日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「贖い」
ルツ記 3章1~14節
ヘブライ人への手紙 10章11~18節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 2021年最後の主の日を迎えています。一昨日は2回のキャンドル・サービスと富山まちなか病院へのキャロリングがありまして、まだクリスマスの余韻の中にありますけれど、12月最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けてまいります。ルツ記の3章です。ここにはクリスマスに繋がっていく重大なメッセージが告げられています。
 1章、2章を振り返ってみましょう。ベツレヘムに住んでいたエリメレクとその妻ナオミ、二人の息子は、飢饉のためにベツレヘムからモアブの地に移り住みました。エリメレクと二人の息子は、その地で命を落としました。二人の息子はモアブで妻を迎えましたが、どちらにも子どもがいませんでした。残されたのはナオミとモアブ人の二人の嫁。ナオミは、二人の嫁に実家へ帰るように言います。しかし、嫁のルツはナオミについて行くと言って聞かず、結局、ナオミとルツがベツレヘムへと戻って来ました。ここまでが1章でした。二人はベツレヘムに帰って来たと言っても、仕事もありません。季節は丁度、大麦の収穫の時期でした。ルツは落ち穂拾いをして、何とか食いつなごうとします。そして、ルツが落ち穂拾いに行った畑が、期せずしてボアズの畑でした。ボアズはルツに大変親切にしてくれました。それは、ボアズがモアブの地で亡くなったエリメレクの親戚ということがあったでしょう。エリメレクの妻のナオミとエリメレクの息子の嫁であったルツ。大変な思いをしてベツレヘムに戻って来たこの二人に、エリメレクの親戚として出来るだけの支えをしてあげたいという思いが、ボアズにはあったのだろうと思います。そして3章です。

 

2.あなたが幸せになるために
 ナオミは、ルツが落ち穂拾いをしている畑の持ち主であるボアズのことを知っていました。亡くなった夫エリメレクの親戚だったからです。そして、ルツからボアズがどんなに親切にしてくれているかも聞いていました。ナオミはルツにこう告げます。1節「わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探してきました。」今は落ち穂拾いで食いつないでいるとはいえ、そんな生活をずっとしていくわけにはいかない。ナオミはそう思ったのでしょう。落ち穂拾いは、何時でも出来るわけではありません。当然、収穫の時しか出来ません。この生活をいつまで続けることが出来るのか。ナオミは考えました。ベツレヘムに戻って来た時、ナオミはこう言いました。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。」(1章20節)こう言った時のナオミの心は、暗く沈み込み、とても明日のこと、将来のことなど考える気力も余裕もない状態だったと思います。ナオミは「神様が自分をひどい目に遭わせた。神様はわたしを見捨てた。」そう思っていました。神様に見捨てられたと思ったら、明日への期待を持つことなんて出来ません。明日は、神様の御手の中にあることだからです。ナオミとルツは、ルツが落ち穂拾いをして手に入れた大麦で食いつないでいました。ボアズの親切もあり、何とか食いつないでいくことが出来ていました。しかし、その生活は何とか飢え死にしないで生きていけているという状態でした。
 そのような生活をしていく中で、ナオミは次のことを考えることが出来るようになっていました。その次のことというのは、ボアズとルツが結婚するということでした。明日に対しての希望がなければ、明日のことを考えたり、明日に向かって行動するということは出来ません。しかし、ナオミは明日のことを考え始め、それに向けて行動を起こすことが出来たのです。ナオミはボアズのことを人に聞いたりして、調べたのでしょう。私はこの時、ナオミの中で神様への信頼が少し取り戻されてきたのではないかと思います。神様は私を見捨てた。どうせ、どうにもなりはしない。そう思っていたのならば、明日のこと、将来のことを考えることなんて出来ません。しかし、ナオミは何とか一日一日食いつないでいく生活の中で、健気に自分のために毎日落ち穂拾いをして働いてくれているルツと一緒にいる中で、少し穏やかな心、神様への信頼が戻って来たのではないでしょうか。そして、何よりもナオミが明日のことを考えるようになった最大の理由は、ルツの幸せ、ルツの将来を考えたからです。ナオミがもし一人だったら、夫に先立たれ、頼りの息子にも先立たれ、自分は年老いて落ち穂拾いさえ出来ない。自分なんか野たれ死にすれば良い。そんな思いでいたかもしれません。しかし、ルツがいるのです。実家へ帰れと言っても帰らずに、モアブの地から外国であるユダヤのベツレヘムまでついて来たルツ。毎日、自分のために落ち穂拾いをして、支えてくれるルツ。夫と死に別れたといってもまだ十分に若いルツ。多分、この時ルツはまだ20代の前半ではなかったかと思います。この娘を、何とかしてあげなければいけない。ナオミはそう思ったのでしょう。そして、ルツがボアズと結婚するのが一番いい、そう思いついたのです。自分のことしか考えなかったら、ナオミは、自分なんてもうどうなってもかまわないというような、投げやりな思いから抜け出せなかったと思います。しかし、ルツがいる。この子を何とかしなければ。ナオミはそれを自分の責任だと思ったのでしょう。
 もう随分前になりますけれど、現在東京神学大学の理事長をされている近藤勝彦先生が、ある講演の中で「人は自分以外の者のために生きようとする時、力が出てくる。そういうものなのです。病気で重体になった人に、『自分のために頑張れ』と言ったって頑張れる人はいません。しかし、『お父さん、私のために頑張って』と言われれば、『この子のためにもう少し頑張らなければ』と思う。そして、生きる力が湧いてくる。人間とはそういうものです。」と言われました。この言葉がとても印象深く心に残っています。それまで私は、人間というものは自分のためには一生懸命に頑張れても、他の人のためには頑張れないと思っていたからです。愛が分からなかった。人間とは愛に生きるものなのだということが良く分からなかったからです。この時、ナオミにはルツがいた。これが大きな恵みでした。

