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礼拝説教

「誰が私を救ってくれるのか」
イザヤ書 43章10~15節
ローマの信徒への手紙 7章18節~8章1節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 ローマの信徒への手紙を共々に読み進めて、今日で7章が終わります。7章7節以下の小見出しは「内在する罪の問題」とあります。ここには私共の罪の現実が、パウロが経験したこととして語られています。この7節以下から7章の終わりまでの特徴は、前回も申し上げましたけれど、すべて「わたし」という言葉で述べられていることです。「わたしたち」でありません。それは、ここで述べられていることが、パウロ自身が経験したこと、また経験していることであることを示しています。そして、この箇所はキリスト者に、自分が経験すること、経験していることとして読まれてきました。ここを読むキリスト者は、「ここには私の姿がある。」そう思って読んできたのです。「パウロは罪の問題で悩んで大変だったな。でも、それはパウロの個人的な経験であって、私には関係ない。」そんな風に読むことは出来ません。皆さんもそうではないでしょうか。ここで告げられている「わたし」は、まさに私自身だ。パウロの言っていることは、本当のことだ。私の現実だ。ここを読んでそう思われるのではないでしょうか。 

2.パウロの嘆き① 邪悪な罪
 前回見ました12節で、パウロは「律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。」と述べました。律法は神様が与えてくださった善いものなのです。ところが、それによってパウロが神様の御心に適う善き者になったかと言いますと、なりませんでした。律法そのものは善いものなのです。しかし、律法はパウロの中にある邪悪な罪に利用されて、パウロは神様に従っているつもりにさせられながら、実際にはいよいよ神様から離れ、神様に敵対する者になってしまっていた。このことをパウロに気付かせたのは、使徒言行録9章に記されております、ダマスコ途上においてイエス様と出会ったことによってでした。当時のパウロはファリサイ派に属する、大変熱心で真面目なユダヤ教徒でした。自分はしっかり律法を守っており、それ故自分は正しい者であり、神様の御心に適った者である。パウロはそう信じて疑いませんでした。だから、律法を守ることによってではなくただイエス様を信じることによって救われると信じるキリスト者たちを迫害したのです。キリスト者は律法を与えられた神様の御心に敵対する者たちだ、と信じていたからです。そして、キリスト者を捕らえるためにダマスコに行く途中で、パウロは復活のイエス様と出会ったのです。イエス様がパウロに現れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか。」と告げられました。(サウルというのはヘブル語名、パウロはギリシャ語名です。当時の人は二つの名前を持っているのが普通でした。)パウロが「主よ、あなたはどなたですか。」と尋ねると、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と告げられ、天からの光に照らされ、パウロは目が見えなくなってしまいます。そして、数日後アナニアというキリスト者によって再び目が見えるようにされました。これがパウロの回心の出来事です。彼は律法に従い、一生懸命神様の御心に適う者として歩んできたのです。ところが、その結果はどうであったか。神の御子・救い主イエス様に敵対する者、神様の御心と真正面から反逆する者になってしまっていたのです。どうしてこんなことになってしまったのか。パウロは驚き、混乱し、悩み、考え抜きました。自分が正しいと思っていた、律法を守って神様の御心適う正しい者として生きるという道が、どうして神様に敵対する道になってしまったのか。今までの善悪の基準が瓦解してしまう中で、彼は考え抜いたことでしょう。パウロはこの時、自分の罪というものを徹底的に思い知らされたのです。そして、罪の邪悪さに気付いたのです。罪の正体に気付いたのです。どうやっても逃れることの出来ない罪の縄目というものにも気付きました。これは初めての経験でした。今まで見えていなかった自分の内にある罪が、はっきり見えたのです。
 律法が与えられる。そうすると、神様の御心に適う者として歩もうという思いが与えられる。ここまでは良い。律法も善いものですし、それに従って生きていこうというのも善き心です。ところが、ここで罪が働き始めるわけです。律法を守って正しい者になろうと思った途端に、神様に頼るのではなくて自分を頼る、自分の努力と熱心さ真面目さによって正しい者となろうという道を歩み始める、そういうことが起きてしまうのです。自分を頼るのですから、どんどん神様から離れて行くことになってしまいます。ところが、自分は正しい者だと信じて疑わない。神様の憐れみではなく、自分の真面目さ熱心さによって救いに至ろうとし、救いに至れる思う。これが罪の邪悪さに絡め取られてしまっていた自分の姿であることにパウロは気付いたのです。罪の一番の邪悪さは、それに気付かせないということです。いかにも神様に敵対し、神様から離れていっているということならば、人は気付くでしょう。しかし、本人も周りも、真面目で熱心で神様の御心に適った者であると信じて疑わない。罪の邪悪さは、そのように人を騙して虜にするところにあります。それが律法主義というものです。これが14節で言われている「罪に売り渡されています」という状況です。

