日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「欺くことのない希望」
エレミヤ書 31章15~17節
ローマの信徒への手紙 5章1~11節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 ローマの信徒への手紙を読み進めています。3章12節からずっと論じられていることは、「信仰によって義とされる」ということです。「義とされる」というのは、神様が義と認める、正しいと認めるということですから、「救われる」と同じことと考えて良いでしょう。「信仰によって義とされる」「信仰によって救われる」の反対は、「行いによって義とされる」「行いによって救われる」ということです。律法を守り、正しい人になって救われる。しかし、その筋道では誰も救われることはない。それは、完全に律法を守ることなど人間には出来ないからです。それは、上辺では律法を守ることが出来たとしても、その心の底まで一点の曇りもなく、神様を神様としているか。自らの栄光を求めず、父と母を敬っているか。人を嫉んだことがないか。人に腹を立てたことがないか。そんな人はいないでしょう。ですから、律法を守って義とされる、救われるという筋道では、誰も救われないことになってしまいます。しかし、そのような私共のために神の独り子であるイエス様が来られ、私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになってくださいました。この尊い救いの御業によって、私共に新しい救いの道が開かれました。それが、「信仰によって救われる」という道です。イエス様の救いの御業を感謝をもって受け取る、ただそれだけで救いに与る道です。この信仰によって救われる道ならば、ユダヤ人に限らず、どんな人も神様の救いに与ることが出来ます。

2.神との平和を得ている
 では、信仰によって救われたとは、どういうことなのでしょうか。何が変わったのでしょうか。今朝与えられております御言葉は、そのことを三点挙げて告げています。
 第一の点は、「神との間に平和を得ている」ということです。神様の救いに与る前、自分では自覚はしていなかったでしょうけれども、私共は神様と敵対していた。そして神様に裁かれる者、滅ぼされる者でありました。イエス様の救いの御業を感謝して受け入れる前、私共はまことの神様を知らず、自分の願いが叶うことが第一であり、自分の生活が安泰であればそれで良いと思い、神ならぬものを神として生きていました。罪人とはそういうものです。他の人と比べて私共は特別悪い人であったわけではありません。しかし、神様なんてどうでも良いと思っていた。それは、神様に似た者として造られた人間と神様との、本来あるべき関係ではありませんでした。しかし、それは今だから言えることです。その時は、そんなことを考えることさえありませんでした。
 「しかし、今や」です。イエス様が来てくださいました。そして、私共の身代わりとして、十字架の上で神様の裁きをお受けになりました。そして、信仰によって義とされる、救われる道を開かれました。その結果、「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得」(1節)たのです。神様は私共を滅ぼす恐ろしいお方ではなく、私共を愛し、憐れみ、すべてを導き、祝福してくださるお方となりました。私共と神様との関係が変わったのです。それが最もはっきり現れているのが、私共が神様に対して「父よ」と呼ぶ者とされたということです。天と地とその中にあるすべてのものを造り、すべてを支配しておられる神様が、私共の父となってくださった。それは、私共が「神様の子」としていただいたということです。まことの神様との間に、父と子という関係が立てられた。何とありがたいことでありましょうか。これが第一の点です。