3.ナオミの知恵
 ナオミはルツに知恵を付けます。2~4節「あなたが一緒に働いてきた女たちの雇い主ボアズはわたしたちの親戚です。あの人は今晩、麦打ち場で大麦をふるい分けるそうです。体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行きなさい。ただあの人が食事を済ませ、飲み終わるまでは気づかれないようにしなさい。あの人が休むとき、その場所を見届けておいて、後でそばへ行き、あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい。その後すべきことは、あの人が教えてくれるでしょう。」ここでナオミはルツに、ボアズに結婚を申し込む手はずを教えたのです。身綺麗にしてボアズの所に行って、ボアズが寝たらその衣の裾で身を覆って、足下で横になりなさい、とナオミはルツに言いました。何も知らないでここを読みますと、まるでナオミはルツに、ボアズの所へ夜這いをするようにと言ったかのように読めるかもしれません。しかし、このナオミの言葉には、ルツとボアズに性的な関係を持たせようとする意図はありません。そして、ルツはナオミに言われたとおりのことをします。
 ボアズが夜中に目を覚まして覆いを捜すと、誰かがいるではありませんか。ボアズが「お前は誰だ」と言いますと、ルツは「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。」と言います。これは「あなたの庇護のもとにわたしを置いてください」という、女性からの結婚の申し出の言葉です。こんな状況で結婚を申し込まれたら、これは断れないでしょう。しかも、ルツは若い。一方、ボアズはそれなりの年齢です。何歳だったのか特定することは出来ませんけれど、20歳以上離れていたのではないと考える人が多いです。ボアズは、ルツが姑のナオミのためによく働いていることも知っていますし、夫を亡くしたことも、生活に困っていることも知っています。ナオミはルツの話を毎日聞いて、きっとボアズもルツのことを悪くは思っていないということを確信していたのでしょう。そして、こんな知恵を付けたのです。

