日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「主に立ち帰るなら」
サムエル記上 7章1~17節
使徒言行録 3章17~20節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今日は9月最後の主の日ですので、旧約の御言葉を受けます。サムエル記上の7章です。4章でペリシテに奪われてしまった神の箱でしたが、5章・6章でこの神の箱がペリシテの町にあると、その町に流行病の腫れ物が蔓延し、とても自分たちの町に置いておくことは出来ないということになり、神の箱は雌牛に引かせた車に乗せられてイスラエルのベト・シェメシュの村に戻されました。こうして、神の箱はイスラエルに戻ってきました。しかし、ベト・シェメシュの人々が神の箱の中を覗いたために、70人の民が神様に打たれてしまいます。そこで、ベト・シェメシュの人々はこの神の箱をキルヤト・エアリムの人々に引き取ってもらいました。この時以来、サムエル記下6章において、ダビデがエルサレムに神の箱を迎えるまで、神の箱はキルヤト・エアリムのアビナダブの家に納められたままでした。そして、その間のことについて、神の箱についての記述は何もありません。十戒を刻んだ二枚の石の板を入れた神の箱・契約の箱は、神様の御臨在を示すものではありましたけれども、これがなければ神様は御臨在されないということではありません。この間、サムエルが神様の御心を示す者として立てられ、彼の指導の下にイスラエルは神の民として歩みました。サムエルによってサウルに油が注がれ、イスラエルの初代の王として立てられます。そして、次のダビデもサムエルによって油が注がれ、二代目の王として立てられます。神様はサムエルと共にあって、彼に言葉を与え、彼を通してイスラエルに御自身を現されました。

2.最後の士師、サムエル
 サムエルは「最後の士師」と呼んで良いでしょう。神様によって王が立てられ、大祭司が立てられ、預言者が立てられる。神の民を導く王・祭司・預言者が機能していく時代に入っていこうとする時、最後の士師として立ていられたのがサムエルでした。士師には色々なタイプがありましたけれど、サムエルは王・祭司・預言者の役割を一手に引き受けた存在でした。
 まず、彼は人々を「神様に立ち帰らせる」という働きをしました(3~4節)。それは預言者としての働きと言えます。また、ペリシテとの戦いにおいて、祈りをもって神様に助けを求め、イスラエルに勝利をもたらしました(9~10節)。それは祭司としての働きでした。王としての働きとも言えそうですが、彼が為したことを見れば、祭司としての働きと見て良いでしょう。そして、彼はイスラエルのために裁きを行いました(15節)。この「裁き」というのは、もめごとを仲裁したり、様々な問題を指導したりすることですが、これは王としての働きと言って良いでしょう。サムエルは、自分が直接軍隊を動かすということはしませんでしたけれど、神様の御心を示されて、それによってイスラエルを導くという働きを担ったわけです。
 次の8章からは、サウルが王として立てられる場面に入ります。その直前の7章において、サムエルが王・祭司・預言者としての働きを為し、それ故にイスラエルは安泰であったということが記されてます。士師記においても、士師が立てられている間はイスラエルは安泰でした。しかし、士師が亡くなると、イスラエルは他の神々に心を奪われ、他の民に攻め込まれるということを繰り返していました。その最後の士師がサムエルでした。神の民のあり方が変わっていく。時代と共に変わっていくわけです。周りの民族は王を持ち始めます。王を持つということは常備軍を持つということであり、これを持たないイスラエルは不利になるように思え、人々は王を求めます。そのような時代の転換点にあって、イスラエルを導く最後の士師としてに立てられたのがサムエルでした。この後、王が立てられていくことになるわけですけれど、最後の士師サムエルによって示された神の民のありよう、神の民を治めていくに際してのブレてはいけない点、そのことを今朝与えられた御言葉から見てまいりたいと思います。

