日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

イースター記念礼拝説教

「なぜ泣いているのか」
詩編 30編2~6節
ヨハネによる福音書 20章11~18節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
イエス様の御復活を喜び祝い、イースター記念礼拝を捧げています。今朝与えられている御言葉は、イエス様が金曜日に十字架にお架かりになり、安息日が終わって、週の初めの日の朝の出来事です。マグダラのマリアはまだ暗いうちにイエス様の墓に行きました。イエス様は金曜日の午後3時に十字架の上で死なれました。それから、アリマタヤ出身のヨセフというイエス様の弟子がイエス様の御遺体を引き取りたいとピラトに申し出て、十字架から取り降ろし、墓に葬りました。ヨハネによる福音書は、この時、かつてある夜にイエス様を訪ねたことのあるニコデモも一緒であったと記しています。この時期のエルサレムにおける日没の時刻はだいたい午後7時です。日没から安息日が始まってしまいますので、彼らには時間がありませんでした。ですから、丁寧にイエス様を葬る暇(いとま)はありませんでした。マグダラのマリアたちは、アリマタヤのヨセフの後について行き(ルカによる福音書23章55節)、イエス様の御遺体を葬った墓の場所を確認しておりました。そして、マリアは安息日が明けた週の初めの日のまだ暗いうちに、イエス様の墓へと向かったのです。イエス様の墓に着いたマリアが目にしたのは、墓の入り口を塞いであった石が取りのけてあり、既にイエス様の御遺体は墓の中にないという状態でした。彼女はイエス様の弟子たちの所に走ります。そして、自分が見たことを弟子たちに伝えました。それを聞いてペトロとイエス様が愛しておられたもう一人の弟子が、イエス様の墓に走りました。そして、この二人もマリアと同じように、イエス様の墓が空になっているのを見ました。そして、この二人の弟子は家に戻りました。マリアはその場に残り、空になってしまったイエス様の墓の前に立って泣いていました。

2.泣いているマグダラのマリア
 マリアは、愛する者が死んでしまい、しかもその遺体がなくなり、それを葬ることも出来ない。何が起きたのかも分からず、ただ途方に暮れ、泣くしかなかった。そういう状態だったのではないかと思います。
 この丸2年間、私共はコロナ禍の中を歩んで来ました。コロナに感染して亡くなった人には、家族さえ遺体に触れることは許されません。また、感染していなくても、施設や病院でだんだん弱くなっていく中で、家族と自由に面会することも出来ない中で亡くなっていく人もたくさんいました。その状況は今も続いています。また今は、2月24日ロシアがウクライナへ侵攻して以来、毎日多くの人が亡くなっている状況が伝えられています。そこでは、このマリアと同じように、ただ泣くしかない多くの人々がいることを知らされています。何が起きたのか、どうすれば良いのか分からず、ただ泣くしかない。私共はそのような現実に、否応なく向き合わされることがあります。この時のマグダラのマリアは、そんな私共と重なります。

3.マリアに告げられた言葉(1)なぜ泣いているのか
泣くしかない。そんなマリアが空になったイエス様の墓の中を再び見ると、そこには「白い衣を着た二人の天使」がいました。そして、彼らはマリアにこう告げるのです。「婦人よ、なぜ泣いているのか。」(13節)何と無神経な言葉でしょう。愛する者を亡くした者にこんな言葉をかける人なんていません。そう、人間でこんな言葉を言える人などいません。マリアにこの言葉を告げたのは天使です。天使は人間じゃないので、こんな無神経な言葉を告げることが出来たのでしょうか。そうではありません。
 この言葉は、マリアが泣いている理由を知りたいから告げられた言葉ではありません。そうではなくて、「あなたが泣いているのは、あなたの愛するイエス様が死んでしまい、しかも遺体がなくなってしまったからでしょう。しかし、イエス様は復活されました。しかも、イエス様は今、あなたの後ろにいますよ。ですから、あなたが泣く理由なんてありません。」そういう意味でした。でも、マリアは天使のこの言葉がそんな意味だとは全く分かりません。そもそも、マリアは天使に出会っても、この時少しも驚いてもいなければ、恐れてもいません。自分の目の前の現実を整理して受け取れる状態ではなかったのでしょう。そして、マリアは天使に、「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」(13節)と言うばかりです。イエス様が復活したなんて、これっぽっちも思っていません。確かに、イエス様は御自身が「十字架に架けられて死ぬこと、そしてその後で復活すること」を何度も予告しておられました。しかし、実際にイエス様が十字架の上で死んでしまわれると、復活することを期待する者など弟子の中には一人もおりませんでした。それほどまでに、死というものは私共にとって絶対的なものです。いつの時代でも、人は「死んだらおしまい」と思ってきました。それが常識であり、それを疑う人なんていません。実際、死んで生き返った人など一人もおりません。マリアもイエス様の弟子たちもそう思っておりました。

