日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「キリストがあなたの内に」
エゼキエル書 11章17~21節
ローマの信徒への手紙 8章1~11節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
アドベント第二の主の日を迎えています。新型コロナウイルスの感染状況は、海外ではまだ大変な所が多いようですが、日本では今は少し落ち着いてきています。それで、聖餐をしばらく止めていた教会の中で幾つかの教会が、クリスマスには聖餐を執行することを決めたという知らせが届いています。嬉しいことです。このまま落ち着いたままでいて欲しいと思います。
 クリスマスは御子の御降誕を喜び祝うわけですが、この御子の御降誕の出来事を今朝与えられた御言葉においては、3節bで「罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り」と告げています。神の独り子であるキリストは、罪を犯さないという以外は私共と全く同じ人間となって、イエス様として生まれました。それは、私共の罪を取り除くためであったというのです。どのようにしてかと言えば、「その肉において罪を罪として処断された」というのです。神の御子であり全く罪のないイエス様が、十字架に架けられて死ぬことによって、私共の一切の罪の裁きを引き受けて処断されたということです。そのために、御子は罪深い人間と同じ姿で来られました。イエス様が私共のために、私共に代わって十字架に架かってくださることによって、私共は一切の罪の処罰を既に受けた者として、神様との親しい交わりに入り、神様に向かって「父よ」と呼ぶことが出来る者としていただきました。ですから、私共はクリスマスを喜び祝うのです。今の季節、色々な所でクリスマスソングが流れています。ムードとしてのクリスマス、雰囲気としてのクリスマスは、至る所にあるわけです。けれども、「私の罪を赦してくださった方が来られた」「私を救ってくださった方が来られた」というクリスマスは、教会においてしか味わうことが出来ません。私共は、今朝も御言葉によってこのことをしっかり心に刻んで、クリスマスを喜び祝う信仰を整えられたいと思います。

2.従って、今や
 さて、今朝与えられておりますローマの信徒への手紙8章は「従って、今や」と語り始めます。口語訳では「こういうわけで、今や」と訳し、新改訳では「こういうわけで、今は」と訳しています。この「従って」とか「こういうわけで」とは、何を指しているのか。幾つかの理解の仕方がありますけれど、今まで述べてきたこと全体を指していると受け取るのが良かろうと思います。つまり、3章21節から始まり7章の最後までパウロが諄々と説いてきました「ただ信仰によって義とされる」「ただ信仰によって救われる」ということ、その福音の筋道を受けまして「従って」と言っているわけです。
 そして、「従って、今や」と言われている「今」とは、パウロがこの手紙を書いた二千年前のことではなくて、イエス様が十字架に架かり、三日目に復活されて、その救いに与った者が生かされている「今」です。パウロがこの手紙を書いた時も「今」でしたし、私共がこの手紙を読んでいる「今」も、この「今」に含まれています。二千年前にイエス様が来られて以降の、すべての時を含む「今」と言っても良いでしょう。「今や」もう時代が変わったのです。イエス様が来られて、十字架に架かり、復活されて、時代が変わった。律法を守って良い人になって救われましょうという時代ではなくなった。律法を守って良い人になって救われる人は一人もいない。けれども、「今や」イエス様が来てくださいました。ただ信じるだけで救われるという福音の道が開かれたのです。私共はその福音に与る者として招かれ、導かれ、ここに集っています。

