日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「嫁と姑」
ルツ記 1章16~19節
マタイによる福音書 1章5~6節a

小堀 康彦牧師

1.はじめに
来週、10月の最後の主の日は召天者記念礼拝となります。週報にありますように、午前と午後の二部礼拝とします。午前は遺族、午後は遺族ではない人という形で出席をお願いします。新型コロナの感染状況はだいぶ下火になっていますけれど、礼拝堂の定員を2分の1にしておりますので、一回の礼拝では入りきれないと思われるからです。宜しくお願いします。そういうことで、来週は召天者を覚えての礼拝となりますので、旧約から御言葉を受けるのは一週前にいたしました。前回で士師記が終わり、今日はルツ記の1章から御言葉を受けます。
 ルツ記はたった4章からなる大変短い書で、モアブの女性ルツの名前が冠されています。前回までの士師記やその前のヨシュア記、そしてルツ記の後のサムエル記や列王記とは、だいぶ話の雰囲気が違います。元々、へブル語聖書、これをマソラ本文と言いますが、それではルツ記が置かれていた場所はここではありませんでした。マソラ本文は三つのまとまりから成っています。第一のまとまりがトーラー、これは律法のことで、いわゆるモーセ五書と言われる、創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記が置かれます。これは、現在の私共の聖書と同じです。そして第二のまとまりがネビーイーム、これは預言書のことですけれど、これには「前の預言書」と「後の預言書」というものがありました。「前の預言書」にはヨシュア記・士師記・サムエル記・列王記があり、「後の預言書」としてイザヤ書・エレミヤ書・エゼキエル書と12小預言書がありました。そして最後のまとまりとしてケスービーム、これは諸々の書ということで諸書と呼ばれます。ここには詩編・箴言・ヨブ記・雅歌・ルツ記・哀歌・コヘレトの言葉・エステル記・ダニエル書・エズラ記・ネヘミヤ記・歴代誌などが分類されていました。つまり、私共の現在の聖書とは順番が違っていたわけです。ルツ記は、ヨブ記やエステル記・ダニエル書などと一緒に詩編に代表される諸書のグループに含まれていました。しかし、七十人訳聖書というギリシャ語に訳された旧約聖書は並べ方を変えました。モーセ五書としての律法・歴史書・教訓書(知恵書)・預言書という並べ方にしました。私共の聖書はこの並び方に倣っています。その並び方を変える際に、このルツ記は諸書のまとまりから歴史書に移されました。それは、ルツ記の最後には、ルツのひ孫としてダビデが生まれるということが記されております。サムエル記にはダビデ王台頭記という性格がありますので、サムエル記の前のここに置かれることになったということです。マソラ本文における「前の預言書」としてのヨシュア記・士師記・サムエル記・列王記は、神様に従わなかったイスラエルは神様に裁かれる、そして最後はバビロン捕囚に至ったという歴史観で一貫して記されています。しかし、元々は諸書にあったルツ記はそのような歴史観で記されているわけではありません。ですから、ルツ記は今まで読んできましたヨシュア記や士師記とは雰囲気が違うだけではなく、そこで告げられているポイントも違ってきます。そのことをよく弁えて読まなければなりません。

2.嫁と姑
さて、今日の説教の題を「嫁と姑」としたのですが、先週、ある方に「今度の礼拝は『嫁と姑』なんですね。」と言われました。そのニュアンスが「その話を聞けば、私の嫁と姑の問題も解決出来るでしょうか。」という感じでしたので、「失敗した」と思いました。その人にはかいつまんでルツ記の話をして、こうすれば嫁と姑の問題は解決しますとか、嫁と姑はこうあるべきですという話ではないんですよ、と話しました。しかし、この題を見ればそのような話がされると受け取られて当然です。私共にとって「嫁と姑の問題」は、とても深刻な重い課題ですので、何とかしてこの課題を乗り越えていきたいと思っているからです。
 確かにキリスト教会の長い歴史の中で、ルツといいますと、賢く、気立てが良く、優しく、信仰がしっかりした、姑思いの理想の嫁というイメージがずっとあります。そのため、大変愛されてきた女性であり、ルツという名前の女性も欧米にはたくさんいます。親がルツのように育って欲しいという思いがあるからでしょう。昔の聖書カルタには「る」「ルツは賢いお嫁さん」というのがありました。ルツは賢いお嫁さんであるには違いありません。ですから、これは間違いではありません。しかし、このルツ記から賢い嫁や賢い姑についての教訓だけを読み取ろうとするのでは、残念ながら的を外していると言わなければならないでしょう
。  順に見てまいりましょう。

