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礼拝説教

「キリストと共に死に、キリストと共に生きる」
イザヤ書 26章16~19節
ローマの信徒への手紙 6章1~8節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 ローマの信徒への手紙を読み進めています。この手紙の中で、パウロが問いを出して、それに自ら答えるという形で議論を進める、そういう所がたびたび出てきます。これは当時の議論の進め方だったのですが、問いの立て方が適切でなければかえって効果は逆になってしまいます。多分、パウロは伝道者として歩む中で、実際にここで問うているような問いに出会って来たのだろうと思います。パウロがここで立てている問いは、私共には屁理屈のようにしか聞こえませんけれど、イエス様の福音を宣べ伝えていく中で、パウロ自身、ユダヤ教の人たちから大真面目に問われたのだろうと思います。

2.恵みが増すように、罪にとどまるべきか
 こういう問いです。1節「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。」これは前回見ました5章20節b「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。」という言葉を受けています。こういうことです。イエス様の福音は、「どんな罪も赦される」と告げます。ただ信じるだけで神様はすべてを赦してくださる。これが神様の恵みです。福音です。だったら、たくさんの恵みを受けるためには、たくさん罪を犯した方が良いということになるのではないか。そういう問いが生まれるのではないかとパウロは想定して、「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。」という問いを立てているわけです。屁理屈といいますか、揚げ足取りといいますか、相当ねじ曲がった問いのように私共には思えますが、このような問いはイエス様を知らない人が福音に出会った時、意外と素朴に思い浮かべるものかもしれません。
 すべてが赦されるんだったら、好きなことをして、罪も散々犯して、それから悔い改めた方が良いじゃないか。さっさと悔い改めたら、損じゃないか。何が損なのかは分かりませんが、そんな風に思う人がいるかもしれません。あるいは、「信じるだけですべてが赦される」なんてことになれば、誰が神様の御心を思い、御言葉に従って真面目に生きるものか。誰もそんなことはしない。みんな好き放題、やりたい放題やって悔い改めて赦されて、また好きなことをやって悔い改めて赦される。それで良いじゃないかと思うだろう。つまり、自分の罪の上にあぐらをかいて、ちっとも変わろうともしない。良い業に励もうともしない。そういう人ばかりになってしまうのではないか。そんな教えで社会の秩序を保てるのか。そんな教えで良い社会を作っていくことが出来るのか。それが本当に御心なのか。そんなことはあり得ないだろう。福音に対するこのような反応は、教会が福音にだけ立とうとした時、つまり16世紀の宗教改革の時、宗教改革者たちがローマ・カトリック教会から受けた批判でもあります。たぶん、パウロは「ただ信仰によって救われる」というイエス様の福音を宣べ伝えながら、ユダヤ教の人々或いはユダヤ人キリスト者たちから、このような批判を何度も受けたのでしょう。信仰だけじゃダメだ。律法に従って、善い業をしていかなければ救われない。そういう人たちとパウロは戦い、イエス様の福音を宣べ伝え続けてきました。これは、そのようなパウロの伝道者としての経験から生まれた問いなのでしょう。

3.罪に死んだ
 パウロはこの問いに対して、「決してそうではない。」と答えます。口語訳では「断じてそうではない。」と訳されていました。大変激しい、厳しい否定です。そんなことはあり得ない。そうパウロは言います。それは、この問いがただの理屈に過ぎないからです。実際に福音によって救われたなら、決して言うはずのないことだからです。パウロはここで、福音によって救われた者はどういう者になることになるのか、福音によって救われるとはどういうことなのか、そのことを告げます。2節「決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。」パウロは、驚くべき言葉を告げます。私たちは罪に死んだんだ。罪に対して死んだのに、どうしてなおも罪の中に生きることが出来るのか。そんなことは出来るはずがないではないか。そう言うのです。
 「罪に死んだ」とはどういうことでしょうか。パウロはここまで、人間はみんな罪の支配の下にあると告げてきました。そして、人は死に支配されている、それはアダム以来そうなのだ、と告げてきました。ところが、ここでは「罪に死んだ」と言います。これは、今までの言い方で言うならば、罪の支配から解放された、罪に支配されなくなったということです。それが、神様の恵みによって救われた、福音によって救われたということです。罪に支配されなくなったのに、どうしてなおも罪の中に生き続けることが出来よう。もう自分たちを支配するのは罪ではなく、神様であり、イエス様であり、神様の恵みだ。もう私共は罪の奴隷ではない。それが救われたということです。福音によって救われるということは、頭の中の理屈じゃない。神様・イエス様との出会いの中で与えられる現実です。恵みの現実、新しい命の話なのです。