4.贖う人(ゴーエール)
 そして、ルツはボアズに決定的な言葉を告げます。それが「あなたは家を絶やさぬ責任のある方です。」という言葉でした。好きとか嫌いとかではありません。「あなたには責任がある。」そう告げたのです。ボアズが、自分の寝床に入ってきたことを幸いに、若いルツを手込めにした。ルツはその責任を取れとボアズに言っている。そういうことではありません。それではまるで、ルツがボアズにハニートラップを仕掛けたようなものでしょう。ルツが言っているのは、そういうことでは全くありません。これは申命記25章5節以下に記されていることを前提に言っていることです。少し長いですがお読みします。
 申命記25章5節以下にこうあります。「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない。もし、その人が義理の姉妹をめとろうとしない場合、彼女は町の門に行って長老たちに訴えて、こう言うべきである。『わたしの義理の兄弟は、その兄弟の名をイスラエルの中に残すのを拒んで、わたしのために兄弟の義務を果たそうとしません。』町の長老たちは彼を呼び出して、説得しなければならない。もし彼が、『わたしは彼女をめとりたくない』と言い張るならば、義理の姉妹は、長老たちの前で彼に近づいて、彼の靴をその足から脱がせ、その顔に唾を吐き、彼に答えて、『自分の兄弟の家を興さない者はこのようにされる』と言うべきである。彼はイスラエルの間で、『靴を脱がされた者の家』と呼ばれるであろう。」とあります。
 中々凄い規定です。これはレビラート婚と言われる制度です。兄弟が子どもを残さずに死んだのならば、兄弟はその妻をめとって子どもをつくり、それで兄弟の名を継がせなければならない、そういう責任が兄弟にはありました。しかし、兄弟がいなければどうなるのか。それは、亡くなった者の近い親戚の順に、責任があることになるわけです。そして、ここでルツがボアズに対して「責任のある方」と言った言葉は、「ゴーエール」という言葉です。これは直訳すれば「贖う人」という意味の言葉です。つまり、ルツはボアズに「あなたはゴーエールではないですか。贖う人ではないですか。」と言ったのです。「ゴーエール」、これがとても大切な言葉です。

5.贖い
 今朝の説教の題は「贖い」です。日本語としての「贖い」の意味は、「罪や過ちのつぐないをすること。埋め合わせ。罪滅ぼし。つぐない。」ということになります。しかし、実際に教会以外の所でこの言葉が使われることはほとんどないのではないかと思います。説教題を教会の前に掲げるのですが、「贖い」という題を出して、どれだけの人が読めるかなとも思いまして、正直これはまずかったなと思いました。でも、説教題を書いてくれる方が「あがない」とふりがなを振ってくれていました。ありがたかったです。  聖書で「贖い」と言いますと、だいたい三つの意味があります。
①人手に渡った近親者の財産や土地を買い戻すこと。
②身代金を払って奴隷を自由にすること。
③家畜や人間の初子を神に捧げる代わりに、生贄を捧げること。犠牲の代償を捧げることで、罪のつぐないをすること。
ボアズはこの場合、①の意味で「贖う人」となる責任があったということです。ナオミもルツも自分では買い戻せないものを、買い戻すという責任をボアズは果たそうとしました。この箇所は具体的に「贖う人(ゴーエール)」とは何をする人なのかを示しています。その人が自分では出来ないことを、その人に代わって土地を買い戻したり、奴隷を自由にしたり、犠牲を捧げたりする人が、「贖う人」(ゴーエール)です。そしてボアズは、「贖う人(ゴーエール)」として、主イエス・キリストを指し示しているのです。イエス様は十字架の血潮という代価を払ってくださって、私共を罪の奴隷から解放してくださいました。先程お読みしましたヘブライ人への手紙には、イエス様は十字架の死によって最後の完全な犠牲となってくださり、私共の一切の罪を贖ってくださった。だから、私共はもはや罪に定められることがないと告げています。イエス様が来てくださらなかったなら、私共は罪の闇の中でさまよい続けていたことでしょう。そのような私共のためにイエス様は来てくださいました。ボアズも同じです。もしボアズがいなかったら、ナオミもルツも路頭に迷うしかなかったことでしょう。そのような二人に「贖う人(ゴーエール)」としてボアズが現れました。

