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礼拝説教

「神様が味方です」
詩編 56編9~12節
ローマの信徒への手紙 8章31~34節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 先週の主の日、私共は、「神様の永遠の救いの御計画の中で、聖霊なる神様の執り成しによって、万事が益となるように共に働いて、私共は救いの完成へと至るように導かれている」ということを御言葉から教えられました。聖霊なる神様による執り成し。それは、十字架の上で私共を執り成してくださった主イエス・キリストの霊による執り成しです。つまり、イエス様の執り成しは、十字架・復活で終わったのではなくて、聖霊なる神様として今も継続しているということです。では、このイエス様の執り成しは、その後はどうなるのでしょうか。私共が地上の生涯を歩んでいる間は聖霊なる神様によってイエス様の執り成しの御業は継続されていますけれど、私共がこの地上での生涯を閉じたならばどうなるのか。すべての人は、この地上での生涯を閉じた後、父なる神様の御前に立って裁きを受けなければなりません。その時、どうなるのかということです。今朝与えられている御言葉は34節において、「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」と告げています。これは神様の御前における裁きの場では、復活して天に昇られたイエス様が、父なる神様の右におられて、私共のために執り成してくださると告げています。実に、私共のために為されるイエス様による父なる神様への執り成しは、過去・現在・未来まで貫徹されるということです。このイエス様の執り成しの中で生かされ、救われるのが私共です。何と幸いなことでしょう。この幸いを、今朝与えられている御言葉を通して、改めてしっかり心に刻ませていただきたいと思います。

2.神様の御前における裁きの場
 今、「すべての人は、この地上での生涯を閉じた後、父なる神様の御前に立って、裁きを受けなければなりません。」と申しました。これは、最後の審判の時を思っても良いですし、私共が死んだ後で裁きの座に着くということをイメージしてもかまいません。最後の審判というのは、全世界に対してそれを造られた父なる神様が為されるもので、終末における文字通りの「最後の審判」です。これを、大いなる審判と言っても良いでしょう。一方、私共の肉体の死は、小さな終末、小さな審判と言って良いと思います。私共は死んで後、神様の裁きの座に着くことになります。この時のイメージは、裁判の被告の席に私共が立つというものです。その時、私共を有罪か無罪か宣告する裁判長の席には、父なる神様がおられます。そして、裁判ですから、ここには弁護人と私共を訴える者がいます。
 今、神様の御前における裁きの場を、裁判の場面としてイメージしているわけですが、この裁判は私共が知っているこの世の裁判とは全く違います。まず、裁判長が父なる神様であるということです。父なる神様の自由な裁きを邪魔する、或いはこの裁判の正統性、公正さ、権威といったものを保証するようなものは何もないということです。この世の裁判でしたら、裁判長も従わなければならない法律があって、それに基づいて裁判長は判決を下すわけです。裁判長が、この人は気に入ったから無罪、この人は悪人の顔をしているから有罪。そんなことはあり得ないわけです。この世の裁判においては、裁判長といえども、自分の思いのままに判決を下すことは出来ません。法律や判例に従って判決を下すわけです。更に、人間である裁判長の判断は絶対に正しいとは言えませんので、判決を受けた者が不服である場合には控訴をし、地方裁判所から高等裁判所へ、更には最高裁判所へと裁判の場は移っていきます。しかし、この神様の御前における裁判では、父なる神様の自由を拘束するようなものは何も存在しません。神様御自身が絶対的な基準だからです。神様はその御心に従って、何にもとらわれずに判決を下すことが出来ます。そして、一度判決が下されたなら、誰も不服を申し立てることは出来ませんし、申し立てても取り上げられることはありません。神様の裁きは絶対だからです。

