日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「異邦人の救い」
ヨナ書 4章10~11節
ローマの信徒への手紙 11章11~16節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 一昨日、安部晋三元首相が凶弾に倒れて亡くなるという事件が起きました。日本でこんなことが起きるのか、と驚かれた方が多いと思います。私も「まさか」と思いました。すぐに心肺停止と報道されましたけれど、何とか命が助かるように願いました。本当に大変な事件です。どうしてこんなことがと思います。ウクライナの戦争にしても、どうしてこういうことが起きるのか、正直なところ分かりません。勿論、人間の罪の故にこのようなことが起きるのだ、ということは分かります。それは、はっきり分かります。しかし、それが神様の御心の中でどういう意味があり、これからどういうことになっていくのか、それについては私共にはほとんど分かりません。それは、私共一人一人の人生においても、どうしてこんなことが、というようなことが起きるわけです。それについて、この出来事の意味はこうで、このことはやがてこうなります、そのように言えることはほとんどありません。しかし、後から振り返ってみると、あの出来事はこういうことだったのかと納得出来る、そういうことは良くあることです。どうしてこんなひどいことがと思われたことが、神様の救いが前進していく出来事へと繋がっていく、そういうこともあります。
 パウロは9章以降、神の民であるイスラエルがイエス様の福音を受け入れず、救いに与ろうとしない現実を前にして、何としても同胞であるイスラエルの民に救いに与って欲しいと願うと共に、神様の御心の中でこれはどういう意味があるのか、そのことを語っています。パウロはイエス様の福音を伝道していたわけですが、そこで直面したこの問題について、神様からその御心を明らかにされたのでしょう。それは本当に幸いなことでしたし、そのことがあったからこそ、パウロは異邦人伝道に邁進することが出来たのでしょう。自分がしていることの意味を示される。それは私共が喜んで、感謝をもって、困難な状況の中でもそれに仕え続けることが出来るために、とても大切なことです。意味が分からないことを、喜んで、感謝をもってやり続けることは、ほとんど出来ないでしょう。パウロはそれを神様から知らされて、それをローマの教会の人々に知らせ、共に神様の救いの御業に喜んで仕えようと招いているのです。

2.神様の救いの御心は変わらない
先週与えられました11章1節以下の御言葉は、「では尋ねよう。神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない。」で始まりました。今朝与えられております御言葉も、11節「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。」で始まっています。どちらも、神の民であるイスラエルが神様の救いから退けられたのか、もう救われることはないのか。そんなことは決してない、絶対にない。そう語り始めています。イスラエルの民はイエス様の福音を受け入れていません。しかしパウロは、だからイスラエルの民はもう救われることはない、などということはあり得ないと告げるのです。その第一の根拠は、神様の真実です。イスラエルはアブラハムの祝福を受け継ぐ者として、神様と契約を結んでいる民です。その契約の印が割礼です。確かに、イエス様によって開かれた救いの道、ただ信仰によって救われるという福音にとって、割礼は救われるために必要なものではなくなりました。しかし、だからといって、神様の契約が反故にされたということではありません。異邦人の救いのためには割礼は必要ありませんけれど、イスラエルが神様と結んだ契約そのものが反故にされたわけでは決してありません。神様は真実な方だからです。前回は、その神様の真実、イスラエルが神様に退けられたわけではないという証拠として、パウロは自分自身をユダヤ人でありながらイエス様を信じて救われた者として、ユダヤ人が神様に捨てられたのではない証拠として挙げました。また、もう一つの証拠として、神様によって「残りの者」とされて救いに与ったユダヤ人キリスト者の存在を挙げました。

3.異邦人の救いへと
