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礼拝説教

「万事は益となる」
詩編 143編7~12節
ローマの信徒への手紙 8章26~30節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今朝与えられている御言葉は、とても有名な箇所です。そして、内容もとても豊かなところです。一回の説教ですべてを語り尽くすことは出来ませんけれど、出来る限り丁寧に御言葉を聞いていきたいと思います。
 今朝与えられた御言葉において、最も有名な聖句、皆さんがよく知っている聖句は28節でしょう。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」この聖句を愛唱聖句にされている方も多いと思います。28節を縮めて、「万事が益となる」と覚えている方もおられるでしょう。良いことも悪いことも、嬉しいことも悲しいことも、「万事が益となるように共に働く」と聖書は告げます。この言葉に慰められ、励まされた方は多いと思います。確かに、これは慰めに満ちた御言葉です。私も大好きな聖書の言葉の一つです。しかし、このように有名な聖書の言葉というものは、往々にして、文脈から切り離されて、有名な部分だけ切り取られて受け止められてしまうということが起きます。勿論、聖書の言葉を覚えようとすれば、すべてを覚えることは出来ませんので、そのようになるのはやむをえないのです。しかし、聖書が語ろうとしていることとは違って、自分の思いをその聖書の言葉に投影して読み込んでしまう、それは避けなければならないでしょう。
 しばしばこの聖句は、このように受け取られていることがあるかと思います。それは、「今は辛くて大変だけれども、万事を益としてくださる神様がきっと良いようにしてくださる」という受け止め方です。これは全く間違いだとは言えませんけれど、この御言葉が私共に告げようとしていることの中心がこれだ、とは言いがたい所があります。それは「益となる」という言葉が意味していることが何かということです。これは「私にとって益となる、都合が良いようになる」という意味ではありません。8章全体の文脈の中でこのことを受け止めるならば、これは「御子の姿に似た者とされること」に対して「益となる」ということです。先週の御言葉で言うならば、「将来の栄光」のために「益となる」ということ。更にその前の週の御言葉で言うならば、「神の相続人」として神様の良きものすべてを受け取る、そのために「益となる」ということです。つまり、終末における私共の救いの完成のために「益となる」という意味なのです。勿論、神様はすべてを支配しておられ、私共を愛しておられますから、私共のためにどんなことでもしてくださいます。祈りにも応えてくださいます。しかし、私共にとっていわゆる都合の良いこと、得すること、喜ばしいことへと、万事が益となるように働くということが、この御言葉が告げている第一の意味ではないということ。そのことをまず押さえて、この聖書の箇所から神様の御心を聞いていきたいと思います。

2.弱い私共
 まず26節で、「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。」と語り始めます。「弱いわたしたち」と聖書は告げます。神様は私共を造られた方ですから、私共よりも私共のことをよく知っておられます。その神様の御心を示した聖書が「私共は弱い」ということを告げます。私共は、肉体的にも、精神的にも、霊的にも弱い。若い時は、この「自分の弱さ」というものがよく分かりませんでしたけれども、様々な経験をしていく中で、本当に「自分は弱い人間だ」ということを知るようになっていきます。肉体を持っているということは、この弱さと共にあるということです。私共の救いはまだ完成していませんので、完全にキリストに似た者とされていません。ですから、神様の御心に従って行こうとする時でも、この弱さが必ず出てきてしまいます。老いや病は私共の肉体的弱さを嫌と言うほど思い知らせます。或いは、様々なトラブルや困難の中で、生きる気力を失いそうになるほどに弱り果ててしまう自分にも気付かされます。そして何より、そのような時には祈らなければならないのに、祈りの言葉さえも出てこなくなるということも経験します。「困った時の神頼み」という言葉がありますが、本当に困り果てた時は神頼みさえもしなくなる。祈るどころか、「神も仏もあるものか。」と自暴自棄になってしまう。ただうずくまって、うめいているだけという時がある。神様を信頼し、愛することが揺らいでしまう。そのように、私共は肉体的に弱いだけではなくて、精神的に弱いし、それだけではなくて、霊的に、信仰においても弱い。どこをとっても弱い。強いところなんてどこもない。それが私共です。

