日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「神の子、神の相続人とされて」
申命記 32章3~6節
ローマの信徒への手紙 8章12~17節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
アドベント第三の主の日を迎えています。来週はクリスマス記念礼拝を捧げます。このアドベントの時、私共は既に来られた救い主、主イエス・キリストの御降誕を喜び祝う備えをすると共に、そのイエス様が再び来られることを待ち望む信仰を新たにされます。この既に来られた主イエス・キリストとやがて来られる主イエス・キリスト、過去と未来のイエス様に眼差しを向けます。しかし、もう一つ大切なのは、今天におられる主イエス・キリストです。このキリストは霊として、聖霊として、私共の中に宿ってくださっています。この私と共にいてくださるキリストに眼差しを向けることです。主イエス・キリストは過去・現在・未来と、永遠から永遠まで変わることなく、私共の救い主であられます。イエス様は二千年前にお生まれになっただけではないし、再び来られるというだけでもありません。今、私共共にいて、私共の中に宿ってくださっている。このことをしっかり受け止め、クリスマスを心から喜び祝いたいと思うのです。

2.主イエス・キリストの過去・現在・未来
 主イエス・キリストは二千年前に、天より降り、おとめマリアからお生まれになりました。罪を犯さないということ以外は、私共と同じ人間としてお生まれになりました。それは、私共すべての人間の罪の裁きを引き受け、十字架の上で最後の「いけにえ」となるためでした。父なる神様はこのイエス様の十字架によって、悔い改めてイエス様を神の御子と信じる者には罪の赦しを与え、御自身と親しい交わりの中に生きることが出来る道を開いてくださいました。
 そのイエス様が再び来られます。まことの王としてすべての者の上に臨むためです。神様の救いの御業を、神の国を完成するためです。この時をキリストの教会では「終末」と呼んでいます。終末はいつ来るのか分かりません。ですから私共は、いつイエス様が来られても良いように信仰を整え、日々の歩みを整え、待っているわけです。
 このイエス様を待つ者は、まだイエス様が再び来てはいないから「待っている」わけです。確かに、まだ終末は来ていません。だったら、イエス様が来られるまでの間、私共はイエス様と離れてしまっているのでしょうか。そうではありません。確かに、復活された肉体を持つイエス様は、復活されて四十日後に天に昇られました。今もイエス様は復活の体をもって天におられます。しかし、イエス様は霊として、聖霊として私共の中に宿ってくださっています。私共の歩みを守り、支え、導き、神の国への歩みを続けさせてくださっています。このキリストの霊である聖霊なる神様が、私共の中に宿ってくださっている。このことについては、先週、御言葉を受けました。この手紙の8章9節以下に記されております。今朝与えられております御言葉は、そのことを受けて、この聖霊なる神様・キリストの霊・神の霊が宿った者、すなわちキリスト者のことでありますけれど、これはどのような者とされているか、そのことを記しています。二千年前に来られたイエス様の十字架・復活・昇天を思い起こし、また神の国を完成させるために再び来られるイエス様を待ち望む者は、イエス様の霊である聖霊なる神様を宿します。それを明確に告げています。

3.キリスト者の義務
 まず告げられておりますことは、12節「兄弟たち、わたしたちには一つの義務があります」ということです。このような言葉に出会いますと、私共はすぐに「キリスト者となった以上、あれをして、これをして、キリスト者としての義務を果たさなければならない。」と考えてしまうところがあります。しかし、これではイエス様に出会う前のパウロと同じになってしまいます。勿論、「義務がある」のですから、何でも好き勝手に生きれば良いのだというようなことではありません。パウロは続けてこう言います。「それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます。」ここで「肉に対する義務ではありません」とはっきり言っています。つまり、これをしなければいけない、あれもしなければいけない、というような義務ではないと言っているわけです。この「義務」という言葉は直訳すれば「負債」、つまり借金ですね。私共は肉に対しての負債、あれをしてはいけない、これをしなければいけないというような、肉の善き業を積み上げて返済できるような負債ではなくて、神様に対しての負債、つまりイエス様の十字架によって一切の罪を赦していただいたという負債があるというのです。
