日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「霊に従う生き方」
創世記 2章18~24節
ローマの信徒への手紙 7章1~6節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 ローマの信徒への手紙を共々に読み進めておりますが、今朝与えられております7章で取り上げられているは律法の問題です。「律法」とイエス様の十字架によって救われるという「福音」とがどういう関係になっているのか、このことをパウロは論じております。この「律法と福音」の関係についての問題は、あまりピンと来ないという人も多いのではないかと思います。それは私共が、律法についてあまり知らなかったり、律法によって形作られた生活習慣というものに馴染みがないからではないかと思います。しかし、パウロの時代、聖書といえば旧約聖書しかありません。そして、その旧約聖書において最も重要なものは何であるかと言えば、それは間違いなく律法でした。律法はトーラーと呼ばれ、創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記の聖書の最初の五つの書、一般に五書とかモーセ五書と呼ばれる部分です。旧約における他の書はすべてこれを前提としていると言いますか、この土台の上に立っているものですから、律法がとても大事だったわけです。そして、ユダヤ教は「律法を守ることによって救われる」と教えていました。パウロ自身、元々ファリサイ人と呼ばれるグループに属しておりました。このグループは、具体的な日々の生活に律法を適用して、まさに箸の上げ下ろしに至るまで様々な規定を設けて、この様々な規定を厳密に守ることによって律法を完璧に守り、そして救いに至る、そのように信じていた人々でした。しかし、パウロは復活されたイエス様と出会って、その根本から変えられてしまいました。日常生活の中に様々な形で張り巡らされた律法の規定を守ることによってではなく、ただ信じるだけで、イエス様の救いの御業を感謝して受け取るだけで救われるという、福音の真理を示されました。彼は回心してキリスト者となり、その福音を宣べ伝える者として召し出され、遣わされたのです。そのパウロにとって、律法と福音の関係はどうでもよい問題ではありませんでした。この問題をはっきりさせなければ、自分の伝える福音とは何なのか、それをはっきりさせることも、それを明確に伝えることも出来なかったからです。

2.律法とキリスト者の関係
パウロは、律法と私共キリスト者の関係を6節で「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。」と告げます。これが今朝与えられている御言葉において告げられている、私共と律法の関係です。律法は自分を縛っていた。しかし、私は律法に対して死んでしまった。そして、律法から解放された。そうパウロは告げるのです。
 このことを、パウロは2~3節で結婚のたとえを用いてこう言います。「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません。」特に難しいことを言っているわけではありません。十戒の第七の戒めにおいて、「姦淫してはならない」と命じられています。結婚している婦人が、夫が生きている間に夫以外の男性と一緒になれば姦淫したことになる。しかし、夫が死ねば、妻であった婦人が夫以外の男性と一緒になっても姦淫したことにはなりません。当然のことです。ここでパウロが言いたいことは、律法の効力はどこまで及ぶのかということです。当然、生きている者に対してしか効力はありません。
 そして4節です。「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです。」とあります。まず、「兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて」ということですが、これは6章で語られた洗礼のことを受けています。6章3節「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち」とありますし、5節「わたしたちがキリストと一体になって」とあり、11節「キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている」とありますように、洗礼を受けたキリスト者はキリストに結ばれ、キリストと一体とされました。ということは、私共が主イエス・キリストのものとなったということです。キリスト者は洗礼によってキリストに結ばれました。そのキリスト者の主人は、キリストです。私共はキリストのもの、キリストの僕とされました。そうであるならば、律法は最早私共の主人ではなくなったということです。主人は二人はいません。キリストのものとされた私共は、律法に対しては死んだ者となり、律法は最早私共を縛り付ける力も効力もなくなった、私共は律法から解放されたということです。
 それは律法が無意味になったということではありません。律法は神様が与えたものであり、神の言葉であり、神様の御心を示したものです。ですから、これが無意味になるなどということは、決してありません。しかし、キリストのものとされ、キリストを主人とする者となった私共は、もう律法の支配の下にはいなくなりました。律法の支配の下にではなく、キリストの支配の下に生きる者となったからです。これによって、律法を守ることによって救われるという「律法の効力」は、私共には最早及ばなくなったということです。