3.救いの宣言
 では、その「今」において私共は、どういうことになっているのでしょうか。1節「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」とパウロは告げます。これは宣言です。もう罪に定められることはないという、罪の赦しの宣言です。今朝、この宣言が私共に告げられています。しっかりこの宣言を受け止めましょう。
 このローマの信徒への手紙の8章は、ローマの信徒への手紙の中心、クライマックスと言われています。ここには7章まで語ってきた救いの筋道の結論が告げられているからです。その結論の最初がこの「罪の赦しの宣言」です。
 この罪の赦しの宣言は「キリスト・イエスに結ばれている者」に向けられたものです。誰でも彼でも、とにかくすべての人は、と言っているわけではありません。「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」なのです。「キリスト・イエスに結ばれている者」とは、口語訳・新共同訳・聖書協会共同訳では「キリスト・イエスにある者」と訳されています。英語ですと「in Christ Jesus」の前置詞の「in」をどう訳すかということなのですが、直訳すれば「キリスト・イエスの中にある者」となるのでしょうか。意訳すれば新共同訳のように「キリスト・イエスに結ばれている者」となりましょうし、「キリスト・イエスに包まれている者」ともなりましょう。この意味は、キリスト・イエスと並々ならぬ関係に入った者ということです。この「並々ならぬ関係」というのは、6章で記されておりましたように、洗礼という、神様との契約によって与えられた関係です。イエス様を我が主・我が神と信じて洗礼を受けた者は、イエス様と一つに結び合わされた者となりました。その者はもう罪に定められることはない、と宣言しているのです。
 勿論、この罪に定めない方は神様です。聖書は、神様との関係における罪や、罪に対しての裁き、罪の赦しを告げているのであって、人間社会における罪や犯罪のことを言っているのではありません。それは深く関係はしていますけれど、神様が罪を赦してくれたからといって、次の日に刑務所から出所出来るわけがありません。また、夫婦喧嘩をして、神様が赦してくれているといって、相手に謝らなくてもいいなどということがあるはずもありません。それどころか、神様の赦しに与った者は、自分の罪がはっきり見えてきて、神様に言い訳することなく赦しを求めます。そして、具体的に犯した自分の罪もはっきり見えて、それに関わりのあった人たちに対しても心からお詫びをし、赦しを願うということになるはずです。神様による罪の赦しは、人間同士の関わりにおいては、互いの平和へと私共を導くものだからです。

4.<アダム・肉・罪・死>と<キリスト・霊・義・命> 
ここで、パウロが今まで述べてきたところで対比して用いている言葉をまとめて見ておきたいと思います。一つのグループは「アダム・肉・罪・死」です。そして、それと反対の言葉のグループが「キリスト・霊・義・命」です。パウロはこれまで「アダムとキリスト」、「肉と霊」、「罪と義」、「死と命」という言葉をセットにして、それぞれ対応させて論じてきました。
 最初のグループである「アダム・肉・罪・死」は、イエス様を知らず、生まれたままの人間のことです。イエス様に救われる前の私共です。この世の常識、自分の損得、あるいは自分の好き嫌いで物事を判断して生きている人のことです。最初の人であるアダムが、神様が食べてはいけないと言われていた「善悪の知識の木」の実を食べてしまって、神様との信頼関係を壊してしまいました。これが罪の始まりです。人間は誰でもこの罪の中に生きていました。これが「肉の人」です。この肉の人は、肉の思い(=自分の欲・見栄・わがまま・自己愛といったもの)に引きずられ、神様が喜ばないこと、神様が忌み嫌うこと、つまり罪を犯します。しかし、本人はそれが罪であることに気付きません。「皆がやっていることだ」「大したことじゃない」「仕方がない」と言って、自己弁護をして悔い改めることがありません。その結果、神様の裁きとしての死に至ることになるわけです。
 一方、「キリスト・霊・義・命」のグループは、イエス様の救いに与った人、キリストによって新しく作られた人です。彼らには神の霊・キリストの霊である聖霊が注がれ、霊の人と呼ばれます。この人は聖霊の導きの中で、自分の欲を満たすことよりも神様に喜ばれることを為したいと思います。そして、正しい道に導かれていき、遂には救いの完成である永遠の命、復活の命に至ります。
 パウロはこの二つの言葉のグループを対比して用いることによって、論を進めてきました。今朝与えられている御言葉においてもそうです。ここで大切なことは、キリストに結ばれた者は、心の底から変えられるということです。人間は誰でもアダムの子孫です。しかし、イエス様に出会うことによって、イエス様を愛し、信頼し、イエス様に従う者になります。イエス様に救われることによって、新しい人に造り変えられるわけです。

