日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「神の国は飲み食いにあらず」
詩編 145編10~16節
ローマの信徒への手紙 14章10~17節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 先週の主の日の礼拝は、先に天の父なる神様の御許に召された方々を覚えて、召天者記念礼拝として守りました。教会員以外の遺族の方々が40名ほど来られました。ここ2年ほどはコロナ禍のために集うことの出来なかった遠方からの御遺族の方々も来られました。御遺族の方々と共に、敬愛する兄弟姉妹を思い起こしつつ、そのお一人お一人が、神様のものとされ、神様・イエス様との愛の交わりを与えられて、この地上の生涯を歩んだこと。そして、決して断ち切られることのない愛の絆で神様・イエス様と結ばれた者として、天の父なる神様の御許に召されたことを覚え、共に御名を誉め讃えました。今年の召天者記念礼拝では、毎週読み進めておりますローマの信徒への手紙をそのまま読み進める形で、御言葉を受けました。今朝与えられた御言葉の直前、ローマの信徒への手紙14章7~9節です。「わたしたちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」
 ここでパウロは、キリスト者に例外なく与えられている救いの恵み、イエス様に救われている現実を告げています。キリスト者は、生きるにしても、死ぬにしても、キリストのものであり、イエス様が私共の主人であり、イエス様と共にある命に生きている。イエス様と結ばれた者として生きている。この恵みを告げてすぐ、今朝与えられている御言葉の10節は、「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。」と語り始めます。パウロは14章の始めから、ローマの教会の中にあった食事を巡っての対立に対して、それを乗り越えていくために勧めを告げています。その中で、7節から9節において、キリスト者とは何者なのか、どのような恵みの中に生かされている者なのかを告げたわけです。理由ははっきりしています。このようなキリストとの愛の交わりに生かされた者たちが、イエス様の救いに与った者たちが、キリストの体である教会において、そのように対立するなんておかしいではないか。そうパウロは言いたいのです。

2.何が問題だったのか
どのような対立であったのか、振り返ってみましょう。2節に「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。」とありますように、それは食事における、何を食べるか、食べてはいけないのかということに関するものでした。旧約において食べてはいけないとされていた汚れたもののリストにあるものは食べない。或いは、異教の神殿に献げられた肉が市場に出回っていて、それに気付かずに食べてしまうかもしれないので、肉は一切食べない。そういう人たちがいる一方で、何を食べてもイエス様によって救われた恵みには何も関係ないと考えて、何を食べるか食べないかということに頓着しない人々。この二つのグループの間で対立が起きていたわけです。何を食べるか、食べないかということに気を使っている人々を、パウロは「信仰の弱い人々」と言います。そして、何でも食べる人々はそのような人々を軽蔑していたし、あれも食べない、これも食べないといった人々は、何でも食べる人々を裁いていました。皆さんはどう思われるでしょうか。何を食べるか、食べないかといった、実につまらない小さな問題で何で対立なんかするのか。馬鹿馬鹿しいと思われるでしょうか。
 しかし、これはローマの教会だけで起きていた対立ではありませんでした。そうではなくて、この時代のキリストの教会全体を覆っていた、教会を真っ二つに分裂させかねない大問題だったのです。この対立の根本にあったのは、旧約をどのように受け継ぐのかという問題でした。これは食べ物以外においても、安息日をどうするのか、旧約の祭りをどうするのか、或いは、神殿の祭儀、犠牲を捧げることはどうするのか…色々なことに波及していく問題でした。そしてそれは、ユダヤ人キリスト者対異邦人キリスト者の対立という背景もありました。更に言えば、生まれたばかりのキリストの教会が、ユダヤ教の一派として歩んで行くのか、或いは、ユダヤ教の枠を超えてキリスト教という新しい宗教として歩んで行くのか、という問題でもありました。
 結論を言えば、キリストの教会はユダヤ教というユダヤ民族の宗教という枠を超えて、すべての民族に対して救いをもたらす世界宗教としての道を歩んでいくことになります。

3.正しいだけでは正しくない(1)~そしりの種~
 この問題に対してのパウロの理解ははっきりしています。14節でパウロは、「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。」と告げています。それを食べたら汚れるとか、そのもの自体が汚れているなどというものは何もないし、それを食べたからキリストの救いからこぼれてしまうとか、救われないなどいうことは全くない。それははっきりしているのです。何を食べようと、イエス様の十字架の救いの絶対性は少しも揺るぎはしません。問題は、その福音理解の正しさに立って「兄弟を裁き、侮る」ということです。そこには、「自分は正しい」という思い上がりがあるのではないか。そうパウロは指摘しているわけです。私共は主の御前に膝を屈めて、自らの罪を赦していただかなければならない者ではないか。そして、実際、神様に赦していただいて、救いに与った者です。ですから、決して「自分は正しい」という所に立って、自信を持って他の人を裁けるような者ではありません。だから、「もう互いに裁き合わないようにしよう。」とパウロは告げるのです。「私たちが正しいのだから、間違っているあなたたちの主張を引っ込めろ。そして、私たちの言うとおりにしろ。」というような対立・争いをするなと言うのです。それは16節にあるように、「あなたがたにとって善いことがそしりの種」になってしまうからです。何を食べもよいと考えている人も、これもあれも食べないと考えている人も、お互いに自分たちは「善いこと」をしていると思っているわけです。お互いにです。ところが、それが互いに悪口を言い、相手を非難する理由になっている。善いことだと確信していることが、対立の原因となり、相手をそしる理由になっている。まことに皮肉なことです。悪いことをして「そしられる」ならば分かります。しかし、そうではないのです。「善いこと」が互いに相手を「そしる」原因になっている。善いこと、正しいことは、それだけでは本当に善いこと、正しいことにはならないということです。

