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礼拝説教

「祭司の堕落」
サムエル記 上 2章12~26節
マタイによる福音書 6章19~21、24節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今日は3月最後の主の日ですので旧約から御言葉を受けてまいります。今朝与えられているのは、サムエル記上2章12節以下の御言葉です。ハンナには子どもがおりませんでした。ハンナは男の子が与えられるように、心を注いで神様に祈りました。その祈りは聞き届けられ、サムエルが与えられました。サムエルは乳離れすると両親のもとを離れ、主にささげられた者として祭司エリのもとで育てられます。そこまでが前回の所です。今朝与えられている御言葉はその次の所、小見出しは「エリに仕えるサムエル」となっております。しかし、サムエルことだけが記されているわけではありません。サムエルと対比するようにして、祭司エリの二人の息子のことが記されています。この二人については、1章3節に名前が記されています。ホフニとピネハスです。

  2.エリの二人の息子
 この二人について、今朝与えられている御言葉の冒頭でこう告げられています。12節「エリの息子はならず者で、主を知ろうとしなかった。」「ならず者」というのはすごい訳ですが、口語訳・新改訳も「よこしまな人々」「よこしまな者」と訳しております。「ならず者」と言いますと、素行が悪くて、手に負えない乱暴者といったイメージですが、「よこしまな者」と言いますと、やることや思うことが人間としての道を外れている者というイメージかと思います。具体的に彼らがしていたことは、この後に記されておりますけれど、「ならず者」「よこしまな者」の両方のイメージを重ねたような、ひどい者たちであったと考えて良いと思います。その根本に「主を知ろうとしなかった」ということがあるわけです。神様を知らず、知ろうとせず、神様を恐れない者。そして、やりたい放題のことをしていたということです。
 彼らが、町のならず者だったのならば、「いつの時代にも、どこにでもそういう人はいるでしょう。」ということで話は済むかもしれません。しかし、何と彼らは「祭司」だったのです。彼らの父は祭司エリでした。エリが高齢になっていたからかもしれませんけれど、祭司としてこの二人の息子が神殿で働き、不法なことをしていた。具体的にどんなことをしていたかと言いますと、大きく分けると二つです。第一には、神様に犠牲を献げるために人々が持ってきた肉を、神様に献げる前に自分が欲しいところを自分の物にしてしまっていたということです。祭司が献げ物の一部を受け取ることは許されていました。しかし、その場合は、その部位も決まっていましたし、焼いた後でということも決まっていました。しかし、彼らは最初に自分が欲しいものを取り、残り物を神様に捧げるようにしていたということです。それも下働きの者たちを使って、逆らうことは許さないといった態度でしていたのです。このことについて17節で、「この下働きたちの罪は主に対する甚だ大きな罪であった。この人々が主への供え物を軽んじたからである。」と聖書が告げるのは当然だろうと思います。
 第二に22節にありますように、「臨在の幕屋の入り口で仕えている女たちとたびたび床を共にして」いたということです。神殿に仕えている女性と性的不品行を行っていたということです。まことにひどい話です。彼らは神殿で神様に仕える祭司ですから、彼らの行状は単に二人の罪ということに留まらず、礼拝の崩壊、神の民と神様との関係の歪み、ということになりました。