 ではどういうことになるのか。「霊によって体の仕業を絶つ」のです。こうなると、いよいよ大変ではないかと思われる方もいるでしょう。しかし、この「霊」とは神の霊、キリストの霊のことです。先週申し上げましたように、この肉と霊とは対になってパウロが語っていることで、5節に「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。」とありますように、「霊によって体の仕業を絶つ」というのは、どうしたら自分が得するかというような「肉に属することを考える」のではなくて、神様が喜ばれることはどういうことなのかと「霊に属することを考え」、神様が喜ばれることを為していくということです。これは、自分の栄光ではなく、神様の栄光を求めて歩む、と言っても同じことです。これをすることが善いことなのか、あれをしたら悪いのかという所で考えていると、これは少しも分かりません。大切なことは、イエス様の十字架によって罪赦された者として生きるのか、そんなことは関係なく自分のやりたいことをやりたいようにして生きるのか、ということです。この違いです。神様無しに生きるのか、それとも神様に感謝しつつ神様の御前に生きるのかということです。
 私共はイエス様の救いに与るまで、自分の人生の主人は自分だと思っていました。しかし、私共の命は自分のものではありません。神様が与えてくださったものです。時間も富も能力も、みんな神様が与えてくださったもの。ですから、神様の御業のために、神様がお喜びになることのために用いる。それが一番良いことなのです。

4.聖霊が宿っている「しるし」
 キリストの霊・神の霊が私共に宿っている。これがキリスト者に与えられている最も大きな恵みです。この恵みはあまりに大きくて、中々ピンとこないところがあるかもしれません。確かに、天地を造られたただ独りの神様の霊が、いったい自分のどこに宿っているのかと思います。自分の心の中を覗き込んでも、とても聖なる神様が宿っているような清らかな心ではありません。欲や怒りや妬みが渦巻いているような心です。私共のどこに、聖霊なる神様は宿っているのでしょうか。  14~16節を見て見ましょう。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。」とあります。この箇所は、私が説教の中でたびたび引用している所ですので、皆さんも良く耳にしている言葉だと思います。この箇所は、私が一番好きな聖書の言葉の一つです。聖霊なる神様が私共に宿っている「しるし」、それがここにはっきり記されています。それは、私共が神様に対して「アッバ、父よ」と呼んでいるという事実です。「アッバ」とは、「お父ちゃん」というような、父を呼ぶ幼児言葉です。子どもがお父さんに呼びかけるように、「お父ちゃん」「お父さん」「父よ」と私共は神様に向かって呼んでいる。言い方は色々でしょう。「天の父なる神様」とか「主イエス・キリストの父なる神様」とか「恵みと慈愛に満ちたもう全能の父なる神様」とか、それこそ色々です。しかし、神様に対して「父よ」と呼んでいない人など、キリスト者には一人もおりません。お祈りする時に、私共は神様に対して必ずこのように呼びかけています。そもそも「主の祈り」において、「天にましますわれらの父よ」と呼びかけています。 では、キリスト者でない人はどうでしょうか。神様に対して「父よ」と呼ぶ人がいるでしょうか。まずいないのではないでしょうか。何故なら、この神様に「父よ」と呼ぶことが出来るのは、「神様の子」だけだからです。どんなに親しい関係であっても、隣のおじさんを「お父さん」と呼ぶことはありません。呼ばれた方も困るでしょう。「父よ」と呼べるのは子どもだけです。そして、神様の本当の子ども、神様の独り子はイエス様だけです。ですから、イエス様は神様に対して「父よ」と呼びかけて祈っておられました。ゲツセマネの祈りもそうでしたし、ヨハネによる福音書17章の長い祈りにおいてもそうでした。その全能のただ独りの神様に対して「父よ」と呼ぶことが出来る。神の独り子であるイエス・キリストの霊、つまり聖霊が私共に宿ったが故に、私共は神様に対して「父よ」と呼ぶことが出来る。これこそ、私共に聖霊が与えられている、聖霊なる神様が宿ってくださっている、確かな「しるし」です。
