日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

ペンテコステ記念礼拝説教

「皆さん、聞いてください」
ヨエル書 3章1~5節
使徒言行録 2章22~36節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今朝、私共はペンテコステの出来事を覚えて礼拝を捧げています。私共はクリスマス、イースター、ペンテコステを特に大切な出来事があった日として覚えて参りました。この三つはキリスト教の三大祭りとも言われます。クリスマスはイエス様の誕生日、イースターはイエス様が復活された日、ペンテコステは聖霊が降った日です。この三つの中で、ペンテコステの出来事の特徴は、過去に一度だけ起きた出来事というよりも、この日から起き続けている出来事の始まりだということです。ペンテコステの出来事とは、キリスト者に聖霊が降るという今も起き続けている出来事の最初の出来事だったということです。
 確かに、「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」るとか、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどま」るとか、「ほかの国々の言葉で話」すということが、いつも起きているわけではありません。しかし、ペンテコステの出来事の中心は、今言ったような、使徒言行録2章1節~4節に記されていることではありません。ペンテコステの日に起きた決定的に重大な出来事、ペンテコステの出来事の中心、それは弟子たちに聖霊が降り、人々に向かってイエス様が誰かということを語り出したということです。そして、この日以来、キリストの教会はこのことを語り続けています。ペンテコステの出来事は、私共の上に起き続けている。そのことをしっかり心に刻むのが、ペンテコステを記念するということです。私共は聖霊を注がれている。聖霊を受けて、イエス様が誰であるかを知らされ、イエス様が誰であるかを語る者とされている。聖霊によらなければ、イエス様が誰であるかということは分かりません。イエス様が神の独り子、キリストである、私の救い主であると知っているならば、その人に聖霊は降っています。何か特別な能力や劇的な変化がなければ、聖霊が降っていない。そんなことは決してありません。勿論、特別な能力や力を与えられたり、劇的な変化が起きる人もいるでしょう。聖霊なる神様は自由なお方ですから、自由に事を起こされます。しかし、その中心にあるのは、これを欠いたら聖霊のお働きが全く分からなくなってしまうことは、イエス様が誰であるかはっきり分かるということです。そして、そのことをどんな稚拙な言葉であろうと語っているということです。そこには、確かに聖霊なる神様が降っており、生きて働いてくださっています。この聖霊なる神様と共に生きている者、それがキリスト者であり、そのような者たちの群れがキリストの教会です。

2.ペンテコステの日
 ペンテコステの出来事が起きたのは、「五旬祭」の日でした。この祭りは旧約では「七週の祭り」と呼ばれ、エルサレム神殿に巡礼することが求められていた三つの祭りの一つでした。三つの巡礼の祭りとは、過越の祭り、七週の祭り、そして仮庵の祭りです。イエス様は過越の祭りの時に過越の食事を弟子たちと守り、それから十字架にお架かりになりました。そして復活され、40日間弟子たちにその御姿を現され、そして天に昇られました。それから10日後、ペンテコステの日が来ました。ペンテコステという言葉そのものには、聖霊が降るという意味は全くありません。単に「50番目の日」という言葉です。過越の祭りから50日目に守られた祭りです。弟子たちはイエス様が天に昇られてから、ペンテコステまでの間十二使徒のイスカリオテのユダの替わりの者を選びました。マティアです。この時の弟子たちの数は「百二十人ほど」であったと記されています(使徒言行録1章15節)。彼らは祈りつつ、待っていました。それは天に昇られる時にイエス様が、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒言行録1章8節)と告げられていたからです。「聖霊が降る」とはどういうことなのか、弟子たちはこの時よく分からなかったと思います。経験がありませんでしたから。しかし、復活のイエス様が言われたのですから、その出来事が起こるのを祈って待っていました。そして、ペンテコステの日を迎えるわけです。
 ここで大切なことは、イエス様が十字架にお架かりになったのが「過越の祭り」の時であり、聖霊が降ったのが「七週の祭り」の時、「ペンテコステの日」だったということです。この二つの祭りは、三大巡礼祭りの内の二つですから、たくさんの人たちがエルサレムに集まって来ていました。過越の祭りの時にエルサレムに来ていた人たちの多くが、ペンテコステの日にもまたエルサレムに来ていたことでしょう。過越の祭りの時にイエス様の十字架があり、その50日後の七週の祭りの時に聖霊が降りました。十字架に架かられたイエス様は3日目に復活され、40日間その姿を弟子たちに現し、弟子たちと話し、天に上げられました。そして10日後にペンテコステの出来事があったわけです。十字架・復活・昇天・ペンテコステ、これはたった50日間の間に起きた一連の出来事だったということです。繋がっている。過越の祭りの時にイエス様の十字架があり、次にエルサレムに来てみると、イエス様の弟子たちが「イエス様は復活した」と話しているわけです。昔イエスという人が十字架に架かったそうだ。そういうことではなかった。語る弟子たちにとっても聞く人々にとっても、ついこの間起きたイエス様の十字架の出来事とつながっていたということです。

