日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「心を注ぎ出す祈り」
サムエル記上 1章1~28節
フィリピの信徒への手紙 4章4~7節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今日は2月最後の主の日です。毎月最後の主の日は旧約から御言葉を受けています。前回でルツ記が終わりまして、今日からサムエル記に入ります。「サムエル記」はサムエルという人の名前が冠せられている書ですけれど、サムエルが主人公というわけではありません。サムエル記は上・下とありますが、サムエルは上の25章で亡くなります。ですから、サムエル記の下にはサムエルは全く出てきません。サムエル記の概略を申し上げますと、サムエル記上の1~8章がサムエルの話、9~15章がサウルの話、そして16章以降はダビデの話です。サムエル記下は王様になったダビデの話です。サムエル記は上が31章あり、下が24章、合わせて55章あります。サムエルの話は、その最初の8章だけなのです。それなのに、どうしてサムエル記というのか。55章の内40章がダビデの話ですから、分量から言えば圧倒的にダビデの話が多いわけです。だったら「ダビデ記」の方が相応しいのではないかとも思いますが、聖書はサムエル記となっています。
 どうして「サムエル記」なのか。理由は色々考えられます。一番単純で分かりやすいのが、サムエル記はサムエル、サウル、ダビデの順に記されているので、その最初の人の名を取ったというものです。しかし、私はこう考えています。イスラエルの初代の王はサウルです。そして、2代目の王がダビデです。この二人の王に油を注いでイスラエルの王として即位させたのが、サムエルです。サムエルは、最後の士師とも言えますし、祭司・預言者でもありました。この当時のイスラエルの霊的な指導者がサムエルでした。サウル王にしてもダビデ王にしても、権力闘争の結果、自分に対抗する者たちをみんなやっつけて王になったということではありません。神様の御心を知らされたサムエルが、「この人がイスラエルの王である。」と告げ、油を頭に注いで、王としたわけです。確かに、王となったのはサウルでありダビデでありました。しかし、それを選んだのは神様です。その神様の御心を示されて二人を王として立てたのがサムエルでした。つまり、イスラエルに立てられた王、サウルとダビデは神様によって立てられた王であり、そのことを明確に示したのがサムエルだった。そして、サウル王・ダビデ王の歴史をサムエル記とすることによって、聖書は、神様の御支配によるイスラエル王国の歴史がここには記されていることを表したのではないかと思うのです。つまり、サムエル記の主人公はサムエルでも、サウルでも、ダビデでもなく、神様だということです。聖書なのですから当たり前といえば当たり前なのですけれど、これは最初に確認しておかなければなりません。
 サムエル記はイスラエルの歴史を記しているのですけれど、単なる歴史書ではありません。神様の御心が現れている歴史が記されている。そこを読み落としてしまえば、聖書を読んだことにはなりません。ここに記されている歴史は、人間の嘆き、喜び、狡さ、醜さ、愚かさが満載です。どの国の歴史だってそうです。イスラエルの歴史は神の民の歴史だから美しいなんてことはありません。人間の歴史とはそういうものです。先週、ウクライナにロシア軍が侵攻しました。今も戦闘が続いています。全く腹が立つほどに醜く、愚かなことです。これのどこに神様の御心があるのか、私は分かりません。しかし聖書は、同じように愚かで、狡く、醜い人間の営みとしての歴史を記しつつ、神様の御心がそこにもあることを示します。私共は、ここで神様の御支配というものが、愚かで醜い人間の歴史の中にもあるのだということを教えられる。そして、それ故に嘆きの歴史の現実の中で、なおも希望を持つことが出来る者とされたということなのでしょう。