4.正しいだけでは正しくない(2)~愛があるのか~
 15節で「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。」とパウロは告げます。相手が心痛めることが分かっていながら、自分の正しさだけを主張し、或いは相手を排斥するというのは「愛がない」ではないか。自分と意見が違う、考え方が違う、それ故に敵対している人のためにもイエス様は十字架にお架かりになりました。その人もイエス様の十字架によって罪赦された者です。自分と同じ神様・イエス様の愛の中にいる人です。その人と対立し争うことは、神様・イエス様の愛の交わりを、自分で破壊してしまうということです。それは、「もはや愛に従って歩んで」いないと言わざるを得ません。
 キリストの教会という交わりは、正しいことを主張するだけではダメなのです。そこに愛がなければ、教会はその存在意義を失ってしまう、そういうものなのです。教会においては「世の中とはそういうものだ。人間なんてそんなものだ。」というような言葉がまかり通ってはならないのです。なぜなら、キリストの教会は「神の国」を指し示す存在だからです。この世に存在しながら、この世の常識の中にどっぷり浸かっている存在ではない。この世の常識を越えた、神の国を指し示す存在です。神の国とは、神の支配ということです。ここに神様がおられ、すべてを支配しておられるということが明らかになる、そのような交わりであることが教会には求められている。神様によって求められているのです。
 「そんなことを言っても、教会にも問題は起きるじゃないか。」おっしゃるとおりです。教会は神の国そのものではありません。地上にある、「罪赦されし罪人」の集いです。ですから、この社会の中で起きる問題はすべて教会においても起きると言って良いほど、様々な問題が起きます。しかし、教会はその問題を乗り越えて、なお神の国を指し示していくことを求められています。確かに、すぐには解決出来ないような問題も起きます。その最初の大きな問題が、この食物に関する対立であったと言っても良いでしょう。パウロはこの問題を、キリストの「愛」と教会とは何かということを示し、そのことによって教会のあるべき姿を思い起こさせて、乗り越えようとしたのです。

5.神の国は(1)~飲み食いではない~
 パウロは17節で、「神の国は」と語り始めます。神の国とは、キリストの教会が指し示すものであり、すべてのキリスト者が目指しているものです。パウロは、その神の国とは「飲み食いではない」と告げます。何を食べ、何を飲むのか。逆に、何を食べず、何を飲まないか。そのようなことによって指し示されるものではない。そう明言します。何を食べ、何を飲むのか、そのような私共の行いによって神の国が指し示されることもないし、神の国が現れ出るようなこともない、と言うのです。このことは、単に飲み食いの話だけではなくて、自分たちが行うすべての業を含んでいると言って良いでしょう。つまり、私共が為す善き業によって神の国が来るのでもないし、神の国を指し示すことが出来るのでもないということです。
 では、何によって神の国は現れるのか。何によって神の国は指し示されるのか。それは、はっきりしています。「聖霊によって」です。私共が善いことをして、その結果、神の国が来るのではありません。神の国は、ただ聖霊なる神様によってもたらされます。聖霊なる神様が与える愛、それが満ち満ちることによって、神の御支配がここにあるということが明らかになるのです。これはとても大切な点です。私共はどこかで、自分たちの善き業によって、神様の御心を現し、ここに神様の御臨在が明らかになる交わりを形作れると考えているところがあるかもしれません。勿論、神様の御心に従った善き業に励むことは大切です。しかし、それによって神の国が来るのではないし、それによって教会が神の国を指し示す交わりになるわけでもありません。なぜなら、「自分は善いことをしている。正しいことをしている。」という自信を持った途端に、それは自惚れとなり、自分の正しさや善いことと一致しない人を侮り、裁くということが起きてしまうからです。この時ローマの教会で起きていた食べ物に関しての対立は、そういうことでした。何を食べてもよいと考えていた人も、野菜しか食べないと決めていた人も、お互いに自分が正しいと信じて疑わなかったのです。
 だったら、どうしたら良いのでしょう。それは、聖霊なる神様の御臨在と聖霊なる神様の御支配を願い求めることです。そして、互いに愛し、互いに仕え、互いに支え合うことです。自分の正しいと考えることに固執し、それを通そうとすることでもでもなく、自分が正しいと思う行いに皆を従わせることでもなく、ただ聖霊なる神様の御臨在と聖霊なる神様の御支配を願い求め、互いに愛し、互いに仕え、互いに支え合う。それだけです。