3.神の栄光に与る希望
 第二の点は、「神の栄光にあずかる希望」(2節)を与えられたということです。この「神の栄光にあずかる希望」とはどんな希望なのかと言いますと、イエス様がやがて再び来られる時に、神の独り子であるイエス様に似た者とされる。復活の体を頂き、永遠の命に生きる者とされるという希望です。神の国の完成に与るということです。勿論、イエス様が再び来られる前も、私共はこの地上の生活において、神様の守りの御手の中で一日一日生かされ、必要のすべてを備えられる、だから明日を思い煩うことはない。そういうことも私共に与えられている希望としてあります。それも大変ありがたいことです。しかし、この「神の栄光にあずかる希望」というのは、今申しました、終末における救いの完成に与る希望です。何しろ「神様の栄光に与る」というのですから、大変なものです。
 そして、この希望は、私共がこの地上の生涯においてどんな困窮した状況に陥ったとしても、決して失われることのない希望です。私はこの希望を、「強靱な希望」「確固たる希望」と呼んでいます。遅かれ早かれ、私共のこの地上での歩みは閉じられることになります。「そんな縁起でもないことを言うな。」と言われそうですけれど、私共は例外なく、肉体の死を迎えなければならないわけです。しかし、この「強靱な希望」「確固たる希望」は、肉体の死という、絶対的と思える、誰も超えることが出来ないほど高く、誰も打ち破れないほどに厚い壁によってさえも、押しつぶされることはありません。
 先週の火曜日・水曜日に、敬愛する水野智恵子姉妹の前夜式・葬式がここで行われました。コロナ禍ということで、家族葬という形で行いましたけれども、それでも葬式にどうしても出席したいという方々が御遺族の他に20名くらい来られ、葬りの時を持ったわけです。出席された方は多くはありませんでしたけれど、三人のお子さんご夫妻、それに5人の孫たち、そしてどうしても出席したいと言って出席された方は全員、信仰をもって神の御国に眼差しを向け、祈りを合わせ、賛美を捧げました。そういう葬式は、私はほとんど初めての経験でした。多くの参列者が集う葬りの時において、その参列者が全員信仰をもって神の御国に眼差しを向け、祈りを合わせ、賛美を捧げるなんてことはほとんど起きません。牧師は「神の栄光に与る希望」を告げ、祈りを捧げるわけですけれど、初めて教会の門をくぐったという人にとっては、何を言っているのかさっぱり分からない。それが正直なところでしょう。そういう人が、遺族の中にもおられるし、参列者の中にも結構いる。多い時には、教会員以外はみんなそうという場合もあります。しかし、この「神の栄光に与る希望」こそが、信仰によって救われた者たちに与えられている最も大きな希望、何によってもしぼまされることのない希望、強靱な希望、確固たる希望なのです。それを参列者みんなで共有出来たことを、私はとても嬉しく思いました。

4.苦難をも喜ぶ
 ここでパウロは「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」と言います。この「誇り」としていると訳されている言葉は、口語訳では「喜んでいる」と訳されておりました。「誇る」とも「喜ぶ」とも、どちらにも訳される言葉です。このニュアンスを受け止めるならば、「誇りをもって喜んでいる」ということでありましょう。
 この「誇りにしている」という言葉は、今朝与えられた御言葉の中で3回使われています。2節の「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」、3節の「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」、そして11節の「わたしたちは神を誇りとしています。」の3箇所です。口語訳ではどれも「喜んでいる」と訳されておりました。「苦難をも喜んでいる」。ドキッとする言葉です。これが第三の点となります。信仰によって救われた私共は、神様の栄光に与る希望を与えられる中で、3節「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。」とパウロは告げるのです。「誇りをもって喜んでいる」と言うのです。
 これは驚くべき言葉です。また、不思議な言葉です。誰も苦難になんて遭いたくありません。苦しいこと、辛いことはないに越したことがありません。誰だってそうです。パウロはここで「そればかりでなく」と言って「苦難をも誇りとします。」と告げています。つまり、その前の「神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」を受けて、「そればかりでなく」と言っているわけです。「神の栄光にあずかる希望」は、先ほど申しましたように、終末的希望です。イエス様に似た者に変えられるという希望です。パウロは、その希望を与えられていることを誇りとし、喜んでいるわけですが、「そればかりでない」と言う。私共は、終末において与えられる救いの完成を目指して歩んでいるわけですけれども、この地上にあっては様々な苦難というものにも遭うわけです。それさえも自分たちは誇りとし、喜んでいると言うのです。
 それは、「神の栄光にあずかる」ということが、終末においてイエス・キリストに似た者とされることであるように、この地上においての「苦難」が、あの十字架のイエス様に似た者とされるということだからです。苦難に遭うのは誰でも嫌です。しかし、そこで十字架のイエス様を思い起こす時、その苦難には意味が与えられる。十字架のイエス様抜きに、苦難を喜ぶなんてありません。あの十字架のキリストを思い起こす。そして、キリストに似た者とされる栄光を覚える。十字架のキリストを思い起こす時、苦難はただ苦しいだけのものではなくなります。イエス様に似た者とされていく歩みとして、意味を持ってくるのです。