2.ハンナの苦しみ
 サムエル記は、イスラエルが同じ神様を拝む緩やかな部族連合というあり方から、王様を持つ国というものになっていく、その大転換期の歴史を記します。そして、その始まりは小さな小さな出来事から始まった、と聖書は告げます。それは一人の女性の祈りから始まりました。
 エフライムの山地にエルカナという一人の男がいました。彼には二人の妻がおりました。旧約の時代、一夫多妻が珍しくありませんでしたので、このことは特に問題になることではありません。しかし、二人の妻がいれば、家庭の中は中々大変だろうということは想像出来ます。エルカナの家もそうでした。二人の妻の名前はハンナとペニナです。ペニナには子どもがありましたが、ハンナには子どもがありませんでした。ペニナは子どものいないハンナを軽んじたのでしょう。これは私の想像ですけれど、同時に二人の女性と結婚するなんてことはありません。ハンナが先にエルカナの妻になったのではないかと思います。ハンナに子が生まれないということで、後でペニナが妻になったのではないかと思います。そして、ペニナに子が生まれる。するとペニナはハンナを軽んじ、馬鹿にしたのでしょう。それはハンナに耐えがたい苦しみを与えました。しかし、子どもは神様が与えるものですから、どうしようもありません。
 ハンナの苦しみがはっきりと現れるのが、シロに行って礼拝する時でした。当時はまだ立派な神殿はありません。神殿を造ったのはダビデの息子であり、ダビデの次の王であるソロモンの時代です。出エジプトの旅の途中、イスラエルはシナイ山で十戒を刻んだ石の板を神様からいただきました。それを納め、神様が御臨在される所として、「会見の幕屋」がありました。移動式の神殿と考えて良いと思います。しかし、カナンの地に定着したイスラエルはもう移動することがありませんので、幕屋という移動式のものをやめて、シロという町に十戒を刻んだ石を納めて礼拝する場所を造りました。それがここで言われている神殿です。礼拝所といった所だったと思います。エルカナは信心深い人だったのでしょう。毎年、シロまで行って、いけにえを捧げて礼拝しました。いけにえの香りは神様に捧げ、焼かれた肉の一部を祭司たちが取り、残ったものをいけにえを捧げた者たちが食べる。この食事は私共の聖餐へと繋がっているのですが、今日はそのことには触れません。この食事の時、ハンナは自分に子どもがいないということを思い知らされるわけです。ペニナには子どもの分も与えられるのですけれど、自分にはそれがない。神様は私を祝福してくださらないのか。ハンナは苦しむのです。ペニナが自分を馬鹿にして、敵のように見る眼差しにも耐えがたいものがあったでしょう。人間の愚かさ、醜さがここにもはっきり現れています。しかし、このようなことはどこの家にもあるような、些細なことでもあります。でも些細なことですけれども、ハンナには耐えがたい苦しみでした。この時、ハンナは何も食べようとしませんでした。夫のエルカナは苦しむハンナに、8節「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。なぜふさぎ込んでいるのか。このわたしは、あなたにとって十人の息子にもまさるではないか。」と言います。私はあなたを愛している。子どもがいないからといって、どうして泣くのか。10人の息子が与えられるよりも、私という夫がいることを喜んでおくれ。あなたは、私にとって大切な人だ。そう言って慰めるわけです。いい旦那さんだなと思います。子どもが与えられるかどうかは、人間にはどうしようもないことなのですから、これは受け入れていくしかないし、夫エルカナの言うことは正しいと思います。しかし、この夫の言葉では、ハンナは納得出来なかったし、苦しみから解き放たれることはありませんでした。

 

