日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「隣人を自分のように愛しなさい」
レビ記 19章33~34節
ローマの信徒への手紙 13章8~10節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 ローマの信徒への手紙をご一緒に読み進めています。12章からは、キリスト者の生活のあり方が告げられています。そして13章には、キリスト者と社会との関わり方について述べられております。前回見ました7節では、「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」と言われており、社会人として、一市民として、果たさなければならない責任は果たしなさいと告げられていました。当然と言えば当然のことです。キリスト者は神様だけを我が主、我が神、我が王とするのだから、この世の王の支配の下にはいない。だからこの世の王が求める税金は納めない。こんな話は通りません。イエス様が「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マタイによる福音書22章21節)と言われたとおりです。この社会にはキリスト者以外の人たちもいるわけで、私共はその人たちと一緒に社会を構成しています。ですから、社会の法律や権威というものには従わなければなりません。勿論、私共の信仰が脅かされる場合は別です。ここで聖書は、キリスト者だけがいる社会を想定していません。パウロがこの手紙を書いた当時、既に100万都市であったローマにおいて、キリスト者は何人いたでしょうか。数千人いるかいないか、そのくらいだったと思います。それは、この日本社会における私共の状況と似ています。そういう状況の中で、キリスト者はどのように社会と関わっていくのか、そのことをパウロはここで告げています。そこで、決定的に大切なものは愛だと言うのです。この愛は、キリスト者同士の愛、キリストの教会の中での愛の交わりだけを意味しているわけではありません。キリスト者以外の人たちをも愛していく。それがキリスト者の基本的な社会との関わり方なのだと言うのです。勿論、キリスト者が愛の交わりとしてキリストの教会を形作っていくことは大切です。しかし、ここでキリスト者に求められているのは、そこにとどまるものではありません。信仰が違っていても、人種や民族や文化や身分が違っていても、キリスト者は「互いに愛し合う」という交わりをそこに形作っていく責任がある。キリスト者はそういう者として神様に選ばれ、救われ、遣わされているということです。
 順に見てみましょう。

2.借りがあってはならない。愛以外では。
 今朝与えられている御言葉は、8節「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。」と告げます。「だれに対しても借りがあってはなりません。」というのは、7節で税金の話をしていますので、その流れで受け止めるならば、社会生活をする上で借金・負債というものを誰に対してもしてはならない。つまり、社会における責任をちゃんと果たしなさい、借りたものは返すという当たり前のことをしなさい、と言っているわけです。この言葉を、キリスト者は絶対に借金はしないのだ、してはいけないのだ、そのように受け取る必要はありません。そのように受け取ったら、キリスト者は家も建てられませんし、事業を興すことも出来ません。そうではなくて、ここで告げられていることは、果たさなければならない義務はちゃんと果たしなさい、ということです。
 大切なのは、その上で「互いに愛し合う」ということにおいては、借金、負債があって良いと言われていることです。借金・負債というものは、返してしまえば終わりです。社会的な義務にしても、果たしてしまえばそれで終わりです。税金などはそうでしょう。しかし、「互いに愛し合う」ということは、これだけ愛しましたからもうお終い、もう愛さなくても良い、そんなことにはなりません、と告げているわけです。互いに愛し合うということにおいては、私共は負債があり続ける。負債は返さなければなりません。でもこの負債は返しきることが出来ない。だから、互いに愛し合い続けなければならないと言うのです。分かりにくい言い回しですけれど、言われていることはそういうことです。

