために5人の偵察隊を送って様子を探らせます。偵察隊はその途中で、ミカの所にも行きます。そして、彼らはこのレビ人の祭司に「自分たちの旅がうまくいくかどうか、神に問うていただきたい。」と申し出ます。答えは「安心して行かれるがよい。主は、あなたたちのたどる旅路を見守っておられる。」でした。このやり取りは、ここだけ見れば不自然な所はありません。しかし、後ほどこの会話の意味が分かります。偵察隊は旅を続け、ガリラヤ湖よりも北の地にまで行き、そこが良い土地であることを確認して戻りました。そして、ダン族の600人が武器を持って北のその地を目指して出発します。その途中で、彼らはミカのところを通り、何とミカの神殿に行き、そこの彫像・鋳像・エフォド・テラフィムを奪います。そして、レビ人の祭司にこう言うのです。「一緒に来てください。わたしたちの父となり、祭司となってください。一個人の家の祭司であるより、イスラエルの一部族、氏族の祭司である方がよいのではありませんか。」(18章19節)これを聞いたレビ人はどうしたでしょうか。彼はこの申し出を「快く受け入れ」て、彫像・鋳像・エフォド・テラフィムを取って、ダン族に加わったのです。
 この後、ミカは当然怒ります。一家を集めてダン族を追いかけます。しかし、追いついたところで600人の兵がいるのですから、これは戦いにはなりません。引き返すしかありませんでした。ダン族は更に北上を続け、ライシュという町に着き、これを征服し、この町を自分たち一族の名をもって「ダン」と名付けました。その後、全イスラエルの土地を言い表すのに「ダンからベエル・シェバまで」という慣用句が使われるようになりました。ダンは全イスラエルの一番北の町であり、ベエル・シェバはユダの一番南の町です。
 この結果どうなったかと言いますと、ダンはこれから後、アッシリアによって滅ばされる紀元前722年まで約400年にわたって、この偶像を祭っていくことになったのです。

5.自分の幸のためではなく①
 このダン族に関する出来事に、私共は色々と考えさせられます。
 第一に、出エジプトという、あれほどの奇跡や神様の憐れみの出来事をもって始まった神の民イスラエルであるにもかかわらず、そして十戒という特別な神様の御心を表した戒めをいただきながら、結局「自分の幸」を第一としてしまう所から抜けられない者がいたということです。ミカがそうでしたし、レビ人の祭司がそうでしたし、ダン族がそうでした。それは目に見える自分の幸を第一に求め、それを与えてくれる神様を拝むというという信仰のあり方、それがどれほど人間の心の底に深く根を張っているかということを示しています。これが人間の「罪」の根っこにあるものです。神様は、私共に目に見える幸を与える装置ではありません。目に見える幸を与える装置としての神に愛はありません。愛の交わりがそこにはありません。
 それは、私共と自分の父や母との間に、どのような交わりがあるかを考えれば明らかです。確かに父や母は、私共が乳飲み子であった時、泣けばミルクを与えてくれ、おしめを替えてくれました。しかし、私共と父や母との交わりは、いつまでもそのようなものではないでしょう。親子は互いに言葉を交わし、父や母は子どもを躾け、訓練もします。色々なことを教えてくれますし、自分の好きなことを出来るようにしてくれます。神様が私共の父であられ、私共との間に愛の交わりがあるとは、そういうことです。確かに、神様は私共の必要を満たしてくださっています。種を蒔けば植物は育ち、実を付けます。私共は神様の養いの御手の中にあるからです。しかし、神様と私共の交わりは、そのようなものだけではありません。子どもが成長するに従って、親の期待というものを受け止め、父や母の嫌がることはしなくなっていくように、私共も神様の御心を知るようになり、喜んでそれに従う者として成長していきます。神様は私共を、神の民として、神様の子として、親しい交わりの中で生かし、永遠の命へと導いてくださいます。私共は、聖書や神様の独り子であるイエスの言葉や業を通して、御心を知らされ、それに応える者として成長していくのです。
 今朝の説教題は「神の民の堕落」としたのですが、自分で題を付けておきながら、どうもこの題だと誤解されてしまうかなと思いました。「堕落」という言葉は、堕落していない状態があったということを前提とします。しかし、士師記の時代、神の民はそれ以前のヨシュアの時代よりも堕落したということではなかったと思います。まだ神の民としての健やかな歩みが整えられていなかった、まだ神の民として赤ちゃんだったということなのではないかと思います。神様との関係において、目に見える幸が与えられることを第一にしてしまう。それしか求めない。それは、神の民としてはまことに未熟な赤ちゃんだということです。でも、みんな赤ちゃんから始まるのです。しかし、成長していきます。このことはとても大切なことです。いつまでも赤ちゃんのままでいるわけにはいきません。しかし、一足飛びに大人になるわけでもないのです。