4.洗礼の意味
 では、そのことを私共はどのようにして知るのでしょうか。パウロは、「それは洗礼によってだ」と言うのです。3節以下の所は、洗礼とは何かということを論じる場合には必ず引用される聖書の箇所の一つです。少し長いですが、3節から5節まで読んでみましょう。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。」
 「それともあなたがたは知らないのですか。」と言います。これは誰でも知っていることだ、イエス様によって救われた者ならば初心者でも知っていることだ、よもやこれを知らないわけではないですよね、そう言って、洗礼という出来事について語るのです。

5.キリストと結ばれる洗礼
第一に、洗礼を受けるということは、イエス様と結ばれるということです。これが洗礼について私共がまずはっきりと知っておかなければならない点です。
 洗礼とは何かということを、目に見える点から理解しようとしても、それは難しいでしょう。私共の行っている洗礼は「滴礼」と言います。「父と、子と、聖霊の名によって洗礼を授ける。」と言って、頭から水を三回かけるだけです。それを見ただけで洗礼が何であるのかを理解するということは、まず出来ないでしょう。洗礼を受ける者は、必ず準備の時を持ちます。そして、この洗礼が何なのか、そのことを教えられます。洗礼は、復活されたイエス様が弟子たちに、このようにしなさいと命じられたことです。そして、キリストの教会は二千年にわたって世界中どこででも、イエス様の福音が告げられる所、福音によって救われる者が起こされる時には必ず行い続けてきました。イエス様も、洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を授けられました。この洗礼は罪の赦しを得させるためのものでしたので、罪を犯すことのなかった神の独り子であるイエス様は、この洗礼を受ける必要は全くありませんでした。しかしイエス様は、罪人である私共と同じ所に降りて来られ、自ら洗礼をお受けになることによって、「あなたもわたしの所に来なさい。あなたも洗礼を受けなさい。そして、罪の赦しを受け、わたしと一つになろう。」そう招いてくださったのです。私共の洗礼は、例外なく、神様・イエス様によって招かれ授けられたものです。そして、イエス様と一つに結ばれたのです。

6.キリストと共に死ぬ
第二に、イエス様と一つに結ばれたということは、十字架のイエス様と一つに結ばれたということです。イエス様の十字架の死は、私の死となったということです。イエス様は、すべての罪人の裁きを十字架の上でお受けになりました。そのイエス様の死が、私の死となりました。私の死となったということは、私共は洗礼によってイエス様と一つにされて、私共も十字架の上で死んだということです。私共の罪は聖なる神様から見れば死刑に価しますから、神様の裁きを受けるということは、死ななければならないわけです。しかし、イエス様が私共のために、私共に代わって十字架の上で死んでくださった。私共の罪の裁きを引き受けてくださった。私共はただ、そのイエス様の十字架の死による救いの恵みをありがたく感謝して受け取るだけです。それが救われるということです。イエス様と一つにされたということは、この十字架のイエス様と一つにされたということです。ですから、罪人としての私はもう死んだのです。洗礼を受けたということはそういうことです。
 そう言われても、私はまだ罪を犯します。罪人としての私は本当に死んだのか、と思う方もおられるでしょう。確かに、私共は罪を犯すでしょう。言葉や行いや思いにおいて罪を犯すでしょう。しかし、それは罪人の私がまだ死んでないということを意味しません。罪人は罪の支配の下にあり、罪の奴隷です。ですから、何が罪であるかを知りませんし、まして自らの罪と戦うことはありません。しかし、私共はたとえ罪を犯したとしても、それを罪として認識し、神様の御前に悔い、赦しを求めるでしょう。もうこんな罪を犯すことがないようにと願うでしょう。それは、私共が既に罪の支配の下にはないからです。罪の奴隷ではないからです。罪人の私はもう死んだのです。「古い自分」は死んだのです。