3.罪と律法
思い出して欲しいのですが、このローマの信徒への手紙をここまで読んできて、今までパウロは「罪に死んだ」とか「罪の奴隷」という言い方をしてきました。ところが、今朝与えられている所では「律法が支配する」とか「律法に対して死んだ」という言い方をします。まるで「罪」が「律法」にスライドして、「罪」と「律法」が同じように扱われ、論じられているように読めます。しかし、律法は神様が与えられたものであって、律法が罪であるはずがありません。では、いったい罪と律法とはどういう関係にあるのでしょうか。
 5節を見てみましょう。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。」とあります。私共がイエス様を知らず自分の思いのままに生きていた時、つまり「肉に従って生きていた」時、罪へ誘う欲情が律法によって五体、つまり私共のからだの中に働いた、そして罪を犯していた、そう言うのです。律法は罪へ誘う欲情(これは情熱とも訳せる言葉ですが)、これが私共の体に働きかけて、死に至る実を結ばせたとはどういうことなのでしょうか。律法は神様が与えられた、神様の御心を示してくださった良いものであるはずです。ですから、これは律法そのものが、直接私共の罪に働きかけて、私共に罪を犯させたということではないと思います。そうではなくて、第一に、律法によって何が罪かを知るようになっても、律法には罪に向かおうとする人間の情熱を鎮めたり止めさせたりする力は全くなかった。第二に、人はこれさえ守れば救われるのだという思いを抱き、神様を頼り、神様に従うのではなくて、自分の力で救いを得よう、救いに至るのだという情熱をかき立てたということ。第三に、律法を守る者と守らない者との間に大きな壁を造って、とてもそれを踏み越えて交わろうとはしないという、分断・分裂という、神様の御心である愛を破壊する情熱に人を駆り立ててしまったということではないかと思います。もし、律法を知った者がこれをちゃんと理解し、受け止め、乗り越えようとするならば良かったのですけれど、そうはならなかった。言うなれば、律法が罪の道具のようになってしまい、「自分は正しい」とする罪を増長させるだけだったということなのです。
 律法は神様が与えられた素晴らしい、神様の御心を示したものです。ですから、律法を捨てるなんてことはあり得ません。しかし、「律法を守って正しい者となる」というあり方、これを律法主義と言いますけれど、これに陥ってしまったということです。この律法主義というのは、とても分かりやすいものです。律法を守って神様の御心に適う良い人になって救われる。どこに問題があるのか。まことに自然な発想です。ですから、人は律法を知れば、必ず律法主義になる。そういうものなのです。これは教会に全く来たことのない人でも、キリスト者とはこういう者だという勝手なイメージを作って、これに反すると「それでもキリスト者か」と言う。自分のことは棚に上げて、そう言ったりするわけです。これも律法主義です。もし人間が完全に律法を守ることが出来るならば、それも良いでしょう。しかし、律法を完全に守ることなど、誰にも出来ません。ですから、律法主義では誰一人救われないことになってしまう。ところが、この律法主義というものは、キリスト教会の中でも何度も息を吹き返してきましたし、今でも私共を誘惑しています。それは私共の中の「私は正しい」という思い、或いは「自分は正しい者だと思いたい」という願いが、如何にしぶとく強力なものであるかということなのでしょう。しかし、正しいお方は神様しかおられません。私共はどこまで行っても、神様の御前に悔い改め続ける者でしかない。このことが徹底的に分かる。それが、「律法に対して死ぬ」ということです。そして、ただイエス様の十字架の贖いを信じて、これに依り頼む。洗礼によって「十字架のイエス様と一つにされて」、罪に死ぬ。そして「復活のイエス様と一つにされて」、新しい命に生きる。これがイエス様の福音によって救われた私共の新しい命のありようなのです。
 良いですか皆さん。私共が神様によって義とされる。それはただ恵みによって、神様の憐れみによってです。私の努力や熱心によってではありません。そして、義とされた者が御心に適う歩みをしていく。それもただ恵みによって、神様の憐れみによってです。私の努力や熱心によってではありません。更に、キリストに似た者にされて救いの完成に与る。それもただ恵みによって、神様の憐れみによってです。私の努力や熱心によってではありません。最初から最後までただ恵みによって、ただ神様の憐れみによってです。少しでも自分の努力や真面目さによってと思い始めると、そこには必ず律法主義の誘惑が働いてきます。この点において、私共はよくよく敏感でなければなりません。