3.悔い改め(1)
 第一に、サムエルがイスラエルに行ったことは、「神様に立ち帰らせる」ということでした。3節、4節を見てみましょう。「サムエルはイスラエルの家の全体に対して言った。『あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、あなたたちの中から異教の神々やアシュトレトを取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたたちをペリシテ人の手から救い出してくださる。』イスラエルの人々はバアルとアシュトレトを取り除き、ただ主にのみ仕えた。」とあります。これは後に預言者たちが繰り返しイスラエルに告げたことでした。神様に立ち帰るというのは、ただ主なる神様だけを神様として、これを拝み、これに仕える者となるということです。神の民としての基本に帰ることです。神の民は神様と十戒をもって契約を結んだ民ですから、ただ主なる神様だけを神様とするということは、当然といえば当然のことです。けれど、それがサムエルの時代になっても、イスラエルは出来ていなかったのですね。もう、出エジプトの旅から150年くらい経っているのですけれど、イスラエルは相変わらず、このように言われないといけない状態でした。
 バアルというのは男性神、アシュトレトというのは女性神です。これはカナン地方の人たちが拝んでいた神様で、農耕民族である日本でいえば五穀豊穣の神ということになります。イスラエルは元々は農耕民族ではありませんが、カナンの地に定住するようになって、農耕も行うようになりました。そして、カナンの人々が拝んでいた神、家畜が殖えるということを含めた豊穣を約束する神、目に見える豊かさを与える神、バアルとアシュトレトを拝むことにも馴染んでいってしまったのです。これは、十戒の第一の戒め「あなたはわたしの他に何ものをも神としてはならない。」、第二の戒め「あなたは自分のために刻んだ像を造ってはならない。」に明らかに違反しています。サムエルに「あなたたちの中から異教の神々やアシュトレトを取り除け。」と言われて、彼らは家にあったバアルとアシュトレトの像を捨てました。しかし、イスラエルの民は、自分たちがバアルとアシュトレトの像を持っているということを、そんなに悪いことだとは思っていなかったのではないかと思います。エジプトから導き出してくれた神様は大事。でも、豊作・豊穣を与えてくれるバアルとアシュトレトも大事。そんな感覚だったのではないかと思います。日本人には、この感覚はとても良く分かるでしょう。しかし、これが一番困ったものなのです。
 この感覚では、神様と自分との関係が「私とあなた」という関係には決してならないからです。神様と人格的に結ばれた関係にならない。愛の交わりにならないのです。親子や夫婦のような関係にならないのです。親子や夫婦というのは、他の人と取り替えることが出来ない関係で結ばれています。ところが、色んな神様が大事という感覚は、自分が得をするならば、自分が利益を得られるならば、神様は何でも良いという感覚です。これが偶像礼拝です。多神教や自然宗教という信仰のあり方の根っこには、これがあります。十戒は、そのような諸々の神との関係を一掃して、唯一の神様と私の間に「私とあなた」という関係、愛の関係を結ぶということを意味します。この「私とあなた」という関係においては、裏切りというものが最も忌み嫌われることとなります。ですから、ヘブル語では「姦淫する」という言葉と「偶像礼拝する」という言葉は全く同じなのです。そのような人格的な「私とあなた」という関係を神様との間に結ぶ契約、それが十戒です。神の民とは、聖書の神・天地を造られた唯一の神様と自分との間で、そのような関係を持つことになった民のことのです。ですから、私共は神様に対して「父なる神様」と呼ぶことが出来るわけです。お父さんは一人しかいませんし、取り替えることは出来ません。色々な神様とそれなりに関係を持っているけど、主なる神様が一番大事ということではありません。この方だけなのです。

4.私の神はこの方だけ
「私の神はこの方だけ」ということがはっきりするならば、私共はこの方以外の神に祈ることはありませんし、どんなことがあってもこの方の前から離れないという信仰になりましょう。それが聖書の信仰です。
 一昨日、富山地区の信徒修養会が行われました。各教会にそれぞれ集まって、それをインターネットで繋いで一つの画面で見ながら、講師の田邊先生の講演を聞きました。そして、それぞれの顔を見て、それぞれの教会報告もしました。富山地区としては初めての試みでしたけれど、コロナ禍になる前と同じくらいの人が集い、こういうやり方も出来るようになってきたことを嬉しく思いました。田邊先生は、三つの詩編について私訳を交えながら、詩編の祈りの世界へと私共を導いてくださいました。たくさんの学びをさせて頂きましたけれど、その中で二つのことが私の心に残りました。
 一つは、詩編の中には「嘆きの詩編」と呼ばれる、苦難の中で神様に助けを求めるものがたくさんあります。それらの詩編において、詩編の詩人は、祈っても祈っても状況が少しも変わらなかったとしても、決して神様の御前から離れようとはしない。ただ、この方の前に立ち続け、祈り続ける。そこに詩編の祈り、聖書の祈りの特徴があるということでした。
 そして、もう一つは、その祈りは神の民に綿々と受け継がれていて、詩編の祈りを私の祈りとして祈ることによって、私共もその綿々と続く神の民の祈りの群れに連なるということです。詩編には、詩人が「わたしは」と祈っているものもたくさんあります。しかし、その「私」の祈りには、その祈りを祈る神の民の綿々と続く連なりがある。詩編の祈りを自分の祈りとして祈る時、私の祈りはその綿々と続く神の民の祈りに繋がる。その「私」の祈りを祈る時、私は一人ではない。綿々と続く神の民の一人なのだということです。
 少し祈って、それでも状況が変わらなければ祈るのを止めてしまう、あるいは他の神様に祈るなどいう祈りは、聖書にはありません。それは、神の民というものは、神様と「私とあなた」という関係、他に取り替えることの出来ない関係で結ばれているからです。