 そして、今朝与えられている御言葉においてパウロは、「今、ユダヤ人たちがイエス様の福音を受け入れないのは、異邦人が救われるためだ。」と告げるのです。11節d「彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりました」と告げています。つまり、イエス様を受け入れないというユダヤ人たちの罪によって、異邦人が救われることになったと言っているわけです。実際、ユダヤ人たちはイエス様の福音を受け入れず、エルサレムにおいてはキリスト者に対する迫害が起こりました。その結果どうなったでしょうか。使徒言行録8章1節以下にこう記されています。最初の殉教者ステファノがエルサレムにおいてユダヤ人たちによって石打ちの刑で殺されたときのことです。この時、パウロはまだイエス様に出会っていません。「サウロ(後のパウロです)は、ステファノの殺害に賛成していた。その日、エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行った。しかし、信仰深い人々がステファノを葬り、彼のことを思って大変悲しんだ。一方、サウロは家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた。さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた。フィリポはサマリアの町に下って、人々にキリストを宣べ伝えた。群衆は、フィリポの行うしるしを見聞きしていたので、こぞってその話に聞き入った。」とあります。確かに、ユダヤ人たちはイエス様の福音を受け入れず、キリスト者を迫害しました。その結果、キリスト者はエルサレムにいることが出来なくなり、ユダヤとサマリアに散って行って、その地に住む人たちに福音を宣べ伝えたのです。そうして、イエス様の福音は異邦人にまで伝えられることになりました。そして、その流れは止まることなく、ローマ帝国中の大きな町ではイエス様を信じる異邦人たちがキリストの教会に集い、礼拝を捧げるようになっていきました。パウロが伝道者として召された時には、既にアンティオキアやローマといった大都市にはキリストの教会があり、異邦人キリスト者たちが集っていました。そして、パウロは異邦人伝道のために召され、立たされ、遣わされました。彼の異邦人伝道をサポートしたのはアンティオキアの教会です。この教会は異邦人キリスト者が多かったと考えられています。
 12節で「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。」と告げているのはこのことです。彼らの罪、彼らの失敗、つまりユダヤ人のイエス様を受け入れないという罪、失敗によって、福音が異邦人に伝えられ、世の人々が救われ、異邦人が救われるなら、ましてそのことによって更にユダヤ人もまた救われることになるとすれば、何と素晴らしいことか。実に、ユダヤ人も異邦人もすべてが救われる、これこそパウロが告げる神様の御心なのです。

4.ヨナの話
 ここで大切なことは、神様はイスラエルの民、ユダヤ人だけを愛しているわけではないし、ユダヤ人だけを救おうとされているのではないということです。ユダヤ人たちは、確かに選ばれし神の民ですけれど、ユダヤ人以外は神様の救いに与れないとは神様は言われていません。ユダヤ人は確かに神様に愛された民ですけれど、神様はユダヤ人以外の民を愛していないとは言われていません。しかし、ユダヤ人たちは神様の御心を誤解し、そのように考えてしまっていたのです。この神様の御心をはっきり告げている旧約聖書の箇所の一つがヨナ書です。
 先ほどお読みしました旧約の箇所は、ヨナ書の一番最後のところです。ヨナ書というのは全部で4章しかないとても短いものです。教会学校の子どもたちにも良く知られている話です。1階の集会室の壁に何年か前の夏期学校でヨナ書を学んだときに、子どもたちが書いた絵が貼ってあります。少し、想い出してみましょう。
 主の言葉がヨナに臨みます。「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。」ニネベというのは、大きな国アッシリアの都です。このアッシリアによって北イスラエル王国は滅ぼされます。言うなれば、イスラエルの敵である大きな国の都に行って、悔い改めるように告げよと神様はヨナに命じたのです。ヨナにしてみれば、「どうして自分たちの敵に『悔い改めよ』」とわざわざ告げに行かなければならないのか。神様がニネベの悪に怒って、滅ぼされたら良い。また、自分が言ったところで、ニネベの人たちが悔い改めるはずがない。自分は馬鹿にされ、笑いものにされるだけだ。それに、もし彼らが悔い改めたなら、神様はニネベの人たちを赦すだろう。どっちにしても、自分には面白くない。」ヨナはそう思ったのでしょう。そして、ヨナはニネベとは正反対の方向に行く船に乗り込みました。ヨナは神様の御言葉に従わず、逃げたのです。ところが、神様は嵐を起こします。ヨナの乗った船は沈みそうになります。ヨナは、自分が神様の御心に反してこの船に乗り込んだことを白状します。そして、ヨナは海に放り込まれて、大きな魚に呑み込まれます。そして、陸にはき出されました。ヨナはもう逃げられないこと知り、ニネベに向かいます。彼はニネベの町で悔い改めるよう告げます。「あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる。」