3.ユダからモアブへ
1節から読みます。「士師が世を治めていたころ、飢饉が国を襲ったので、ある人が妻と二人の息子を連れて、ユダのベツレヘムからモアブの野に移り住んだ。その人は名をエリメレク、妻はナオミ、二人の息子はマフロンとキルヨンといい、ユダのベツレヘム出身のエフラタ族の者であった。彼らはモアブの野に着き、そこに住んだ。夫エリメレクは、ナオミと二人の息子を残して死んだ。息子たちはその後、モアブの女を妻とした。一人はオルパ、もう一人はルツといった。」とあります。
ユダのベツレヘムから、飢饉のためにモアブの地に移り住んだ一家がいた。モアブというのは、死海の東側の土地です。死海を挟んでユダヤの反対側です。この一家は、現代で言えば難民ということになるでしょうか。エリメレクとナオミの夫婦、それと二人の息子の4人です。余談ですが、日本人の女性でもナオミという名前の人がいますけれど、このナオミという名前はインターナショナルですね。エリメレクは二人の子どもと妻のナオミを残して死んでしまいます。一家の大黒柱が亡くなってしまった。故郷を離れてこの地に来たナオミにとって、夫が亡くなってしまうというこの出来事は本当に辛く、心細かったと思います。それでも二人の息子がいたので、何とかナオミは頑張りました。二人の息子はモアブの女性と結婚しました。
ところがです。4節b~5節「十年ほどそこに暮らしたが、マフロンとキルヨンの二人も死に、ナオミは夫と二人の息子に先立たれ、一人残された。」とあります。何と、今度は二人の息子まで死んでしまうのです。残されたのはナオミと二人の嫁、ルツとオルパだけ。二人の嫁には子どもはいなかったようです。ナオミはこの時、もう生きる希望も気力も失ってしまったのではないでしょうか。ナオミはこのモアブの地で頑張って生きていく理由も気力も失ってしまいました。そして、国に戻ることにしました。

4.ナオミ
ナオミはユダに帰る途中で、二人の嫁にこう言います。7節b~9節a「故国ユダに帰る道すがら、ナオミは二人の嫁に言った。『自分の里に帰りなさい。あなたたちは死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみを垂れてくださいますように。どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように。』」この時のナオミの年令ははっきりしませんけれど、結婚する年齢に達していた息子が二人いたこと、更に10年生活したことを思うと、40歳後半から50歳代ではなかったかと思います。二人の嫁はまだ20歳代だったでしょう。ナオミは二人に、「自分の里に帰りなさい。そして、新しい嫁ぎ先を見つけて、安らかに生活しなさい。」と言います。「あなたたちは息子の嫁なのだから、私の老後の面倒を見なさい。」なんて言いません。まだ若い身空で夫を亡くした嫁たちが不憫だった。まして、ユダのベツレヘムへ行くとなれば、文化の違いもあるし、外国から来たということで、どんな辛い目に遭うかも分からない。ナオミは、二人の嫁の今後のことを考えると、一緒にユダのベツレヘムに行くことを求めるなんてとても出来ませんでした。
 それに対して二人の嫁は、「ナオミが二人に別れの口づけをすると、二人は声をあげて泣いて、言った。『いいえ、御一緒にあなたの民のもとへ帰ります。』」何と健気な嫁たちでしょう。自分もナオミについて行くというのです。ナオミと二人の嫁たちの10年間の生活の中で培われた関係がここに現れています。ナオミも二人の嫁に感謝していたし、二人の嫁も夫の母という以上に、麗しい関係が出来ていたのでしょう。しかし、先ほども申しましたが、「私の姑がナオミのようであったら」とか「私の嫁がこの二人の嫁のようであったなら」といように読んではいけません。こんな関係にはめったになれるものではありません。しかし、「ナオミは言った。『わたしの娘たちよ、帰りなさい。どうしてついて来るのですか。』」苦労することは分かっている。そんな目に遭わせるわけにはいかない。そうナオミは思ったのでしょう。「帰りなさい」と言うのです。
 この後のナオミの言葉を理解するためには、少し説明が必要でしょう。申命記25章5節以下に記されておりますが、夫が子どもを残さずに死んでしまった場合、夫の兄弟は残された妻を娶って、生まれた長子に亡くなった兄弟の名前を継がせなければならない、ということになっていました。これをレビラート婚と言います。日本でも「逆縁婚」とか「もらい婚」といって、戦前までは普通に行われていました。ここでナオミは、自分はもう年だし、二人の嫁のために子どもを生むことは出来ない。もし、生むことが出来たとしても、その子が結婚出来るまで待つというのか。そんなことはあり得ない。そうナオミは告げたのです。だから帰りなさいと言ったのです。
 13節のナオミの言葉に注目しましょう。ナオミは、「あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらいのです。主の御手がわたしに下されたのですから。」と言います。夫を亡くし、今度は二人の息子を失うという出来事。これをナオミは「主の御手」によるものだと受け止めている。ここにナオミの信仰が現れています。自分にとって良い事だけではなくて、悲しい出来事も神様の御心、神様の御業として受け取っています。これは本当に辛いことでした。聖書は、この言葉を聞いて「二人はまた声をあげて泣いた。オルパはやがて、しゅうとめに別れの口づけをしたが、ルツはすがりついて離れなかった。」と記します。オルパは、ナオミと別れて自分の故郷、自分の実家に戻っていきました。これが普通であり、当然のことだったと思います。

