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礼拝説教

「信じるすべての者に」
詩編 40編1~12節
ローマの信徒への手紙 10章1~4節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
ローマの信徒への手紙を読み進めております。今日から10章に入ります。小見出しを見ると分かりますが、今朝与えられた御言葉は、先週与えられました9章30節以下の所と一繋がりです。先週与えられました御言葉において、ユダヤ人たちはイエス様という「つまずきの石」につまずいてしまった。それは、自分の行いによって神様の御前に義とされると考えてしまったからです。自分の行いで義とされるのだったら、イエス様を信じて義とされる必要などありません。そして、そのような教えを広めているパウロたちキリスト教の伝道者に対しては、彼らは神様の御心に反し、神様を侮るとんでもない者たちだ。だから、それを邪魔し、迫害し、捕まえて、痛い目に遭わせてやる。そういう人も出てきたわけです。パウロ自身、イエス様に救われるまで、そのような熱心なユダヤ教徒として歩んでおりました。しかし、パウロはイエス様と出会い、救われました。神様によって義に与りました。そして、変えられました。
 あれだけ徹底的にキリスト教を迫害していた自分が救いに与った。本当に不思議なことでした。この「自分が救われたという不思議」の理由は、神様の自由な選び、神様の御計画なのだということをパウロは示されました。自分がどういう人間であったから、どういう歩みをしていたから、そういうことではなくて、ただただ神様の憐れみよるということを知らされたのです。人が救われるかどうかは神様がお決めになることであって、その人が何を為したのかということによって決まるのではない。ただ神様の憐れみによる。これが「神様の選び」という教えです。この「神様の選び」について記されているのが9章から11章にかけての所なのです。この「神様の選び」ということについては、具体的にこの人が救われるのかどうか知っているのは神様だけです。この人は救われる、この人は救われないと私共に分かるわけではありません。ですから、「神様の選び」という教えなど何の役にも立たないように思われるかもしれません。しかし、これは私共の信仰においてはとても重大な役割を果たすものです。それは「神様の選び」という教えは、私共に「救いの確信」を与えるということです。私共が信仰を与えられて、救いに与ったということが「神様の選びによる」ということであるならば、私共の救いは決して揺るがないことになりましょう。神様の選びは、天地を造られる前から、神様がお決めになったことです。神様の選びということについて、私共がしっかり受け止めておかなければならないのは、このことです。そして、もう一つ。神様が私を選んでくださり、救ってくださったということは、私が何をしたからということではありませんので、自分を誇ることなど出来ず、ただただありがたく、神様に感謝するしかありません。神様の選びによって救われるということは、神様への感謝が私共の信仰を貫くことになるということです。私共の信仰は最初から最後まで、感謝に貫かれている。この二つの点をまず確認しておきましょう。

  2.同胞の救い
さて、パウロは異邦人伝道のために立てられた伝道者でした。彼自身、その自覚をはっきり持っていました。しかし、だからといって同胞であるユダヤ人の救いについて、どうでも良いなどとは全く考えていませんでした。今朝与えられております御言葉は、こう始まっています。1節「兄弟たち、わたしは彼らが救われることを心から願い、彼らのために神に祈っています。」「彼ら」というのは、ユダヤ人たちのことです。これと同じことは、9章の2節以下にもありました。「わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり肉による同胞のためならば、キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。」と告げています。パウロは、同胞のユダヤ人たちも自分と同じように救われて欲しい。そのためならば自分の救いがなくなってもいい。それ程までに、パウロは同胞たちの救いを心から願い、求め、祈っておりました。そして、実際、安息日にはユダヤ人の会堂に行って、「イエス様こそあなたたちが待ち望んでいたメシア、キリストです。」と伝えました。しかし、それを受け入れるユダヤ人はほとんどおりませんでした。かえって、パウロに対しての反感を激しくさせるだけでした。パウロは、同胞たちが救われることを心から願い、求め、祈っておりましたけれども、ちっともそうなっていかない現実があるわけです。「ユダヤ人たちは神の民であるはずなのに、どうしてこんなことが?」という問いがパウロの中に当然生まれてきます。
 「神様の自由な選び」によって救われるということが、パウロに与えられた一つの重要な答えでした。「ユダヤ人だから」ということなど、何の救いの根拠にもならないということです。しかし、もう一つ大切な点がありました。それは、ユダヤ人たちの信仰のあり方に問題があったということでした。それはパウロが繰り返し告げております、律法を守るという自分の善き業によって神様に義とされる、救いに至るというあり方そのものが間違っていたということでした。

