日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「愛と正しさ」
レビ記 11章1~22節
ローマの信徒への手紙 14章1~6節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
今朝与えられた御言葉において、パウロは「信仰の弱い人を受け入れなさい。」と語り始めます。生まれたばかりのキリストの教会の交わりにおいて、問題が起きていたのです。キリストの教会には色々な人がいます。幼子から年老いた者まで、色々な状況の中で生きている人がおり、社会的な立場も様々です。当時のローマの教会には、奴隷もいれば、奴隷を召し抱えている人もいました。男性もいれば、女性もいる。そして、ユダヤ人もいれば、異邦人もいたわけです。様々な背景を持った人たちが、ただイエス様に救われ、イエス様を我が主・我が神と信じている、この一点で結ばれた共同体、それがキリストの教会です。私共はそれを、当たり前のこと、分かりきっていることのように思ってしまうところがあります。しかし、実際にはそうなってはいないと気付かされる時があります。それは、教会において問題が起きたり、対立が起きたりする時です。その時、「教会はただキリストを信じる信仰によって形作られている共同体である」ということに気付いて、そこに立ち帰るならば、それは大したことにはなりません。パウロはローマの教会に起きていたことを聞いていたのでしょう。それで、「ただイエス・キリストを信じる信仰によって結ばれた群れ」であることをはっきりと示し、それ以外のことで混乱したり争ったりしている状況を鎮めたいと願い、これを記したのでしょう。

2.食物規定
 ここで「信仰の弱い人」と言われていますのは、「何を食べてもよいと考えることが出来ずに、野菜だけを食べている人」のことです。つまり、食べてよいものと悪いものがあると考え、食べてもよいと考えるものだけを食べる人です。この根っこには、先ほどお読みしました旧約のレビ記11章に記されている「食物規定」というものがあります。22節までしか読みませんでしたけれど、この後も11章の最後までずっと続きます。ユダヤ教では、この食物規定をきちんと守っていました。この食物規定は、汚れたものを食べると自分も汚れてしまう、神様は汚れを嫌う、だから汚れたものを食べない、というものです。このような習慣・文化の中で育ちますと、そのようなもの食べるなんてことは考えられない。もし口にしようものならば、きっと気分が悪くなって吐いてしまうでしょう。
 最近、イスラム教の人たちが日本にも来るようになりましたが、彼らは持っている食物規定に沿って処理された食材しか食べません。食べることが出来るものを「ハラルフード」と言い、特別な機関によって認定されたものでなければなりません。これをイメージしていただければ良いかと思います。
 ユダヤ人たちも厳格な食物規定を持っていました。しかし、キリストの教会はそれを止めました。これについては、使徒言行録10章において、ペトロが神様から夢で示しを受けたことが記されています。ペトロは、天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に降りて来るのを見ました。その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていました。そして神様が、「ほふって食べなさい。」と告げたのです。ペトロは、「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」と答えます。それに対して、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」と神様に告げられたのです。この出来事は、直接的には「異邦人伝道」へと道を開くものでした。異邦人も、ユダヤ人から見れば汚れた者と見られており、神様の救いに与ることは決してないと考えられていました。しかし、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」と告げられたペトロは、この後すぐに、初めての異邦人伝道へと導かれたと記されています。そしてこの出来事によって、キリストの教会においては、ユダヤ教の食物規定には縛られないということへと導かれていくことになりました。異邦人たちは、そんな食物規定など知らずに生きてきたわけで、キリスト者になってユダヤ教の食物規定に従えと言われても、何のことがさっぱり分からなかったでしょう。
 そして、ここにはもう一つの背景があります。これについては、コリントの信徒への手紙一の8章に詳しく記されています。当時、ギリシャの神々の神殿に献げられた肉が神殿の中で処理しきれず、市場に払い下げられて、普通の肉として売られていたのです。市場で肉を買って食べると、神殿から払い下げられたものかもしれない。偶像礼拝に用いられた肉を食べたら、自分も汚れてしまう。だから肉は食べない。そういう人がローマの教会にいたのです。彼らはユダヤ人キリスト者だったと思います。これを放っておけば、異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者の間に大きな溝が出来、対立が激しくなってしまう。そういう状況がローマの教会にあった。たかが食べ物のことではないかと思われるかもしれませんが、この問題は、生まれたばかりのキリストの教会にとって最重要課題と言ってもよいほどの問題で、これが原因で教会が分裂してしまうかもしれないという大問題でした。

