日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「平和な日々のために」
申命記 32章35節
ローマの信徒への手紙 12章14~21節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
ローマの信徒への手紙を共々に読み進めております。前回は、ローマの信徒への手紙12章9~13節から御言葉をいただきました。その時申し上げましたが、9~13節はギリシャ語原文では一つながりの文章になっています。翻訳の都合上、日本語では幾つかの文章に別れていますが、元々は一つながりの文章で、偽りがあってはならない愛とはどういうものかを告げています。そして、この愛は10節に「兄弟愛をもって」とあり、13節に「聖なる者たち」とありますように、教会の交わりにおける愛について告げていると受け止めて良いでしょう。しかし、今朝与えられています14節以下の御言葉は、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。」と始まっていますように、自分と対立する者、敵対する者との関係においてどうするのかということが告げられています。今朝与えられている御言葉を聞いて、「それは素晴らしいことだとは思うけれど、そうしなさいと言われても…。中々そんな風には出来ない。」と感じた人もいるだろうと思います。
 そこで、最初に確認しておかなければならないことは、これらの言葉はパウロが自分で考え出したことではないということです。この言葉の背後には、イエス様の言葉があります。イエス様の言葉から導かれて、またイエス様の言葉として、このような言葉がキリストの教会において告げられていたのです。マタイによる福音書5章~7章にあります「山上の説教」、イエス様がお語りになった言葉がまとめられている所ですが、そこからイエス様の言葉を幾つかお読みしょう。
 5章38節以下「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。」
 5章43節以下「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」
これらのイエス様の言葉は、この世の常識をはるかに超えています。これは十字架にお架かりになったイエス様の言葉です。神様を侮り、神様に反抗し、神様に敵対していた私共のために、その一切の罪を赦してくださるために、イエス様は十字架にお架かりになった、その御心から語られた言葉です。つまり、「わたしはあなたのために十字架に架けられる。だから、あなたがたはこのように歩みなさい。」と告げているわけです。ですから、これは十字架の言葉です。イエス様は、「わたしの十字架の救いに与る者として、この恵みの中に生き、この恵みに応える者として、このように歩みなさい。」とお語りになりました。このイエス様の言葉がキリストの教会の中に息づいて、パウロのこのような言葉となりました。ですから、イエス様抜きに、この言葉を受け止めることは出来ません。そして、今朝与えられた御言葉もイエス様の十字架の言葉として聞き取らなければ、正しく受け止めることは出来ません。

2.祝福しなさい
まず最初に告げられていることは、「祝福しなさい」ということです。自分を迫害する者を祝福しなさいと命じられています。しかし、どうしてそんなことが出来るでしょう。自分を迫害する者に対しては「呪う」のが自然です。しかし、「祝福するのであって、呪ってはならない」と聖書は告げます。私共の自然な心の動きにおいて、そのようなことは決して起きません。
 この「祝福」と「呪い」という言葉ですが、「祝福」の反対の言葉は「呪い」です。けれど、パソコンで検索してみますと、「呪い」については色々な日本語の例が出てくるのですけれど、「祝福」についてはほとんどなく、聖書の言葉しか出てきません。つまり、日本では「呪い」という言葉には馴染みがありまが、「祝福」という言葉にはほとんど馴染みがないということです。ですから、祝福を祈るということがピンと来ない。でも、呪いはすぐ分かる。それが日本人の自然な心の動きだということでしょう。自分に嫌なことをする人、いじめる人、敵対する人に対して、私共は放っておけば自然と相手を呪ってしまう。しかし、私共はイエス様の救いに与ったのだから、呪いとは決別して祝福する者となれ、「呪うのではなく、祝福しなさい」と告げる。これはイエス様の御命令、神様の御命令です。つまり、私共は自分の自然な心の動きに身を任せて生きるのではなくて、イエス様の御命令、神様の御命令に従って生きよと命じられている。呪うのではなく祝福するという全く新しい世界に生きよと告げる。それは、私共が全く新しい者に変えられ、イエス様によってもたらされた新しい世界に生きるということです。
 しかし、どうしてそのようなことが可能なのでしょうか。それは、イエス様がそのように歩まれたからです。イエス様は十字架に架けられた時、自分を罵り、自分を十字架に架けた者たちを呪われたでしょうか。そうではありませんでした。イエス様は「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23章34節)と彼らのために神様に祈られたのです。まさに、迫害する者のために祝福を祈ったのです。イエス様は神の御子だからそのように出来た。そんなことが私共に出来るかと言われれば、「無理」と答えるしかありません。しかし、イエス様に救われたということは、このイエス様と一つにされたということです。生まれついての私共には、自分を迫害する者を祝福するなんてとても出来ませんし、考えることも出来ません。そんな世界があることさえ知りませんでした。しかし、イエス様が私の主人となってくださった。悪と罪の支配ではなく、イエス様の支配に生きる者にしていただいた。聖霊なる神様の導きの中に生きる者になった。神の子としていただいた。だから、私共は「呪うのではなくて祝福する」という新しい世界に生きる。キリストの救いに与って、神の子としての新しい私が生き始めているのです。この新しい私は、キリストに似た者とされることによって完成されます。キリスト者はその日を待ち望みつつ歩みます。

