日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「主よ、お語りください」
サムエル記 上 3章1節~4章1節a
ヨハネによる福音書 5章24~25節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 5月の最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けます。前回サムエル記上2章から御言葉を受けましたのは、3月の最後の主の日でした。2ヶ月前になりますので、少し振り返っておきましょう。子どもがいないハンナが、子が与えられるようにと心を注いで祈り願って与えらた子がサムエルでした。ハンナはサムエルが乳離れすると、サムエルを神様に捧げ、祭司エリのところに預けます。サムエルは祭司エリのもとで育ちました。祭司エリには二人の息子がいました。ホフニとピネハスです。この二人は、父のエリが年老いたからでしょうか、神殿に詣でた人たちが神様にささげる献げ物から勝手に自分の欲しいところを取ったり、神殿に仕えている女性と性的関係を持ったり、とんでもないことをしていたわけです。祭司エリはこの二人の息子を諭すのですけれども、息子たちは聞く耳を持ちません。この二人がしていることは、神様を軽んじ私腹を肥やすことであり、神様がお嫌いになる不品行ですから、御心に適うはずもありません。ある時、神の人がエリのもとに来て、「あなたの家に長生きする者はいなくなる。あなたの息子ホフニとピネハスは同じ日に死ぬ。」と神様の裁きを予告しました。しかし、同時に「わたしの心、わたしの望みのままに事を行う忠実な祭司を立て、彼の家を確かなものにしよう。」とも告げられました。祭司エリは、この言葉を聞いて辛かったと思います。ホフニとピネハスが罪を犯していることはエリも重々承知していましたが、このように神様の裁きが下ることを知らされれば、父親としてやっぱり辛かったと思います。でも、神の人は「忠実な祭司を立てる」とも約束されました。エリは祭司として、この言葉に希望も与えられたことでしょう。祭司である自分の息子たちの育て方が間違っていたことを認めつつも、これで神様の御心を伝える者が絶えてしまうのではない。祭司がいなくなり、神殿が荒廃し、御言葉がなくなるわけではない。次がある。そこに年老いた祭司エリの希望があった。この神様に立てられる「忠実な祭司」こそ、サムエルでした。今朝与えられているのは、サムエルが神様からお告げを受け、神様によって預言者として召し出された時の出来事を記しています。

2.まだ神のともし火は消えず
 サムエルは祭司エリのもとで育てられていました。サムエルは神の箱(十戒を記した二枚の石の板が納められている箱)が安置されていた神殿に寝ておりました。その時のイスラエルの状態、神殿の状況を、聖書はこう告げています。1~3節「少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。ある日、エリは自分の部屋で床に就いていた。彼は目がかすんできて、見えなくなっていた。まだ神のともし火は消えておらず、サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。」ここで「主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった。」と言われているのは、当時のイスラエルの霊的状態、信仰の状態を示しているのでしょう。祭司エリの二人の息子のとんでもない行いは、神殿に詣でる人々の信仰を萎えさせたことでしょう。そして、神様が御心を示してくださることもまれになっていた。神様と神の民との交わりは大変希薄なものになっていた。型どおりに神殿に詣でる人はいたでしょうけれど、本気で神様の御心を尋ね求め、それに従おうという人はほとんどいなくなっていた。ホフニとピネハスの罪はそれほど重く、その責任は大きかった。しかし聖書は、たとえそうであっても「まだ神のともし火は消えておらず」と告げています。神殿には常夜灯がともされており、それはまだ消えていなかった。これは、まだ朝にはなっていなかったという時刻を示すとも理解出来ますが、神様と神の民との関係が切れてしまってはいなかった、まだ神様との交わりに真実に生きようとする者が残されていた、そのことを暗示していると読むことが出来ます。そして、その灯火の消えていない所で寝ていたのがサムエルだったのです。
 「未だ神の灯火は消えず」というこの御言葉が、私はとても好きです。神の民の歴史、教会の歴史においては、これでも教会かというようなことが起きることがあるんですね。しかし、それでもキリストの教会は立ち上がり、歩み直し、伝道し続けてきました。今もそうです。私共が「もうダメだ」と思っても、神様はそうは思われない。「未だ神の灯火は消えず」です。私共の「神のともし火」が消えないのならば、私共の信仰の火が消えないならば、必ず神様は次を用意してくださっています。「未だ神の灯火は消えず」です。私共はそのことを信じて良いのです。