そう言って、悔い改めることを求めて、町中歩いて語り続けました。すると、どうでしょう。何と、ニネベの人たちは悔い改めたのです。ヨナは面白くありません。そして、ニネベの町に何が起こるかを見届けるために、ニネベの町を出て東の方に座りました。神様は炎天下にいるヨナのために、とうごまの木を生えさせ、ヨナの頭を覆う影を作りました。しかし、次の日の朝、とうごまの木は枯れてしまいました。太陽が容赦なくヨナに照りつけました。聖書には病名は記してありませんけれど、ヨナは熱中症になったのでしょう。太陽に照りつけられたヨナはぐったりとなり、神様に「生きているよりも、死ぬ方がましです。」と言います。それに対しての神様の答えが、先ほどお読みしました言葉です。4章10~11節「すると、主はこう言われた。『お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。』」
 ここで神様は、イスラエルの民だけを愛しているのではない、異邦人であるニネベの人たちのことも愛しており、彼らが滅びることを望んではいない、その御心をはっきりと告げています。この神様の御心は、イエス様が来られるまで少しも変わっていません。というよりも、ヨナ書によって明らかに示された神様の異邦人に対する愛と憐れみ、それがイエス様の到来、イエス様の十字架によって明らかにされたのです。

5.「ねたみ」によって
 異邦人に福音が伝えられ、異邦人が救われて神の民とされる、そのことによって何が起きるのか。パウロはユダヤの人々の中に「ねたみ」が生まれると言うのです。そして、この「ねたみ」によってユダヤ人がイエス様のもとに集うことになり、救いに与ることになる。それが今ユダヤ人たちがイエス様を受け入れず、異邦人がイエス様を受け入れて救いに与る者が起こされている意味だと言うのです。11節d「彼ら(つまりユダヤ人)の罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです。」とあるとおりです。
 このパウロの言葉は、分かりにくいといいますか、ピンと来ない感じを受けるのではないかと思います。「ねたみ」という言葉は、日本語では良いイメージの言葉ではありません。しかし、聖書において「ねたむ」という言葉はとても大切です。それは、神様が御自身を「ねたむ神である」と言われているからです。旧約にはこの言い方がたくさん出て来ます。代表的なところの一つは、十戒の第二の戒めで「あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。」(出エジプト記20章4~6節)と言われていますが、ここで「わたしは熱情の神である」と訳されている言葉は、口語訳では「わたしはねたむ神である」、新改訳でも「わたしはねたむ神」、4年ほど前に出ました聖書協会共同訳でも「ねたむ神である」と訳しています。新共同訳だけが「熱情の神」と訳していますが、「ねたむ神」の方が原文の意味を伝えています。日本語として「ねたむ」という悪いイメージの言葉を避けようとして「熱情の神」と訳したのでしょう。「ねたむ神」というのは、神様は神の民を愛するが故に、神の民が他の神を愛して拝むなどということがあれば、放っておかれない。それが「ねたむ神」ということです。自分の奥さんや旦那さんが浮気をして、平気な人がいますか。平気でなんかいられません。「私の愛は広いから、浮気なんて平気です。赦します。」なんて言う人は、少しも相手のことを愛していないんです。愛する者が他に心を向けてしまう。そこで引き起こされる心が「ねたみ」です。神様が「ねたむ神」であるということは、それほどまでに神の民を愛しているということです。
 ユダヤ人たちは異邦人が救われるのを見て「ねたむ」はずだ。それほどまでに、ユダヤ人は神様を愛しているはずだ。神様は、ユダヤ人たちのわたしに対する愛はそれほどに熱いはずだ、と言われるのです。神様はユダヤ人たちの御自分への愛をそのように受け止めており、それ故に、異邦人を救うことによって「ねたみ」がユダヤ人に起きる。そして、神様との愛の交わりを保つために、イエス様による救いを受け入れるに至るはずである。神様はそうお考えになった、とパウロは告げているわけです。つまり、ユダヤ人がイエス様を受け入れないからイエス様の福音は異邦人へ伝わり、そして異邦人が救われる。そして、それを見ることによってユダヤ人に「ねたみ」が起こり、イエス様を受け入れるに至る。そうして、ユダヤ人も異邦人もすべての者が救いに与ることになる。それが神様の御心なのだ、とパウロは告げているわけです。

  6.異邦人のための使徒