6.自分の幸のためではなく②
 「自分の幸」を第一としてしまうという点において、ここで特に注目すべきはレビ人の祭司の存在です。ミカの所に流れてきたこのレビ人は、ミカの「雇われ祭司」となります。そして、ダン族が来れば、こっちの方が条件が良いぞと言われて、すぐにそちらに乗り換える。彫像や鋳像に対しても、何の抵抗もありません。そして、先ほど見ましたように、ダン族の偵察隊からこれからの旅について問われた時、彼は「安心して行かれるがよい。主は、あなたたちのたどる旅路を見守っておられる。」と言ってあげるわけです。この時彼は、本当に神様の御心を問うて答えたのではなくて、目の前の偵察隊の者たちが自分に求めていることを察知して、それに応えたのでしょう。ニーズに応えた。神様をニーズに応えるために利用しただけです。この偽物のレビ人祭司は、自分の幸を第一とする宗教における、最後の要です。これで「自分の幸を第一とする宗教」が完成する、そういう役割をしています。
 祭司の本来の役割は、神様の御心を民に伝え、神様の御心に従う民として整えていくことであり、民の犯した罪に対する赦しを神様に願い祈ることです。しかし、このレビ人祭司は、民に対して目に見える幸を与えることがあたかも神様の御心であるかのごとく振る舞うわけです。神の民を神の民として成長させ、訓練していくのではなく、ただ民のニーズに応えていくことを第一にする。何しろ、ミカも、ダン族も、自分を雇ってくれる雇い主だからです。ここで、レビ人祭司の主人が完全に入れ替わってしまっています。祭司の主人とは誰でしょうか。神様以外にいるわけがありません。しかし、この祭司は完全に雇われ祭司となり、雇い主に仕える者となり、神様を雇い主のニーズに応えさせる者へとおとしめています。
 ここには、決してあってはならない牧師の姿があります。祭司も牧師も、それは生活のための職業ではありません。生活のためであるならば、もっとはっきり言えばメシの種であるならば、食べられなくなったら辞めて別の生業をするでしょう。また、条件の良い誘いがあれば、そちらに変わっていくのが当たり前です。そして、いつも考えることは神様の御心ではなくて、自分を雇ってくれている者の思いです。彼らに神様という道具を使ってサービスすることが仕事です。しかし、そのようなあり方が間違っていることは、皆さんは理屈抜きで分かるはずです。祭司も牧師も、神様によって召し出され、神様の御用にもっぱら仕える者として生きる者だからです。祭司や牧師の主人は、神様以外にありません。そして、神の民は、神様にもっぱら仕える祭司や牧師を養う責任がある。それが神の民の、神様に対しての責任だからです。目に見える自分の幸を第一とする宗教は、その宗教者の姿にはっきりと現れるということでしょう。