3.聖霊のとりなし
 神様は、そのような私共の弱さを私共よりもよく御存知です。では、私共の弱さをそれほどまでによく知っておられる神様は、どうされるのでしょうか。天の高みにおられて、文字通り高みの見物をされるのでしょうか。そうではありません。聖書は続けてこう告げます。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。」はっきりと「“霊”も弱いわたしたちを助けてくださる」と明言しています。ここでチョンチョンというクォーテーションマークでかこまれた”霊”という言葉は、聖霊を意味します。ですから、聖霊なる神様が弱い私共を助けてくださるというのです。ここで「助ける」と訳されている言葉は「共に」「代わって」「取る」いう三つの言葉を合成したものです。つまり、聖霊なる神様は、うめいている私共と共にうめき、私共に代わって祈ってくださり、私共のうめきを引き受けて、祈りを引き受けてくださるというのです。聖霊が私共の中に宿ってくださり(8章9~10節)、神様に向かって「父よ」と呼ばせてくださるわけですが、この聖霊が、私共が弱さの中で「うめいて」いる時に助けてくださる。うめいている私共と共にうめき、私共に代わって祈ってくださり、私共のうめきを引き受けて、祈りを引き受けてくださるのです。それが、「聖霊なる神様が執り成してくださる」ということです。
 聖書は続けてこう告げています。「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」ここで繰り返し、聖霊なる神様が執り成してくださると告げられています。聖霊とは、父なる神様の霊であると共に、主イエス・キリストの霊です。どう祈って良いかさえも分からなくなってしまう私共の中に聖霊なる神様が宿ってくださって、私共とうめきを共にし、私共に代わって祈り、うめきも祈りも引き取ってくださっている。まさに、あの十字架において私共の罪を執り成してくださったイエス様の霊が我が内に宿り、父なる神様に執り成してくださっている。そのようにして、私共を助けてくださるのです。十字架のイエス様の執り成しの業が、聖霊なる神様の御業として継続している。イエス様が共におられるということの、更に明確なイメージがここで告げられています。復活されたイエス様は天におられますけれど、聖霊なる神様として、我が内に宿り、私のために執り成してくださっている。そして、父なる神様はこの執り成しの祈りに応えてくださり、私共を守ってくださり、支えてくださっている。これがイエス様の救いに与った私共に与えられている、神様の御手の中にある恵みの現実です。
 私共は自分が肉体的に、精神的に、経済的に、信仰的に弱り果てている時、ただうずくまって「うめく」しかないような時、神様に見捨てられたと思っている時、私共は忘れています。聖霊なる神様が私共の内に宿ってくださっていることを忘れている。私共が祈ることさえ出来なくなった時も、うめくしかない時も、聖霊なる神様が共にうめき、神様に執り成してくださっている。このことを忘れているのではないでしょうか。正直なところ、長い間、私はこのことがよく分かりませんでした。神様を信じているのも、祈っているのも、愛の業に励むのも、全部自分がしていることだと思っていたからです。聖霊が宿ってくださっているということが、よく分からなかったのです。聖霊なる神様は、私が御心に適うことをする時にちょっと助けてくれる。その程度にしか思っていなかったからです。三位一体の神様を信じているといっても、聖霊なる神様のお働き、聖霊なる神様のお力によってということが、本当は何も分かっていなかったのです。信じているのも、祈っているのも、愛の業に励むのも、すべて聖霊なる神様の御業です。もし、それが自分の業であるとすれば、弱い私共はそれを出来なくなる時が必ずあります。その時、私共の救いの完成への道は閉ざされてしまうことになってしまうでしょう。そうであるならば、いったい誰が救いの完成に与れるというのでしょう。しかし、そうではないと聖書は告げるのです。何故なら、私共の中に宿ってくださった聖霊は、私共のために執り成し続けてくださるからです。イエス様の十字架による執り成しは、聖霊なる神様によって引き継がれ、私共はその執り成しの業の中にあります。父なる神様がその執り成しに答えて出来事を起こし、道を開き、私共を強め、再び神様を愛し、信頼し、祈る者へと導いてくださるからです。この聖霊なる神様の執り成しによって、私共は信仰の道を歩み続けることが出来る。この聖霊なる神様による執り成しがなければ、私共の信仰の歩みなど全く成り立たないのです。
 私共は弱い者ですから、終末における救いの完成を忍耐して待ち続けることが出来ず、目の前の困難や苦しみ、嘆きがすべてのように思い込んでしまいます。そしてただ「うめく」しかない状態に陥ってしまう。これは、どの信仰者も経験することです。信仰の弱い信仰者だけが経験することではありませんし、たまたま運の悪い人が経験することでもありません。信仰者は誰でも経験することです。しかし、そこには聖霊なる神様による執り成しがあります。その聖霊なる神様の執り成しが途絶えることはありません。そのことをしっかり覚えておきましょう。私共が「もうダメだ」と思った時にも、聖霊なる神様が「ダメにならないように」と執り成してくださっています。執り成してくださっている聖霊は神様ですから、父なる神様は聖霊の執り成しを確実に聞かれ、応えてくださいます。父なる神様が自らの霊である聖霊のうめきを聞き漏らすはずがありませんし、聞いても放っておくなどということもあり得ません。私共は、この聖霊なる神様による執り成しの業を信じたら良い。神様が具体的にどのような道を開いてくださるのかは、私共には分かりません。具体的な助け手を与えられることもありましょう。状況が変えられるということもありましょう。やる気が出てくるということもありましょう。ただはっきりしているのは、神様は私共を救いの完成へと確実に導き続けてくださるということです。