3.パウロの嘆き② 分裂している自分
 さて、パウロのもう一つの罪の現実。それは分裂している自分です。パウロはイエス様に出会うまで、自分の正しさを疑うことなく、律法主義者としての歩みに邁進していました。しかし、イエス様と出会うことによって、彼の中に分裂が起きてしまったのです。今まで、律法を守っている正しい者だと自分を見て、それを疑うことはありませんでした。律法主義というものは、実際にやること、やったことしか問いません。心は問わないのです。しかし、パウロはイエス様と出会って、神様が律法を与えられたのは、自分の心の思いも含めて、完全に律法に従うことであると知ります。そうすると、「全く罪を犯していない」とは言えない自分に気付きます。いつでも、どんな時でも、心から喜んで律法に従っているわけではない自分というものをはっきり示されてしまったわけです。それが15節「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」、18~19節「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」と言われている状態です。パウロは、分裂した状態になってしまったわけです。
 イエス様に出会うまで、パウロの中に分裂はありませんでした。私共もイエス様に出会うまで、このような分裂はありませんでした。人は闇の中に生きている時、闇しか知りませんから、自分が生きているところが闇だとは認識出来ません。光に照らされて、初めて闇を知ります。それと同じです。罪を知らない時、多少の良心の呵責があったとしても、「人間はこんなものだ。皆やっていることだ。大したことじゃない。」とうそぶいていれば良かった。ところが、イエス様の救いに与って神様の御心を知り、私共は神様の光に照らし出されました。そして、神様の御心に反している自分、罪人である自分というものをはっきり知らされたわけです。その時以来、私共はパウロと同じように、神様の御心に適う歩みを為したいと思いつつ、それを為すことが出来ない自分の姿を思い知らされることになりました。それが24節にあるパウロの嘆きの叫びです。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」これは、絶望的な嘆きの叫びです。
 こんな風に嘆かなければならないのであったら、イエス様の救いに与ることなく、勝手気ままに生きていた方が良かった。そう思う人もいるかもしれません。実際、キリスト教に対する昔からの批判の一つとして、「パウロのような偉大な伝道者がこのように分裂していて、何が救いなのか。」というものがあります。しかし、本当にそうなのでしょうか。

4.救われた故の罪認識
邪悪な罪に絡め取られ、善と悪に引き裂かれた自分。この自分の現実に対しての嘆き。これはパウロの深い自己洞察によってもたらされたものではありません。そうではなくて、イエス様の救いに与ることによって与えられた自己認識です。ということは、この深い罪の現実を嘆きつつも、パウロは既に救われているということです。それは、私共も同じです。パウロは「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と嘆きながら、次の瞬間25節で「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」と述べています。この深く絶望的な嘆きから、どうして一瞬にして感謝へと心が振れるのでしょう。
 イエス様の救いの恵みを知らず、罪の中に沈んでいた私共は、自分が罪の中にいたことさえも知りませんでした。それはファリサイ派の時のパウロと同じです。ところが、パウロも私共もイエス様の救いに与りました。ただ信仰によって、神様の恵みによって、一切の罪を赦され、神様の子としていただきました。この恵みに与った時、私共は自らの正しさを放棄し、自らの罪を認め、これを悔い、赦しを願い求めました。自分の罪に対する本当の認識は、このイエス様の救いに与ることなく与えられることはありません。ただ信仰によって赦され、救われる。このことがなくて、どうして自分の正しさを手放すことが出来ましょう。「自分は悪くない。それなりに善い人間だ。」この思いをどうして手放せましょう。救われるということは、この自分のおぞましい罪の現実を認め、受け入れるということと分けられません。この二つのこと、つまりイエス様の救いに与るということと自らの罪を知るということは、私共の中で同時に起きると言いますか、コインの裏表と言いますか、どちらか一方だけということはないのです。私共に本当の罪認識が与えられ、悔い改めるということは、救われるということと共にあるのです。