5.「肉に従う人」と「霊に従う人」
この「肉に従う人」と「霊に従う人」の違いを、5節でパウロは、「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。」と言います。要するに、考えることが違うのだというのです。いったいどう違うというのでしょうか。
 「肉に従う人」は、自分の罪に引きずられて生きています。その結果、その心にある思いは、要するに「自分の損得」です。それは、金銭的な損得だけではありません。人にどう見られるかということであったり、社会的な立場を守ることであったり、広い意味での損得ということです。ここでの特徴は、神様の御心といったことは一切考慮されないということです。ですから、自分が生かされている意味も、自分が生きる目標も、あまり考えることはありません。ここには、自分を善人に見せる「偽善」という罪もあります。これは中々厄介です。自分も周りの人もその人は正しい人と思っているわけですから、悔い改めが中々起きません。ファリサイ派の人であった時のパウロの姿を思い出せば分かると思います。そしてこれは結局の所、人間を死へと導くことになります。  一方、「霊に従う人」というのは、聖霊に従って生きる人のことです。聖霊は、信仰が与えられると共にその人に与えられます。この人にとって自分の損得は、自分が生きる上で第一のことではありません。それ以上に大切なことがあります。それは神様に喜ばれることです。神様が自分に求められることを、自分が出来る精一杯のことを、神様に捧げる。それが自分が生きる意味、生きる目標であることを知っています。それを教えてくださるのが聖霊なる神様です。
 ただここで誤解されないように言っておかなければならないことは、「肉の人」は悪い人で「霊の人」は良い人だと、簡単に区別することは出来ないということです。「肉の人」にも良い人に見える人もいますし、「霊の人」にも悪い人に見える人はいます。私共の考える「良い人」「悪い人」というのは、大抵は「自分にとって良い人」「自分にとって悪い人」に過ぎないことが多いものです。それに私共は、よく知っているようであってもその人のほんの一面しか見えないわけで、全体のことなどは決して分かりません。この「肉の人」と「霊の人」との決定的な違いは、キリストの救いに与っているかどうか、その一点なのです。
 また、「霊の人」は聖霊なる神様によって為すべきことを教えられると言いましたが、このように申しますと、生活の中で聖霊なる神様を「ビビビッ」と感じて、私はこれをしなければいけない、これは止めよう、そのように聖霊なる神様がいちいち教えてくれる、と思う人がいるかもしれません。そういう場合もあるかもしれません。しかし、私共の日常生活においては、聖霊なる神様は「良い習慣」というものによって私共を導いてくださるということが多いと思います。聖霊なる神様は自由な方ですから、どんなあり方においてでも私共を導いてくださいますし、聖霊なる神様の導きの手段を限定することは誰にも出来ません。しかし、礼拝に集う、聖書を読む、日々祈る、奉仕をする、そのような日常的な習慣を為していく中で、聖霊なる神様は私共を悪しき道から遠ざけ、為すべきことを具体的に示してくださるということが多いのではないかと思います。
 そして、6節「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。」とあります。「霊の思いは命と平和」とは、命の祝福が溢れること、そして「人と人との間」「人と神との間」「国と国との間」に平和が満ちていくことを求めていきます。一方、「肉の思いは死」ですから、相手がどうなろうと知ったことではありません。自分が得をすれば良いのです。これが肉の思いの究極ですね。ここに愛はありません。
 損得というものは具体的であり、実際的・現実的ですから、放っておくといつの間にか「損か特か」で物を見たり判断するということになりやすいものです。私共はこの世で生きているわけですから、損得を全く考えない人になることは出来ません。そもそも、この世において損得を全く考えなかったら、商売は成り立ちません。しかし、この損得というものが、私共の最も大切な価値基準ではありません。自分が得することが善でもないし、自分が損することが悪というわけでもありません。善悪の基準は、「神様が喜ばれるかどうか」に懸かっています。そして、このことが私共にとっては何より大切なのです。何故なら、そこに肉体の死では終わらない「永遠の命」「復活の命」が懸かっているからです。

