日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「見ないで信じる者の幸い」
詩編 116編1~11節
ヨハネによる福音書 20章24~29節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
復活されたイエス様が復活した体をもって弟子たちの前に現れたのは、一度だけではありませんでした。何度もそして何人もの弟子たちの前に、復活された御姿を現されました。復活された週の初めの日の朝、マグダラのマリアをはじめ何人かの女性の弟子たちに、最初にその御姿を現されました。次に十二使徒たち、更に他の弟子たちにもその復活された御姿を現されました。そのことを使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一の15章3節以下でこのように告げています。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(=ペトロ)に現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブ(=主の兄弟ヤコブのこと。十二使徒の中のヤコブではありません。)に現れ、その後すべての使徒(=十二使徒以外の使徒のこと)に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。」このように、復活されたイエス様は多くの弟子たちにその御姿を現されました。もし何人かの弟子に対して一度だけその御姿を現されただけでしたら、弟子たちがイエス様の復活を本気で信じて、新しくされ、そこから殉教さえも恐れずにイエス様の福音を宣べ伝えていく者になれたかどうか分からないと思います。しばらくする内に、あれは錯覚だったのではないか、幻を見ただけだったのではないか、そんな風になってしまったのではなかろうかとさえ思うのです。しかし、そうはなりませんでした。たくさんの弟子たちが、何度も復活されたイエス様に出会ったからです。そして更に聖霊を注がれて、彼らは強められ、伝道へと押し出されて行きました。イエス様の復活という出来事と、聖霊を注がれるという出来事は、全く違う出来事ですけれども、ここには深い関連があります。イエス様の復活を信じるという信仰は、イエス様が天に昇られた後は、聖霊なる神様のお働きによって代々の聖徒たちに与えられてきたからです。私共もそうです。
 今朝与えられている御言葉は、イエス様が復活された日の一週間後、イースターの次の主の日の出来事です。

2.疑い深いトマス
 イースターの夕方に、イエス様の弟子たちに復活のイエス様が御姿を現されたことについては、先週の主の日の礼拝において見ました。復活されたイエス様は、弟子たちがユダヤ人を恐れて潜んでいた家に、戸には鍵がかけられていたにもかかわらず、ものともせずに中に入り、弟子たちの真ん中に立たれました。そして、こう告げられました。「あなたがたに平和があるように。」そして、弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい。」と言われました。弟子たちは復活されたイエス様に出会って、本当に驚きました。そして、喜びました。あの十字架の上で死んだイエス様が、本当に生きておられる。復活された。イエス様を裏切った自分を赦してくださり、愛してくださっている。そのことが本当に分かったからです。
 ところがこの時、その場に居合わせなかった弟子がいました。それがトマスです。他の弟子たちは復活のイエス様に出会っていますし、聖霊も与えられました。ですから、イエス様の復活を信じる者にされていました。しかし、その時その場所にいなかったトマスは、他の弟子たちがイエス様が復活されたと言っても、全く信じませんでした。トマスは他の弟子たちにこう言いました。25節です。「そこで、ほかの弟子たちが、『わたしたちは主を見た』と言うと、トマスは言った。『あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』」ここから、「疑い深いトマス」(=Doubting Thomasダウティング・トーマス)という言葉も生まれました。