 

5.悔い改め(2)
第二に、サムエルがイスラエルのために行ったのは罪の告白であり、悔い改めるということでした。5節、6節を見て見ましょう。「サムエルは命じた。『イスラエルを全員、ミツパに集めなさい。あなたたちのために主に祈ろう。』人々はミツパに集まると、水をくみ上げて主の御前に注ぎ、その日は断食し、その所で、『わたしたちは主に罪を犯しました』と言った。サムエルはミツパでイスラエルの人々に裁きを行った。」とあります。サムエルが為した祈りは、これを与えてください、あれを与えてください、という祈りではありませんでした。サムエルの念頭にあったのは、イスラエルが神様の御前に真実ではなかった、バアルやアシュトレトに膝を屈め、ただ主なる神様だけを信頼するという歩みをして来なかった。神様を裏切り、自分のことしか思って来なかった、このことに対する罪の告白であり、悔い改めでした。勿論、具体的な求めを祈ることが退けられるわけではありません。父なる神様に対して、私共は神様の子とされている恵みの中で、何を祈り求めても良いのです。しかし、その求めは「神様は私にこれを与えてくれて当然だ。私は神様を信じて、このように祈っているのだから。」というようなものではありません。自分が、神様との関係において誠実でなかったことを正直に認め、赦しを求める。赦されなければならない者として、神様の御前に立つ。そこに、神の民と神様との間の健やかな関係が形作られていきます。「私とあなた」という関係です。
 私共は自分の罪に対して、とても鈍感です。他の人に対して犯した罪に対しても、気が付かないことが多いのです。一方、自分が傷つけられたことには敏感です。それは人に対してだけではありません。神様に対しても同じです。自分を造ってくださり、必要のすべてを与えくださっている神様に対して、感謝もしない。自分は、自分の力だけで生きている。そのように考えて生きることが、どれほど神様を悲しませているのか、考えもしません。ですから、自分には赦されなければならない罪があるということが、よく分からない。みんなやっていることではないか。人間なんだもの、仕方がない。当然だと思ってしまう。それは、人と比べることしか出来ないからです。しかし、神様の御前に立つ時、人と比べることは全く意味がありません。自分が神様に対して、誠実であったか、この方の御心を求めてきたか、この方の御言葉に従うことを喜んできたか、そのことが問われます。この問いに、「私は常にあなた様に対して真実でした。」そう言い切れる人などいません。ですから、私共は罪人として神様の御前に立つしかない。神様の御前に立つ時、誇るべき所など何一つありません。サムエルは、イスラエルが罪を告白し、神様に赦しを求めるように導きました。ここにこそ、神の民の立つべき唯一の場所があるからです。それは私共も同じです。ここ以外に神の民の立つべき所はありません。