4.自らの正しさからの自由 
 そうは言っても、今申し上げました「自分は正しい」とする罪はまことに根深いものがありますので、しょっちゅうそれが頭をもたげてきます。勿論、正しい者でありたいという願いそのものが悪いわけではありません。しかし、自分の考えや自分のやっていることは正しく、反対の者は間違っているとなりますと、話は違ってきます。世の中の争いや対立の根っこには、いつもこれが潜んでいると言って良いでしょう。そして、それが怒りや憎しみと結びつきますと、まことに悲惨な現実を生み出すことになります。戦争などはその典型です。そんな大きな問題でなくても、夫婦のいざこざなども同じです。双方が「自分は正しい。あなたは間違っている。」と言い張っているわけです。この「自分は正しい」とする思いは、必ず自分と違う者に対しての批判・非難・否定という形で表れます。勿論、正しいも間違いもないなどと言ったら、世の中の秩序が崩壊してしまいます。ですから、秩序ある社会においては、誰かを裁くということは必要なことです。警察も裁判所も刑務所も必要です。でも、私共は本当に正しいのは神様だけ。このことを本当に弁えておりませんと、怒りや憎しみに囚われて自分の正義を主張するということになってしまいます。これはまことにやっかいなものです。
 その典型がイエス様の十字架でした。イエス様は死刑に当たるようなことは何もしていない。しかし、当時のユダヤ教の指導者から見れば、自分たちの権威や正しさを否定され、とても放っておくことが出来なかったのでしょう。人間の正しさという罪が最も露わに現れたのが、イエス様の十字架です。人間の正義は、詰まるところ神をも殺すということです。私共が十字架を掲げ、十字架を見上げて礼拝を捧げているということは、このイエス様を十字架に架けたのは私だ、私の正しさだ、そのことをしっかり心に刻むためでもあるのです。そして、そのような愚かで罪に満ちた私を誰が救ってくださるのか。それがイエス様なのです。十字架の上でイエス様は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23章34節)と言われました。この時イエス様が祈られた「彼ら」とは、自分を十字架につけた者のことです。私共はイエス様を十字架につけた者です。しかし、同時にイエス様に赦された者なのです。十字架の前で私共は、自分はイエス様を十字架につけた者であるということと、自分はイエス様に赦された者である、この二つを同時に受け取る。そこに、6節で言われている「しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。」という、新しい私が生まれるのです。

5.実を結ぶ
その結果、どうなるのか。聖書は人間が生きていくということは、必ず「実り」をもたらすことになると告げます。植物ならば、この木は何の実がなるのか決まっています。ブドウの木にリンゴはなりません。しかし、人間には何の実がなるのか分かりません。良い実がなるのか、悪い実がなるのか。この「実」という言葉のイメージは、様々なことがありその結果としてもたらされるものということでしょう。
 4節には「神に対して実を結ぶ」とあり、5節には「死に至る実を結んでいました」とあります。また、6章の22節には「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。」とありました。つまり、私共はそれぞれの人生において「永遠の命に至る実」か「死に至る実」のどちらかの実を結ぶことになると告げているわけです。「死に至る実」とは、罪の欲情によってもたらされた様々なものですが、ガラテヤの信徒への手紙にはそのリストがあります。5章19~21節「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」これが肉の実であり、死に至る実なのです。いま、この一つ一つを見る暇はありませんけれど、なるほどと思われるものばかりでしょう。では、「永遠の命に至る実」とはどんなものなのでしょう。これもガラテヤの信徒への手紙にリストがあります。5章22~23節「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」とあります。これらのリストに挙げられているものは、すべての実ではありません。この他にも、どれだけでも挙げることは出来るでしょう。霊の結ぶ実のところに、信仰や希望を加えることも出来ましょう。大切なことは、どのようにしてこのような永遠の命に至る実を結ぶことが出来るのか、逆に、どうすれば死に至る実を結ばないで生きることが出来るのかということです。

