日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「助けは天地を造られた主から来る」
詩編 121編1~8節
コリントの信徒への手紙二 6章1~2節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今日は、礼拝後に2022年度の定期教会総会が開かれます。この定期教会総会が開かれる日は、その年の教会聖句から御言葉を受けることになっています。4月3日の週報から表紙に印刷される聖句が、今年の聖句に替わっています。今年の教会聖句である詩編121編の2節の御言葉、「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」が印刷されています。
 詩編121編は1節に「都に上る歌。」とト書きがあります。同じト書きが詩編120編~134編の15の詩編にあり、この15の詩編が「都に上る歌」という一つのまとまりとなっているのです。律法には、エルサレムの神殿に年三回詣でるようにと記されておりました。過越の祭、七週の祭り、仮庵の祭の三回です。勿論、みんな歩きですから、何日もかけてエルサレム神殿に来るわけです。遠くからは、ディアスポラと言われる地中海沿岸に点在していたユダヤ人の町から来る人もいました。イエス様が十字架にお架かりになったのは「過越の祭」でしたし、弟子たちに聖霊が注がれたペンテコステの日は「七週の祭り」の時でした。ですから、イエス様が十字架にお架かりになった時も、聖霊が弟子たちに降った日も、エルサレムには沢山の人が来ていたわけです。この巡礼の旅というのは、一人旅ということはあまりありません。同じ村の人たちがグループになったり、或いは家族・親族でグループになったりして旅をしました。その旅の途中で歌われたのが、この「都に上る歌」です。皆でこれらの歌を歌いながら旅をしました。皆で歌を歌いながら歩いて行く旅は、楽しいものだったと思います。
 聖書は、神の民の歩みを旅にたとえます(ペトロの手紙一2章11節)。そもそも神の民は、父祖アブラハムが神様に召し出され、神様の示される地へと旅を始めたところから始まりました。そして、モーセによって導かれてエジプトを脱出したイスラエルは、シナイ山で十戒をいただき、神様と契約を結びました。そして40年間、荒れ野の旅を続けて、約束の地に入りました。私共も御国に向かって旅を続けている者です。その旅は一人旅ではありません。私共は愛する兄弟姉妹と共に、御国に向かって旅を続けて行きます。

2.目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
この歌が歌われた場面を、このように想像する人がいます。エルサレム神殿に向かう巡礼者たちが、エルサレムの町がありエルサレム神殿があるシオンの山々を仰ぎ望む所まで来たとき、その中の誰かが「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。」と歌いだします。すると誰かが「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」と応える。それから皆で賛美が始まる。「どうか、主があなたを助けて 足がよろめかないようにし まどろむことなく見守ってくださるように。…」と。確かにそんな感じだったかもしれません。楽譜というものは、この詩編が歌われていた時代にはありませんでしたので、詩編が歌われるものであったことは確かですけれど、どんなメロディーだったのか、どんな掛け合いで歌われたのか、それは全く分かりません。分かりませんので、こんな風に想像することも許されるでしょう。
 この詩編121編は、「都に上る歌」の中で一番有名なものではないかと思います。私共は別所梅之助という青山学院大学の神学部の先生が作りました現行讃美歌の301番、私共が使っている讃美歌21では155番の讃美歌として親しんでいます。♫山辺に向かいて我 目をあぐ♫という讃美歌です。私もこの讃美歌は好きなのですけれど、ただ、別所先生は「山辺に向かいて我 目をあぐ」としましたが、「山辺」というのはこの詩編が告げている「山々」とは違うのではないか、という議論があります。「山辺」という日本語は、「山の麓」を指す言葉です。それに、石川啄木の「ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」という歌に通じるような、日本人の心の風景にある山、富山の人にとっては立山でしょうけれど、そのような山をイメージさせてしまうのではないか。しかし、この詩編の詩人が目を上げて仰いでいる山々は、私たちの心の風景にある山ではなく、エルサレムがありエルサレム神殿がある山のことだ、と言うのです。この歌が「都に上る歌」であることを考えるならば、そういうことになるでしょう。だから「わたしの助けはどこから来るのか。」へと繋がりますし、更に「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」へと繋がっていくわけです。