3.私共を訴える者
次に、この裁判には私共を訴える者がいます。これはサタンのような者を考えて良いと思います。自分ことしか考えられない私共は日常的に、言葉においても、行いにおいても、思いにおいても、罪を犯しておりますから、訴える者にとっては私共を訴える材料に事欠くことはありません。そもそも、私共が罪を犯したと自覚していることなど、私共が犯した罪のほんの一部でしかないでしょう。そんなつもりではなくても、傷つけてしまっていることの何と多いことかと思います。親にも、子にも、妻にも、夫にも、兄弟にも、同僚にも、友人にも、関わりを持ったすべての人に対して私共は罪を犯しています。また、人に対してだけではありません。神様に対しても、神様の御心に従うことよりも自分にとって都合の良いことを選択することはしょっちゅうですし、神様の御心に従おうと思っても中途半端な私共です。この私共が犯した罪を一つ一つ取り上げられていたら、気が遠くなるほどのリストになってしまうでしょう。それに私共は、自分の罪のほとんどは忘れてしまっていることでしょう。ところが、サタンは何一つ漏らすことなく、すべてを神様の御前に報告し、私共を告発します。このサタンの告発は、私共によってひどい目に遭わされたと思っている人、傷つけられたと思っている人の姿をもって為されるかもしれません。或いは、私共の心の中にある、あの時あの人に何てことをしたのかという、自責の念というあり方で私共を告発するかもしれません。
 このように考えておりましたら、何となく閻魔大王の話を思い出しました。閻魔様ですね。閻魔大王というのは地獄の王らしいのですが、閻魔大王の法廷には、浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)という特殊な鏡があって、この鏡はすべての亡者の生前の行為を残らず記録したいわゆる閻魔帳に記されていることを、裁きの場で映し出す機能を持っているのだそうです。そのため、裁かれる亡者が閻魔大王の尋問に嘘をついても、たちまち見破られるということになっています。これはキリスト教の話ではありませんけれど、何かこの閻魔大王の役割は、神様の御前における法廷での、サタンの役割のように思えます。

4.弁護してくれる方
しかし、この法廷ではサタンが私共を告発するだけではありません。弁護する方がいます。それがイエス様です。34節「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。」とあるとおりです。イエス様が私共のために弁護をしてくださる。イエス様もまた、サタンと同じように私共のすべてを知っておられます。しかし、イエス様は私共のために神様に執り成してくださいます。しかも、イエス様は父なる神様と同じ所、神様の右に座しておられます。それは、父なる神様と同じ力と権威をもってその場に臨んでおられるということです。告発する者と弁護する者は、同じ位置にいるのではありません。弁護する者の方が圧倒的に力と権威を持っている。父なる神様の右に座しているイエス様が、父なる神様に私共を執り成してくださいます。イエス様はこの時、「この者は、こんな善いことをしました。こんなに人のためになることをしました。」というように、サタンの告発を覆すような善きことを並べて、サタンの告発を無力化しようとされるのではありません。そんな執り成しならば、全く当てになりません。罪のリストに対して、善い業のリストなど、比べものにならないほどにわずかなものでしかないからです。それに、神様は私共の善いことと悪いことを天秤にかけて判決を下されるのでありません。これは私の想像ですけれど、イエス様はこう言って私共を執り成してくださいます。「父よ。わたしはこの者のすべてを知っています。サタン以上に知っています。わたしはこの者と共にうめき、この者と共に喜び、この者と共に歩んで来ました。この者が嘆く中で、わたしはこの者のために、この者に代わって、あなた様に祈ったではありませんか。あなた様はその祈りを聞き届けてくださったではありませんか。そして、わたしはこの者のために、この者に代わって十字架の上で裁きを受けました。この者に対しての裁きは、もう済んでおります。わたしの十字架の血では、まだ足りませんでしょうか。わたしの血によってこの者を赦す。それがあなた様の永遠の救いの御計画ではありませんか。どうか、この者のすべての罪を赦してください。」そう、執り成してくださるのです。