7.キリストと共に生きる
 第三に、イエス様と一つにされたということは、十字架のイエス様と一つにされたというだけではありません。復活されたイエス様とも一つにされたのです。罪人である私は死に、神の子としての私、イエス様の復活の命に生きる私が生き始めたのです。「古い自分」は死にました。とすれば、生きているのは「新しい自分」「復活の命に生きる自分」ということになるでしょう。キリスト者とは、イエス様の復活の命に生き始めた者なのです。勿論、この私共の復活の命が完成されるのは、イエス様が再び来られる時です。その時には、私共はイエス様に似た者に造り変えられ、復活の体を与えられ、イエス様のように完全に神様を愛し、完全に人を愛し、完全に神様に仕え、完全に人に仕える者となることでしょう。そして、代々の聖徒たちと天使たちと共々に神様の御前に集って、主を誉め讃えます。私共は、その日を目指して、既に復活の命に生き始めた者として、この地上での歩みを為していきます。
 しかし、それにしては自分はそんなに善い人になっているわけではない、と思う人もいるでしょう。腹も立てれば、怒りもする。文句も愚痴も言う。しかし、良いですか皆さん。皆さんは神様をイエス様を愛しているでしょう。「神様が好きですか?」「イエス様が好きですか?」と聞かれたら、「はい、愛しています。」「好きです。」と答えるでしょう。それは復活のキリストの命に生き始めているからです。罪人としての古い自分は、決してそんなことは言えなかったはずです。「神様を愛していますか?」と問われたら、「神様って何ですか?居るんですか?」などと答えていたでしょう。変わったのです。神様に対して「父よ」と呼ぶ者となった。これもそうです。罪人としての古い自分は、神様に向かって「父よ」と呼ぶなんて考えたこともありませんでした。或いは、私共は「御言葉に従って生きていきたい。」と思っているでしょう。中々それが出来ないと言っては悩んだりしますけれど、そうしたいと思っている。これも復活の命に生き始めている証拠です。
 そして、この主の日の礼拝は、私共が目指して歩む御国を先取りしています。私共はこの礼拝で、賛美を捧げ、祈りを捧げ、御言葉に与る。これは神の国そのものではありませんけれど、御国を写し出しています。ここに集う時、私共は、復活の命に生き始めている新しい私を知ります。私だけではありません。隣に、前に、後ろに座っている愛する兄弟姉妹、更には先に天に召された愛する人、代々の聖徒たち。みんな、新しい命である復活のイエス様の命に与った者たちです。イエス様が再び来られる時、私共はその人たちと共に御前に立って礼拝を捧げるでしょう。その日を目指して私共は生きる。新しい命に生き始めているからです。