3.わたしの助け
 この詩編の詩人は明確に、自分が「助け」を必要としていることを自覚しています。巡礼の旅は気心の知れた者たちとの楽しい旅ではありますけれど、何日も歩き続けるのですから、楽なものではありません。現代の旅行とは違います。夜は野宿をしますし、盗賊だって出ます。ですから、その旅においては、どうしても「助け」が必要です。自分たちの力だけではこの旅を無事に続けることは出来ない。それは、私共の信仰の旅も同じです。旅は、毎日、見る風景が違います。思ってもいなかったことにも遭遇します。自分の家での生活は、ほとんど毎日同じことをして過ごす。しかし、旅ではそうはいきません。自分たちの「これはこうなる」といった見通しが立たない。だから、「助け」が必要なのです。
 私共は2020年度、2021年度と、コロナ禍の中を歩んで来ました。今、コロナ禍の中の3年目を迎えましたけれど、まだ収束する見通しは立っていません。正直なところ、感染が始まった頃は、こんなに長く続くとは思っていませんでした。3年目となり、さすがに感染が始まった当初のように狼狽えたり、混乱したりということはなくなってきました。マスクをするのは当たり前となり、教会の玄関ではアルコールで手を消毒し、検温することも当り前のこととなりました。席は隣の人と空けて座ることにも慣れました。毎週の礼拝はオンラインで配信され、それに自宅で与っている方は10名くらいおられます。しかし、病院や施設に入られている方を訪ねて、直接顔を合わせてお会いすることは出来ません。これが一番辛いことです。主の日の礼拝出席者は、コロナ前と比べて20名くらい減っています。献金も減っています。コロナのせいだけではありません。コロナ禍が始まって以来、みんな2歳年を取りました。総会資料を見て、大丈夫かなと不安になった方もおられるでしょう。確かに、私共は「助け」を必要としています。教会も、信徒一人一人も、助けを必要としています。
 教会だけではありません。2月24日のロシア軍のウクライナ侵攻以来、悲惨な戦争の状況を連日私共はテレビなどで見ています。これを見て、これからどうなっていくのだろうかと、不安を覚えない人はいないでしょう。21世紀になって、こんな露骨なあり方で軍隊が入っていき、武力によって隣の国を屈服させるようなことが起きるとは思ってもいませんでした。沢山の犠牲者が出ています。難民になった人も何百万人もいます。でも、この戦争の出口はまだ全く見えません。世界を二分するような戦争になってしまうのだろうか。経済はどうなるのだろうか。原子爆弾の使用ということさえ、言われ始めています。本当に原爆が使われるような事態になってしまうのだろうか。不安を抱かないでいられるはずがありません。今、この世界全体が、助けを必要としています。
 そのような私共に、詩編121編2節の御言葉が与えられました。「わたしの助けはどこから来るのか。」との問いに「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」と御言葉は宣言します。私共には見通しが立たない。不安がある。しかし、神様がおられる。天地を造られた全能の神様が、その御力をもって私共を助けてくださる。この聖書の言葉が、私共の中に宿り、私共を支えます。「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」というこの御言葉と共に、私共は2022年度の歩みを為してまいります。

4.神様の守り
3~8節において、「見守る」という言葉が、6回も使われています。神様の「助け」は、具代的に私共を守ってくださるというあり方において、私共に臨んでくださるということです。この「見守る」と訳された言葉は、口語訳でも新改訳でも単に「守る」と訳されていました。私は「守る」の方が良いと思います。「見守る」という言葉は、「見る」という言葉が入ることによって、「守る」という言葉よりも弱くなっている、何となく「見ているだけ」というニュアンスを感じてしまうのは私だけでしょうか。私共の神様は天の高みから見ているだけでは、決してありません。天地を造られた全能の神様は、御子を与え、御子を十字架に架けて、三日目に復活させられました。その神様が私共を守ってくださる。それは、何もしないで、ただ見守るだけではありません。具体的な状況の中で、具体的な出来事をもって私共を守ってくださるということです。順に見ていきましょう。