3.愛の負債
 では、この愛の負債、愛の借金とは、何を意味しているのでしょうか。それは、イエス様の十字架によって示された神様の愛です。愛は、神様から始まります。愛は神様から与えられ、注がれ、そして隣り人へと流れ出していく。もし、この愛が私共の中から自然に湧き上がってくるものであるならば、私共に愛の負債はありません。この愛は、私のものだからです。そうであるならば、「これでお終い」「これで十分」と言うことも出来ましょう。しかし、この神様の愛は、私共が神様に徹底的に愛されたことによって知らされたものです。これは、自分の家族や友人といった親しい者だけを愛する愛ではありません。そのような愛ならば、私共はイエス様に救われる前から知っていました。しかし、この愛はイエス様によって救われて初めて知らされた愛、そこで与えられた神様の愛です。
 この愛は、イエス様が語られたあの「放蕩息子のたとえ」(ルカによる福音書15章11~32節)を思い起こしたら良いでしょう。放蕩の限りを尽くしたあげく、食べるにも事欠いて、他に行く当てもなくなり、父のもとに戻って来た息子。父親に、あなたの子どもと呼ばれる資格はありませんと告げるその息子に対して、父はもう何も言うなとばかりに息子を抱きしめました。この父なる神様の愛を私共は受けた。私共は神様によってこのように抱きしめられた者です。キリスト者とは、このように神様に愛されていることを知らされた者です。私共は神様に造られ、命を与えられ、必要のすべてを備えられました。父も母も兄弟も友人も妻も夫も子どもたちも、能力も仕事もみんな神様が与えてくださいました。日々の糧も与えられ、一日一日生かされています。しかし、それを当たり前だと思っていた私共でした。それ故、神様に感謝することも知りませんでした。しかし、神様はそのような私共のために、御子イエス・キリストを与えてくださり、イエス様は私共のために、私共に代わって十字架にお架かりになりました。私共は、そのイエス様の尊い血潮をもって一切の罪を赦され、神様の子としていただきました。ここに愛があります。これが神様の愛です。絶対の愛です。私共に与えられた神様の愛は、ただ与えられました。それに相応しいことなど何一つしていないのに、愛され、赦されました。ですから、それは負債・借金としてあります。この愛をどのようにお返しすることが出来るのでしょう。それは、とても出来るものではありません。この与えられた愛は、私共に命を与えてくださったものですから、あまりに大きくて返済しようがありません。私共は、ただこの愛に感謝し、神様を愛し、この方を信頼し、この方に従って生きるだけです。
 神様に愛された者として、神の子としていただいた者として、私共は喜んで神様の御心に従って歩んで行きたいと願います。そのように生きる以外に生きようがありません。神様に愛されて、罪赦され、新しい命を与えられながら、神様を愛さないということなどあり得るでしょうか。確かに、罪人である私共のことですから、神様の愛を受けながら、それに応えようとしないということもあるかもしれません。しかしそれは、神様の愛が本当のところでまだ良く分かっていないからでしょう。この神様の愛は、あまりに度外れていて、徹底していて、大きく、広く、深いものですから、与えられていても十分にわきまえるには時間がかかります。これをわきまえていくには、御言葉の養いと神様の出来事による導きが必要です。それはちょうど、私共が父や母に対して「本当にありがたい」との感謝の思いを持つようになるには、子どもが大人になる必要があるのに似ています。私は子どもの時は親のことを当たり前だと思っていました。本当にありがたいと思うようになったのは大人になってからでした。皆さんもそうだったのではないでしょうか。

4.イエス様の律法の要約
 さて、神様に愛され、それ故に神様を愛する者は、神様の御心に従って生きたいと願います。そして、神様の御心を示しているのが律法です。律法は旧約聖書にたくさん記されておりますけれど、その代表が十戒です。9節でパウロは、十戒の後半である「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」を挙げます。ここでパウロは、キリスト者の他の人との関わりについて述べておりますので、十戒の後半を記したわけです。十戒の前半は、神様との関わりについて告げられています。パウロは十戒の後半を記してすぐに、「そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。」と続けます。これはパウロの発明ではありません。イエス様が教えられたことです。マタイによる福音書22章35節以下で、イエス様が律法の専門家と話したことが記されています。お読みします。「そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。『先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。』イエスは言われた。『「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。「隣人を自分のように愛しなさい。」律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。』」イエス様は十戒の前半を、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」 という申命記の言葉で要約し、後半を「隣人を自分のように愛しなさい。」というレビ記の言葉で要約されました。「神様を愛すること」と「隣人を愛すること」は別々のことではありません。この二つを一つとするのが神様の御心です。神様を愛する者は、神様の愛に応えて、神様の御心に従って、隣人を愛する歩みへと導かれていきます。