5.ルツ
 一方ルツはどうしたかと言いますと、16節以下です。「ルツは言った。『あなたを見捨て、あなたに背を向けて帰れなどと、そんなひどいことを強いないでください。わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。』」何ということでしょう。ルツはナオミについて行くというのです。理由は色々考えられます。ルツには帰る家がなかった、と考える人もいるでしょう。しかし、このルツの言葉に表れているのは愛です。●ナオミに対しての深い人間としての愛情と信仰によって結ばれた愛情です。ルツとナオミは本当の親子以上の関係になっていたのだと思います。「夫の母だし、一人で残していくのは可愛そうだから、仕方がない。」そんな思いをルツの言葉から読み取ることは出来ません。「わたしは、あなたの行かれる所に行き、お泊まりになる所に泊まります。」とか「あなたの亡くなる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。」という言葉など、もう現代の日本では本当の親子でも聞くことが出来ない言葉でしょう。
 しかし、それ以上に重要なのは、「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。」と告げていることです。ルツはモアブの娘です。モアブにはモアブの神がいます。モアブの母なる女神はアシュタロテ。これは多産豊穣の神です。そして、男性神は戦いの神ケモシュです。これには人身御供が献げられていました。しかし、ルツはナオミと一緒に生活していく中で聖書の神様を信じ、これと共に生きるということがどういうことなのかを目の当たりにして、ナオミの信仰を受け継いだのです。ナオミの民は自分の民、ナオミの神は自分の神となったというのです。それはルツがモアブの民であるということを捨てるということでした。イスラエルの民となるということでした。更にルツは、「そのほかのことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください。」と言います。「主よ」と神様に呼びかける者、主なる神様に祈る者とされていたということです。
 ナオミはルツの決意が固いのを見て、それ以上説得することはせず、共にユダのベツレヘムへと戻って来ました。

6.ナオミ(快い)ではなくマラ(苦い)
ナオミとルツがベツレヘムに着くと、ナオミを知っている人たちが声を掛けてきます。ベツレヘムは村ですから、住んでいる人たちは皆知っていたと思います。そして、10年前に飢饉でベツレヘムを出て行ったエリメレクとナオミと二人の息子のことを皆が覚えていました。そして、ナオミ見ると、「ナオミさんではありませんか。」と声を掛けてきたのです。ナオミも嬉しかったと思います。ナオミは長く自分の故郷の言葉を聞いていませんでした。ユダヤのお国訛りを聞いて、故郷に帰ってきたことを実感したことでしょう。ユダヤとモアブは共にアラム語文化圏にあり、ユダヤとモアブの言葉の違いは方言程度の違いで、互いに何を話しているのか分からないということはなかったと思います。しかし、それでもベツレヘムで「ナオミさんではありませんか。」と声を掛けられ、懐かしく、嬉しく思ったに違いありません。
 しかし、この時ナオミが言った言葉はこうでした。20節「ナオミは言った。『どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのに。』」ナオミがベツレヘムを出て行ったときは、夫がおり、二人の息子もいました。しかし、モアブの地で夫も二人の息子も失い、ナオミは何もなくなって戻って来た。ナオミという名前の意味は「快い」とか「喜び」です。ナオミは、私の名前を呼ぶな。私に快いことなど、喜びなど何もない。私のことはナオミではなく「マラ」と呼べというのです。マラとは、「苦しみ」とか「苦い」という意味です。  ナオミは「全能者がわたしをひどい目に遭わせた」と言い、「全能者がわたしを不幸に落とされた」と言います。これは夫を亡くし、二人の子どもを失って故郷に戻ったナオミの偽らざる思いでしょう。苦しみ、嘆き、困難、苦難を味わっている人は、このナオミの思いに共感するでしょう。このような嘆きの中にあるナオミを慰めることなど、一体誰が出来るでしょうか。ナオミはルツが一緒についていきたいと思った人です。ナオミの信仰は、立派なものであったに違いありません。しかし、そのナオミがこのように思うのです。それが私共なのです。こう思って当たり前なのです。
 しかし聖書は、この嘆きの中にいるナオミに、「ナオミとは呼ぶな。マラと呼べ。」とまで言ったナオミのために、神様はルツを備えてくださっていたことを告げます。ルツがいる。ナオミは一人ではなかった。ルツが一緒にいた。それは小さなことではありませんでした。でも、この時ナオミは、ルツが共にいるということがどういうことなのか分かりませんでした。それが私共、人間なのでしょう。

