日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「希望によって救われる」
詩編 62編2~9節
ローマの信徒への手紙 8章18~25節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
昨日は元日礼拝において、ヨハネによる福音書17章15節以下のイエス様の祈りの言葉から御言葉を受けました。イエス様が、最後の晩餐の時に、弟子たちのために、父なる神様に祈られた言葉です。それは、イエス様を信じて、イエス様の救いに与った私共のための祈りでもあります。三つありました。第一に「悪しき者から守られるように」、第二に「聖別されるように」、第三に「世に属さず、世に遣わされた者として」ということです。私共は、神様に祈るというと、「私が」祈ると考えてしまいますが、私共が祈る前にイエス様が私共のために祈ってくださった。このイエス様の祈りに守られ、支えられて、私共の信仰の営みは為されています。
 私共は「悪しき者」、すなわち私共を神様・イエス様から離れさせようとする悪魔・悪霊といったものから守られるようにと、イエス様によって祈っていただきました。私共が「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。」と祈る以前に、イエス様に祈っていただいている。ですから、神様が聞き届けてくださることを信頼して、安心して、祈ったら良い。そして、私共は神様のものとして、神様の御用に仕える者として、神様を礼拝する者として、「聖別されるように」と祈られています。その聖別された私共は、この世に属さず、つまり神様・イエス様を主人とする者として、この世のいかなる者も主人としない。しかし「世に遣わされた者」として、この神様の愛、十字架の愛を証しし、宣べ伝えて生きる者とされています。そのような者として歩むことが出来るようにとイエス様が祈ってくださいました。
 今日はこの後で成人の祝福が行われますが、成人される方は、このことをしっかり受け止めて欲しいと思います。自分は、イエス様の祈りによって悪しき者から守られている。神様の者とされている。だからイエス様に遣わされた者として生きていく。イエス様がそのように祈ってくださったのですから、イエス様のこの祈りに合わせるようにして、自分でも祈っていって欲しいのです。

2.希望
 さて、私共に今朝与えられた御言葉は「希望」を告げます。本当の希望です。どんな苦しみや嘆きによっても失われることのない希望です。この希望は、私共に忍耐する力を与え、生きる勇気と力を与えることが出来るものです。
 皆さんは「希望」という言葉を聞いて、何を思うでしょうか。どんな希望を持っていますかと問われて、どう答えるでしょうか。若い方なら、なりたい職業に就くこと、好きな人と結婚すること、高齢の人なら、孫の誕生や成長、或いはコロナが収まって自由に旅行をすることなどを挙げるかもしれません。これらはどれも嬉しいことですし、楽しいことです。このような希望を持つことはまことに自然なことです。しかし、聖書がここで告げている希望は、そのような希望ではありません。聖書が告げる希望ははっきりしています。イエス様が再び来られて、新しい天と地が与えられ、私共に復活の命の体が与えられ、救いが完成することです。それが、聖書が告げる希望、本当の希望です。それは大きな希望、究極の希望と言っても良いかもしれません。どんな苦しみや嘆きによっても潰されることのない希望だからです。
 前回私共は、今朝与えられた御言葉の直前の箇所から、私共が「神の子とされていること」、そして「イエス様と共同の相続人とされていること」を学びました。私共は既に神の子とされています。しかし、まだ神の子として完成されているわけでありません。ですから、誰が見ても私共を「この人は神の子だ。」と言うわけではありません。それどころか私共は、「どこが神の子なのか。」と言われてしまうような者です。私共は弱く、愚かで、自分のことしか考えられないような身勝手さを完全に拭うことが出来ていません。しかし、それは私共が神の子ではないということではなくて、まだ神の子としての実質が完全に備わっていない、神の子として完成されていないということです。神の子として完成されるならば、私共は皆イエス様のようになるはずだからです。今はまだそうなっていません。しかし、そのようになる日が来る。必ず来る。それが私共に与えられている希望です。
 この希望は見えません。24~25節で「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。」と告げています。私共の希望は、現在見ることが出来るこの世の具体的な何かを手に入れる、というようなものではありません。これが、通常私共が思い描く希望と決定的に違うことです。この希望は目に見えるものではありませんから、何か頼りないように思う人もいるかもしれません。しかし、この見えない希望こそ、どんな見えるものによっても壊されたり奪われたりすることのない、強く逞しい希望です。シャボン玉のように、淡く、はかないものではありません。私はこれを「強靱な希望」と言っています。目に見える何かを手に入るという希望は分かりやすいですが、たとえそれを手に入れたとしてもそれを失えば、或いはそれを手に入れることが出来ないという現実に直面した時、その希望はもろく崩れてしまいます。しかし、この希望は決して潰されることなく、壊されることのない希望です。