6.恐れるな、主は生きておられる
ボアズはルツが若い男の所に行かなかったことを喜びます。そしてこう言います。10節「 わたしの娘よ。どうかあなたに主の祝福があるように。あなたは、若者なら、富のあるなしにかかわらず追いかけるというようなことをしなかった。今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています。」ルツはまだ若いのです。若い男と結ばれても何の不思議もありません。しかし、ルツは若い男を追いかけることなく、神様の律法に従ってボアズの所に来た。ボアズは、今までのルツの、ナオミに対する献身的な働きを見ていました。それが「今までの真心」です。そして、ルツが律法に従ってボアズの所に来た。ここにルツの真心、神様に対しての真心をボアズは見たのです。そして、心を動かされました。
 そして、こう言うのです。11節「わたしの娘よ、心配しなくていい。きっと、あなたが言うとおりにします。」この「心配しなくていい」というのは「恐れるな」という言葉です。そして、「きっと、あなたが言うとおりにします。」と言って、ボアズはルツの申し出を受け入れました。しかし、まだ問題がありました。それは、ボアズよりもエリメレクに近い親戚がいて、彼がエリメレクの家を絶やさないという責任を果たすと言えば、ボアズがそれをすることは出来ません。これは律法に従った公のことですから、皆の前で公正に事を運ばなければなりません。ボアズとルツがお互いに好きだから結婚しましょうという話ではありません。4章では町の門の所で、公開でこの問題に関しての裁きが行われた様子が記されています。旧約の時代、町の門の所にある広場でこのような公の裁きが行われることになっていました。
 さて、ボアズはルツに言いました。13節「主は生きておられる。わたしが責任を果たします。」確かに、まだすべてが上手く行くと決まったわけではありません。ボアズよりも近い関係の親戚が責任を果たすと言えば、ボアズの出る幕はありません。しかし、ボアズはエリメレクの家を存続させ、ナオミとルツがきちんと生活することが出来るようにするために、自分は責任を果たすという決意を述べました。そして「主は生きておられる」と告げるのです。「主は生きておられる。神様はナオミにもルツにも憐れみを注いでくださる。だから、恐れることはない。」そう告げたのです。「主は生きておられる」とは、神様はその憐れみを実現するために事を起こされるお方だということです。私共の神様は、天を引き裂いて愛する御子を与えてくださったお方です。天の高いところにいて、何もしないで見ているだけの神様ではありません。生きて働き、事を起こされるお方です。クリスマスの出来事は、まさに「主は生きておられる」ことを明らかに示された出来事でした。

7.神様の配在
 そして、ボアズはまだ暗いうちにルツを家に帰しました。一緒にいるところを人に見られて、つまらぬ噂にならないためです。そして、ボアズはルツには6杯の大麦を持たせました。手ぶらでは帰さなかった。ボアズは、ルツの言葉と行動はナオミの指示によるということを分かっていたと思います。この6杯の大麦は、ナオミに対しての「ルツの願いは承知した。了解した。」というしるしだったろうと思います。6杯の大麦というのは量にして13ℓくらい、重さにして10kg以上はあったと思います。実に配慮が行き届いています。
 このルツ記の3章には、直接神様がこのようにされたということは何も告げられていません。しかし、ナオミにとってのルツの存在、そしてボアズの存在。そこに神様の御計画、見えざる御手というものがあることを聖書は告げているのでしょう。私共はどんなに素晴らしい神様の恵みであっても、すぐに慣れてしまう。そして、当たり前のこととしか思わなくなってしまうところがあります。しかし、この御言葉に促されて、改めて自分の置かれている環境・状況を思いますと、何と多くの神様の恵みに囲まれていることかと思います。
 2021年を振り返ってみますと、色々な事がありました。大変なこともありました。でも、このように今年最後の主の日の礼拝を神様の御前に捧げることが出来ました。何とか守られて、ここまで歩んで来ることが出来ました。様々な方々に支えていただきました。その背後に神様の御手があったことを覚え、共に神様に感謝の祈りを捧げたいと思います。

 お祈りいたします。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
 今年最後の主の日の礼拝を捧げることが出来ました。2021年もコロナ禍の中の歩みでした。何人もの愛する者を天に送りました。体調を崩したこともありました。しかし、守られて今日を迎えることが出来ました。あなた様が背後におられて、多くの人の支えによって歩んで来ることが出来た一年でした。何よりも信仰を守られ、あなた様に「父よ」と祈り続けることが出来ましたことを心から感謝いたします。私共もまた隣り人に対して、神様によって遣わされた者として、あなた様の愛の道具として、言葉と業と存在をもってあなた様の憐れみを示す者として歩ませてください。
 この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2021年12月26日]