3.熱心な信仰
 ユダヤ人たちの信仰の熱心は、大変なものでした。パウロはそのユダヤ教の中でも最も熱心なファリサイ派というグループにおりましたから、その熱心さということはよくよく分かっておりました。とにかく生活の隅々にまで律法を張り巡らし、一挙手一投足に至るまで律法に従っていこうとするものでした。しかし、パウロは「その熱心が救いに至らせるわけではない」ということを告げます。それは、パウロ自身、ファリサイ派のユダヤ教徒として歩み続けていましたけれど、律法を守るということで救いに至ったかというと、そうではなかったからです。ただ復活のイエス様に出会って、一切の罪を赦していただき、神様の徹底的な愛を知らされ、救われた。神様と共に生きる者とされました。神様との親しい交わりの中に生きる者とされました。このことがありましたから、パウロははっきりと「熱心で救われるわけではない」と明言することが出来たわけです。9章31節「イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。」と告げているとおりです。ユダヤ人たちは熱心でした。しかし、それは正しい認識、正しい理解に基づくものではなかったとパウロは言います。だから、その熱心は無駄になってしまったと言うのです。
 熱心な信仰は、良いものです。しかし、熱心な信仰というのは、傍から人が見てそのように言うのであって、自分で自分の信仰は熱心だなどと思うものではないでしょう。自分で「熱心な信仰者だ」と思う人がいれば、それは自分の熱心さに酔っているのであって、神様に心が向いているわけではありません。そもそも、私共は自分の信仰が熱心であるかどうかなど、あまり気にしたこともないでしょう。それが当たり前だと思います。私共の信仰というものは、神様を見上げて、神様の言葉に従って、出来ることを出来るように精一杯為していくだけのことですから。
 ただ、この信仰の熱心というものは、自分はこれだけやっているのだから大丈夫だ、救われるはずだという安心を与える。そういう面があります。これが中々くせ者です。いつの間にか「熱心」であるということが、自分の救いを保証するかのように勘違いしてしまうのです。この勘違いは、よく起きます。教会の歴史においても、宗教改革によって「信仰のみ」ということを旗印にした教会であっても、いつの間にかこの熱心さの虜になって、自分の善き業に頼るということが起きました。これはいつでも起きることです。気をつけなければなりません。私共を救ってくださるのは、イエス様の十字架だけ。私共に誇るところなどありません。それで良いのです。「神様の選びによる救いの確信」というところが弱くなってきますと、自分の熱心によって救いの確信を得ようとすることが起きるのでしょう。しかし、この熱心による安心というものは、必ず破綻します。人は熱心でいられなくなる時を必ず迎えるからです。病気や老いというものによって、若くて元気であった時のような様々な奉仕が出来なくなる、そうすると熱心による安心が揺らいでしまうということになってしまいます。それは実に不健全な信仰のあり方です。

4.神の義と自分の義
 私共は神様に義としていただくのであって、自分で義となるのではありません。3節で、ユダヤ人たちについて、「神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」と言われていますが、「神の義」というのは、神様が罪人である私共を義としてくださるということです。「神の義」とは与えられるものです。一方、「自分の義」とは、自分が律法を守って義となることです。人は自分の義では救いに与ることが出来ません。完全に神様の御心に従い、律法を守ることなど誰にも出来ないからです。しかし、そのような私共のために、神様は「神の義」によって私共に救いへの道を開いてくださいました。それがイエス様の十字架です。神様は、その独り子を天から降らせ、人間として生まれさせ、私共すべての罪人の身代わりとして十字架の裁きを受けさせられました。ここに、神の義の道が開かれました。神の義の道は、ただイエス様を「我が主・我が神」として受け入れるだけで、イエス様の十字架を自分の十字架としていただけるという道です。これが「信仰のみ」によって救われるということです。
 ユダヤ人たちは、神様に選ばれて律法を与えられておりました。そのことを、この律法を真面目に真剣に守ることによって神様に従い、神様に義とされるのだと受け取ったわけです。パウロは、それが間違いだった、それが誤解だったと言うのです。では、律法は何の意味があり、神様はどうして律法を与えられたのでしょうか。律法は、神様の御心を示したものです。つまり、律法というものは元々、神様の私共への愛の言葉でした。ですから、それを喜んで受け入れ、感謝と喜びをもって応えていけば良かったわけです。また、それが十分に出来ない時には神様に赦しを乞い、神様との愛の交わりに生きれば良かったのです。ところが、律法を日々の生活に適応して細かく細かく規定し、これを守っていれば罰せられない、義とされるはずだ、そういうところに立ってしまったわけです。そしていつの間にか、その自分たちが作った覚えられないほど沢山の規定を守ることが目的になってしまったのです。
 ちょっと卑近な例になってしまうかもしれませんが、夫婦の関係で考えると分かりやすいと思います。例えば妻が夫に、「子どもが生まれて、今ちょっと大変だから、なるべく早く帰ってきて。」と言ったとします。健やかな夫婦の関係でしたら、「分かった。なるべく早く帰ってくる。」と答えて終わります。そして、仕事が終わるとすぐに帰ってくる。ところが、この関係が健やかでありませんと、「なるべく早くって何時に帰れば良いの。残業があった場合はどうするの。決まった時間に一分でも遅れたらダメなの。電車が遅れたらどうするの。それもダメなの。」と言ったりします。この会話は変だな、これはダメだなと思われるでしょう。自分の義を立てようとするというのは、こういうことなのです。大切なことは、夫婦の関係が健やかな愛の交わりであるということであり、与えられた子どもを健やかに育てるということのはずです。ところが、自分は悪くない、自分はちゃんとやってる、そこに心が向いてしまう。これは愛の交わりとしては健やかではありません。自分の義を立てる律法主義というは、こういうことなのです。