3.祭司の責任
 ここで、私共は祭司の責任ということを考えないではおれません。祭司とは、神様と人間との間に立って、人間の罪の赦しを求め、執り成しをし、神様と人との関係が健やかなものであるために役割を果たす者でしょう。その祭司が神様の御心を無視し、自分の欲に引きずられ、自らの務めを軽んじ、為すべき役割を果たさなかったとすれば、そこで神様と神の民との関係が破綻してしまうのは当然のことです。何ということかと思います。この二人は、祭司としての責任をきちんと受け止めることが出来なかったのです。神様を知らず、知ろうともせず、恐れてもいないのですから、当然といえば当然です。そもそもこのような者が祭司であるということが間違いだったということでしょう。しかし、どうして彼らは祭司になっていたのでしょう。理由は一つしかありません。父親が祭司エリだったからです。
 祭司エリはこの二人の息子がしていることを知らなかったわけではありません。23節以下を見ますと、エリは「彼らを諭した。『なぜそのようなことをするのだ。わたしはこの民のすべての者から、お前たちについて悪いうわさを聞かされている。息子らよ、それはいけない。主の民が触れ回り、わたしの耳にも入ったうわさはよくない。』」と言っています。祭司エリは二人の息子のしていることを知っていました。そして、二人を諭しもしました。しかし、二人の息子は、その父親の言葉に耳を貸すことはありませんでした。
 このような記事を読みますと、「子育ての失敗」という言葉が頭に浮かびます。「子育ての失敗」という言葉は、誰もが身につまされる言葉です。自分の子はどうかと思いますと、胸を張れる人はそうはいないかもしれません。親の思いどおり、願いどおりに子が育つなんてことは、めったにあるものではありません。祭司エリだって、こんな子に育てようと思っていたはずがありません。しかし、こうなってしまった。何とも辛いことです。しかし、この祭司エリの二人の息子ホフニとピネハスの問題は、単に子育ての失敗ということではなくて、もっと重大なことはこの二人を祭司にしてしまったというところにあるのではないでしょうか。立派な祭司の息子が立派な祭司になるとは限らない。それなのに、ただ祭司の息子であるということで祭司にしてしまった。ここに一番の問題があると私には思えます。

   4.血筋によらず、世襲にあらず
 神様と神の民の関係が健やかであるために立てられる祭司。それは、旧約においては血によるつながり、世襲という形で行われました。いわゆる「アロンの家系」によって祭司職は担われてきたわけです。世襲というのは、何時の時代でも世界中どこでも行われている、最も安定した、継続可能なシステムと言えるかもしれません。受け継ぐものが芸事であったり、固有の技術であったり、家業であるならば、それも良いでありましょう。しかし、信仰において世襲はありません。それはただ神様の選びによって受け継がれていくものです。世襲制度は必ず堕落します。何代にもわたって相応しい者がその家に与えられるということなどありません。ですから、長い間には必ず堕落します。
 このエリの二人の息子の場合は、とても分かりやすい。今で言えば、金と女で道を踏み外したということです。そもそも、信仰が無いのですから、話になりません。キリストの教会はこのような過ちを犯さないために、教師を立てるための制度というものを整えてきました。勿論、人間のやることですから、制度をいくら整えても、必ずうまくいく、その制度がきちんと機能するとは限りません。しかし、ローマ・カトリック教会が教職の独身制というものを大事にしてきた理由の一つは、教職の世襲を根絶することにありました。また、私共福音主義教会においては、牧師は独身ではありませんけれど、世襲というものは徹底して排除してきました。牧師の子が牧師になることはあります。しかし、同じ教会の牧師になるということは、原則ありません。まして、跡取りのように、牧師が亡くなってその子どもが跡を継ぐということはありません。そこで厳しく問われるのは「召命」ということです。神様に牧師・伝道者として召されたのかどうかということが、厳しく問われます。私共日本基督教団においては、教師が立てられるために教師検定試験というものが行われていますが、このプロセスで最も大切なことは「召命」の確認ということです。これは当然のことですけれど、とても大切な点です。試験の点数が良ければ合格するということではありません。もっと大切なこと、もっと根本的なことがあります。それが神様の選びであり、神様による召命という出来事です。これは出来事ですから、「牧師になりたいと思う」ということとは全く違います。なりたくなくても、神様に召されたならば、ならなければなりません。この召命が曖昧ならば、牧師・伝道者として立つことは決して許されません。それは神様を侮ることだからです。