6.キリストが宿る、神の霊が宿る=絶大な価値
 この霊に属する人、霊に従う人には、神の霊・キリストの霊が宿っています。9~11節を見てみましょう。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」ここを読んで、少しややこしいと思われた方もいるでしょう。それは、ここで「神の霊」と「キリストの霊」という言葉によって、ほぼ同じ内容を告げられているからではないかと思います。実は「キリストの霊」と言おうと「神の霊」と言おうと、それは同じ聖霊なる神様を指しています。それは、父なる神様と子なるキリストと聖霊なる神様は三位一体の神様だからです。
 そして、ここで告げられている何より重大なことは、何度も繰り返して告げられている「キリストの霊であり父なる神様の霊である聖霊なる神様が、私共の内に宿っている」ということです。これは実に驚くべきことではないでしょうか。私共は、信仰というものを「私の信念」「私の生き方」程度に考えているところがあるかもしれません。しかし、信仰というものはそんなつまらないものではありません。勿論、イエス様による罪の赦しに与り、洗礼を受け、イエス様と一つに結ばれて霊の人となった者は、生き方も変わりましょう。生きる意味も目的も変わりましょう。大切なことも変わりましょう。喜びとすることも変わりましょう。それは新しく造り変えられたのですから当然です。しかし、新しく霊の人とされた者における最も重大な変化は、何よりも聖霊なる神様が宿ってくださったということです。だから、私共は罪に定められることなく、死に至る者としてではなく、復活の命に与っている者として生きる者となったのです。聖霊なる神様が宿っている。このことが、私共の本当の値打ちというものです。
 ここが分かりませんと、私共は本当の自分の価値、値打ちというものに気付きません。これが出来る、あれが得意だ、それが人間の価値であるかのように思い違いをしてしまいます。勿論、そのような能力も神様が与えてくださったものですから、意味がないとは言いません。神様からの賜物として大切にしたら良いでしょう。しかし、そのような能力は老いや病気と共に奪われていきます。年を取ったり病気になれば、この間まで難なく出来ていたことが、一つまた一つと出来なくなっていきます。だったら、私共の価値はそれと共に目減りしていくのでしょうか。何も出来なくなったら、私共の値打ちはなくなってしまうのでしょうか。そんなことは決してありません。私共の本当の値打ちは、何が出来るとか、何が得意だとかいうところにあるのではありません。そんなことは、「聖霊なる神様が宿ってくださっている」という絶大な価値から見れば、ほんの小さなことに過ぎません。私共は「聖霊が宿ってくださる神殿」(コリントの信徒への手紙一 6章19節)なのです。ですから「死ぬはずの体をも生かしてくださる」(11節)のです。

7.聖餐に与る
私共は今から、イエス様が定めてくださった聖餐に与ります。これは信仰をもって与るものです。パンをキリストの体として食べ、杯をキリストの血潮として飲みます。キリストの霊、神の霊が私共の中に宿ってくださっていることは、誰も見て確認することは出来ません。しかし、そのことを聖餐は見える形で私共に示します。この聖餐によって、イエス様が私共の中に入り、私共の中に宿り、私共と一つとなってくださる。まことにありがたいことです。共に感謝をもってこれに与りましょう。

 お祈りいたします。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 あなた様は今朝、御言葉を通して「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはない」と宣言してくださいました。私共は愚かで、弱く、自分のことしか考えられないような罪に満ちた者です。しかし、あなた様はそのような私共を召し出してくださり、信仰を与えてくださり、イエス様の十字架と復活の救いに与る者としてくださいました。聖霊なる神様が私共の内に宿ってくださり、霊の人として、あなた様の子として、僕として生きる者としてくださいました。まことにありがたく感謝いたします。私共がいよいよあなた様に喜ばれる歩みを為していくことが出来ますように、聖霊なる神様の導きを請い願います。
 この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2021年12月5日]