3.弱い人と強い人
 パウロはここで、食物規定に縛られている人たちを「信仰の弱い人」と言っています。反対に、何を食べてもよいのだと考えている人に対して「信仰の強い人」という言葉は使われていませんけれど、そういうことになるでしょう。この信仰の強い人は、イエス様の十字架によって一切の罪を赦された、自由にされた。だから、この救いの恵みは、何を食べるか食べないか、そんなことによっては全く影響は受けない、と考えていた人たちです。そして、実際、何でも食べていました。それは、信仰の筋道から言えば正しいのです。しかし、そこで食物規定に縛られている人たちを「軽蔑する」ということになれば、話は別です。一方、「信仰の弱い人」とパウロに言われている人は、自分では「信仰が弱い人」とは思ってはいなかったでしょう。何でも食べる人のことを、あんな汚れた物を食べて、それでもキリスト者か、救われると思っているのか、そう思って「裁いていた」のです。互いに、自分のほうが正しいと思って、相手を非難していたわけです。確かに、イエス様の福音によって救われた者は、何を食べようが、何を飲もうが、そんなことでイエス様の救いが無効になるはずがないという信仰理解は、正しいのです。だからといって、長い間、食物規定と共に生きてきた人たちが、それから中々自由になれないからといって「軽蔑する」とは、どういうことか。そこには、共にイエス様の十字架によって救われた者としての愛があるのか。パウロはそのことを問題にしているのです。
 このことが具体的に問題になったのは、愛餐の時だったと思います。今はコロナ禍で、教会で愛餐会は行えません。しかし、キリストの教会は、パウロの時代にはほぼ毎週、愛餐といって、礼拝後に一緒に食事をするということが行われていました。しかし、この食物規定をめぐって、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が、一つのテーブルを囲んで食事をすることが出来なくなっていました。礼拝においては、独りの主を賛美し、祈りを共にし、御言葉に共に耳を傾けて、聖餐に共に与っていながら、いざ食事をしますという段になったら別々になる。これは変でしょう。「そこに愛はあるんか?」と問いたくなります。

4.神は受け入れた
 パウロは、そのような状態を良しとはしませんでした。その理由ははっきりしています。3節b「神はこのような人をも受け入れられたからです。」神様が受け入れたのに、どうしてあなたがたは互いに受け入れないのか。神様に受け入れられた者、神様に赦され、共に神の民とされ、神の子・僕とされた者同士ではないか。それなのに互いに軽蔑し、裁いている。これはどういうわけだ。そうパウロは告げているのです。
 これは、食物規定だけの問題ではないでしょう。考え方の違い、生活習慣の違い、民族の違い、人種の違い、そのようなものによってキリストの体である教会が分断される、そのことを問題にしているのです。しかし、そのようなことは、キリストの教会の出発の時からありました。使徒言行録6章1節に、「そのころ、弟子の数が増えてきて、ギリシア語を話すユダヤ人から、ヘブライ語を話すユダヤ人に対して苦情が出た。それは、日々の分配のことで、仲間のやもめたちが軽んじられていたからである。」とあります。これは世界で最初のキリストの教会、エルサレム教会でのことです。エルサレムではヘブライ語を話すユダヤ人のほうが多かったのでしょう。そこでギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちが軽んじられたのです。この頃、キリストの教会は、礼拝において献げられた物で聖餐に与り、愛餐をして、残った献げ物はやもめたちや貧しい人たちに分配していました。そこで不公平が起きたというのです。いわゆる、自分たちの仲間には手厚くするという心が働いてしまったのです。それは「ただキリストを信じる信仰によって形作られている共同体」ということが忘れられてしまったからです。忘れられてしまったというのは言い過ぎかもしれません。それは分かっていた。しかし、「ただキリストを信じる信仰によって」というところの「ただ」というところがはっきりしなくなってしまったのでしょう。私共はキリストに救われた者である。この一点で結ばれているのがキリストの教会です。この一点における結びつきは、他のどのような点における違いをも凌駕します。この一点における結びつきは、肉体の死をも超えた結びつきです。神様が受け入れてくださった。神様が神の民としてくださった。神の子、神の僕としてくださった。そこにおいてのみ、私共は一つとされています。それ以外のところでは何一つ一致するところがなくても、私共は結び合わされて、愛の交わりを形作るし、形作ることが出来る。それが、キリストの体である教会というものです。