3.「主の祈り」と共に(1)
 イエス様は、この新しい私が形作られていくために新しい祈りを与えてくださいました。それが「主の祈り」です。主の祈りは神の子とされた者の祈りです。だから「天にまします我らの父よ。」と神様を呼ぶわけです。そして、この祈りにおいて私共は「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」と祈ることを教えていただきました。この祈りは、イエス様が教えてくださらなければ、決して私共の心の中から湧き上がってくる祈りではありません。キリスト者は、この祈りと共に生きていく中で、この祈りを心から祈り求める新しい私となっていきます。私はもう呪うことをしない。ただ祝福する。相手が誰であろうと、祝福する。それが、イエス様によって救われた新しい私の歩みだからです。

4.平和に暮らす
18節で「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。」と告げられます。勿論、私共は誰も争いなんてしたくありません。平和に過ごしたいのです。心穏やかに日々を過ごしたいのです。しかし、そうありたいと願っても、私共の心をざわつかせることが起きます。そのことを思うと夜も眠れない。そのようなことは人生の中でそんなにたびたび起こることではないにしても、そういう目に遭うことは誰にでもあります。そして、それは相手があることですから、自分の思いだけではどうにもならない場合もあります。これは私共が半年前からずっと祈っているウクライナ戦争にしても同じです。誰も戦争など望んではいません。しかし、中々終わりそうにありません。あの砲弾で破壊された町、荒廃した畑はいったいどうなるのだろう。何時になれば彼の地の人々は元の家に戻って、普通に仕事をして、平和に暮らすことが出来るようになるのだろうと思います。また、日本の近くでもそのようなことが起きるかもしれないと言われ始めています。こんな時代が来るなんて、私共は考えてもいませんでした。しかし改めて、平和は当り前ではないのだと思わされます。人と人、国と国、民族と民族、隣り合う者同士が、平和で暮らせたらと誰もが願います。しかし、夫婦や親子や兄弟といった家族の中でさえ、平和が破られることがある。それは本当に辛いことです。