  7.神の摂理
しかし聖書は、神様がルツを用いて、やがてナオミに喜びが訪れることを告げます。それは4章において、ナオミの夫エリメレクの親戚であるボアズによってルツに子が与えられるからです。その生まれた男の子がオベドです。オベドの子がエッサイ、そしてエッサイの子がダビデです。そして、ダビデの子孫から、主イエス・キリストが誕生します。それは、ずっとずっと後の話です。しかし、神様はそのことも見通されていました。私共には分かりませんけれど、神様には神様の御計画があり、その桁違いの大いなる御計画の中で私共は生かされています。
 先ほど、マタイによる福音書1章のイエス様の系図の一部を読みました。「ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた。」と記されています。この系図には、通常は父の名前しか記されていません。ところが「ボアズはルツによってオベドを」とわざわざ母であるルツの名が記されています。どうしてでしょうか。ルツはモアブの女です。イスラエルの民ではなかった。だから名前が記されたのでしょう。神様は救い主の誕生のためにモアブの女ルツを用いられました。それは、神様の御計画の中に異邦人もおり、その救いの御心は異邦人にまで及んでいるということを示しています。私共も異邦人でしたけれど、神の民としていただきました。私共の人生は、この神様の御計画、神様の御心というものの中にあります。勿論、先のことは私共には分かりません。しかし、たとえ分からなくても、神様の御心があって、神様の救いの御計画の中で私の人生はあり、意味を持つことになる。それは、良いことも、悪いことも含めて、すべてです。全部が意味を持つことになる。そのことを私共は信じて良いのです。
 キリストの教会は、そのことを「神の摂理」と言ってきました。私共は神様の摂理の中に生かされている。それを信じて良いのです。
 ハイデルベルク信仰問答は、問の27、28でこの「神の摂理」についてこう言っています。
問27 神の摂理について、あなたは何を理解していますか。
全能かつ現実の、神の力です。それによって神は天と地とすべての被造物を、いわばその御手をもって、今なお保ちまた支配しておられるので、木の葉も草も、雨も日照りも、豊作の年も不作の年も、食べ物も飲み物も、健康も病も、富も貧困も、すべてが偶然によることなく、父親らしい御手によってわたしたちにもたらされるのです。
問28 神の創造と摂理を知ることによって、わたしたちはどのような益を受けますか。
わたしたちが逆境においては忍耐強く順境においては感謝し、将来については、わたしたちの真実な父なる神をかたく信じ、どんな被造物も、この方の愛からわたしたちを引き離すことはないと確信できるようになる、ということです。なぜなら、あらゆる被造物はこの方の御手の中にあるので、御心によらないでは、動くことも動かされることもできないからです。
 ルツ記は、この神様の摂理があるということ、そのことを信じるようにと、私共に促しています。私共の嘆きは決して嘆きでは終わらない。それを信じて良いのです。私共は神様の摂理の中にあるのですから。

 お祈りいたします。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 今朝、あなた様はルツ記を通して、私共の思いを超えたあなた様の御心、救いの御計画があるということを教えてくださいました。感謝します。私共は、目の前に起きた出来事がすべてであるかのように思い、困難な時、苦しい時、あなた様の憐れみに対する信頼が揺らいでしまいます。どうか神様、私共にあなた様の摂理を信じる信仰を与えてください。そして、どんな時でもあなた様を愛し、信頼し、お仕えすることが出来ますように。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年10月24日]