3.ハンナの祈り
 場所は神殿です。ハンナは食事の時が終わると立ち上がり、祈りました。その祈りが10~11節に記されています。「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた。そして、誓いを立てて言った。『万軍の主よ、はしための苦しみを御覧ください。はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。』」この祈りは、読んでしまえば10秒ほどで終わってしまいます。しかし、この時のハンナの祈りは、そんな祈りではありませんでした。12~14節「ハンナが主の御前であまりにも長く祈っているので、エリは彼女の口もとを注意して見た。ハンナは心のうちで祈っていて、唇は動いていたが声は聞こえなかった。エリは彼女が酒に酔っているのだと思い、彼女に言った。『いつまで酔っているのか。酔いをさましてきなさい。』」とあります。この時の祭司はエリという人でした。祭司エリは、ハンナは唇は動いているけれども、声が聞こえない。あまりに長くそれが続いているので、ハンナが酒に酔っているのだと思った。この時、ハンナは心で祈って、声は出さなかった。当時の祈りの普通のあり方は、両手を天に上げて、大きな声で祈るというものでした。形から言って、ハンナの祈りは普通の祈りではありませんでした。少なくとも、当時、神殿で行われている祈りとは違っていました。通常、神殿で捧げられる祈りは公の祈りですから、みんなにも聞こえるものです。しかし、ハンナの祈りは違っていました。
 この時のハンナの祈りは、場所は神殿でしたけれども、為されていた祈りは「密室の祈り」でした。ただ神様の御前に座り、自分の思いの丈をすべて神様に述べる。神様との一対一の祈りです。ハンナは祭司エリにこう答えます。15~16節「ハンナは答えた。『「いいえ、祭司様、違います。わたしは深い悩みを持った女です。ぶどう酒も強い酒も飲んではおりません。ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました。はしためを堕落した女だと誤解なさらないでください。今まで祈っていたのは、訴えたいこと、苦しいことが多くあるからです。』」ここで注目すべきは、ハンナの祈りが「主の御前に心からの願いを注ぎ出」すものであったということです。「心を注ぎ出す祈り」です。信仰を与えられた者は、祈る者となります。しかし、この祈りというものは、本当に簡単なことなのですけれど、とても難しいのです。矛盾することを言っているようですけれど、本当のことです。簡単なことだというのは、祈りには別に決まり事もありませんし、形もありませんし、ただ神様の御前にあって、神様と一対一となって、自分の思い、自分の願いを正直に言えば良い。神様の愛と力を信頼して、思いの丈を述べれば良い。ですから、本当に簡単で子どもにも出来ます。しかし、中々難しい。この難しさは、神様の前に出て、私共がそこで正直になるということが難しいからです。こんなことを祈っても良いだろうか。こんな言葉で良いだろうか。自分の悪い思いを言ってはいけないのではないか。そんなつまらないことを、神様の御前にあっても私共は思ってしまう。あるいは、祈りとはこうでなければならないと決めている。言うなれば、神様の御前にあってもなお「格好をつける」ということをしてしまうからです。正直に自分の思いを告げる。何一つ遠慮することなく告げる。こんな汚い思いをさらけ出して良いのだろうかというような思いも投げ捨てて、正直に自分の心を注ぎ出す。それで良いのです。なのに、どうしてこれが難しいのかと言いますと、そんなことを、私共は家族に対しても友人に対してもしたことがないからです。自分の心の内を全部吐き出すなんてことをしたら、人間同士の関係は破綻してしまいます。「あなたは今までそんなことを思っていたのね。」と言われてしまいます。だから、そんなことは出来ませんし、したことがありません。しかし、神様の御前では、心を注ぎ出すのです。神様は私共のすべてを御存知なのですから、遠回しの言い方をすることなど必要ありません。それよりも何よりも大切なことは正直であることです。簡単なことです。でも難しい。そして、この祈りはやってみなければ分かりません。どうか、心を注ぎ出して祈ってください。神様はその祈りを必ず聞いてくださっています。心を注ぎ出して祈る中で、そのことを知らされていく。それが信仰の成長というものです。

4.思い煩いからの解放
 この心を注ぎきった祈りによって、私共には変化が訪れます。ハンナにも訪れました。16節最後~18節「そこでエリは、『安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなたの乞い願うことをかなえてくださるように』と答えた。ハンナは、『はしためが御厚意を得ますように』と言ってそこを離れた。それから食事をしたが、彼女の表情はもはや前のようではなかった。」とあります。心を注ぎ出して祈る前、ハンナは思い悩み、苦しんでいました。しかし、心を注ぎ出して祈った後、ハンナの表情が変わった、と聖書は記します。どう変わったのでしょうか。晴れやかに変わったのでしょう。それはハンナが思い患いから解き放たれたということを意味しています。
 イエス様は「思い悩むな」(マタイによる福音書6章25節)と言われました。神様は私共の必要のすべてを御存知なのだから、あれがない、これが欲しいと言って思い悩む必要はないと言われました。しかし、それでもなお思い悩んでしまう私共です。イエス様が十字架において示したくださった絶大な愛を信じ切れないからでしょう。だったらどうすれば良いのか。先ほどお読みしたフィリピの信徒への手紙でパウロはこう言いました。4章6~7節「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」これは、今日の説教の文脈で言えば、「心を注ぎ出して祈りなさい。そうすれば、人知を越える神の平和が与えられる。心と考えがイエス様によって守られる。」と勧めているわけです。パウロは自分の経験に照らし合わせて、こう言ったのでしょう。パウロは何度も「心を注ぎ出して祈った」。そして、平和を与えられた。だから、あなたがたもそうしなさい。そう勧めたのです。「肉体のトゲ」について祈った時もそうでした。パウロは三度願いました。そして与えられた御心は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリントの信徒への手紙二12章9節)でした。思い煩いからの解放。それはこの「心を注ぎ出す祈り」によって与えられます。この祈りの中で、自分の愚かさ、至らなさ、身勝手さ、神様の御力、神様の愛、それをはっきりと知らされていくからです。神様に遠慮してはいけません。格好をつけてもいけません。すべてを洗いざらい、神様に申し上げたら良いのです。洗いざらいです。その祈りは、5分や10分で終わるはずがありません。その祈りの後、私共は「神様に委ねる」ということを知ります。