 しかし、この「疑い深いトマス」というような言葉は妥当なのだろうか、と私は思います。トマスは特別に疑い深い人であったわけではないでしょう。この時トマスは、「自分の目で見て、自分の手で触ってみなければ信じない。」と言っているだけで、このこと自体は極めて常識的な判断なのではないでしょうか。自分以外の弟子たちは、復活のイエス様に出会った、イエス様が生きておられるのを見た、と言っている。トマスもイエス様に従って旅を続けてきた弟子です。「本当にそうなら良いのに。」とは思ったでしょう。しかし、そんなことはあるはずがない、とても信じられない、そう思った。私は、このトマスの心の動きは極めて健全だと思います。何でもかんでも、「みんながそう言うから信じる」というのは、とても危ないと思います。偏った情報にばかりさらされていると、あるはずがないようなとんでもないことさえも本当だと思ってしまう。人は自分が聞きたいと思うことだけを聞くということがありますから、情報が氾濫する今という時代においては、このトマスのような態度はとても大切なのではないでしょうか。疑い深いくらいの方が、全体を見渡して正しい判断が出来る。そんな時代に私共は生きているのでしょう。

3.復活のイエス様と出会う
 では、どうしてトマスはイエス様の復活を信じる者になったのでしょうか。トマスについての伝説としては、彼はこの後インドにまで行って伝道し、そこで殉教したと言われています。そのような者に変えられた理由。それは一つしかありません。他の弟子たちと同じです。彼もまた復活のイエス様に出会ったからです。他の弟子たちがトマスに比べて信仰深かった、疑い深くなかった、というわけではありません。彼らはトマスよりも一週間早く、復活されたイエス様に出会っていた。それだけの違いです。
 26節を見ますと、「さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。」と聖書は告げています。聖書の年や日にちの数え方は、現在の私共のように満何歳という数え方ではありません。昔の数え年のように数えます。ですから、ここに記されている「八日の後」というのは、丁度一週間後ということです。イースターの次の週の初めの日ということ、次の日曜日ということです。この日、イースターの夕方に、弟子たちが復活のイエス様に出会った時と同じことが起きました。復活されたイエス様が、弟子たちの真ん中に立って、「あなたがたに平和があるように。」と告げ。ここでもわざわざ、「戸にはみな鍵がかけてあったのに」と再び記しています。復活のイエス様には、戸に鍵がかかっていることなんか、何の妨げにもならないことを示すためです。イエス様の体は「復活の体」だったからです。このことについては先週触れました。復活のイエス様は、弟子たちに平和の祝福を与えられました。
 弟子たちと復活のイエス様との出会い、それが週の初めの日に起きた。これがキリストの教会の主の日の礼拝の出発点、原点となりました。この出来事を記すことによって、この福音書を読む人たちに、主の日の礼拝において起きることは、復活のイエス様と出会うこと、復活のイエス様の言葉を聞くこと、復活のイエス様の祝福を受けること、そういうことなのだと教えています。あなたにも、主の日の礼拝の度ごとに、復活のイエス様との出会いが与えられている。そう告げています。復活のイエス様との出会いは、復活のイエス様が弟子たちが集っている真ん中に立たれるということによって与えられました。弟子たちが自分の力で、復活されたイエス様と出会うという出来事を起こすことは出来ません。イエス様が来てくださらなければなりません。私共も同じです。私共は復活のイエス様を見たり、触ったりするわけではありません。イエス様が天に昇られてからは、誰にもそのようなあり方でイエス様と交わることは許されていません。しかし、イエス様の霊である聖霊なる神様が、この礼拝の場に臨んでくださって、聖書の言葉を通してイエス様の語りかけを聞きます。そうして、私共はイエス様との交わりを与えられています。

4.復活のイエス様による招きと悔い改め
 さて、大切なのはこの時復活のイエス様がトマスに告げられた言葉です。27節「それから、トマスに言われた。『あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。』」この言葉が示していることは、二つあります。
 第一に、イエス様はトマスを招かれたということです。トマスだけがこの時、イエス様の復活を信じることが出来ないでいました。イエス様は、ここでトマスに言葉をかけられたのですが、それはイエス様がトマスにも信じて欲しかったからです。ですから、このイエス様のトマスへの言葉掛けは、何よりもトマスに対する「信仰への招き」であったということです。