4.万事が益となるように働く
 だから「万事が益となるように働く」ということになるのです。私共が救いの完成へと歩み続け、やがてキリストに似た者に変えられる、そのために万事が益となるように働く。それが神様の摂理というものです。私共が神様に選ばれているということです。この「万事が益となるように働く」という言葉は、その前に「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、」とあります。「万事が益となるように働く」のは、「私共が熱心に祈れば」でもありませんし、「私共の信仰が熱心であれば」でもありません。私共がどうすれば、こうすれば、ということではなく、神様が御計画に従って私共を選んでくださり、神様を愛する者へと召してくださったからです。神様の御計画は、永遠から永遠までのものです。天地が造られる前から、私共は神様の御計画の中で選ばれ、召されました。これは、私共の思いをはるかに超えています。「良いこともあれば、悪いこともある」とか「万事、塞翁が馬」といった、私共の経験から生み出される小さな知恵のようなものとは隔絶しています。桁が違う。レベルが違う。神様の永遠の御計画の中で召された私共は、必ず救いの完成へと導かれていくことになっており、そのために、良いことも悪いことも、嬉しいことも悲しいことも、もっと言えば地球の裏側で起きていることも、私共が全く与り知らないようなことでも、すべてのことが神様の御手の中で、私共の救いの完成へと働いているということです。それが「万事が益となるように働く」ということです。私共は、その大いなる神様の救いの御計画の中で、この時代に、この両親のもとで、日本という国で、この世での命を与えられました。家族が与えられ、出会いが与えられ、そして何よりも信仰が与えられました。そして、一日一日必要なものを与えられて今日まで歩んで来た。すべては神様の御手の中にあること、神様の大いなる御計画の中でのことです。本当にありがたいことです。
 パウロは「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」と言いました。「知っている」それは、信仰によって与えられた確信によって知るに至ったことです。神様の大いなる御計画の中で生かされていることを知らされていく中で、神様に召し出されて救いに与ったキリスト者は、必ず救いの完成へと導かれていく。このことを知ったのです。確かに、自分にとって損か特か、良いか悪いかということを基準にして、自分の身に起きることを考えるならば、良いこともあれば、悪いこともあります。キリスト者はみんな、愛情豊かな家庭に育ったわけでもありませんし、ましてキリスト者は病気にならず、事故にも遭わず、老いることもない。そんなバカなことは全くありません。しかし、たとえそうであっても、それらは嫌なことであるには違いないのですけれど、それでも私の救いの完成への歩みにおいては意味を持ち、神様はそれらさえ用いて私を救いの完成へと導いてくださっている。このことを私共キリスト者は信仰によって知っているのです。

5.病まなければ
河野進という、牧師であり詩人でもある方の詩に出会いました。「病まなければ」という題の詩です。
「病まなければ 」     河野進
病まなければ ささげ得ない祈りがある
病まなければ 信じ得ない奇蹟がある
病まなければ 聴き得ない御言葉がある
病まなければ 近づき得ない聖所がある
病まなければ 仰ぎ得ない聖顔がある
おお 病まなければ  私は人間でさえもあり得なかった
病と老いは、肉体を持つ私共が避けることの出来ない苦しみであり、悲しみでありましょう。いったい何故病があり、老いがあるのか。医学的には説明出来たとしても、私共は「何故なのか」は分かりません。しかし、この牧師であり詩人である河野進さんは、「病まなければ ささげ得ない祈りがある」と歌います。「病まなければ 信じ得ない奇蹟がある」「病まなければ 聴き得ない御言葉がある」と歌う。本当にそうだと思います。「病まなければ」というところを「老いなければ」と変えても良いでしょう。そして、最後の「おお 病まなければ  私は人間でさえもあり得なかった」とは、どういうことなのでしょう。詩を説明するほど無粋なことはありませんので、これで止めますけれど、「病まなければ」私は自分一人で立てると思い、自らの小ささも知らず、傲慢で、助けを求めることもなく、神様を求めることもなく、神様が造られた人間とはほど遠い存在だったということなのでしょう。万事が益となるように、神様は病さえ用いて導いてくださいます。

6.御子の姿に似た者とされるために
29~30節「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです。神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。」とパウロは告げます。
 神様は天地を造られる前から私共を御存知であり、聖霊によって私共に信仰を与えてくださり、罪から救い、終末においてイエス様に似た者に変えることをお決めになりました。イエス様は神様の長子であり、神の子とされた私共は、イエス様の兄弟となった。イエス様が復活されたように、復活の恵みに与る者としていただいた。私共は神様によって召し出されて、一切の罪を赦されて義とされるという栄光に与りました。その神様の救いの御計画、救いの御業においては、救いの御業が完成するようにと、万事は益となるように働くことになっている。それが神様の御心です。そのことを覚え、心から御名を誉め讃えたいと思います。

 お祈りいたします。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
あなた様は今朝、御言葉によって、どんな時にも私共に宿ってくださっている聖霊なる神様が共にうめき、私共に代わって祈ってくださり、私共のために執り成してくださっていることを教えてくださいました。その執り成しによって、私共は救いの完成に与ることが出来るように導かれていることを知りました。どんなことが起きても、万事は救いの完成に向けて益となりますから、その日に向かってしっかりと歩んで行くことが出来ますよう、弱い私共を守り、支え、導いてください。
 この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2022年1月9日]