6.神の国は(2)~義と平和と喜び~
パウロはそのことを「神の国は、…聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。」と告げます。聖霊なる神様が御臨在してくださり、御支配してくださる時、教会は「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」が満ちるのです。そして、それによって、教会は神の国を指し示すものとなります。
 「聖霊によって与えられる義」とは、主イエス・キリストの十字架によって与えられる義です。ただ信仰によって与えられる義です。義とは正しさということですけれど、この正しさは神様の御前に悔い改め、神様の憐れみによって赦していただいて与えられる義、正しさです。私共は主の日の礼拝の度ごとに、この「聖霊によって与えられる義」に与ります。今日は11月の最初の主の日ですので、聖餐に与ります。この聖餐によって私共に差し出され、私共が受け取るのは、この義です。自らの善き業によって立てられる義ではありません。また、私共が頭の中で考え出した正しさでもありません。そのような正しさは、必ず自らを誇ることになります。これは徹底的に与えられる義、与えられる正しさです。
 次に、「聖霊によって与えられる平和」です。これは、何よりも神様との間に与えられる平和です。イエス様が私共のために、私共に代わって十字架にお架かりくださった故に、神様は私共を、既に罪の裁きを受けた者と見なしてくださいます。そして、神様は私共を「我が子よ」と迎えてくださいました。ここに与えられた平和です。この神様との平和が与えられることによって、私共の基本的な生きる姿勢、心の状態が「戦闘モード」ではなくなりました。私共はもう神様に対して、また隣り人に対して戦わなくて良いんです。「愛と平和のモード」に切り替わったのです。人は神様との関係で「戦闘モード」にありますと、神様に裁かれないように、いつも身構えていなければなりません。身構えて、「これはこういう理由によります。」「これはそのような意図ではなく、このような目的のためにしたことです。」などといつも言い訳を用意します。人に対しても同じです。心に鎧を着けて、心を開くことが出来ません。隙を見せれば攻め込まれてしまうからです。ですから、いつも肩に力を入れている状態です。しかし、神様との平和を与えられた者は、いつもぴりぴりしている必要はなくなりました。ボーッとしているというわけではありませんけれど、神様に対しても、隣り人に対しても、鎧を捨てて、心を開いて交わることが出来る。それが「愛と平和のモード」に切り替わったということで、そのような者同士の交わりが、聖霊なる神様によってキリストの教会には与えられるのだ、とパウロは言うのです。そのことによって、教会は神の国を指し示すのです。
 そして、最後に「聖霊によって与えられる喜び」です。教会には聖霊なる神様によって喜びが与えられます。それは救われた喜びです。神の国は、神様・イエス様との親しい交わりを喜んでいる人たちで溢れています。これもとても大切であり、なくてはならないことです。教会が神の国を指し示しているとするならば、この喜びがなければ、神の国とは一体どんなところだと言うのでしょう。勿論、愛する人を天に送ったばかりの者が、教会においては喜んでいる。そんなことはありません。しかし、「死によってすべては終わった」と考えている人と比べるならば、その愛する者を喪った嘆きと悲しみは、その人を完全に支配するほどの力はありません。主の日にここに集う度に、永遠の命、復活の命が与えられる神の国の完成を仰ぎ望むからです。また、神の国は喧々諤々(けんけんがくがく)、皆で議論しているところでしょうか。或いは皆が嘆き悲しんでいるところでしょうか。もし、そんなところなら、私は行きたくありません。皆さんもそうでしょう。神の国では、皆が喜んでいる。更に私のイメージで言えば、神様を賛美している。喜びの賛美を捧げている。それが神の国でしょう。音楽は教会音楽と共に発展してきました。それは、神の国を目指す者にとって、この音楽というもの、特に賛美というものが不可欠なことだったからです。私共は神様・イエス様と、顔と顔とを合わせるようにして相まみえることになります。それが神の国です。神様・イエス様と相まみえて、眉間にシワを寄せる人なんていません。神様・イエス様と相まみえて、どうして喜ばないでいられましょう。教会に救われた喜びが満ちあふれる時、教会は神の国を指し示すことになります。
 私共はそのような神の国を指し示す交わりであるキリストの教会に招かれました。そして、この交わりの中で生きることが許されています。何と幸いなことでしょう。この恵みに感謝して、共に主に祈りを捧げ、賛美を捧げたく思います。

 お祈りいたします。

 主イエス・キリストの父なる神様。
 あなた様は今朝、御言葉を通して、聖霊なる神様によって、教会が神の国を指し示す交わりとなっていくことを教えてくださいました。私共は、愚かで傲慢な者です。自らの正しさを誇り、すぐに隣り人を侮ったり、裁いてしまうような者です。主よ、憐れんでください。どうか、私共に聖霊を豊かに注いでくださって、あなた様の愛で満たしてください。私共の交わりを、義と平和と喜びにあふれた群れとしてくださり、神の国を指し示す者とならせていってください。
 この祈りを、私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2022年11月6日]