3.将来の栄光
 この希望は、イエス様が再び来られる日に私共の眼差しを向けさせます。それは、イエス様と共同の相続人とされている私共が、神様の善きものすべてを受け継ぐ時だからです。復活の命をいただき、全き愛、全き信頼、全き平和、全き喜び、全き謙遜などを受け取り、イエス様に似た者とされ、完全な神の子としていただく。それは、天使さえもうらやむ程の栄光の輝きに満ちた者とされることです。しかも、それは私だけが与えられるのではありません。代々の聖徒たちと共に与えられます。私共の後に続く聖徒たちも共に与ります。パウロはこのことを18節で「将来わたしたちに現されるはずの栄光」と言っています。光り輝く幸いです。私はその日のことを思うと、本当に心が明るくなります。この栄光は一瞬で消えるものではありません。この光り輝く幸いは、永遠に続くものです。私共は神様・イエス様と顔と顔を合わせて、親しい交わりを与えられ、すべての聖徒たちと共に賛美を捧げます。それが私共に約束されている将来の栄光、光り輝く幸いです。その日を待ち望みつつ、私共はこの地上の生涯を歩んで行く。それがキリスト者に与えられた人生なのです。

4.産みの苦しみ
 勿論、パウロは自分が生きている現実を無視してこのように語っているのではありません。18節で「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」と言っていますように、「現在の苦しみ」というものを百も承知の上で、それでも私共には「将来の栄光」が待っている、それと比べるならば取るに足りない、比べものにならない。そう告げています。
 これは雪国で春を待つのに少し似ているかもしれません。雪は見ている分には綺麗で良いのですけれど、白い悪魔と言われる面もあります。雪が降り続く限り、雪ずらしを続けなければなりません。一日に何度もしなければなりません。もう止んでくれと思いますし、降らなければ良いのにと思いますけれど、雪は避けようがありません。途中で止めさせることも出来ません。私共が出来ることは、営々と雪をずらすことです。しかし、やがて春が来ます。必ず来ます。ですから、雪に負けることはありません。営々と雪ずらしを続けることが出来ます。
 私共の人生において、苦しみや嘆きは付きものです。苦しみも嘆きも無い人生なんてありません。しかし、「将来の栄光」を待ち望む希望を持っているならば、潰されせん。パウロはこの人生の苦しみ、嘆きを「うめき」と言っています。「うめき」という言葉は「うー」という言葉にならない音に、「めく」という口から発する意味の言葉がついたものです。言葉にならず、「うー」「うー」と人はうめいている。苦しく、悲しく、痛く、辛いからです。しかし、パウロは、このうめきは「産みの苦しみ」だと言うのです。出産の痛みは、人間が味わう最も激しい痛みだと言われています。男性はこれを味わうことはないので、それだけでも女性に頭が上がらないのですが、この産みの苦しみを経なければ、子が与えられるという命の喜びを味わうことは出来ません。子が与えられるということは、私共の人生の中で与えられる最も大きな喜びなのだと、この年になってしみじみ思います。自分に子が与えられた時には、何が何だか分からないままに、忙しく過ごしていましたけれど、この年になって、子が与えられるということは、本当に神様が与えてくださった最も大きな恵み、祝福なのだとしみじみ思います。産みの苦しみとは、子が与えられる恵みが待っているから、辛くても痛くても耐えられる苦しみということでしょう。しかも女性は、この激痛を忘れ、数年後にはまたその苦しみを味わって子を産むわけです。凄いことです。私共の人生の苦しみ、痛み、現在のうめきは、将来の栄光のためにどうしても通らなければならない「産みの苦しみ」だとパウロは言うのです。だから、耐えられるのです。

5.被造物のうめき
では、なぜ私共はうめき、苦しむのか。パウロは23節で「被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。」と告げます。私共はイエス様を信じ、神の子としていただきました。それは私共に聖霊が与えられたからです。聖霊なる神様のお働きによって、信仰が与えられ、神の子としていただいたわけです。このことをパウロは「霊の初穂をいただいた」と言っています。初穂というのは、その年の最初の収穫です。私共が信仰を与えられ、神の子としていただいたのは聖霊なる神様による「初穂」だというのです。その後に続く収穫がある。収穫の本番が待っている。それが「体が贖われること」、つまりキリストに似た者とされて復活の体をいただくことです。今まで申し上げてきた言葉で言えば「将来の栄光」が現れることです。「神の子とされること、つまり、体の贖われること」とありますけれど、ここの「神の子とされること」とは「神の子として完成されること」を意味します。既に私共は神の子とされています。しかし、神の子として完成されてはいない。この罪のある肉体を持った私共が、完全に罪贖われて、キリストの復活の体に変えられてはいません。ですから、そのことを待ち望みつつ、心の中でうめいている、とパウロは言うのです。これは要するに、肉体を持った私共には罪があり、その罪によって苦しみ嘆く現実が引き起こされ、その中で私共はうめいているということです。
 老いも若きも、嘆きがあり、悲しみがあり、うめいている。そして、その根っこには「罪」というものがあるわけです。その罪が生み出していく現実の中で、私共はうめいている。それは失恋や人間関係のトラブルや家族の問題といった個人的なものもあるでしょう。しかし、それだけではありません。飢餓や貧困、戦争や難民、不当な抑圧といった、国家的・国際的な問題の中でうめいている人たちもたくさんいます。その原因、そのうめきの根っこにも「人間の罪」というものがあるわけです。自分たちが良ければそれで良い。自分たちの利益を邪魔する者は敵だ。自分たちと違う考えを認めることは出来ない。自分は正しく、自分に反対するものは赦さない。そういう罪が、多くの人がうめく現実を生み出しているわけです。
 更に、パウロは、うめいているのは人間だけではないと言います。19節から22節までパウロは「被造物」という言い方をしています。被造物というのは、神様に造られたものという意味ですから、人間を含みますけれど、すべての自然も含みます。うめいているのは、人間だけではない。被造物全体がうめいている。山も川も海も木も草も虫も動物も、みんなうめいていると言うのです。これは、驚くべき洞察です。この時代に公害や環境問題、放射能汚染などというものは無かったし、考えもしなかったでしょう。しかしパウロは、この世界を造られた神様の創造の御業は、人間の罪によって完全に「良きもの」ではなくなってしまった。そして、神様が造られた世界が再び完全に良き世界になる時が来る。それが、将来の栄光が現れる時、人間の罪が完全に拭われてキリストに似た者とされる時です。そしてその時、人間も世界も、すべての被造物が完全に神様の御心に適ったものになる。それを、人間を含めたすべての被造物がうめきながら待ち望んでいるというのです。
 私共は「救い」というものを、私の個人的なこととして受け止めてはいないでしょうか。或いは、心の問題といった小さな領域に限定して受け止めていないでしょうか。しかし、聖書が告げる救いの完成とは、私だけの話ではありませんし、人間だけの話でもありません。まして、心の問題なんかではありません。全世界、全宇宙を含めた、神様が造られたこの世界全体が新しくされることです。