 私は教会に通い始めて一年半ほどで洗礼を受けたのですけれど、その間、家でも聖書を読んでいましたが、正直なところ、よく分かりませんでした。そして、家でも祈るようにと勧められていましたので祈りましたけれど、その時の私は「神様」とは言えるのですけれど、「父なる神様」とは言えませんでした。口幅ったい感じだったのです。ところが洗礼を受けますと、何のてらいも無く、「父なる神様」と言って祈ることが出来るようになりました。これは、私に神の独り子であるキリストの霊が与えられたからです。キリストの霊こそ、私共を神の子とする霊なのです。

5.神の子として
 私共は「神の子」としていただきました。父なる神様が聖霊を与えてくださり、信仰を与えてくださり、一切の罪を赦してくださり、神様との親しい交わりの中に生きる者にしてくださいました。何と幸いなことでしょう。これは本当に驚くばかりの恵みです。親子の絆というものは、とても強いものです。神様と私共との間には、そのような関係が与えられました。この関係、この絆、それが愛です。子は親の思いを知ろうとします。親を喜ばせたい、失望させたくないと思うのは普通でしょう。もっとも、そのような健やかな親子関係ではない場合だって、人間同士の親子関係においてはあります。刑務所に行って受刑者の方の話を聞いていると、「何ということか」と思わされることばかりです。小さいときから親の愛を知らずに育つということは、本当に辛いことです。しかし、そのような方と話をしながら、目に見える親子関係はもうやり直せないかもしれないけれど、この人にも「父よ」と呼べる方がいる。その方を「父よ」と呼べるようになるならば、この人はここから生き直せる。そう思って教誨師の奉仕をしています。
 神様に向かって「アッバ、父よ」と呼べる神の子は、「恐れに陥れ」られることはありません。これをやったら神様に叱られるのではないか。神様に裁かれるのではないか。そんな恐れを神の子は持ちません。子どもは父に喜ばれることをしたいとは思いますけれど、それは父の顔色をうかがうというのとは全く違います。子は父に対して自由です。この関係・絆・愛が壊れてしまうのではないかとビクビクすることはありません。
 ある先生が、この私共と神様との間に与えられた親子の関係について、こんな話をしてくれたことがあります。その先生は幼稚園に関係されていた方でした。毎年4月になりますと、幼稚園に新入園児が入ってきます。すると、大きな声で「お母さん、お母さん」といつまでも泣き叫んでいる子が必ず何人かいます。お母さんも泣き叫ぶ我が子の声を聞くと、中々そこを離れられません。幼稚園の先生に「大丈夫ですよ」と促されてお母さんは帰ります。これはそれまでの母子関係がとても良いので起きることですから、何の心配も要りません。この時、幼子はたいてい「お母さん、お母さん」と連呼するだけです。「お母さん、行かないで。」と言う子もいますけれど、大抵は「お母さん、お母さん」です。30分間、長い子どもは一時間、泣き叫び続けます。この幼子が「お母さん、お母さん」と叫ぶ姿、これが私共が神様を「父よ」と呼ぶ姿であり、私共が神様の子とされて、新しく神様との間に与えられた関係なのだと言うのです。本当にそうだと思いました。
 「アッバ、父よ」と呼ぶだけでいい。これをして、あれをして。そんなことは特に言う必要もない。だったらお祈りする意味がないではないかと思われるでしょうか。祈りは、私共の願いを叶えるための手段なんかではありません。勿論、父なる神様に何を願い求めても良いのです。でも、願い求めなくても十分です。神様がおられる。私の父がいてくださる。すべてがこの父なる神様の御手の中にある。だから、大丈夫。何も心配しなくて良い。そのような神様との親しい交わりの中で生き始める時、私共は考えることも、求めることも、やることも、変わってきます。その変わり方は人によって違いますけれど、必ず変わってきます。

6.相続人