6.文字に従うか霊に従うか
聖書はそのことを今朝与えられた御言葉の最後の所で、このように記しています。「文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」文字に従うとは、あれはしてはいけない、これもダメ、そのような律法に従うということです。そうではなくて、イエス様を信じることによって与えられた霊、聖霊なる神様に従うという新しい生き方をもって仕える。神様に仕え、隣り人に仕える。そこに新しいキリスト者の生き方がある。そこに永遠の命に至る実を結んでいく道があると聖書は告げているのです。
こう言っても良いでしょう。律法に従っていた時、それは外からの強制力と言いますか、自分がしたいとか、したくないとか、そういうことには関係なく、しなければならなかった。そして、それをするならば「自分は正しい」と思うことが出来た。しかし、それは自分を正しい者とし、そうでない者を見下すことでもあった。そして、正しい者に見せるために偽善者にさえなっていた。しかし、イエス様の十字架に依り頼み、神様の御前に立つ者となり、神様の喜ばれることを為したいと心から願うようになった。そして、自分は正しい者であるという思いに縛られることはなくなった。何故なら、自分は神様に愛されている者だから。神様に愛されている者として、その愛に生きる。その愛に応える。その愛の交わりの中に身を置き続ける。それが一番大切なこととなった。そこに自由があります。愛は私共を自由にするからです。愛と自由の中で、神様に仕え、隣り人に仕える。それが何より嬉しい。そのような者に変えられた。それが、「“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっている」ということです。
 教会とは不思議なところです。教会の営みは、すべて自発的な奉仕によって成り立っています。礼拝に集うということからして、誰に強制されるわけでもありません。そして、献金を捧げる。これは会費でも何でもないですから、嫌ならしなくても良い。でも、皆さん捧げます。それは感謝として捧げるわけでしょう。様々な奉仕にしてもそうです。喜びと感謝の中で神様に捧げる。嫌だけどしょうがない、これをしないと救われないから、そんな風に思ってしている人は一人もいないでしょう。新しくされているからです。「うちの人は、家では何もしないくせに、教会では掃除とか洗い物とか喜んでやっている。家でもやれば良いのに。」そんな言葉を聞くことがあります。私もそうですが、教会では自然とそれが出来る。そのうちに家でもやるようになります。奥さんに叱られてやるのではなくて、喜んでやるようになります。この教会で、私共は“霊”に従う新しい生き方を身に着けていく。そして、それぞれの場に遣わされていくのです。

 今日は、11月の第一の主の日ですので、共に聖餐に与ります。キリストの体と血とに与り、キリストと一つに結ばれた者として、ここからまた新しく歩んでまいりましょう。私共は神様に愛され、赦されている者なのですから。

 お祈りいたします。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 今朝、御言葉によって、私共が律法に対して死に、律法から解放され、キリストの愛と赦しの中に生かされていることを新しく心に刻ませていただき、感謝いたします。イエス様が私共のただ一人の主であり、王であられます。どうか、イエス様の心を私の心として、神様と人とに仕えていくことが出来ますように。愚かな自分の正しさから解き放たれて、愛に生きることが出来ますように。聖霊なる神様の導きを、心から願い、求めます。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年11月7日]