5.神様が味方
 神の独り子であられるイエス様のこの執り成しを、父なる神様が聞かれないはずがありません。ですから、この神様の御前における裁きの座では、私共が罪人として処断されることは決してありません。無罪放免どころか、私共はイエス様の執り成しによって、父なる神様から「我が子よ」と呼んでいただき、「あなたの一切の罪は赦された。我が善きものすべてを与えよう。」そう言っていだくのです。この神様の御前における法廷では、私共は完全な罪の赦し、無罪の宣告を受け、神の子としてのすべてを与えられることになります。これが「義とされる」ということです。サタンがどんなに悔しがろうとも、この判決を覆すことは出来ません。父なる神様だけが、私共に判決を下すことが出来るからです。33節に「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。」とあるとおりです。そして、これが「神様が私共の味方である」ということです。31節に、「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。」とありますが、この「もし」というのは、「そうでないかもしれないけれど、もしそうならば」という意味での「もし」ではありません。これは「神様は私共の味方なのです。ですから、私共を罪に定める者はどこにもいないということです。」と告げているのです。
 人は勝手に値踏みをして、あの人はどうだこうだ言います。しかし、そんなものは戯れ言に過ぎません。私共を裁くことが出来るのは、ただ父なる神様だけです。そして、そのお方が、私共の味方なのです。「神様が味方である」ということは、神様が味方をしてくれるから私共はどんなことでも出来る、神様に頼めば何でも叶う、そういう意味ではありません。それでは、父なる神様を自分の願いを叶えるための道具にする、つまり神様を自分のために利用するということで、これは一番してはいけないことです。神様が味方であるということは、私共が神様を愛し、神様を信頼し、神様に従う時、私共に敵対し、私共を邪魔することが出来る者などいないということです。また、私共を罪に定めることが出来る者もいないということです。
 しかし、すべての罪が赦されるといっても、この地上にあっては、地上の裁きがあります。裁判所もあれば刑務所もあります。しかし、それは私共を滅ぼす場ではありませんし、私共を滅ぼすことなど、誰にも出来はしません。刑務所というところは、確かに刑罰を受ける場ではあるのですが、矯正施設と呼ばれています。矯正というのは、悪い習慣などを正常な状態に直すことです。これを目的とした施設が刑務所です。別の言い方をすれば、人生をやり直すための施設です。教誨師は、そのお手伝いをさせていただく者です。人は悔い改めて、新しくやり直すことが出来ますし、神様は何よりもそのことを私共に求めておられます。

6.神様が味方である根拠
 では、神様が私共の味方であると言い切れる根拠はどこにあるのでしょうか。32節に 「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」とあります。神様にとって何よりも大切なのは、天地を造られる前から共におられた、御自身の独り子キリストです。神様はその愛する独り子イエス様を私共に与えてくださいました。父なる神様は、イエス様を私共のために、私共に代わって十字架にお架かけになりました。これが、神様が私共の味方である根拠です。神様が私共の味方である根拠は、私共の中にはありません。神様に味方していただけるような善いところなど、私共の中には何もないからです。私共が信仰深いから、謙遜だから、愛に溢れているから、善人だから、神様は私共の味方をしてくださるのではありません。ただ、イエス様の十字架の故に、ただイエス様の執り成しの故に、神様は私共の味方となってくださいます。ですから、イエス様を我が主・我が神と受け入れるならば、どんな人でも神様の御前において義の宣告を受け、完全な救いに与ることになります。これは大切なことです。神様が私共の味方をしてくださる理由は、私共の中にあるのではありませんから、この人は大丈夫、この人はダメ、そんなことには決してならないということです。私共はただ信仰によって、ただ神様の憐れみによって、神様が味方になってくださって救われるわけです。ところが、私共はどこかで「私の善き業によって救いに与る」という思いが残っているところがあります。福音以前の「尻尾」のようなものです。どこかで、自分を頼る、自分を誇るという思いがあるからでしょう。これが私共の罪の根っこであり、福音以前の尻尾です。