3.聖霊によって語り出す
さて、ペンテコステの日、弟子たちに聖霊が降り、弟子たちは語り出しました。ユダヤ人たちは当時ユダヤの国内にだけ住んでいたのではありません。ローマ帝国中、あるいはそれさえも越えて、ディアスポラと呼ばれる離散したユダヤ人が、それぞれの所にユダヤ人の町を作っていた。そこからも、巡礼の祭りには多くのユダヤ人たちがエルサレムに来ていました。中にはヘブル語を話せないユダヤ人もいました。そのような人たちにも通じる言葉で、弟子たちは語り出したのです。このこと自体不思議なことですけれど、これは聖霊なる神様の御業としてこれから始まることを指し示しています。2021年、一年前の数字ですが、聖書全巻は704の言語に翻訳されています。ということは、今日、少なくとも704の言語で新・旧約聖書が読まれているということです。すごいことです。ペンテコステの日に起きた聖霊なる神様の御業が現在も継続中であるということは、このことからも分かります。しかし、まだ聖書を自分の言語で読むことが出来ない人が15億人いるそうで、その人たちのために聖書は今も翻訳され続けています。
 14節以下は、「ペトロの説教」という小見出しが付いていますけれど、14節で「ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。」とありますように、ペトロだけがこのように話したわけではなく、弟子たちを代表してペトロの名が出ていると考えて良いでしょう。ここに記されているのは、弟子たちが公に語った最初の説教、キリスト教会の最初の説教です。聖霊が降るとは、ここに記されていることを語るという出来事が起きることです。では、いったい弟子たちは何を語り始めたのでしょうか。結論を先に申し上げますと、「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方、主、メシアである。」ということです。このことをキリストの教会は伝え続けているのです。時代が変わろうと、伝える相手が変わろうと、伝えるべきことはこのことです。
 今朝、立派に咲いたアマリリスが玄関に飾ってあったのに気づかれたでしょうか。私に洗礼を授けてくれた福島勲牧師が天に召されてもう20年以上経ちますが、花が好きだった先生の召天記念に御遺族からいただいたものです。毎年、この時期になると立派な大きな花をつけてくれます。福島先生は説教の最後になると必ず「イエスは主なり」と言われました。決めぜりふのように、この言葉を言われました。「イエスは主なり」。説教とはこれを告げることなのだと思っておられたからでしょう。私は、この花を見ると「イエスは主なり」との言葉を想い出します。そして「アーメン」と心に呟くのです。

4.預言の成就として
さて、ペトロたちは、14節以下の説教において、4箇所も旧約聖書から引用して語りました。当時は聖書は旧約しかありません。弟子たちは、神様が旧約において告げられたことの成就として、聖霊が降ったこと、イエス様が十字架に架かられたこと、復活させられたこと、天に上げられたことを告げました。イエス様がメシアであるということは、天地を造られ、すべてを支配されている神様の御子ということであり、イエス様の身に起きたことは聖書に既に預言されていたことでありました。聖書を与えられた神様とイエス様の父なる神様は同じ神様ですから、そこに矛盾があるはずがありません。ですから、この時弟子たちが旧約聖書の言葉を引用して、イエス様が誰であるかということを告げたのは当然のことでした。しかし、旧約の言葉をイエス様と結びつけて受け止めたのは、弟子たちが初めてでした。イエス様はそれをしておられましたけれど、この弟子たちの説教を聞いたユダヤ人たちは驚いたに違いありません。こんな話は聞いたことがなかったからです。十字架に架けられたイエス様が、神様に遣わされた救い主・メシアであるなどとは、誰も考えてもいなかったからです。イエス様が誰であるかということが、聖書と結びついて分かる。そこに聖霊なる神様のお働きがあります。聖書というものは、一人で読んでいてもよく分からない書物です。分かったつもりでも、たいては誤解しているだけということが少なくありません。聖書が分かる。それはイエス様が誰であるか分かるということです。これが聖書の中心にあることだからです。これを欠いてしまいますと、聖書はぼんやりしたものになってしまいます。そのぼんやりした覆いを取り除いてイエス様のことが分かる、聖書の言葉がイエス様と結びついてはっきり分かる、それが聖霊なる神様によって与えられる出来事です。それは今も同じです。聖書が分かるということと、イエス様が誰であるか分かるということと、信仰が与えられるということは、同じことです。