7.神の民の成長
 神の民は成長していかなければなりません。最初はみんな赤ちゃんです。ですから、最初は神様に対して、自分にとって目に見える幸を与えてくれるのが当たり前だと思っています。泣けばミルクがもらえると思っている状態ですね。ですから、良くないことが起これば、どうして神様は自分をこんな目に遭わせるのか。そんな神様なら要らない。そんな風に思ったり、感じたりしてしまう。これは、すべてのキリスト者がくぐらなければならない試練の時です。そのような時を過ごしたことがないキリスト者なんて、一人もいません。
 私もそうでした。洗礼を受けて2年ほどした頃、本当に辛いことがありました。そして、キリスト者になったのに、礼拝もちゃんと行っているし献金だってちゃんとしているのに、どうしてこんな目に遭わなければならないのか。神様なんて要らない。もう教会なんて行くのはやめた。そんな風に思ったことがありました。しかし、本当に幸いなことに、私はその頃教会学校の教師をしていたものですから、教会に行かなければならない。子どもたちが待っていますから行かなければならない。しかし、そんな気持ちで行っていますから、礼拝が始まっても、ちっとも身が入りません。説教は何を聞いても上の空です。でも、そんな礼拝生活が半年ほど続いたでしょうか、説教の中で「神様はあなたの幸せのためにおられるのではない。神様はあなたに幸を与える自動販売機ではない。」という言葉が耳に飛び込んできました。衝撃でした。私はハッとしました。ヨブ記の説教でした。礼拝に出席し、お祈りし、献金すれば、自動的に目に見える幸いを与えてくれる。神様はそんな方ではない。それでは自分が主人で、神様は自分に目に見える幸を与えてくれる僕ということになってしまう。それは根本的な誤りであると教えられたのです。私は、あの日の説教によって、自分の信仰のあり方を根本から造り替えられました。そして同時に、神の民として一歩成長させていただいたのだと思います。

8.神様の子として
 私共の信仰は、目に見える幸を得るためのものではありません。神様との愛の交わりの中に生きることです。神様は私共を神の国の完成へ、永遠の命・復活へと導いてくださっています。そこを目指して、私共はこの地上の歩みを為しているわけです。しかし、誤解がないように、最後に一つだけ申し上げます。だったら、目に見える幸を願い求めてはいけないのか。そんなことは全くありません。私共は神様の子として、父なる神様に対して、何でも願い求めたら良いのです。目に見える幸を求めることを、ためらうことはありません。でも、神様は私共に一番良いことを、私共以上に良く知っておられます。ですから、願い求めても与えられないこともありますし、思ってもいなかった時に与えられることもありますし、思ってもいなかったことが与えられることもありましょう。私共の人生は、幸いな時ばかりではありません。しかし、そうであったとしても、神様は私共の父であられ、私共を愛してくださっており、神の国の完成へと導いてくださっています。この神様の守りと導きが途絶えることは決してありません。神様はその独り子を与えてくださったほどに、私共を愛してくださっているからです。
 コロナ禍が始まって、一年半がたちました。もうそろそろ、先が見えてもよさそうなものなのですが、まだまだ、状況は良くなっているとは言えません。このような中で、私共は大人の礼拝も教会学校の礼拝も、家庭礼拝を推奨するということに至りました。いつまでこんなことが続くのかと思いますが、ずっと続くわけではありません。私共は神様の守りと導きを信じて、祈りつつ、このような時を耐えて行かなければならないのでしょう。そして、この時は、神様の恵みと愛と真実は少しも揺らいではいないことをいよいよはっきりと知らされる時となるのです。

 お祈りいたします。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
あなた様は今朝、御言葉を通して、あなた様の御前にある神の民としての姿を教えてくださいました。ありがとうございます。私共は、目に見える幸がすべてであるかのように思いがちです。しかし、本当に大切なものは目に見えるものではなく、あなた様御自身であり、あなた様の愛と真実です。どうか、あなた様との愛の交わりをいよいよ真実なものとしてください。どんな時でもあなた様を愛し、信頼し、従っていくことが出来ますように。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年8月29日]