  5.サムエル
 さて、この祭司エリの二人の息子と対比するように記されているのがサムエルです。2章においては4箇所、サムエルについて記されています。11節「幼子は祭司エリのもとにとどまって、主に仕えた。」ここで「幼子」と言われているのがサムエルです。そして、18節「サムエルは、亜麻布のエフォドを着て、下働きとして主の御前に仕えていた。」、21節「少年サムエルは主のもとで成長した。」、更に26節「一方、少年サムエルはすくすくと育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった。」とあります。サムエルがエリのもとに預けられたのは2~3歳の頃です。その後、母のハンナには5人の子が与えられていますので、10年近くの時が流れたと考えて良いでしょう。サムエルは幼子から少年に成長していきます。その間、「主に仕え」「主の御前に仕え」「主のもとで成長し」「主にも人々にも喜ばれる者となった」のです。この「主にも人々にも喜ばれる者となった」は、口語訳・新改訳では共に「主にも、人にも、愛せられた」と訳しています。サムエルは、主に仕え、主のもとで成長し、神様にも人にも愛される者となりました。サムエルは祭司の息子ではありません。名だたる家系の者でもありません。しかし、神様はサムエルを選び、神様の御心を伝え、神様の御業を為す者となるように育まれたのです。その後、サムエルはイスラエル全体に神様の御心を示す預言者・祭司・指導者として立てられていくことになります。神様がサムエルを選び、育み、立てていかれたからです。

6.二人の結末
 エリの二人の息子、ホフニとピネハスはその後どうなったでしょうか。25節の最後に「主は彼らの命を絶とうとしておられた。」と記されています。そして、27節で「神の人」(=これは人間の姿をした天使と考えて良い)が祭司エリの所に来てエリに告げます。29節「あなたはなぜ、わたしが命じたいけにえと献げ物をわたしの住む所でないがしろにするのか。なぜ、自分の息子をわたしよりも大事にして、わたしの民イスラエルが供えるすべての献げ物の中から最上のものを取って、自分たちの私腹を肥やすのか。」この言葉を聞いたエリは辛かっただろうと思います。神様の罪の告発は、二人の息子たちに対してだけではなく、祭司エリにも向けられています。特に「自分の息子をわたしよりも大事にして」という言葉は、耳にも心にも痛かったことでしょう。我が子を神様より大事にしてしまう、それは我が子を偶像にしてしまうことになる。ここまで言われても、本当のことですから、エリは何のいいわけも出来ません。我が子のことです。どこで間違ってしまったのか、どうしてこんなことになってしまったのか、そんな後悔もあったでしょう。
 そして、34節「あなたの二人の息子ホフニとピネハスの身に起こることが、あなたにとってそのしるしとなる。二人は同じ日に死ぬ。」と告げられます。二人の息子が、神様の裁きによって同じ日に死ぬことが告げられるのです。そして、この「神の人」の言葉はイスラエルとペリシテとの戦争において実現してしまいます。それが4章に記されています。ペリシテ軍とイスラエル軍が戦い、イスラエルの旗色が悪くなります。そこで、イスラエルはシロに人をやって、十戒を記した二枚の石の板の入った「契約の箱」を運んできました。これさえあれば勝利は間違いなし。イスラエルはそう思いました。この時「契約の箱」を運んできたのがホフニとピネハスでした。しかし、「契約の箱」を持ってきてもイスラエルはペリシテに敗北してしまいます。ホフニとピネハスは死に、「契約の箱」はペリシテに奪われてしまったのです。そして、このことが祭司エリに報告されます。「契約の箱」が奪われ、二人の息子は死んだと知らされた祭司エリは、その場で死んでしまいました。エリは40年間イスラエルを裁きましたが、その晩年はまことに辛いものとなりました。

7.神様が備える「次」
 しかし、神の人の言葉はこれで終わってはいません。35節「わたしはわたしの心、わたしの望みのままに事を行う忠実な祭司を立て、彼の家を確かなものとしよう。彼は生涯、わたしが油を注いだ者の前を歩む。」と告げます。「わたしはわたしの心、わたしの望みのままに事を行う忠実な祭司を立て」るとは、サムエルが祭司として立てられることを指しています。そして、「彼は生涯、わたしが油を注いだ者の前を歩む」と言われます。「わたしが油注いだ者」とは、ダビデ王のことです。サムエルとダビデによって導かれるイスラエルの将来を告げるのです。確かに、ホフニとピネハスはひどいものでした。二人の父であった祭司エリについても、問題があったでしょう。祭司がこういう状態では、イスラエルの民の心は神様から離れ、信仰も冷え切ってしまったのではないでしょうか。しかし、それで終わりではありませんでした。サムエルが祭司エリを受け継ぎ、ダビデ王が現れる。神様の御手の中にある救いの歴史は、人間の愚かさや罪によってすべてがダメになったりはしません。たとえホフニとピネハスのような者が現れたとしても、それですべてが終わってしまうようなことにはなりません。神様によって、御心に適った次の者が立てられていく。そのようにして神様の救いの歴史は前進していきます。だから、諦めなくて良いのです。