5.伝わるように
 さて、この時弟子たちが旧約聖書を引用して、この聖書の言葉の成就としてイエス様のことを告げたわけですが、この語り方は、聞いていた者たちがみんなユダヤ人であったからです。時はペンテコステ、七週の祭りです。弟子たちの話を聞いている人たちは、世界中からエルサレムに巡礼に来ていた人たちです。ユダヤ人であり、旧約聖書を知っている人たちであり、聖書が神様の言葉であることを信じていた人たちでした。だから、聖書の言葉の成就としてイエス様が誰であるかを告げた。しかし、相手が旧約聖書など全く知らない人であったなら、このような語り方はしなかったでしょう。旧約聖書を全く知らない人なら、このような語り方では、何が言われているのか全く分からないからです。これは、使徒言行録17章にある、パウロがアテネで伝道したときの説教と比べるならば、その違いがはっきり分かります。パウロは、旧約聖書からの引用は一つもしませんでしたが、聖書が告げている唯一の神様、創造主なる神様を語り、偶像礼拝は誤りであることを告げます。そして、イエス様の復活を語りました。しかし、この復活を告げた時に、「いずれまた聞かせてもらうことにしよう。」と言われてしまいました。このパウロのアテネでの伝道が成功したのかどうか、評価は分かれるでしょうけれど、相手が変われば語り方も工夫し、変えていかなければならないことははっきりしています。その工夫は、いつの時代、どの文化の中でも求められ、聖霊なる神様の導きの中でキリストの教会はそれを為し続けてきました。
 イエス様の救いを宣べ伝えていくこと。それが、復活のイエス様からすべてのキリストの弟子たちに命じられたことでした。そのためには、異なる時代や文化の中では伝え方を変えなければなりません。それは、礼拝の仕方や教会の音楽においても言えることです。教会は変わらないで良いということでしたら、新しい賛美歌は必要ありません。しかし、教会は何時の時代でも新しい賛美歌、新しい教会音楽、新しい礼拝様式を生んできました。その営みは今も続いています。それもまた、聖霊なる神様のお働きの中にあることでしょう。聖霊なる神様は、人をそして文化を造り変え、新しくし、信仰をいつも生き生きとしたものであり続けさせるお方だからです。
 そうは言っても、イエス様がメシアであるということを伝えるためには、どうしても伝えなければならないことがあります。勿論、このことを丁寧に語り始めれば、語らなければならないことは山ほどあります。しかし、どうしても外せないこと、これを伝えなければ人々をイエス様の救いに招くことは出来ないこと、それは二つです。