4.マリアに告げられた言葉(2)誰を探しているのか
 この時、マリアは後ろを振り向き、復活されたイエス様を見ます。そして、復活されたイエス様がマリアに声を掛けます。天使がマリアに掛けた言葉と同じです。「婦人よ、なぜ泣いているのか。」イエス様はここで天使と同じように「わたしは復活した。あなたが探している遺体なんて、あるはずがない。わたしはここにいるのだから。だから、あなたが泣く理由なんてない。」そう言われたのです。でも、マリアはこのイエス様の言葉の意味も分かりません。そして、マリアは、自分に声を掛けたのがこの墓場の管理人だと思って、こう言います。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」マリアがどんなにイエス様を慕っていたかうかがわせる言葉です。でも、どうしてマリアは復活されたイエス様を見ても、それがイエス様だと分からなかったのでしょうか。
 イエス様の姿が昇ってくる朝陽に対して逆光になってしまって、まぶしくてイエス様がよく見えなかった。そう説明する人もいます。そういうこともあったかもしれません。しかし、マリアはこの時、はなからイエス様の復活なんて考えておりませんでした。イエス様は死んでしまって、もう終わってしまったと思い込んでいたわけです。そのマリアに復活されたイエス様は「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを探しているのか。」と言われました。「だれを探しているのか。」これは「あなたが探しているのは誰なのか。神の御子ではないか。なのに、どうして墓の中に遺体があるはずだと思い込んでいるのだ。神の御子であるキリストは、死に打ち勝つ方ではないのか。ラザロを復活させたことを忘れたのか。」そういう意味でマリアに言われたのでしょう。イエス様が誰であるのか、そのことをはっきり弁えないならば、このイエス様の復活という出来事を受け止めることは出来ません。その逆も言えるでしょう。イエス様の復活を信じられたのならば、イエス様が誰であるのかも分かる。イエス様が「神の独り子」であられること。「まことの人であり、まことの神」であられること。このことを信じ受け入れなければ、この復活の出来事を信じることは出来ません。そして、このイエス様の復活の出来事によって与えられる永遠の命の希望も分からないでしょう。

5.マリアに告げられた言葉(3)マリア
 そのようなマリアに対して、復活されたイエス様は「マリア」と名前を呼びます。この呼びかけによって、今までこの墓の管理人だと思っていた人がイエス様であることがマリアにもはっきり分かりました。そしてマリアは振り向いて、復活のイエス様に対して、先生という意味のヘブライ語である「ラボニ」と言って答えたのです。「マリア」そして「ラボニ」。これはイエス様とマリアとの間で交わされていた、いつもの呼びかけとそれに対する返事だったのでしょう。イエス様はマリアを名前で呼びました。そして、マリアはイエス様に「先生」と答えました。「マリア」、「ラボニ」。これはイエス様とマリアとの一対一の関係を示しています。マリアは自分の名前がイエス様に呼ばれて、イエス様はここにおられる、イエス様は生きておらる、私と共におられる、イエス様は死んで終わりではなかった、そのことがはっきり分かりました。イエス様によって自分の名前が呼ばれる。このことが決定的に大切です。このことによって、私共に復活されたイエス様との交わりが与えられるからです。この復活のイエス様との交わりが与えられた者、それがキリスト者です。イースターの朝、マリアは復活のイエス様と最初に出会いました。その意味で、マリアは最初のキリスト者となりました。
 私共は主の日のたびごとに、私共に対するイエス様の呼びかけを聞きます。説教が神の言葉と言われるのは、そういうことです。聖書の言葉を通して、私に語りかけてくださる神様の言葉、イエス様の言葉を聞く。不思議なことです。説教を語っているのは牧師です。しかし、牧師の言葉以上の言葉を聞く。私に対する、このようにしなさい、或いはこうしてはいけない、更に、わたしはあなたを愛しています、あなたのすべての罪を赦します、新しく歩み出しなさい等々、神様の、イエス様の言葉を聞く。不思議なことですけれど、このことが主の礼拝において起きる。そのことによって、神様の救いの出来事が起き続けてきました。今日、一人の姉妹が洗礼に与ります。それは、この姉妹の上にもこの出来事が起きたということです。そして、洗礼を受けるということは、これからずっとこの神様の語りかけ、イエス様の語りかけを聞き続けていく者となるということです。神様・イエス様との交わりの中に生きて行くということです。