5.罪との戦い
罪から救われるということは、罪を一切犯さなくなるということではありません。そうなれれば良いのですけれど、そうはならない。そのことは、皆さんが良く知っていることでしょう。イエス様を信じ、一切の罪を赦され、神様の子とされた。洗礼を受けて、イエス様と一つにしていただいた。しかし、「洗礼を受けたその日から、私は全く罪を犯さなくなりました。」そんな人は、ここに一人も居ないでしょう。だったら、救われたと言っても意味がないのではないかと思われるでしょうか。先ほど申し上げましたように、私共は救われたが故に、自らの罪をはっきり知る者となりました。そして、神様に赦しを求めて、悔い改めの祈りを捧げる者となりました。これは決定的に重大なことです。私共は既に神の子とされているのです。神様の赦しを受け、神様の恵みの中を生きるようになっている。それは確かなことです。しかし、私共の中にある罪が完全に死滅してしまったということではありません。罪はチャンスをうかがい、いつでも私共を取り込もうとしています。そこで信仰の戦いというものが起きます。罪が分からなければ、戦いもありません。罪に飲み込まれてしまっているならば、罪との戦いなんか起きません。しかし、救われた者は、罪をはっきり知る者となるが故に、これと戦わなければならないわけです。しかも、この戦いは一度行えばそれで終わりというものではありません。一つの戦いが終わると、次の罪が見えてきます。丁度、山登りをしていますと、一つの峰が見えてそこを目当てに登っていくのですけれど、そこに着きますと今まで見えていなかった次の峰が見えてきて、今度はそこに向かって登っていくというのに似ているかと思います。この歩みが「聖化」と言われるものです。イエス様の十字架によって、信仰によって義と認められた。これを信仰義認と言いますが、信仰義認によって救われた私共は、そこから信仰の歩みが始まっていきます。聖化の歩みです。私共はもう救われているのです。しかし、その救いはまだ完成していません。その完成に向かって、私共はこの地上における信仰の歩みを続けていく。そして、その歩みは、罪との戦いという歩みになるということです。

6.救いの完成に向かって
ここで大切なことは、私共は既に救われているということです。しかし、まだ完成していません。まだ救われていないから罪との戦いがあるのではありません。既に救われたのです。だから罪との戦いが始まったのです。パウロはそのことをはっきり分かっていますので、24節「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」と言ってすぐに25節「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。」と言っているのです。この感謝は「主イエス・キリストを通して」です。イエス様によって、パウロは既に勝利に与っています。ですから、この戦いはイエス様と共なる戦いであり、イエス様の守りの中で為されていく戦いです。私共は、自らの内にうごめく罪の邪悪さや分裂している自分の姿に気付くと、「ああ、もうダメだ。」と思ってしまうかもしれません。確かに、私共の戦いが自分だけで為さなければならない孤独な戦いならば、もう絶望しかありません。しかし、イエス様によって既に罪も死も私共を完全に支配することは出来なくなっている。私共はイエス様によって救われ、罪も死も律法も私共の主人ではなくなりました。私共の主人は誰か。イエス様です。神様です。そもそも、この罪との戦いは、救われたが故に始まった戦いです。ですから、私共の眼差しがイエス様に向けられるならば、その勝利を確信して感謝と賛美を捧げることになるのです。救われているのですから、赦されているのですから、神の子とされているのですから、この戦いは勝ち戦だということです。確かに、日々の戦いにおいて負けてしまうこともありましょう。しかし、負け戦をしているのではありません。私共の勝利がはっきりし、私共の救いが完成するのは、イエス様が再び来られる時です。その時、私共はイエス様に似た者に造り変えられます。イエス様のように愛し、イエス様のように仕え、イエス様のように神様との交わりに生きる者となります。そこに向かって歩み続けていく私共は、自らの罪との戦いを放棄することは出来ないのです。確かに、罪は邪悪ですし、私共は弱く愚かです。何度も同じような罪を犯すでしょう。でも、私共は何度でもやり直していく。イエス様の救いに与った者として、歩み直していく。私共はどうして毎週、主の日にここに集って礼拝を捧げ、御言葉を受けるのか。それは、私共の信仰の戦いが為され続けているからです。ここで御言葉を受け、信仰を整えられ、罪と戦う新たな歩みをここからやり直していくためです。その歩みは、その戦いは、イエス様を見上げつつ為され、感謝と賛美と共にあります。私共には勝利に向けての確かな希望、救いの完成の確信があるからです。