3.まず神の言葉を聞
 さて、神様がサムエルを呼ばれました。しかしサムエルは、神様によって呼ばれたのだということが分かりません。それでエリの所に行って、「お呼びになったので参りました。」と言います。しかし、エリは呼んでおりませんから、「わたしは呼んでいない。戻っておやすみ。」とサムエルに言います。この時サムエルが幾つだったのかは分かりませんけれど、聖書は少年と言っていますので、十歳になるかならないかの年齢だったのでしょう。この時エリは、サムエルが寝ぼけたのだと思ったでしょう。サムエルは戻って寝ました。しかし、再び神様がサムエルを呼ばれました。サムエルはまたエリの所に行きます。そして「お呼びになったので参りました。」と言います。エリは呼んでいませんから、「わたしは呼んでいない。わが子よ、戻っておやすみ。」と言いました。この時エリは、まだサムエルが寝ぼけているぐらいにしか思っていなかったと思います。そして三度目、神様がサムエルを呼ばれます。サムエルは今度もエリのもとに行き、「お呼びになったので参りました。」と言います。この時、祭司エリはサムエルを呼ばれたのが神様であることを悟ります。そして、サムエルにこう告げました。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい。」
 「主よ、お話しください。僕は聞いております。」この言葉は大変重要です。ここに聖書が示す信仰者の基本的姿勢、神様の御前に立つ者の基本的なあり方が示されています。神様が語られる。それを私共は聞く。これが基本です。よく「祈りは神様との会話」と言われます。しかし、実際には会話になっていない。自分からお願いはたくさんするわけですけれど、神様がそれを聞いているのかどうか分からない、神様は何も言ってくれない。そんな自分の方からの一方通行のような感じを味わった人が多いと思います。その理由ははっきりしています。聞いていないのです。神様の言葉を聞く前に、神様に話し始めている。それでは会話になりません。神様の言葉を聞く。それは私共にとっては聖書に聞くということです。神様の言葉、神様の語りかけをしっかり聞いて、それに応えて祈る。それが神様との対話としての祈りです。聖書を学び祈る会においては、まず聖書の説き明かしがなされ、それをまず聞きます。そして、それに応答する祈りがなされるのです。勿論、祈祷課題もありますから、それだけを祈るわけではありませんけれど、まず今聞いた神の言葉に応えて祈る。これが基本です。どんな説き明かしを聞いても同じ祈りをするというのでは、神様の言葉を聞いていないのと同じです。それでは対話にはなりません。まず聞くことです。神様の言葉を聞く。そこからすべてが始まっていきます。

4.神の言葉が分からない
 サムエルはこの時まで、神様の言葉が自分に示されるという経験をしたことがありませんでした。ですから、自分が呼ばれてもそれが神様によってだということが分かりませんでした。ですから、三度もエリのもとに行ったわけです。しかし、祭司エリは分かった。きっと祭司エリにも同じような経験があったのだろうと思います。全く同じ経験ではなくても、神様の御声を聞くという経験があった。だから、サムエルに起きている出来事が何であるかを悟ったのでしょう。神様は、言葉や出来事で私共に御心を示されることがあります。牧師はみんなその経験をしています。召命の出来事です。これがなければ牧師として立つことは出来ません。ここでサムエルが経験したのは、この召命という出来事でした。この出来事をどう受け止めるのか、そのためには信仰の経験や信仰による理解というものが必要です。サムエルはまだそれがありませんでした。ですから、自分に起きていることが何なのか分からなかったわけです。実は、私が召命を受けた時も、洗礼を受けてすぐだったものですから、「これは何かの間違いだ。そんなはずがない。無かったことにしよう。」としました。ですから、すぐに神学校に行くことはありませんでした。決して忘れることは出来ないのですけれど、神様に召されたとの確信もなく、七年が過ぎました。
 神様の語りかけが分かる。それは簡単ではありません。皆さんは毎週礼拝に集っているわけですけれど、同じ説教を聞いてもみんなが同じように「自分に告げられた神の言葉」を聞き取るわけではありません。私は求道者として一年半くらい礼拝に集っていましたけれど、説教はほとんど何を言われているのか分かりませんでした。しかしある時、説教が自分だけに語られていると思いました。牧師はどうして自分の生活をこんなによく知っているんだろうと思いながら聞きました。その時から、牧師の説教がよく分かるようになりました。その時が私にとっての、御言葉体験、神体験というべきものだったのでしょう。