6.マリアに告げられた言葉(4)わたしにすがりつくのはよしなさい
 マリアは復活されたイエス様に出会って、そのイエス様にすがりつこうとしたのでしょう。本当にイエス様なのかどうか、自分のこの手で触れ、確かめたい。そうしたら、イエス様が復活されたということが、もっとはっきり分かる。その気持ちはとてもよく分かります。しかし、イエス様はそのマリアをたしなめるように、「わたしにすがりつくのはよしなさい。」と告げられます。それは、どうしてだったのでしょう。この復活のイエス様の言葉は何を意味しているのでしょうか。それは、こういうことではないかと思います。イエス様はこの後、40日後に天に上られ、それから更に10日後に聖霊を弟子たちに注がれます。それからは、イエス様は聖霊として弟子たちに臨まれることになります。聖霊としてということは、ガリラヤで弟子たちと出会って以来、十字架に架けられて死ぬまで、イエス様は肉体をもって弟子たちと共におられましたけれど、それからは手で触り、直接目で見るようなあり方ではなく、弟子たちの上に臨まれるということです。マリアは復活のイエス様と、今までと同じように、自分の手で触れるようなあり方での交わりが続くと思ったのでしょう。けれどイエス様は、そうではない、新しいあり方での交わりを与えられたということだったのではないでしょうか。
 私共はイエス様を見たことがありません。イエス様に触れたこともありません。直接、言葉を聞いたこともありません。それが出来れば良いのにとは思いますけれど、それは出来ません。私共に与えられているのは、御言葉を通しての、御言葉によっての、イエス様との交わりです。これを「信仰による交わり」と言っても良いでしょう。復活のイエス様と出会ったマリアは、イエス様が誰であり、イエス様が生きておられ、共におられることが分かりました。そうであるならば、マリアは新しいあり方でのイエス様との交わり、信仰による交わりへと歩み出さなければならなかったのです。見えなくても、触れることが出来なくても、イエス様が共にいてくださることを確信して、御言葉を聞いて、イエス様を愛し、信頼し、従って行く交わりに生きる。それがマリアに与えられた、そして私共に与えれているイエス様との新しい交わりのあり方でした。

  7.マリアに告げられた言葉(5)伝えなさい
 さて、イエス様はこのマリアに一つのことをお命じになりました。イエス様はマリアにこう告げます。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」マリアは他の弟子たちに、復活されたイエス様の伝言を伝えるようにと命じられました。その伝言は、復活されたイエス様からの伝言なのですから、マリアが復活されたイエス様に出会ったということを伝えることでもありました。18節「マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、『わたしは主を見ました』と告げ、また、主から言われたことを伝えた。」とあるとおりです。復活のイエス様と出会った者は、そのことを伝えていきます。イエス様の復活の証人として歩むことになります。それがマリアに与えられた新しい歩みであり、私共に与えられている歩みなのです。

8.泣いている世界に
 イエス様の十字架の死、そしてイエス様の遺体が見当たらないという現実を前に、ただただ泣くしかなかったマグダラのマリアでした。しかし、そのようなマリアに復活のイエス様は御姿を現し、「マリア」と声を掛けられました。そして、イエス様はマリアの目から涙を拭ってくださいました。イエス様は、この復活によって、肉体の死がすべての終わりではないことを示されました。このイエス様の復活の出来事は、マリアと同じように泣くしかない状況にあるすべての者の涙を拭う力があります。
 私共は、天使やイエス様のように、「なぜ泣いているのか。泣く必要なんてない。」そんなことを言うことは出来ません。しかし、復活のイエス様が、今は泣くしかない現実を前に、呆然とし、これからのことなど考えることも出来ない人たちと、確かに共にいてくださっているということを信じます。そして、復活のイエス様が、その一人一人に声を掛け、再び生きる力と勇気を与えてくださることを信じます。だから、私共は祈るのです。その人々のために祈るのです。諦めずに祈る。
 キリストの教会は、その長い歴史の中で、ただ泣くしかないような時を何度もくぐり抜けて来ました。そのたびに、キリストの教会は復活のイエス様と共に歩むことによって、生きる力と勇気を与えられ、歩み続けてきました。「ああ、もうダメだ。これですべてが終わってしまった。」としか思えない現実のただ中に、復活のイエス様はおいでくださり、御言葉を与えてくださる。「大丈夫。何も終わってなんかいない。復活の命がある。わたしはここにいる。わたしと共に歩もう。御国に向かって歩もう。大丈夫。」そう語りかけられて、キリストの教会は、代々の聖徒たちは歩み続けてきました。私共も今朝、この復活のイエス様の御声を聞いて、ここから新しく歩んでまいりたいと思います。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
今朝、あなた様はイエス様の御復活を喜び祝う礼拝を私共に捧げさせてくださいました。感謝いたします。イエス様が復活されたとの聖書の言葉を通して、復活のイエス様が今も生きて働いてくださり、私共と共にいてくださり、復活の命の希望の中に生きる者としてくださることを教えてくださいました。どうか、涙するしかない者たち一人一人に、復活のイエス様が御言葉をもって語りかけてください。イエス様の御手の中にある明日を信じての、御国への歩みを支えてください。そして、涙を拭ってくださり、そこから新しく生きていく力と勇気とを与えてください。
 この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2022年4月17日]