7.救いの確信
 今、救いの確信と言いました。正直に申しますと、私はこの「救いの確信」というものが長い間、ピンときていませんでした。イエス様の十字架によって救われた。それは洗礼を受けた時からはっきりしていました。しかし、その後の私のキリスト者としての歩みは、この罪との戦いにいつも勝利していたわけではありません。若いが故の過ちも犯しました。どうして自分はこんな目に遭わなければならないのだ。そういう思いに囚われたこともありました。そのような歩みの中で、「救いの確信」というものがボンヤリしていたと言いますか、そんなに確信がなかったと言いますか、確信が持てなかったような信仰でした。それはどこかで、自分の信仰の戦いの勝利の先に救いの完成があると思っていたからです。信仰によって救われた。でもその後は自分の努力と熱心と真面目さで、救いの確信を得られるような気がしていたのです。邪悪な罪に取り込まれてしまっていたんですね。勿論、今は確信しています。この「救いの確信」というものは、自分を見ていたのではいつまでたっても得られるものではないのです。自分を見れば、足らないところや、弱いところや、逆巻く罪の嵐に翻弄されている自分の姿しか見えてきません。それでは救いの確信など生まれるはずもありません。救いの確信は、ただイエス様と共にあります。信仰の戦いも、ただイエス様に依り頼む。それ以外の戦い方をすれば、必ず邪悪な罪に足下をすくわれます。
 今朝の御言葉は8章1節まで読みました。それは、この7章におけるパウロの罪認識による嘆きは、彼の救いの確信と共にあることが明確に示されているからです。8章1節「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」と言っています。この「従って」というのは、7章を受けているというよりも、3章21節以下に記されてきた福音の筋道すべてを受けているわけですが、いずれにせよ「今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」とパウロは告げるのです。これは救いの宣言です。救いの確信に満ちた言葉です。7章の自らの罪の現実に対する絶望的な嘆きは、この救いの確信があるからこそはっきりと見据えることが出来、その罪に対して無力な自分をも認めることが出来たのです。そして、これと戦うという力と勇気をイエス様からいただいて、パウロはキリスト者として、また伝道者として歩み続けることが出来ました。
 私共もただイエス様の十字架を見上げ、自らの罪の現実から逃げることなく、しっかりこれを見据えて、ただイエス様を依り頼んで、御国への歩みをしっかり為してまいりたいと願うのです。

 お祈りいたします。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 あなた様は今朝、御言葉を通して、私共の罪の現実をはっきり示してくださいました。ありがとうございます。私共はイエス様の尊い血潮をもって一切の罪を贖われ、あなた様の子としていただきました。救いに与らせていただきました。どうか、私共と共にいてくださるあなた様を依り頼んで、自らの罪との戦いをしっかり為していくことが出来ますように。聖霊なる神様の導きを心からお願いいたします。
 この祈りを私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年11月21日]