  6.救いの完成に向かって
 さて、この世界が人間の罪によって「うめいている」ことを知ったならば、私共のすべきことは何でしょうか。そのうめく声を聞き、そのうめいている現実を共に担い、背負っていこうすることではないでしょうか。「うめく声を聞く」このこと自体、とても難しいことです。自分のことにしか関心が無ければ、他の者の「うめき」を聞くことは決して出来ないからです。しかし、自分の心を外に向かって開けば、世界はうめき声に満ちています。父も母も兄弟も我が子もうめいています。飢餓や貧困の中でうめいている者もいます。私共がそのうめきの現実を解決出来るとか、救いの完成をもたらすことが出来るというのではありません。それは神様だけが出来ることです。しかし、自分がうめいている現実しか見えない者は、「将来の栄光」もよく分からないのではないでしょうか。それは自分のことしか考えられないという罪の虜になってしまっているからです。しかし、全被造物の救いという「将来の栄光」を知らされた者は、この「将来の栄光」からかけ離れた現実の中でうめいている者たちがいることが見えてきます。そして、その人たちのうめき声を聞くことが出来ます。自分だけではなくて、他の者がうめいている声を聞き、その現実にも目を向ける。そして、そのうめいている現実に寄り添い、少しでもその重荷を担って歩んで行こうとするでしょう。それが救いの完成に向かって歩むということだからです。その営みは、焼け石に水のようなものかもしれません。でも、私共は止めない。でも、私共は諦めない。それは「将来の栄光」という希望を与えられているからです。希望を失えば、私共はうめきの現実に飲み込まれて、諦めるしかありません。それを見なかったことにするしかありません。それは、罪の闇の中に沈んでいくことです。しかし、私共はまことの光であるイエス様を知りました。イエス様の救いに与りました。将来の栄光を知りました。ですから、罪の闇に沈むことは出来ません。だから、私共は諦めません。「忍耐して待ち望みつつ」、うめきの現実に立ち向かいます。やがてイエス様が来られることを知っているからです。春が来るのを知っているから、私共は営々と雪をずらす。春が来れば雪は解ける。だからといって、それまで何もしないわけにはいきません。日々の生活があります。うめいている人がいて、そのうめきを聞いたのならば、放っておくわけにはいきません。神様の愛が世界に満ちるという将来を知っているから、そこに向かって歩んでいるのですから、何もしないわけにはいきません。
 パウロは24節で、「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。」と告げます。私共の救いはまだ完成していません。しかし既に、誰にも奪われることのない希望を与えられています。この希望が私共を生かします。この希望が、どんなうめきの現実に対しても、決して私共が潰されることのない勇気と諦めない力を与えます。それが「希望によって救われている」ということです。主は来られます。そして既に、主は私共と共にいてくださっています。ただ今与る聖餐は、そのことをはっきり私共に示してくれます。私共と共にいてくださるイエス様が、再び来られます。その日を待ち望みつつ、遣わされた場において、為すべき務めを果たしてまいりたいと願うのです。

 お祈りいたします。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
あなた様は今朝、御言葉によって、私共に「将来の栄光」を教えてくださいました。そしてまた、罪にうめくこの世界を教えてくださいました。そして、将来の栄光に与る希望を与えられた者として、この地上での歩みを為していくようにと勧められました。どうか私共が、自分以外の者のうめき声を聞き取り、その現実に対して諦めることなく、忍耐を持って寄り添い、共に重荷を担うことが出来ますよう、導いてください。イエス様が早く来てくださいますように。
 この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2022年1月2日]