5.隣人とは
 ユダヤ人たちは、このことは当然知っていました。しかし、ユダヤ人にとって「隣人を愛する」と言った場合の「隣人」とは、ユダヤ人のことでした。ユダヤ人以外の人々は彼らの隣人ではなかった。ユダヤ人以外は汚れた者であり、それ故、愛するどころか食事を一緒にすることさえありませんでした。律法を守らないユダヤ人に対しても同様でした。しかし、イエス様が告げ、パウロが宣べ伝えた「隣人を愛する」とは、そのようなものではありません。イエス様は、律法を守らない、守れない「罪人」と一緒に食事をし、ここに神の国が来ている、あなたたちも神様の愛の中にあると告げられました。パウロは、ユダヤ人たちが決して救われないと考えていた異邦人にイエス様の救いを宣べ伝えました。ですから、この「隣人」は、キリスト者だけを意味するものではありません。神様に造られたすべての人です。親戚だけでもありませんし、近所の人や友人だけでもありません。イエス様が語られた「善いサマリア人のたとえ」(ルカによる福音書10章25節以下)から考えるならば、目の前の困窮の中にある人、私共が手を差し伸べることが出来る人のことです。その人の隣り人となるようにと、私共は求められているわけです。
 キリストの教会はこのような理解に立って、その歩みの初めから、この世の貧しい者、弱い者、小さい者のための働きをしてきました。それが、現在のキリスト教の幼児施設を始めとする様々な福祉施設、また学校や病院へと繋がってきました。キリストの教会は礼拝において「神を愛すること」、そして様々な施設において「隣人を愛すること」を行ってきました。神様を愛することは、必然的に隣人を愛することへとキリスト者を導きます。この二つが原理的に分裂することはあり得ません。私は十戒の前半だけ、私は十戒の後半だけに従う。そんなことはあり得ません。しかし、実際には分裂してしまうことがあります。そうすると、神様を愛することが歪み、隣人を愛することも歪んでしまいます。そして、神様を愛すると言いながら、隣人を愛すると言いながら、結局のところ自分を愛しているだけということになってしまう。私共は、このことをしっかりわきまえていなければなりません。

6.自分のように愛するとは
 ここで、「隣人を自分のように愛する」という時の「自分のように」とはどういうことなのか考えなければなりません。パウロは、十戒の後半の戒めとこの御言葉を重ねています。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という十戒の後半の戒めは、ただ姦淫しなければ良い、殺さなければ良い、盗まなければ良い、むさぼらなければ良い、ということではないでしょう。それで隣人を自分のように愛することになるとは思えません。ある旧約の先生は、この十戒の後半は「自分以外の人の権利を守れ、隣人の権利を守れ」ということだ、と説明します。私共は、自分の権利が守られることを当然のこととして求めます。その自分が当然のこととして求める権利、それを隣人にも認め、それが守られるようにしなさい。それが十戒の後半の戒めが求めていることだ。とするならば、隣人を自分のように愛するということは、自分が守られるべきと考える権利を隣人にも認め、それが守られるようにしなさいということになりましょう。
 私共は、隣り人がどのように考え、感じ、何を求めているのか、よく分かりません。よく分からないのに、勝手に、この人はこう考え、感じているし、これを求めている、そう思い込んでしまって、このようにしてあげるのが良いに決まっている、それをすることが「隣人を自分のように愛する」ことだと考えてしまうところがあります。しかし、そうではありません。それはしばしば「大きなお世話」ということになります。私と隣人とは考え方も生き方も違うのです。そして、私共はその隣人の心の中は分かりません。しかし、心の中は分かりませんけれども、どう見ても理不尽な扱いを受けているということは分かります。その人の命が脅かされてる、騙されて財産を巻き上げられている、性的な抑圧を受けている、そういうことは分かるわけです。聖書はそれに対して、放っておくな、生きる権利を脅かされている者を守れ、と告げています。どうして放っておいてはいけないのか。それは、その人も神様に造られた者であり、神様の愛の中にいるからです。キリスト者だけが神様に造られ、神様に愛されているわけではありません。神様に愛されていることを知らない人は大勢います。しかし、その人が知らなくても、神様はその人を愛している。だから神様は、その人を守れと私共に命じているわけです。
 色んな守り方があります。具体的な目の前の人に手を差し伸べるということもありましょう。これが何より一番大事です。しかし、それだけではありません。社会的な運動という形を取ることもありましょう。最近の #MeTooの運動もそうでしょう。それに対応する施設を作るということもありましょう。でも、私共はすべての問題に関わることは出来ません。私共には時間的な、肉体的な、経済的な限界があります。しかし、私共には「祈り」という、様々な限界を超えた手段があります。祈りは愛の業です。私共が礼拝の中で「執り成しの祈り」をしているのも、そういうことです。祈りの中で、私共はあの人のこと、この人のことを思います。また、遠く、地球の裏側で起こっていることのためにも祈れます。勿論、祈りにおいても限界があります。私共は世界中のことを知っているわけではないからです。それで良いのです。すべてを知っておられるのは神様だけです。私共は自分が知り得るところのことについて、祈るだけです。そして、目の前の人に手を差し伸べるだけです。