7.認知症と救い
 この尻尾を完全に絶たないと、私共の中に救いの確信というものは生まれません。このことが、最もはっきり現れるのが、認知症になったキリスト者の救いをどう受け止めるのかという場面においてではないかと思います。皆さん、自分は認知症にはなりたくないと思っておられるでしょう。私も出来れば、そうなりたくはありません。しかし、これは分かりません。しかも、認知症と一口に言っても、そのあり方は千差万別です。
 FEBCの月刊誌2022年1月号の記事に、宇治のカルメル会修道院の司祭である中川博道神父の文章がありました。私が神学生だった時に、東京の世田谷区上野毛にあるカルメル会の修道院で二ヶ月ほど、一緒に生活させていただいたことがありました。その時、指導をお願いしたのが奥村一郎という修道司祭でした。夕食の後の30分ほどの時間だけは自由におしゃべりをして良いのですけれど、それ以外の時はずっと沈黙の行です。1日6~7回の祈りの時間があり、そこにも出させていただきました。そして、奥村神父が時間のある時には祈りの指導をしていただきました。その奥村神父のことが記されていたのです。こういう文章です。少し長いのですが引用します。
  ---FEBC月刊誌2022年1月号の記事より---
 私たちカルメル会という修道会は共同生活を大切にしている修道会で、朝昼晩一緒に祈り、朝夕の一時間近くの念祷の時間に一緒に座る等の生活をしています。(念祷というのは、言葉を使わないで祈るという祈りです。座禅に近いのですが、奥村神父にはこの指導を受けました。)そういう中で長年一緒に生きていると、家族以上にお互いのことを知り、その存在の重みを感じる日常生活となります。ですので、今一緒に生きている仲間が老いていく姿を見ながら、自分の老いをも考えさせられる。つまり、この状況を突き抜けて死の向こうへ行かれた方々こそ、その残してくれた姿によって、私の老いの先を歩いて今の私を支えてくれている存在なんですね。その意味で、決して過去の存在ではないのです。
 私の大先輩に奥村一郎神父がいます。彼は75歳を過ぎて宇治修道院に移ってこられたのですが、その直後くらいから「今までの自分ではなくなっていく」ということを口走るようになられました。さらにその数年後には、アルツハイマー型認知症と診断されました。あれだけの膨大な著作を残され、バチカンの宗教顧問もなさった方です。美しい言葉を紡ぐことがお出来になる方だったし、しかも言葉だけでなくそれを生きることに自らを賭けていらっしゃった。そういう方が認知症となり、言葉を失っていかれたのです。だから、今までの自分が失われていくことを強烈に感じておられたのでしょう。ある時期には「私はもう死にます」と盛んに口走るようになられた。せん妄も起こって、さぞ恐怖心も強くおありだったと思います。奥村神父様はご健在の時から「人間は最後にはすべてが剥奪されていき、そして神のみが残っていく」と仰っていたのですが、そのとおりご自分の内に実現していかれるということを体験しておられたのだと思います。その最晩年には、御聖体さえ「これは何ですか?」と仰るようになっていかれました。けれども、この神に賭けておられるお姿というのは本当に変わらないものとして生き抜かれたのです。私は、それを目の当たりにさせて頂きました。 ----- 
 奥村一郎神父の最後の日々を垣間見させていただき、「そうだったのか」と感慨深いものがありました。そして、私もどうなるのか分からないと思いました。ローマ・カトリック教会の人にとって、御聖体、私共の聖餐のパンのことですが、これに与るということが救いに与るということであって、信仰の中心にあります。奥村神父はそれさえ分からなくなった。私もそうなるかもしれないと思いました。しかし同時に、それと私が救われるということとは、何の関係もないということも確信いたしました。認知症になって、聖書が読めなくなろうと、説教が分からなくなろうと、主の祈りが言えなくなろうと、祈ることが出来なくなろうと、自分の子どものことが分からなくなろうと、イエス様のことが分からなくなろうと、私共の救いには一切関係ない。何故なら、イエス様の執り成しにより、父なる神様は私共の味方であられるからです。私共は認知症を患った方に対して、この救いの確信をもって接していかなければならないと思わされました。私の善き業によって救われるという尻尾を完全に切り落として、ただ憐れみによって救われるという福音に立たない限り、私共はこの認知症と正面から向き合うことは出来ないのではないでしょうか。神様の救いの御心は、認知症によって揺らぐことなど決してありません。神様が私共の味方なのですから。そのことをしっかり受け止めていきたいと思います。

 お祈りいたします。

 恵みに満ちたもう全能の父なる神様。
今朝、あなた様は御言葉によって、神様が私共の味方であることをはっきり教えてくださいました。私共はやがてこの地上の歩みを閉じることになります。そして、あなた様の御前に立ちます。その時、イエス様が執り成してくださり、完全な救いの宣言を受けることになります。どんなにたどたどしい信仰の歩みをしていようと、たとえ認知症になって何も分からなくなったとしても、あなた様が私共の味方であることは少しも揺るぎません。ありがたいことです。感謝します。どうか、この救いの確信に立って、日々の歩みを為していくことが出来ますように。
 この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2022年1月16日]