5.主の祈りと共に(2)
 平和は尊いものです。勿論、戦争がなければ平和だというわけではありません。戦争はなくても、経済的に、社会的に、互いにいがみ合う状態ということがあります。武力ではなく、別の力で相手を屈服させようとすることもあります。それは平和とは言えません。聖書が告げる平和とは、主の祈りの言葉で言えば「御国を来たらせ給え」という祈り、また「御心が天になるごとく、地にもなさせ給え」という祈りが求めている世界です。キリスト者はこの祈りと共に生きます。この祈りは、平和が神様の御心によって、神様の御支配によって与えられるものだということを私共に教えます。神様の御心、神様の御支配、それがはっきり示されたのがイエス様の十字架です。あの十字架のイエス様を「我が主、我が神」とし、あの十字架のイエス様に従っていく中でしかこの平和は来ません。「私が主」である限り、私共は互いに仕え合うことが出来ません。どうしても、相手を自分に仕えさせようとしてしまうからです。しかし、平和は互いに仕え合う所に与えられるものです。キリスト者はそのことを知っています。そして、自分を含め、自分が関わる共同体が、国が、世界が、そのようになることを祈り求めて歩んで行きます。

6.復讐するは我にあり
その歩みの中で、キリスト者は「復讐」というものと決別することへと導かれていきます。キリスト者は復讐しない。この「復讐」という言葉は、「呪い」と同じように大変キツイ言葉です。ですから、私共はこの思いに自分がとらわれたことがあるという自覚は、あまりないだろうと思います。しかし、これを「仕返し」と言い換えると、そのような思いを持ったことがないと言う人はいないでしょう。自分をひどい目に遭わせた人、自分に恥をかかせた人に対して、「仕返ししたい」という思いです。これは、小説やドラマの要素としては不可欠と言って良いほどに出てきます。これもまた、自然な人間の心の動きとしては必ずあります。しかし、そのような思いがあっても、それを実行するかどうかは別です。
 聖書は、19節「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる』と書いてあります。」と告げます。この「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」という言葉は、先ほどお読みしました申命記32章35節の引用です。ここで言われている「わたし」とは神様のことです。神様が「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と言われている。だから、私共は復讐・報復をしないということです。この復讐や仕返しという思いは、私共の心の奥深い所から湧いてくるような思いです。私共の罪と結びついた、暗く黒い思いです。それ故に簡単に消すことが出来ない、中々しぶとい思いです。ひどい目に遭わされた人の心の傷には、時と共にその上にカサブタが出来ます。けれども、それが何かの拍子で破れるとまた血が噴き出す。中々厄介なものです。自然の心の動きですから、この思いを止めることは誰にも出来ません。そして、この思いが国や民族全体を覆うということさえあります。当然、相手の国との関係は悪くなります。世界史的に言いますと、16世紀から20世紀まで、欧米による南米・アフリカ・中東・アジアに対して植民地支配が行われました。これが現代のその国や民族の言葉や文化などに様々な影響を与えています。その流れの中で、20世紀には日本が中国・朝鮮に対して同じようなことをしました。これが現在の中々難しい関係を作ってしまっているわけです。
 聖書は17節で「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。」と告げ、21節では「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」と告げています。復讐・報復の思いにとらわれてしまって、実際そのようにしてしまうならば、それは「悪に負けた」ことになります。「善をもって悪に勝つ」、「悪に対して悪を返さず、善を行う」とはどういうことかと言えば、「赦す」ということであり、今朝の御言葉で言えば「祝福する」ということです。イエス様は私共にそのようにしてくださいました。私共はこの一点に立たなければなりません。そして、その相手の人もイエス様の愛の中にある、そのことを受け止める。こう言っても良いでしょう。私とその人が直接対峙すれば、中々復讐の思いから抜けられません。しかし、私とその人の間にイエス様がおられる。その十字架のイエス様が「わたしはあなたのために十字架についた」だから、「祝福しなさい」「善を行いなさい」「悪に負けてはいけない」と私に告げる。この御声を聞く時、私共は自らの復讐の思いに支配されるのではなくて、神の子としての私、イエス様に従い行く新しい私が立ち上がってくる。聖書が告げているのは、この新しい私のことなのです。生まれたままの私ではありません。イエス様の救いに与り、イエス様の御前に立つ私です。