5.苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を
 ですから、4節「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」と続くのです。これは大変有名な言葉です。愛唱聖句にしている方もおられるでしょう。苦難は苦難だけでは終わらない。そのことを私共は知っている。それは、イエス様の十字架は十字架で終わることなく、復活へと繋がっているからです。そのことを私共は知っているからです。十字架のイエス様を思い起こすこと抜きに、「苦難が忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」などとは、誰も言えません。イエス様の歩まれた道を思い起こし、このままでは終わらないことを知り、キリスト者は忍耐することを学ぶのです。イエス様は十字架では終わらず、復活に至ったことを知っているからです。苦難は苦難のままで終わることはない。そのことを私共は知っているのです。イエス様を知っているからです。
 そして、忍耐は練達を生む。「練達」というのは、金属が精錬されて混じりけのないものにされていくことを意味する言葉です。苦難の中でいよいよイエス様の御業に結ばれて、信仰が、神様との交わりが、はっきりさせられていく。そして、自分に与えられている将来の希望、死を超えた終末の希望に至るということなのでしょう。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」とは、信仰によって救われているから、信仰によって神様の子とされ、神様との交わりの中に生かされているから、そう言えることなのです。これが信仰によって救われた者に与えられている驚くべき恵みなのです。
 日本語にもこの御言葉に似ている「艱難汝を玉にす」という言葉があります。これは艱難や労苦は人間を成長させるという意味です。確かに似てはいるのですけれど、少し違います。というか、全く違います。私は、本当に艱難は汝を玉にするのだろうかと思います。艱難・労苦の中で、ひがみっぽくなったり、潰れてしまったり、生きる気力を失ってしまうということの方が多いのではないかと思います。「艱難汝を玉にす」で大事なのは、私の気力であり、闘志であり、負けん気であり、精神力といったものでしょう。しかし、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」のは、私の力や私の信仰的な熱心というものではありません。私には何もない。全く無力だ。そのことを苦難の中で、私共ははっきり思い知らされていくのです。しかし、その時こそ、神様が守ってくださる、神様が事を起こしてくださる、神様が導いてくださる。神様が生きて働いてくださる。そこに立たされるのです。「私が」ではありません。「神が」です。神様に頼るしかなくなるのです。そこで信仰が練達されていく、福音がはっきり示されていくのです。そこで見えてくるのが、主にある希望です。終末の希望です。
 この希望は「わたしたちを欺くことがありません。」地上の形あるものに依り頼む者は、残念ながら必ず裏切られることになります。形あるものはすべて、必ず過ぎ去って行くからです。しかし、主によって与えられる希望は、決して過ぎ去ってしまうことはありません。私共の肉体の死によっても破られることはありません。 5節「希望はわたしたちを欺くことがありません。」とパウロが告げる通りです。私共の信仰の歩みは、この「強靱な希望」「確固たる希望」と共にあるのです。