6.こんなはずでは…
 イスラエルの人々が、サムエルに招集されてミツパに集ったとき、ペリシテがイスラエルに攻めてきました。イスラエルの人々が大勢集結したので、ペリシテの人々はイスラエルが攻めてこようとしていると勘違いしたのかもしれません。この時イスラエルの人々は祈るために集まって来たのですから、戦争の用意なんてしていません。彼らはサムエルに言われて、ミツパに集まって来ただけです。そこに、ペリシテが攻めてきたという知らせが届く。イスラエルの民は恐れ、狼狽えました。しかも3節で、サムエルはイスラエルに「あなたたちの中から異教の神々やアシュトレトを取り除き、心を正しく主に向け、ただ主にのみ仕えなさい。そうすれば、主はあなたたちをペリシテ人の手から救い出してくださる。」と告げました。そして、彼らは「バアルとアシュトレトを取り除き、ただ主にのみ仕えた。」のです。だったら、神様によってペリシテから守られるはずではないですか。それなのに、どうしてペリシテに攻められなければならないのか。イスラエルの民はこの時、「こんなはずじゃない。」「話が違う。」と思ったでしょう。これは、イスラエルの民に対する試みでした。私共の信仰の歩みにおいて、「こんなはずじゃない。」「話が違う。」ということが起きます。必ず起きます。しかし、その時こそ私共の信仰が試されるのです。
 イスラエルの人々はサムエルにこう言うのです。8節「どうか黙っていないでください。主が我々をペリシテ人の手から救ってくださるように、我々の神、主に助けを求めて叫んでください。」彼らが言うことはもっともです。サムエルはこのイスラエルの人々の言葉を受けて、9節「サムエルはまだ乳離れしない小羊一匹を取り、焼き尽くす献げ物として主にささげ、イスラエルのため主に助けを求めて叫んだ。」のです。ここでサムエルがささげたのは「焼き尽くす献げ物」でした。小羊を神様にすべてを献げ尽くすものです。この「焼き尽くす献げ物」というのは、献げ物には色々ありますけれど、最も徹底した献げ物、それが「焼き尽くす献げ物」でした。これは神様への完全な赦しを求め、神様への完全な献身を示すものです。そして、「主は彼に答えられた」(9節b)のです。神様はサムエルの祈りを聞き、「ペリシテ軍の上に激しい雷鳴をとどろかせ、彼らを混乱に陥れられ」(10節)るという出来事をもって応えてくださいました。そして、この時イスラエルはペリシテに勝利することが出来ました。イスラエルに勝利をもたらしたこの行為は、王としての働きと考えることも出来ますけれど、サムエルがやったことは焼き尽くす献げ物をささげたということですから、祭司としての働き、務めを果たしたと考えて良いでしょう。
 「こんなはずでは…」ということが、信仰の歩みにおいては必ず起きます。そこで、「神様なんて信じても何にもならない。」と神様の御前から離れてしまうならば、信仰の歩みはそれで終わりです。御国に至ることは出来ません。しかし、この時にこそ「なお信じます」「なお献げます」「なお従います」「なお愛します」と、更に一歩神様へとにじり寄るように祈る。詩編の祈りはそういう祈りです。サムエルが捧げた祈りもそうでした。そして、イスラエルはこの時、神様の御業に触れることになりました。主が生きて働いてくださるお方であることを知らされる時となりました。そして、ここにまた一つ、神の民の証しが生まれました。
 いつも言うことですが、私共が「こんなはずじゃなかった」というような出来事に出会う時、それは証しが生まれる時です。それでもなお神様の御前に立ち続けることによって、私共は神様の御業を見ることになります。あるいは、神様を愛すること、信頼することとはこういうことなのか、神様の与えられた希望とはこういうものなのかと、信仰の理解がより深められ、神様との交わりがより濃厚になる、そういう時です。試みの時など、ない方が良いのですけれど、神様はそのような時を用いて、私共との交わりをより真実なものへと導いてくださるのです。

7.贖罪の献げ物:イエス・キリスト
 更に言えば、私共にとっての「焼き尽くす献げ物」は、主イエス・キリストの十字架によって、すでに完全なあり方で神様にささげられています。ですから、私共は焼き尽くす献げ物をささげる必要はありません。ただ、自らの罪を告白し、悔い改めて、神様に立ち帰り、神様が働いてくださることを信じて待つだけです。私共には、知恵も力もありません。すべてを見通すことも出来ません。事柄の成り行きを予測することも出来ません。しかし、私共は知っています。イエス様の十字架の犠牲、十字架の執り成しは完全です。ですから、神様は私共の祈りを必ず聞いてくださり、イエス様の執り成しによってすべてを赦してくださり、すべてを御存知である御心の中で、最も良い道を備えてくださる。私共はそのことを信じて、神様の御前に立ち続ければ良いのです。たとえ、どんなことが起きようとも、神様の御前に立ち続ける。それが、神様に立ち帰った神の民である私共のあり方なのです。私共の心の中からバアルとアシュトレトを取り除き、ただ神様だけを神様とする。この世の力も、富も、名誉も、人に認められたいという思いも、バアルとなりアシュトレトとなります。しかし、私共にはただ神様だけ、ただイエス様だけ。この方に向かって、父よと呼び、我が主よと呼ぶことが出来るならば、他に何が要りましょう。すべては、この方の御手の中にあります。そして、そのすべてを私共に与えてくださると約束していただいているのですから。

 お祈りいたします。

 あなた様は今朝、サムエルの祈りを通して、私共のキリスト者としてのあり方、祈りのあり方を教えてくださいました。ありがとうございます。私共がイエス様の尊い血潮によって贖われ、あなた様の子としていただいた恵みの中に生き切ることが出来ますように。私共があなた様の御前から決して離れることがありませんように。試みの時も、証しが生まれる時としてください。私共の唇に、あなた様への感謝と賛美と祈りを備え続けてください。 
 この祈りを、私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2022年9月25日]