 その神様の守りは、第一に「いつでも、絶え間なく」ということです。3~4節「どうか、主があなたを助けて 足がよろめかないようにし まどろむことなく見守ってくださるように。見よ、イスラエルを見守る方は まどろむことなく、眠ることもない。」と歌います。歩き続ける旅の途中で、足を痛めてしまっては旅を続けることは出来ません。そうならないように、神様はまどろむことなく、眠ることもなく、守り続けてくださいます。私共は寝ますけど、神様は眠りません。私共の信仰も、しばしば眠りこけてしまうことがあります。しかし、神様は眠りません。その全能の御腕をもって、私共をいつでも守ってくださっています。私共の御国への歩みにおいて、守られなければならないものは信仰です。信仰がよろめいてしまえば、私共の御国への歩みはおぼつきません。私共の有るか無きかの信仰を、神様は守ってくださいます。だから、私共は今朝もここに集うことが許されました。私共は、何もなくて当たり前。何か良くないことがあると、「神様の守りはどうした。」と思ってしまうものです。でも、何事もなく過ごす当たり前の日々、それは私共が神様の守りの御手の中に生かされている印です。いつでも、絶え間なく、私共は神様の守りの中にあります。私共は、この神様の守りを自らの存在をもって証しする者として立てられています。
 第二に、その神様の守りは「鉄壁である」ということです。5~6節「主はあなたを見守る方 あなたを覆う陰、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことがなく 夜、月もあなたを撃つことがない。」と詩編は歌います。神様の守りは、私共を覆います。親鳥が雛をその翼の下に隠すように、神様は私共を覆い尽くしてくださって、敵から守ってくださいます。「あなたの右にいます」というのは、右は利き腕があります。これをやられてしまえば、私共はどうしようもありません。それを守ってくださるというのです。また、私の右腕として、私共に代わって戦ってくださるということです。「昼、太陽はあなたを撃つことがなく」というのは、強い日差しに照りつけられ続ければ日射病になってしまいますので、これは分かります。しかし、「夜、月もあなたを撃つことがない。」というのは、分かりにくいでしょう。当時、月の光に照らされていると気が変になってしまう、月の光には不思議な力があると考えられていました。神様は、見える敵からも、或いは月の光のような見えない力からも、私共を守ってくださいます。この神様の守りの中に、私共の一日一日の歩みはあります。
 第三に、その神様の守りは「具体的」であり、「いつまでも」ということです。 7~8節「主がすべての災いを遠ざけて あなたを見守り あなたの魂を見守ってくださるように。あなたの出で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように。今も、そしてとこしえに。」と歌います。神様は「すべての災い」から私共を守ってくださいます。この「災い」という所には、色々なものが入るでしょう。悲しみ、怒り、苦しみ、不安、病気、罪、諸々のややこしい人間関係、そして最後にある災いは死です。しかし、私共はイエス様の御復活によって、死の支配からも解き放たれました。そして神様は、私共の命、私共の魂を守ってくださいます。「出で立つのも帰るのも」というのは、村の門を出て畑仕事に行き、門を通って帰ってくる、その一日すべてをということです。確かに、私共は困ることもありますし、悩んでしまうこともあります。しかし、それによって神様の守りがなくなってしまうわけではありません。そんなことは、どんな被造物にも出来はしません。神様は天地を造られた全能のお方だからです。そして、その守りは「今も、そしてとこしえに」です。

5.巡る季節の中で
 今はチューリップやすみれが咲いたり、青葉が芽吹いてきて、とても目にまぶしい季節です。近年、この季節の巡りと言いますか、その自然の変化にとても心が動くようになりました。若い時はそんなことはほとんど感じませんでしたけれど、最近は、「冬が終わったな。」「ああ春だな。新緑がきれいだな。」そんなことをとても感じるようになりました。皆さんはどうでしょうか。そして同時に、「神様に守られたな。ありがたいな。」ということもしばしば思うようになりました。何か特別なことがあったわけではなく、季節が巡る度に「ああ、守られたな。」と思うのです。ここ二年ほどはコロナ禍での歩みでしたので、余計にそう思ったのかもしれませんけれど、定期総会の資料を作りながら、「この一年も何とか守られた。ありがたいことだ。」と何度も思いました。私共が神様の守りの中で生かされている。これは本当のことです。勿論、それなりに自分で頑張ってきたということもあるでしょう。けれども、頑張れたこともまた、神様の守りの故と思うのです。