5.信仰の視野狭窄
 私の前任地での経験ですが、ある社会的な問題にとても熱心に取り組んでいる牧師がいました。その方は、本当にその活動に全生活を投入していると言っても良いほどに、熱心に活動していました。大したものだなと思っていました。ところがある時、この牧師が「この活動を一緒にしない教会は、教会じゃない。」と言ったのです。これは単にレトリックだったのかもしれませんし、みんなを鼓舞するためにこう言われたのかしれません。しかし、私は瞬間的に、「違う」と思いました。教会はそんなものではない。教会は礼拝共同体であって、どんなに正しいと思えることであっても、それを行うことによって教会になるなどということはあり得ません。私共が結ばれているのは、「ただ信仰によって」です。教会は活動団体ではありません。確かに教会は様々な活動をします。それは「各自が自分の心の確信に基づいて決めるべきことです。」(5節b)から、そこでは色々と違っていて良いのです。
 この出来事を通じて分かったことがもう一つあります。それは、私共は何かに一生懸命取り組んで、そこに全力投球しますと、その問題を通してしかすべてを見られなくなるということです。心の視野狭窄が起きるのです。この視野が狭くなったところからしか神様が見えなくなり、それとの関わりでしか信仰や教会が見えなくなる。ストレートに神様が見えなくなる。そして、「ただ信仰によって」ということが分からなくなる。これは気をつけなければなりません。

 

6.食物規定から、暦から、自由に
 キリスト者になる前の様々な考え方や生活習慣といった、尻尾みたいなものを私共は色々持っています。この日本で生まれ育った私共は、日本の文化や習慣によって培われた感覚を持っています。キリスト者になったからといって、その日本的なるものをすべて無くして、すべてがキリスト者に相応しい者になったというわけではありません。5~6節には暦の問題が出てきます。この時代、何より大きかったのは安息日です。或いは、旧約にある新月の祭りなど、毎月のようにユダヤ教の祭りがあり、これをどうするのか。キリストの教会でも行うのか。中でも安息日の扱いは難しいものがありました。安息日は土曜日です。この日をどう過ごすのか。福音書を読めば分かりますように、ユダヤ教は、安息日規定を厳格に守ることによって自らの信仰を確かなものと確認する、そのような面がありました。食物規定も安息日規定も、ユダヤ人として生きてきた者にとって、そう簡単に捨てられないものでした。しかし、異邦人キリスト者にとっては、食物規定も安息日規定も関係ありません。そこで、食物規定に対するのと同じように、教会内に対立が起きてしまっていたわけです。
 現代の日本では、このようなことはピンと来ないかもしれませんけれど、強いて言えば、葬式の時の食事を精進料理にするかしないか、結婚式や婚約式を仏滅にするかしないか、葬式を友引にするかしないか、そんな問題くらいかもしれません。ちなみに、私の婚約式は仏滅の日でした。そんなことは全く考えずに日にちを決めました。そして、終わってから両親に言われて初めて気づきました。両親は「牧師になる者は大安だとか仏滅だとかは関係ないんだな、と納得したので、何も言わなかった。」と、後になって言いました。私共は全く気にしませんけれど、気にする人がいるなら配慮しても良かったのかとも思います。逆に、この出発の時から「この子たちは牧師の夫婦として、こういう風に生きていくんだ。」ということを明らかに出来たので、かえって良かったのかも知れません。私が牧師になる者だったので、気を遣ってくれたのでしょう。日本においてキリスト者として生活する上で、この手の問題は意外に大きいことなのかもしれません。
 このことについては、先ほど申しましたコリントの信徒への手紙一の8章において、異教の神殿で献げられた肉を食べてよいのかどうかということに関して論じた最後に、パウロは13節「食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません。」と告げています。ギリシャの神々の神殿に献げられた肉を食べても、私共の救いには何も関係ないけれど、それでつまずく人がいるならば、自分はしないと告げます。それは正しさの問題ではなくて、愛の問題だと言っているわけです。