 第二に、この時イエス様がトマスにかけられた言葉によって、トマスに悔い改めが起きたということです。イエス様がこの時トマスに告げた言葉は、トマス自身が弟子たちに言い放った言葉と同じでした。トマスが弟子たちに、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言い放った言葉を、復活のイエス様はそのままトマスに告げました。復活のイエス様が、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」とトマスに告げた時、トマスは何を思ったでしょう。彼は驚き、恐れたと思います。まず、「どうしてあの時の言葉を知っているのか。」と思ったでしょう。そして、イエス様はすべてを知っておられるということを、恐れをもって悟ったでしょう。それと同時に、何であんなことを言ってしまったんだという悔いと恥ずかしさがトマスを襲ったと思います。それは、イエス様を信じない自分の愚かさ、頑なさ、傲慢さをはっきりと示さたからです。トマスはもう認めるしかありませんでした。彼はこの時、悔い改めました。そして、イエス様を信じる者になりました。イエス様を信じる者になるためには、信じない自分の姿を知らされ、それが神様・イエス様をどんなに侮っていることなのかを知らなくてはなりません。そして、そのような自分を赦していただくことを求め、イエス様の前に額ずく。これが悔い改めです。この時トマスに起きた出来事がそれでした。
 この箇所を読んだ代々の聖徒たちは、このトマスの姿に自分の姿を重ね合わせたに違いありません。そして、自分も信じられなかった、そんな自分も招かれている、そう思ったことでしょう。このイエス様の招きがはっきり示されているのが、次のイエス様の言葉、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」です。イエス様の復活を信じない者、信じられない者が招かれた。イエス様の復活を最初から信じられる人なんていません。しかし、その信じられない者が招かれ、そして信じる者に変えられていく。それが、神様の救いに与るということです。
 ここで大切なことは、トマスは復活のイエス様と人格的に出会ったということです。「私はあなたを裏切った。あなたを侮った。この私をどうか赦してください。私はあなた様と共に歩んで行きます。」という変化が起きた。それが、復活されたイエス様との出会いが与えられたということです。この時トマスは、復活のイエス様をただ見た、触ったということではありません。見た、触ったというのは、本当にそこに復活のイエス様が存在しているということを確認するだけです。それでは復活のイエス様と出会ったことにはなりません。復活のイエス様は、ただ復活の体をもって弟子たちの前に現れただけではありません。復活された体だけを現して、何も語らず、ボーッと立っているだけ。そんな姿は聖書のどこにも記されていません。復活されたイエス様は、その御姿を現し、弟子たちに語りかけるのです。そこに、復活されたイエス様との人格的な出会いが生まれます。復活のイエス様を「あなた」と呼ぶ出会いが生まれます。復活のイエス様の言葉を聞き、それに応える。この交わりが大切なのです。復活のイエス様を信じるということは、今もこれからも私と共に生きてくださる方として、私のすべてを知ってすべて導いてくださる方として信じるということだからです。この方を愛し、信頼し、従っていくということだからです。

5.我が主よ、我が神よ
 この時、トマスがイエス様との新しい関係へと導かれた印としての言葉が、トマスの口から出ました。それが、28節「わたしの主、わたしの神よ。」という言葉です。これはイエス様に対する信仰告白です。この言葉は、ヨハネによる福音書の結論と言いますか、クライマックスと言いますか、ヨハネによる福音書が最も伝えたかった言葉です。マタイによる福音書16章において、イエス様が「あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」と問われたのに対して、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えました。これが、マタイによる福音書が告げたイエス様への信仰告白であると言われております。それと同じように、ヨハネによる福音書におけるイエス様への告白、それがこの「わたしの主、わたしの神よ。」です。マタイによる福音書において、イエス様はペトロの「あなたはメシア、生ける神の子です。」という答えに対して、「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」と告げられました。それは、このトマスの告白も同じでしょう。この告白もトマスの発見・発明などではなく、神様がトマスの心と口に備えられたものです。