 パウロは、そのような御心の中で、異邦人にイエス様の福音を伝える使徒として立てられました。彼は、その務めに全力を注いできました。しかし、それは異邦人さえ救われれば良いということではなくて、この業は愛する同胞の救いにも繋がっている。自分の異邦人伝道はそのような意味を持っている。それがパウロの確信です。13節でパウロはこう言います。「では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。」異邦人伝道に邁進することによって、ユダヤ人も異邦人も、すべての者を救おうとする神様の御心に仕えている。それはまことに光栄なことだと言うのです。自分が為していることが「光栄なことだ」と受け止めることの出来る人はまことに幸いです。
 この幸いに私共も招かれています。神様の愛の道具、救いの御業の道具として、私共は招かれ、生かされ、立てられ、遣わされています。私共は自分で全く意識していなくも、周りの人々からは「キリスト者」として見られています。それは本当に光栄なことなのです。私共の言葉や為すことを見たり聞いたりして、キリスト教とはこういうものなのかと判断されている。「イヤイヤ、そんな風に見られても困る。私は出来の悪いキリスト者ですから、私を見ないでください。私じゃなくて神様・イエス様を見てください。」そう言いたくなる人もいるでしょう。気持ちは分かります。私も「あれでも牧師か。」と言われることがあれば、本当にイエス様に申し訳ないとも思います。しかし、私共は意図していなくても、キリスト教を紹介しています。これは否定出来ません。そして、これは本当に光栄なことなのではないでしょうか。

7.幾人かでも救いたい
 パウロは、14節で「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。」と言います。あの偉大な伝道者パウロが「幾人かでも」と言うのです。パウロはすべての民が救いに与る日を見ています。しかし、それは突然そういうことになるのではなくて、一人が救われ、また一人が救われる。そうして一歩一歩、福音が前進していく果てに成就されていくことです。勿論、それを為してくださるのは神様御自身です、私共はその御業にお仕えし、イエス様の福音を伝えて行くだけです。この神様の御業に用いられるところに、私共の喜びと、誇りと、栄光がある。欠けの多い私共です。それでもキリスト者かと言われてしまうような私共です。しかし、それでもキリスト者なのです。イエス様に愛され、救われて、神の子・神の僕とされ、永遠の命に与る者としていただいている。その喜びが、少しでも出会う人に伝わっていけばと祈り、願います。
 私共は、どうしてこういうことが起きるのかよく分からない、そういう出来事に囲まれて生きています。しかし、それでも私共は信じています。神様はこの世界に生きている一人一人を愛してくださっている。キリスト者もそうでない者も、愛してくださっている。その本当の神様の愛さえ知れば、きっと変わる。あの人もこの人も、そして世界も変わる。神様の愛に生きる世界となる。喜びと感謝の中で生きていくことが出来るようになる。そう信じています。そして、その神様の愛を伝えるために、私共は生かされている。御心が天になるごとく、地にもなる。その日が来ることを信じて、その日を目指して、私共は遣わされている場で愛に生きる。この自覚が私共の日々の生活を支えます。
 御国が来た時、私共はすべてを明らかにされます。どうしてこうなったのか、どういう御心があったのか、すべてが明らかにされます。パウロはこの時、同胞のユダヤ人が次々に悔い改めて、イエス様の救いに与っていく現実を目の当たりにしていたわけではありません。しかし、信じていました。そして、そのために自分の為すことが幾人かを救うことになるのならば、自分の人生は大いに意味がある。光栄に満ちたものだ。そう受け止めていました。私共も、それぞれ遣わされた場所で、精一杯、神様を愛し、隣り人を愛する。神様に仕え、隣り人に仕えていく。その営みが、幾人かの救いへと繋がっていくことを信じて歩む。それが、イエス様が来られる日まで私共が為していく歩みです。どうしてこういうことが、というようなことも起きます。しかし、今、私共に分からなくても、神様は御存知です。すべてのことは神の国、救いの完成へと繋がっています。だから安んじて、為すべきことを為してまいりましょう。その歩みが御国へと繋がるただ一つの道だからです。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 あなた様は私共を愛してくださり、イエス様の救いに与らせてくださいました。そして、今、御言葉によって、あなた様の愛は、すべての人に注がれていることを改めて心に刻むことが出来ました。ありがとうございます。あなた様に愛されているのに、その愛に気付いていない多くの者がいます。どうか、あなた様の愛に一人一人が気付き、あなた様と共なる命に生きることが出来ますように。そのために私共を用いていってください。
 この祈りを、私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2022年7月10日]