5.神の言葉を聞いて
 サムエルはエリの所に三度行きましたが、戻ってきて寝ました。そして四度目です。サムエルはエリに言われたように「どうぞお話しください。僕は聞いております。」と答えました。すると神様はサムエルに、エリの家を裁くということを告げられたのです。これはサムエルにとって、聞きたくない内容だったと思います。サムエルは祭司エリに育てられ、世話になっています。そのエリの家に対しての神様の裁きの預言です。「サムエルはエリにこのお告げを伝えるのを恐れた。」と15節で言われています。そうだろうと思います。これを聞いてしまったサムエルは、エリに言わないで済むならば、言わないでおこうと思ったでしょう。決して、自分からエリの所に行って、これを告げようとは思わなかったでしょう。ところが、エリの方から「お前に何が語られたのか。わたしに隠してはいけない。お前に語られた言葉を一つでも隠すなら、神が幾重にもお前を罰してくださるように。」と言うではありませんか。サムエルは正直に話しました。そして、それを聞いたエリは、「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように。」と言ったのです。それは、神様がサムエルに告げられたことは、エリ自身が2章で神の人から告げられていたことと同じだったからです。エリはこの出来事によって、神様が立てられる「忠実な祭司」というのが、サムエルであることをはっきり悟ったのだと思います。
 エリは2章で神の人から、自分の家が裁かれることを聞かされていました。もし、それがなかったのならば、エリはサムエルに告げられた神様のお告げを、神様によるものだと確信することが出来たでしょうか。神様の言葉かもしれない、でもただ寝ぼけて夢を見ただけかもしれない。エリはどっちとも判断がつかなかったかもしれません。それはサムエル自身にとっても同じことだったでしょう。しかし神様は、エリが確かにこれは神様のお告げたと判断出来るお告げをサムエルに与えました。それは、エリがサムエルを神様に選ばれた者として受け止めることが出来るためであり、またサムエル自身も神様からのお告げてあることを確信するためでした。祭司エリが「それを話されたのは主だ。」とサムエルに告げることによって、サムエルもこの出来事を神様の業として受け止めることが出来たのです。サムエルが「本当に神様によってお告げを受けたのだろうか。ただの夢だったのではないだろうか。」と悶々としていては、預言者として立っていくことは出来ません。神様は、サムエルには祭司エリという人を備えられていました。確かに、エリは自分の息子がとんでもない者に育ってしまったということにおいて、祭司として大きな責任がありました。しかし、次の「忠実な祭司」がここに備えられたということを知ったエリは、本当に嬉しかったと思います。我が家は絶えてしまうけれども、神様と神の民との交わりは続いていく。年老いたエリにとって、欠けがあったにしても生涯祭司として神様に仕えてきたエリにとって、それは大きな慰めであったに違いないと思います。