 「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから。」です。天地を造られた神様は、すべてを用いて私共を助けてくださいます。具体的に、あの人この人に助けられるということもありましょう。その一つ一つの出会いの中に神様の助けがある。思わぬ方向にことが運ぶということもありましょう。こんなはずじゃなかった、ということもありましょう。そこで大切なことは、「目を上げる」ということです。そして、「歩み抜く」ということです。目を上げて、天の父なる神様を見上げて、神様の助けを信じて歩み抜くということです。それは、どんな辛くても、我慢してやり通すということではありません。心が折れてしまうまで頑張ることはありません。神様は災いを遠ざけ、魂を守ってくださいますから、そうなる前に休んだり、別の道に行ったりすることだって、神様の守りの中での歩み方です。私共が歩み抜くのは、キリスト者としての歩み、御国に向かっての歩みです。そのキリスト者としての歩みを歩み抜くということです。私共は何をしていても、御国に向かって歩み続けています。礼拝を守っているときやお祈りしているときだけ、御国に向かって歩んでいるのではありません。何をしていても、神様を愛し、信頼し、従っていく歩みであるならば、それは確かに御国への歩みです。その歩みは、神様に助けられ、神様の守りの中にあります。

6.今や、恵みの時
使徒パウロは、今朝与えられている御言葉において、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」と告げています。パウロが置かれていた状況が、私共の現在の状況よりも安定していて、辛く苦しいことがなかったとは言えません。しかしパウロは、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」と断言しました。それは、イエス様の十字架と復活を見ていたからです。自分が置かれている状況、世界の状況、それを分析して、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」と告げたのではありません。私共が神様の助けを受けて御業に励んでいく中で、必ず神様の救いの御業の出来事が起きます。そして、私共はその出来事の証人となります。そこで私共は、パウロと共に、「今や、恵みの時、今こそ、救いの日。」と言うことが出来ます。先週は、一人の姉妹の洗礼式があり、一人の姉妹の転入式が行われました。その場に居合わせた私共は、具体的な神様の救いの御業を見ました。これは、最もはっきりと示された神様の御業です。勿論、日常的に神様の助けはあり、私共の日々は守られています。それを知らされているということは、何と幸いなことでしょう。
 そして、神様の助け、神様の守りは、私共にだけ与えられるわけではありません。神様は「天地を造られた主」ですから、天と地にあるすべてのものに神様の助けはあります。私共はそれを知っていますけれど、世界はそれを知りません。私共はそれを知らされている者として、それを知らない世界のために祈ります。それが、神様の助け、神様の守りがあることを知らされた者の務めです。私共だけではなく、この世界が神様の助けを受け、神様の守りの中を歩んでいる。世界はこのことを知りませんが、私共は知っています。ですから私共は、そのことを知らない人のために、その人に代わって、祈っていく責任があります。これが、この世界に対して私共が負っている責任です。キリスト者には、神様に対しての責任とこの世界に対しての責任とがあります。この責任をしっかり自覚して、新しい2022年度も主と共に、主の御前を、しっかり目を上げて、神様の助けと守りを信じて、御国への歩みを歩み通させていただきたいと願います。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、父なる神様。あなた様は天地を造られた全能のお方です。
 今朝、あなた様は御言葉によって、私共にはあなた様の確かな助けがあり、あなた様の守りの中に生かされていることを知らされました。ありがとうございます。私共は、明日何があるのかは分かりません、しかし、あなた様は御存知です。そのあなた様の愛の御手にすべてをお委ねします。どうか、新しい2022年度の御国への旅路を、あなた様の守りの中で健やかに歩んで行くことが出来ますように。私共の唇にあなた様への感謝と賛美と祈りを、いつも備えてください。この世界をもあなた様が守ってください。
 この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2022年4月24日]