7.喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く
 最後に15節の御言葉に聞きます。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」この御言葉は、今朝与えられた御言葉の中でも有名な御言葉です。皆さんの中にも、愛唱聖句にしている方もおられるでしょう。私も大好きな御言葉です。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く。」これを表面的に行うことは、それほど難しくないかもしれません。実際、私共は周りの人たちとの関わりの中で、このようにしていると思います。喜ぶ人に対して、「大したことない。」と言ってけなす人は、あまりいないでしょう。また、泣いている人に対して、「何を泣いているんだか。大したことじゃない。」と言う人も、まずいないでしょう。そんなことをすれば、周りの人から「ひどい人だ」と思われ、交わりを作ることは出来ません。誰でも、喜んでいる人がいれば「良かったね。」と言いますし、泣いている人がいれば「大丈夫?大変だね。」と言います。当たり前のことです。しかし、ここで聖書が告げているのは、そのような人間関係における礼儀、エチケットのレベルのことなのでしょうか。それが意味がないというのではありません。それはそれで大切です。しかし、それで良いのなら、何もイエス様の十字架の前で聞かなくても良い言葉、この世の知恵の話です。
 しかし、ここで告げられている言葉は、十字架のイエス様の言葉として聞かなければこれをきちんと聞くことは出来ないと申し上げてきました。この御言葉もそうです。ポイントとなるのは「共に」という言葉です。この「共に」というのは、イエス様が私共と「共に」おられるという場合の「共に」と同じです。イエス様はどのようにして、私共と「共に」あるお方となられたのでしょうか。それは、「おとめマリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け,十字架につけられ,死にて葬られ,陰府(よみ)にくだ」られるというあり方において、イエス様は私共と「共に」おられる方となられました。イエス様は神の独り子でありながら、天におられて私共をただ天から見ているだけというあり方ではなくて、私共と同じ人間となられるというあり方において、私共と「共に」ある方となられました。私共が十字架のイエス様の御前でこの言葉を聞くならば、それはイエス様がそうされたように、「喜ぶ人と同じ所に立って喜び、泣く人と同じ所に立って泣きなさい。」という言葉として聞くしかありません。
 でも、それは本当に難しいことです。なぜなら、私共のねたみ心や優越感、そして想像力の欠如や愛の欠如といった問題があり、私共はこれと戦わなければならないからです。自分が本当にそれを得たいと願い、長い間努力してきたけれど、結局得られなかったもの。それを友人が手に入れて喜んでいる時に、共に喜べるでしょうか。表面では「良かったね。私も嬉しい。」と言えても、心から一緒に喜べるかといえば、中々そうはならないでしょう。そこに「ねたみ心」が生まれてしまうからです。逆に、自分が持っているものを友人が失って嘆いている時、その嘆き・悲しみ・痛みを我が事として受け止めることが出来るかと言えば、これも難しいでしょう。優越感があり、想像力・愛が欠けているからです。
 しかし、ここで私共は、イエス様が喜ぶ者と「既に」共におられ、泣く者と「既に」共におられるということを思い起こさなければなりません。私共が共にある前に、イエス様がその人と共にいてくださっている。これがあるから、私共はその人のために自分のねたみ心や優越感、そして想像力のなさを超えて、この人と共にあろうと一歩を踏み出すことが出来るのです。それは、祈りにおける一歩です。祈りにおいて、私共はその人と共にある者へと歩み出す。聖書は「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」と告げる前に、「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」と告げています。祝福を祈るということは、喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣く歩みとなるということです。私共はそのような歩みを為す者として、イエス様に招かれています。それが神の子とされた、新しい私の歩みだからです。

 

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 あなた様は今朝、御言葉によって、イエス様によって救われ、新しくされた私共の歩みを示してくださいました。どうか、私共が自然に湧き上がってくる様々な悪しき思いを超えて、それに引きずられることなく、イエス様の御言葉に従って行くことが出来ますように。聖霊なる神様の導きを心から祈り、願います。 
 この祈りを、私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2022年9月4日]