6.あなたの罪 = イエス様の十字架
第一に、「あなたの罪を告げる」ということです。ペトロは23節で、「あなたがたは律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。」と告げました。イエス様がこのエルサムで十字架につけられたのは、ほんの50日前のことです。まだ人々の記憶に新しかったでしょう。イエス様が十字架に架けられた時、人々は「十字架につけろ。十字架につけろ。」と叫びました。このペトロの説教を聞いていた人の中には、この時叫んだ人もいたかもしれません。ついこの間の過越の祭りの時の出来事ですから、イエス様の十字架を見た人もいたでしょう。十字架のイエス様に対して、「メシアならそこから降りてみろ。」と罵った人もいたかもしれません。ペトロははっきり「あなたがたが十字架につけて殺したのです」と告げました。
 そんなことを言われても、自分がイエス様を十字架につけたわけではない、自分には責任はない、そう思った人が大半だったでしょう。しかし、この指摘は重大です。ペトロが言いたかったのは、あなたが直接イエス様を十字架につけて殺したのではないにしろ、あのイエス様の十字架とあなたは無関係ではあり得ないということでした。どうして無関係ではないのか。それは、イエス様の十字架は「あなたのために」「あなたに代わって」のものだったからです。あなたの罪がイエス様を十字架に架けたのです。イエス様は十字架の上で犠牲となり、あなたの身代わりとなった。そして、それ故にあなたは神様に一切の罪を赦していだけることになった。
 私の罪。それは神の御子を殺すということに端的に表れています。そしてそれは、自分が神となっていたという罪なのです。神様の御心など関係なく、神様に与えららた命に感謝することもなく、自分の欲に引きずられ、自分がやりたいことをやり、それのどこが悪いのだと思っていた自分です。神様なんて自分の求めるものを与えてくれれば良い。そう思っていた自分です。神様を侮り、敵対し、自分を神にしていた罪。それがイエス様を十字架につけたのです。そのことはどうしても語らないわけにいきません。自らの滅ぶべき罪が分からなければ、その赦しを求めることもないからです。

7.あなたの主 = イエス様の復活
そして、もう一つ告げなければならないこと。それは「あなたの主はイエス様である」ということです。イエス様が神の御子であり、メシアであり、主であられるということです。そのことは、イエス様の復活と昇天によって示されました。弟子たちは復活されたイエス様に10日前まで会っていました。イエス様が十字架に架けられる前に、イエス様を見捨てて逃げた弟子たちでした。しかし、復活されたイエス様は、彼らを再び弟子として召し出されました。彼らは赦されたのです。再びイエス様と共に生きる者とされました。そして、復活のイエス様は天に昇られました。天地を造られた神様がおられる天です。弟子たちは、この復活のイエス様に出会い、天に昇られるイエス様を見上げて、あの十字架にお架かりになって死んだイエス様こそ、神様から遣わされたメシア、我らの主、我らの王、ただ独りのあがめられるべきお方であることをはっきりと知らされました。イエス様は、十字架で死んで終わらなかった。復活されました。十字架で終わっていたのならば、弟子たちが伝道者として立っていくということはなかったし、教会も誕生しなかったでしょう。しかし、イエス様は死を超えた命、復活の命、永遠の命というものを、その復活という出来事をもって示してくださいました。
 神様を崇め、神様と共に生きるということは、この復活のイエス様を我が主・我が神として生きるということです。天と地を造り、すべてを支配し、目に見えない神様が、イエス様として現れた。そのことによって、神様と共に生きるということがはっきりしました。罪人としての自分が死に、新しい命に生きる者となる。自分が主人ではなく、イエス様が人生の主人となる。イエス様の言葉に従い、イエス様の霊である聖霊の導きの中で、イエス様を誉め讃えつつ生きる。弟子たちは、そのことを身をもって示す者として、復活のイエス様に召し出され、遣わされました。そして、このペンテコステの時から、彼らはその召しに応えて歩み始めたのです。ここにキリストの教会の歩みが始まりました。そして、この歩みは今も続いています。

8.聖餐黙想
私共は今から聖餐に与ります。聖霊なる神様がここに臨み、私共に信仰を与えてくださり、キリストの体、キリストの血に私共は与ります。この時私共は、自分がイエス様を十字架に架けた者であることをはっきり自覚しなければなりません。そして同時に、一切の罪を赦され、神の子とされ、永遠の命を与えられていることを受け取らなければなりません。聖霊なる神様による、イエス様と共なる歩みがここから始まっていきます。言葉と行いと存在をもって、イエス様の救いの恵みを証ししてまいりましょう。
 聖霊なる神様が、あなたと共におられます。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 あなた様は今朝、私共に聖霊を注ぎ、自らの罪を教え、イエス様を我が主・我が神として信じる者とし、あなた様の救いに与らせ、あなた様の子として復活の命に生きる者としてくださいました。まことにありがたく感謝いたします。どうか、この救いの恵みを伝える者として、あなた様と隣り人を愛することにおいて、あなた様と隣り人に仕えることにおいて、私共をいよいよ強めてください。
この祈りを私共のただ独りの救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2022年6月5日]