 ヨハネによる福音書における最も大切な信仰告白の言葉を、トマスが告げている。ペトロでもヨハネでもありません。それは、イエス様の復活を信じられないと言い放ったトマスこそ、キリストの教会に招かれ、集っている者たちなのだと告げているのでしょう。
 この告白でトマスは、はっきりイエス様を「わたしの神」と告白しました。「神に近い人」でも「神のような方」でもなく、明確に「神」と告白した。これこそ、キリスト教会の最も大切な信仰です。この告白は、今までイエス様の行われたどんな奇跡を前にしても為されませんでしたし、どんな素晴らしい教えが告げられた時にも為されませんでした。このイエス様が神であるという告白は、復活されたイエス様に対して初めて為されました。それは、この復活という出来事こそ、どんな奇跡をも凌駕する、全能の神様の力、永遠の命が明確に示された出来事だったからです。そして、この出来事こそ、イエス様を信じる者に与えられる救いをはっきりと示す出来事だったからです。イエス様を信じる者に与えれる救いとは、肉体の死では終わらない永遠の命、復活の命が与えられるということです。
 私共をその復活の命・永遠の命に生かしてくださる方、復活のイエス様こそ、「わたしの主」です。トマスも私共も、復活のイエス様に出会うまでは、自分が見て、自分が触れてみなければ信じないと思っていた者でした。自分の感覚、自分の経験、自分の判断、それが一番正しいのであって、それに従って生きていく以外の生き方を知りませんでした。これは、自分自身が自分の主である者の生き方です。私共はそれ以外の生き方を知りませんでした。しかし、復活のイエス様に出会って、キリスト者は変えられました。自分の理解や経験や判断よりも正しく、肉体の死を超えて自分を導いてくださる方がいる。それが天地を造られた神様であり、主イエス・キリストです。この方と共に生きる。この方を愛し、信頼し、従っていく。このイエス様を自分の人生の主人とする新しい命に、私共は招かれ、生きる者となりました。

6.見ないで信じる者の幸い
このトマスの信仰告白を聞いて、イエス様は、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と告げられました。これは、自分の目で見るまで信じることが出来なかったトマスを、イエス様が責めているかのように聞く人もいるかもしれません。しかし、そうではないと私は思います。このイエス様の言葉はトマスに向かって告げられたのですけれど、それだけではありません。この言葉は、実は、このヨハネによる福音書を読んでいる人、また、このヨハネによる福音が読まれるのを聞いている人、つまり教会に集っている礼拝者に向かって告げられているのです。このイエス様の言葉を聞く人は、イエス様は既に天に昇られた後ですから、復活されたイエス様を直接見たり、触れたりすることは出来ません。しかし、信じている。トマスと同じように、イエス様に向かって「我が主、我が神」と告白している。それは何と幸いなことか。あなたがたは幸いだ。そうイエス様は告げているのです。このイエス様の「見ないのに信じる人は、幸いである。」というイエス様の祝福の言葉は、今朝私共に告げられています。何と幸いなことでしょう。
 この幸いとは、イエス様と共に生きる幸いであり、イエス様の命・復活の命と一つにされた幸いです。確かに、死は今も私共に力を持っています。しかし、それは最終的に私共を滅ぼすことの出来る力でなくなりました。私共は復活のイエス様と共にあるからです。ですから、神様・イエス様以外の者が死の力で私共を脅かし、「わたしがお前の主だ。我にひざまずけ。」と告げても、私共は「いや、違う。あなたは私の主ではない。」と言うことが出来ます。これが、イエス様が与えてくださる幸いに生きる者の自由です。この自由を奪うことは、誰にも許されていません。

   お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
私共は今朝、聖書の言葉を通して、イエス様の招きの言葉と祝福の言葉を聞きました。どうか私共が復活のイエス様を信じない者ではなく、復活のイエス様を信じる者になれますように。聖霊なる神様のお働きによって、確かな信仰を私共に与えてください。そして、イエス様を「我が主、我が神」と信頼して、イエス様と共に歩んで行くことが出来ますように。そこにこそ、あなた様が備えてくださるまことの幸いがあり、平安があります。どうか、神ならぬものが私共を脅かし、誘い、惑わすことから私共をお守りください。
 この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2022年5月8日]