7.愛は律法を全うする
 この愛の営みは、終わることがありません。なぜなら、この営みは神の国へと向かう歩みだからです。神の国において完成する営みだからです。キリスト者はそのことを知っています。この世界は、神の国に向かっています。勿論、とてもそうとは思えないような出来事が次々に起きます。しかし、この世界の主、この歴史の主は、神様です。私共の小さな愛の業は、神様の御前における業であり、神様はそれをすべて見てくださっています。私共の為すことは、焼け石に水と思えることも多いでしょう。しかし、神様が見ておられるのですから、何一つ無駄なことはありません。焼け石に水に見えても、神様の御前においてはそうではありません。神様はそれを意味あるものとして受け取ってくださっているからです。
 パウロは10節で「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。」と告げます。私共は、自分は隣人に悪を行っていない、罪を犯してはいないとは言い切れないでしょう。しかし、神様の愛に生かされる者は、自らの悪を知らされれば悔い改めます。そして、御心に適うようにと新しく歩み出します。神様の愛は、私共の心を揺さぶり、体を動かします。御心が天になるごとく地にもなることを願い求めて歩み続けさせます。神様が造られ、神様が愛されているこの世界は、御国に向かっている。ですから、私共が希望を失うことはありません。神様の愛によってのみ、神様の御心である律法が全うされます。私共は、その神様の愛を注がれた者として歩みます。神様は私共を律法を全うする者として導き、生かし、用います。私共は、ただ神様の愛の道具となれば良い。私の愛ではありません。神様の愛です。神様の愛が私共に注がれている。
 ただ今から、聖餐に与ります。私共がどれほど神様に愛されているか、そのことを心に刻む時です。イエス様が、パンと杯によって、私共と一つとなってくださいます。イエス様が私共の中で生きて働き、御心に適う歩みへと導いてくださいます。ですから、イエス様の御声に従って、神様の愛に生きる者として、ここから歩んでまいりましょう。

 お祈りいたします。

 主イエス・キリストの父なる神様。
 あなた様は今朝、御言葉によって、あなた様が造られた私共の隣人を愛しておられること、その愛の道具として私共が選ばれ、遣わされ、用いられることを教えてくださいました。私共がイエス様の心を我が心として、隣人を愛し、あなた様の御業の道具として歩めますように、心から願い、求めます。どうか、自分のことしか考えることの出来ない心を打ち砕き、困窮の中にある人々のために祈り、小さくても愛の業を為していく者へと導いてください。
 この祈りを、私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。  アーメン

[2022年10月2日]