   5.律法の目標・終わり・成就・完成=イエス・キリスト
律法は良いものです。でも、律法を守ることにばかり心が向いてしまって、本来の、神様との愛の交わりに生きるということが分からなくなってしまった。そこで、律法を与えられた神様がイエス様を与えられたわけです。
 4節で「キリストは律法の目標であります」と告げられています。「律法の目標」と訳されている言葉は、直訳すれば「律法の終わり」となります。この「終わり」という言葉には、目標、成就、完成という意味もあります。それぞれ、訳し方によってニュアンスが違ってきますけれど、それぞれの訳し方によるニュアンスを重ねて受け取るのが良いでしょう。
 「終わり」と訳すならば、律法によって義とされる時代はイエス様の到来によって終わったと読めます。「成就・完成」と訳すならば、律法を完全に実行出来た人は誰もいなかったわけですけれど、イエス様は律法を完全に成就した方、完璧に実現された方というように読めるでしょう。そして「目標」と訳すならば、律法が目指していたのはイエス様であり、イエス様によって与えられる神様との愛の交わりこそが、律法の目指すところであったと読めるでしょう。私は、どれも間違っていないと思います。ここでパウロが告げたかったことは、イエス様抜きには、律法が目指していたことも、律法を与えてくれた神様の御心も、きちんと受け止めることは出来ないということです。イエス様によってこそ、律法が与えられたことの意味をきちんと受け止められるということです。神様は私を愛してくださっている。神様は私を赦し、神様との愛の交わりに生きることを、隣り人との愛の交わりに生きることを求めておられる。そのことを受け止めないと、律法をちゃんと受け取ることが出来ないということなのです。

6.信じるすべての人は義とされる
では、律法の目標であるキリストによって、何がもたらされたのでしょうか。それは「信じるすべての者に義がもたらされる」ということです。そこには異邦人とか、ユダヤ人とかという区別はありません。ユダヤ人だけが律法を知っていて、それを完全に守る人だけが救われるという時代は終わった。イエス様によって新しい時代が始まった。それはイエス様を信じる者すべてが、神の子とされ、神の民とされ、神様との親しい愛の交わりに生きることが出来る時代です。ここで、民族という枠が超えられていく道が備えられました。ユダヤ教というのは、その名が意味していますようにユダヤ人の宗教です。ユダヤ教に改宗することなくユダヤ人になることは出来ません。ユダヤ人になるということはユダヤ教徒になるということです。しかし、キリスト教は違います。民族の壁を越えます。神様の救いが民族という枠を超えて広がるということです。そして、これは愛が広がるということでもあります。民族・国家という枠を超えて、愛が広がって行くのです。
 私はこのイエス様によって開かれた、信じる者すべてが義とされ、救われるという恵みの道に招かれて、本当に良かった、本当にありがたいと思っています。ただただ神様に感謝するばかりです。ただ信じるだけで救われたのですから、自らを誇ることなど出来ません。愛する人々もこの恵みに与って欲しいとただ願うばかりです。だって、もったいないですから。本当にもったいない。
 私共はただイエス様を我が主・我が神と信じるだけで、一切の罪を赦していただき、神の子としていただきました。神の民の一員として、神様の御業に仕えるという歩みへと導かれました。それまでの私共はどうだったでしょう。神様を知らず、永遠の命も知らず、愛も知らず、損だ、得だということにばかりに思いが向いておりました。人からどう評価されるか、そんなことにばかりに心が向いておりました。結局のところ、自分にしか関心がなかったのではないかと思います。しかし、イエス様の救いに与って、天と地を造られた神様に愛されていることを知り、変えられました。私の人生の意味は、神様の御心に従って行くこと、神様に与えられている恵みに感謝しつつ、神様を愛し、人を愛することであると知らされました。損得以上に大切なことを知り、愛の業に励みたいと願う者となりました。何を手に入れようと、何を手に入れることが出来なかろうと、そんなことはどうでも良くなりました。自由になりました。この自由な喜びを証しする者として、伝える者として、歩んでまいりたいと心から願うのです。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
あなた様は今朝、律法の目標であるイエス様によって救われ、新しい命に生かされていることを教えてくださいました。感謝します。私共はどこまでいっても罪人です。でも、あなた様はイエス様の十字架の故に、私共を赦し、愛し、御手の中に置いてくださっています。あなた様によって置かれたその場所で、精一杯、あなた様を愛し、あなた様に仕え、隣り人を愛し、隣り人に仕える者として歩ませてください。聖霊なる神様によって、あなた様の永遠の選びによって救われていることを、確信させてください。
 この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2022年3月13日]