  6.神の愛を注がれて
 では、今まで述べました、信仰によって義とされ、救われた私共に与えられている恵みの現実。第一に「神との間に平和を得ている」ということ。第二に「神の栄光にあずかる希望」を与えられていること。そして、第三に「苦難をも誇りとし、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということ」を知っているということ、その根拠はどこにあるのでしょうか。それが5節bに記されています。「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」つまり、この信仰によって救われた者に与えられている恵みの根拠は、「神の愛」です。神様の愛が私共に注がれることによって、私共と神様との間に平和が与えられ、神の栄光に与る希望を与えられ、苦難をも誇りとする者にされるのです。
 この神様の愛は、「自分に注がれていると感じる」というのとは少し違います。感じる人もいれば感じない人もいる。そういうものではありません。神様の愛は、信仰によって救われた者にとっては、間違うことのないあり方、誤解しようのないあり方で明らかにされています。それが、イエス様の十字架です。パウロは、この神様の愛をとても面白い言い方で語ります。6~8節を読んでみます。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」私が面白いと思うのは、7節の「正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。」という所です。なるほど、と思います。「正しい人のために死ぬ人はいない。」本当にそうでしょうね。立派なことしか言わない。曲がったことは言わない。正しいことしかしない。そういう人は尊敬はされるでしょうけれど、その人のために死のうなんて誰も思わない。でも、「善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。」と言います。あの時、私のために、私の子どものために、我が身を惜しまず労苦してくれた。あの人のためだったら、一肌も二肌も脱ごう。そういう人もいるだろう、とパウロは言います。人間とはそういうもの、世の中とはそういうもの。なるほどな、と思います。
 しかし、パウロがここで言いたいのはその所ではありません。その後の8節です。「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」人間は、正しい人のためにも、善い人のためにも、そうそう自分の命を賭けるなんてことはめったにない。ところが神様は、正しくもなく、善い人でもない、それどころか御自分に逆らい、敵対し、無視している者のために愛する独り子を十字架にお架けになった。こんな愛がどこにあるでしょう。とんでもない愛です。ここに神様の私共への神様の愛が示されている。神様の私共への愛の動かぬ証拠はここにあります。
 もちろん、他にも神様の愛は様々な所に現れています。私共の命は神様の御手の中にあるのですから、私共を取り巻くすべてのものが神様の愛のしるしだとも言えましょう。しかし、このキリストの十字架以外の神様の愛のしるしは、揺らぎます。「これが神様の愛のしるしだ。」と思った目に見えるものは、それが大切であればあるほど、それが失われる、奪われる、そういう事態になりますと、「神様は本当に私を愛しているのか。」ということになりかねません。しかし、イエス様の十字架に現れた「度外れた神様の愛のしるし」は、どんなことがあっても揺らぐことがありません。ですから、私共の信仰の歩みの、決して外してはならないポイントは、イエス様の十字架から目をそらさないということなのです。あの十字架のイエス様が復活され、天に上り、全能の父なる神様の右におられる。私共は、この地上での生涯が閉じられたならば、そこに迎えられ、とこしえに主と共にいることになる。それが、私共の希望です。

7.神を誇りとする者として
 信仰によって義とされた私共は、「神との間に平和を得」「神の栄光にあずかる希望を与えられ」「苦難をも誇りとし」「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを知っている」者となりました。そのような私共キリスト者のあり方を、パウロは一言で「わたしたちは神を誇りとしています。」(11節)と言います。この「誇りとする」という言葉も、先ほど申し上げましたように、「喜ぶ」とも訳せる言葉です。「神様を誇らしげに喜ぶ」。これがイエス様の十字架によって救われた者の、新しい命のありようなのです。自分を誇るのではありません。また、何か良いことがあったから喜ぶのでもありません。イエス様によって救われた故に、いつも喜んでいることが出来るのです。神様に愛されているからです。やがてイエス様に似た者としていただけるからです。まことにありがたいことです。私には何もない。でも、神様が私を愛してくださっている。この神様こそ私の誇り、私の喜びです。これを私から奪うことは、誰にも何にも出来はしません。

 お祈りいたします。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
あなた様は今朝、御言葉を通して、改めて「あなた様との間に平和が与えられていること」「あなた様の栄光に与る希望を与えられていること」「苦難をも誇らしく喜ぶ者とされていること」「あなた様は独り子を十字架におかけになるほどに私共を愛してくださっていること」を教えていただきました。まことにありがたいことです。どうか、私共がこの恵みの中にしっかり留まり、御国への道を確かな足取りで歩んでいくことが出来ますよう、聖霊なる神様の導きを心から請い願います。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年9月12日]