8.信仰による認識
 今申し上げましたことは、信仰によってしか受け取ることが出来ないことです。信仰なしに、理屈で、合理的に、自分たちの目に見える所をいくら観察しても、あるいは自分の心の中を覗いても、決して分かるものではありません。洗礼を受ける前と後で、一体自分の何が変わったのか。自分は相変わらず腹を立てるし、愚痴も言う。周りを見ても、なるほどキリストと共に生きていると思える人も少しはいるけれど、そうでない人は沢山いる。教会でもこの世と変わらないいさかいだって起きる。だから、洗礼によって何かが変わるなんてことはない、と言う人もいるかもしれません。
 しかし、洗礼によってキリストと一つにされ、罪人である古い自分は死に、神の子とされた私、復活の命に生きる私が生きているということ。私共が既に救われているということは、神様がそのような者として私共を見てくださっているということです。自分をそう思えるということでもありませんし、他の人が自分をそう見ているという話でもありません。そうではなくて、イエス様を与えてくださった神様が、私共をそのように見てくださっているということです。これは信ずべきことです。8節でパウロは、「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。」と告げています。「キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなる」ということは、信ずべきことなのです。これを信じなければ、キリスト教は何も分かりません。これを信じることから、私共の信仰の歩みのすべては始まります。神様を信じる、イエス様を信じるということは、これを信じるということです。罪人である私が死んで、復活の命に生きる者にされた。そのためにイエス様は十字架にお架かりになり、復活させられた。私共は、その救いの恵みを与えてくださるお方として、神様を信じるということです。このことを抜きに、神様を信じる、イエス様を信じると言っても、それでは中身がありません。そんなもので私共を生かすことは出来ません。 ここで、神様がそのように私共を見てくださっているということがどうして分かるのか、そう思う方もおられるかもしれません。理由はとっても簡単です。たった一つの理由です。それは、神様が御心を示してくださった聖書に、そう記されているからです。私共の信仰は、この聖書に記されていることを信じるということ抜きには成り立ちません。

9.聖餐に与る
今日は10月の第一の主の日ですので、聖餐に与ります。この聖餐は今まで述べてきました洗礼の恵みを、別の形で私共に与えてくれるものです。パンはパンであり、杯は杯です。しかし、信仰を与えられた者は、キリストの体、キリストの血潮として与ります。キリストが私共と一つになってくださっていることを、私共はこの聖餐によって受け取るのです。これは、信仰によって受け取るべきものですから、まだ洗礼を受けていない方は与ることが出来ません。それは、聖餐というものは、洗礼によってキリストと一つにされた者が、その恵みを新しく受け取るためのものだからです。洗礼も聖餐も同じ恵みを私共に与えます。
 洗礼は生涯ただ一度のものです。キリストと結ばれるのは、たった一度の出来事だからです。キリストと結ばれるのは一度だけ。私共は、キリストと結ばれたり、離れたり、また結ばれたりはしません。一度結ばれたら、生涯結ばれている。否、肉体の死を超えても結ばれ続けます。しかし、私共は弱く、愚かで不信仰な者ですから、この恵みを何度でも心に刻み続けなければなりません。そうしないと忘れてしまったり、誘惑の中でこの恵みに対しての信頼が揺らいだりしてしまうからです。イエス様はそのことをよく御存知でしたので、私共がこの恵みに留まり続けることが出来るように、私共の信仰を強め励ますために、聖餐を制定してくださいました。まことにありがたいことです。
 ここから始まる新しい一週の歩みが、洗礼によって与えられた新しい命に生きる者として、神様と共に、神様の御前を、信仰をもって健やかに為していくことが出来るよう、共に祈りを合わせたいと思います。

 お祈りいたします。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 今朝、あなた様は聖書の御言葉を通して、洗礼によって私共がイエス様と共に死に、イエス様と共に生きる者とされていることを、新しく教えてくださいました。ありがとうございます。私共はつい自分ばかりを見てしまい、イエス様と一つにされているという、驚くべき救いの恵みの事実を忘れ、自分で良い人になろうと頑張って、それで何とかなるかのように思い違いをしてしまいます。しかし、そんなことでどうにか出来るはずもありません。私共の根っこに巣くっている罪が滅ぼされなければなりません。それが出来るのは、ただあなた様だけです。どうか、私共がイエス様と一つにされた者として、心の底から新しい命に生き切る者としてください。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年10月3日]