8.神と富とに仕えることは出来ない
 さて、イエス様は「富は、天に積みなさい。あなたの富のあるところに、あなたの心もある。」と告げ、また「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と告げられました。ホフニとピネハスは祭司でありながら、富に仕えてしまいました。堕落してしまったわけです。富の誘惑は大きいものです。ですから私共は、「富は天に積み、神様に仕える」という一点に立ち続けることです。イエス様は「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と言われました。「神と富とに仕えてはいけない。」と言われたのではありません。「できない」と言われました。神様に仕えるならば、私共は富に仕えることは出来ないのです。神様に仕えれば、富には仕えることは出来ない、富の誘惑から解き放たれるということでしょう。素敵なことです。
 これは、牧師に対してだけ言われていることではありません。すべてのキリスト者に対してです。「私は祭司じゃないので、牧師じゃないので大丈夫です。」そんなことは言えません。私共福音主義教会においては、すべてのキリスト者は祭司です。自分の救いだけを求めるのではありません。すべてのキリスト者は、隣り人の救いのために祈り、神様の救いの御業・愛の業に仕えます。ですから、私共はホフニとピネハスにならないよう、富に仕えることが出来ないように、心から主に仕えてまいりましょう。そうすれば私共は守られます。

9.唯一の大祭司がおられる
 そして、もう一つ大切なこと。それは、私共の救いはただ独りのまことの大祭司にかかっているということです。私共の救いは、ホフニとピネハスのような、人間の祭司によってもたらされるわけではありません。人間の祭司、私共の場合ですと牧師或いは長老と言い換えても良いですが、それによって救われるのではないということです。牧師も長老も堕落することはあります。過ちを犯すこともありましょう。勿論、あってはならないことですけれど、残念なことですがそういうことは起きます。二千年の歴史の中では、色々なことがありました。これでも教会かというほどに堕落したこともありました。今もあります。しかし、私共には唯一の大祭司、主イエス・キリストがおられます。この方は堕落することはありません。まことの神の御子だからです。そして、この方の十字架と復活による救いの御業が無効になることはありません。私共の救いはただこの方に拠っています。ここを見失わないことです。人間も、制度も、堕落する。こんなはずじゃなかった。そういうことが起きる。そして、そういうことに出くわしますと、私共の心は散り散りに砕け、神様も教会も信じられないという思いになります。そして、しばらく立ち直れない程に落ち込みます。或いは、信仰につまずくということだって起きます。私は何度もそんな話を聞いてきました。しかし、そのようなことが起きたとしても、私共の救いは微動だにしない。それは確かなことです。なぜなら、私共は「ただイエス様によって」救われるからです。ですから、何があっても安んじて、「富は天に積み、神様に仕える」、そこにしっかり立ち続けてまいりたいと思うのです。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 今朝、あなた様は御言葉を通して、人間の罪と愚かさ、そしてそれによっても揺らぐことのない、あなた様の救いの御業について知らされました。地上にあっては、「どうしてこんなことが。」と思うようなことが起きます。どこにあなた様の御心があるのか、分からなくなるようなこともあります。しかし、イエス様の十字架の救いは、人間のどんな罪と愚かさによっても微動だにすることはありません。ですから、どんな時にも安んじて、あなた様の御前に為すべきことを誠実に為していくことが出来ますよう、私共に聖霊なる神様による信仰と力と勇気と愛と平安とを与えてください。
 この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

               

[2022年3月27日]