   5.主に捧げられたサムエル

 神様はハンナを御心に留められ、ハンナは男の子を産みます。この男の子がサムエルです。ハンナの祈りは叶えられました。ハンナの喜びはいかばかりであったでしょう。ここでハンナは、自分が神様に誓ったことを忘れませんでした。これが大切です。祈る時は、神様に気に入られようとして、神様が善しとされるようなことを誓っておきながら、祈りが叶えられたならば、こっちのものだとばかりに祈ったことや誓ったことを忘れてしまう。これはダメです。ハンナは11節「男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません。」と祈りました。「その子の頭には決してかみそりを当てません」というのは、ナジル人として神様に捧げます、ということです。つまり、神様に捧げられた者として、神様の御用のために用いられる者として、与えられた我が子を捧げますと誓ったわけです。
 ハンナは乳離れするまでサムエルを手元で育てます。乳離れというのが何歳を指しているのか正確には分かりませんけれど、3歳くらいと考えて良いのではないかと思います。そして、サムエルが乳離れすると、ハンナはシロの主の家に行きました。そして、ハンナは祭司エリにこう言うのです。26~28節「祭司様、あなたは生きておられます。わたしは、ここであなたのそばに立って主に祈っていたあの女です。わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です。」この別れの時、ハンナは辛かったことでしょう。乳離れしたばかりの我が子を手放すのですから。しかし、ハンナの言葉はとても力強いものです。ハンナは「わたしはこの子を主に委ねます。この子は生涯、主に委ねられた者です」と告げる。ハンナは心を注いで祈った、そして、神様がサムエルを与えてくださった。このことを通して、「主に委ねる」ことの安心というものをハンナは学んだのでしょう。自分の一番大切な我が子を主に委ねる。それが、この子にとって一番幸いなことなのだということを学んだのでしょう。
 私共はここで、一番大切なものを主に捧げることの幸いというものを教えられます。自分にとって大切ではないものなら、いくらでも捧げられるでしょう。しかし、一番大切なものを捧げる。それは、ハードルが高いかもしれません。一番大切なもの、それは自分自身でしょう。ハンナは我が子サムエルを主に捧げましたけれど、それは自分自身を献げたということです。神様は私共のために愛する独り子イエス様を捧げてくださいました。この愛に応えるということは、私共もまた、自分自身を捧げる献身ということをもって応えていく者なのだ、ということでしょう。キリスト者は、誰もが献身者です。献身者として歩んで行く時、私共には主の平安が与えられていきます。ですから、安んじて為すべきことを為してまいりましょう。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 今朝、あなた様は私共に御言葉をもって、心を注いで祈ることを教えてくださいました。この地上の歩みにおいては、私共は様々な問題や課題を抱えています。しかし、あなた様はすべてを御存知です。どうか、私共があなた様の愛と全能の御力を信頼して、心を注いで祈り、あなた様が与えてくださる平安の中を歩んでいくことが出来ますように。自分自身をあなた様にお捧げします。どうか、御業の為に用いてください。
 この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

               

[2022年2月27日]