 さて、私共はただ信仰によって、神様の子としていただきました。キリストの霊、神の霊が与えられ、私共に宿ってくださいました。そして、神様に向かって誰はばかることなく「父よ」と呼ぶ者としていただきました。それは、今、既に私共に与えられている恵みです。しかし、聖書は更に、将来与えられる驚くべき恵みについても告げます。将来への約束、私共に与えられている特権と言っても良いものです。17節「もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。」と聖書は告げます。「もし子供であれば、相続人でもあります。」確かに、子どもであるということは、父の遺産を相続する権利があるということです。僕(しもべ)はどんなに良い僕であっても、相続人にはなれません。子どもは、出来が良いとか悪いとか関係なく、父の遺産を相続する権利が与えられています。もっとも、父なる神様は死にませんので、遺産というものは発生しません。だったら、私共が神様から受け取るものは何もないのかと言いますと、そうではありません。ここで聖書が私共キリスト者を相続人と言っているのは、父なる神様の善きものすべてを受け継ぐ者とされているということを言っているわけです。そして、「神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。」と続きます。私共が神様の相続人であるということは、何と主イエス・キリストと同じものを受け継ぐ、主イエス・キリストと同じものを神様から与えられるということなのです。これが私共に与えられている特権、驚くべき恵みです。
 イエス様は子なる神であられますが、十字架の上で死んで、父なる神様によって復活させられました。そして天に昇り、全能の父なる神様の右におられます。この「全能の父なる神様の右におられる」というのは、父なる神様と同じ力と権威をもって、すべての上に臨んでおられるということです。そのキリストと共同の相続人とされているということは、私共のこの地上の生涯が閉じられても、私共の命はそこでは終わらず、イエス様が復活されたように、復活させていただくということです。それだけではありません、イエス様の持つ善きものを同じように与えられるということです。それが、キリストに似た者として復活するということです。父なる神様との完全な交わり、全き愛、全き平安、全き喜び、全き謙遜、全き柔和、挙げていけばきりがありません。私共はそのような善きものを受け継ぐ者とされています。私共がイエス様が再び来られるのを待ち望むのは、その時私共はそのような善きものすべてを受け継ぐことになるからです。キリストに似た者として復活するとはそういうことです。だから、その日を待ち望んでいるのです。
 しかし、その遺産相続は、「キリストと共に苦しむ」ということを抜きにはありません。キリストが十字架の死の後に復活・昇天という神様の御業に与ったように、私共もこの地上にあっては「苦しむ」ということを除外することは出来ません。神様が喜ばれると信じて為したことであっても、少しも人からは喜ばれず、どうしてこんなことをしたのかと言われることだってあるでしょう。しかし、それは「キリストと共なる苦しみ」です。私共はこの地上においては弱くて小さな存在であり、人から軽んじられることもありましょう。しかし、私共の中にはキリストの霊が宿っているのですから、神様に向かって「父よ」と呼びつつ、神の子としての誇りと喜びをもって歩む。その時に味わう苦しみは、キリストと共なる苦しみとなります。どんな嘆きも、苦しみも、「父よ」と呼びつつ歩んで行くならば、それはキリストと共にある嘆きとなり、キリストと共にある苦しみとなります。そして、そのように歩む者には、「キリストと共に与る栄光」「天の栄光」が備えられているのです。それが聖書が私共に約束していることです。私共は、その約束を信じ、その日を目指して、この地上の歩みを為していくのです。

 お祈りいたします。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝、アドベント第三の主の日、御言葉を通して、私共にキリストの霊が注がれており、それ故神の子・神の相続人とされているという、驚くべき恵みを知らされました。まことにありがとうございます。この救いの恵みを与えてくださるために、あなた様は愛する独り子イエス様を十字架の上で犠牲とされました。その痛ましい手続きをもって、あなた様の救いに与ることが許された私共です。ありがとうございます。どうか私共が、あなた様が約束してくださった善きものすべてを受け継ぐ者とされている恵みを信じて、この地上の馳せ場を聖霊なる神様の導きの中、「アッバ、父よ」と祈りつつ歩んで行くことが出来ますように、祈り、願います。
 この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2021年12月12日]