6.主の訓練 = 嫌であっても 
 一方、サムエルは神様によって告げられたことをエリに語るのは嫌でした。神様はサムエルを預言者として召し出したわけですが、その最初の務めが、お世話になっている祭司エリが一番聞きたくないであろうこと、二人の息子に対する神様の裁きを伝えるということでした。サムエルは本当に嫌だったろうと思います。出来れば言いたくなかったでしょう。しかし、告げなければなりません。預言者は、それを聞く者にとって聞き心地の良いことだけを語ることは出来ません。神様が自分に告げたことを、その通りに告げなければなりません。神様はサムエルに預言者とはいかなる者であるかということを、この出来事によって教えられたのだろうと思います。
 神様によって選ばれ、立てられた者には、神様の御業に仕える者として立っていくことが出来るように、その人専用の特別教育プログラムとでもいうべきものが備えられます。そして、それはたいてい実地訓練です。また、それは預言者に限ったことではありません。牧師も長老も執事も教会学校の教師もオルガニストも、みんな神様に立てられた者として神様からの訓練を受けるのです。その訓練は、楽しいことばかりではありません。訓練とはそういうものです。牧師の場合、神学校で過ごす時は勿論訓練の時ですけれど、神学校を卒業して教会に遣わされてから、本当の訓練の時が始まります。神学校で教えてもらったことのない出来事に出遭い、戸惑い、胃が痛くなる思いをし、祈ることを学びます。そして、御言葉に生きる、生かされるということを学んでいくのです。

7.その言葉は地に落ちず
 さて、預言者は、神様によって立てられた者だとみんなに認められなければ、その務めを果たすことは出来ません。では、みんなが「そうだ」と認めるためには、何が必要なのでしょうか。19節以下にこうあります。「サムエルは成長していった。主は彼と共におられ、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。ダンからベエル・シェバに至るまでのイスラエルのすべての人々は、サムエルが主の預言者として信頼するに足る人であることを認めた。」ここで大切なのは「その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった」ということです。これは、サムエルが神様から告げられた言葉は、すべてその通りになったということです。このことがサムエルが神様に立てられた預言者であることを証しし、人々はサムエルを主の預言者として信頼するようになっていったのです。聖書において、神に立てられた預言者であるということは、その人が預言したことがその通りになるということです。その通りにならなければ、「偽預言者」として裁かれます。
 ここで、サムエルは「主の預言者」として人々に信頼されたと記されています。その範囲は「ダンからベエル・シェバまで全イスラエルに及んだ」とあります。これは日本に当てはめて言えば「北海道から沖縄まで日本全土に及んだ」ということです。その影響力は絶大なものとなっていきます。彼は祭司であり、かつ預言者として人々に信頼されます。そして、遂にはイスラエルにおける最初の王サウル、そして二代目の王ダビデを王様として立てる役割まで担うことになります。祭司・預言者・王を立てる者、それがサムエルでした。その出発が、今朝与えられた御言葉に記されている、神様からお告げを受けるという出来事、神様の言葉を聞くという出来事だったのです。

8.神の言葉を聞く幸い
神の言葉を聞く。それは何と幸いなことでしょう。それは神様との交わりが私共に与えられた確かな証拠だからです。神の言葉を聞くことによって、私共は信仰を与えられ、救いに与ります。ヨハネによる福音書は、その幸いをこう告げました。24~25節「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」私共は主の日の度ごとにここに集い、神の言葉である聖書の説き明かしを通して、神様の自分への語りかけを聞き、信仰を新たにさせていただきます。そのことによって、私共は永遠の命に与る者にされています。一切の罪を赦され、裁かれることなく、死から命へ移されている。まことにありがたいことです。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 今朝、あなた様は御言葉をもって御心を示し、出来事を起こされる方であることを教えてくださいました。またその御業に用いる人を選び、立て、訓練されることを教えてくださいました。あなた様の御言葉は今も語られ続け、御業が為され続けています。今朝もその御言葉を聞き、あなた様との交わりを与えられ、あなた様の救いに与っておりますことを心から感謝いたします。どうか、いよいよあなた様の言葉が、広く、深く、豊かに宣べ伝えられていき、救いの御業が為されていきますように。
この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2022年5月29日]