7.主人は誰か
 ここで大切なことは、キリスト者の主人は誰かということです。パウロは4節で「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。」と告げます。キリスト者の主人は神様です。その神様が受け入れてくださっているのに、召使い同士が裁くとはどういうことか。あなたにそんな権利はありません。あなたはそんなに偉い者ではありません。思い違いをしてはいけない。そう言うのです。本当にそうだと思います。「召使いが立つのも倒れるのも」とは、私共が救われるのも滅びるのも、ということです。それはただ主人である神様によります。私共が決めることが出来ることではありません。そして、「召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです。」つまり、神様はその人を救うことがお出来になるし、そうしてくださる。この神様の救いに与った者として、あなたは召された。あなたが軽蔑したり裁いたりしている人も、この神様の救いに与った者だ。それが分かっていますか。そうパウロは告げるのです。

8.何のために、誰のために、行うのか
あなたが大切だと思っていることは、「自分の心の確信に基づいて」行ったら良い。しかし、それは他の人に強要するものではありません。あなたは「主のために」そうしたら良い。それに反対の立場の人も「主のために」そうしたら良い。神様の救いに与った者として、そうしたら良い。それだけのことだとパウロは言います。禁酒・禁煙もその類いでしょう。
 「キリスト者は、この問題に対してはこうすべきだ。」という言い方をする人がいます。しかし、そのような言い方は控えたほうが良いでしょう。色々な立場、考え方があるからです。私共は自分の確信に従って、「主のために」それをすれば良いだけのことです。そして、違う立場の人も、神様が救ってくださった人として重んじる。そこに愛が現れます。愛は私共の考える正しさを超えていきます。私共の正しさは対立を生み、神の愛は和解へと導きます。そして、その愛によって、キリストの教会は建ち続けていくのです。
 ある神学者が「世界は教会になりたがっている。」と申しました。対立がそこでもここでも起きている世界。自分の正しさだけを主張して相手をやっつけようとする世界。傷つき、嘆きが満ちている世界。この世界は救いを求めている。その救いは、神様の赦しによって生かされている者たちの群れである教会にあります。教会は、ここに救いがあるということを、この世界に向かって証しを為すために建てられているのです。

 お祈りいたします。

 主イエス・キリストの父なる神様。
あなた様は今朝、御言葉によって、裁いたり批判したりしてしまう私共の罪を明らかにし、それを超えて愛と赦しに生きるようにと勧めてくださいました。教会がそれを証しする群れとして立っていくことが出来ますように。また御言葉に従って、今週一週間、私共があなた様に遣わされた者として歩んで行くことが出来ますよう、聖霊なる神様の導きを心から願い、祈ります。
 この祈りを、私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2022年10月23日]