日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「自分の満足ではなく」
申命記 10章12~22節
ローマの信徒への手紙 15章1~6節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 ローマの信徒への手紙を共々に読み進めてまいりまして、14章においては、ローマの教会の中にあった食物を巡る対立に対して、互いに裁いてはならないということを告げられました。14章の1節では「信仰の弱い人を受け入れなさい」と告げ、15章の1節では「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきだ」と告げています。弱い人、強い人、強くない人とパウロは言います。ここで言われている「強い人」というのは、何を食べようとイエス様の救いには関係ないのだから、何も気にしないで何でも食べます、何でも飲みますという人のことです。多分、異邦人キリスト者に多かったでしょう。一方、「弱い人」というのは、これを食べたら汚れてしまうのではないか、救いからこぼれてしまうのではないかと考えて、様々な食べ物を食べることが出来ない人のことです。多分、彼らはユダヤ人キリスト者が多かったでしょう。異邦人キリスト者とユダヤ人キリスト者。この対立が、生まれたばかりのキリストの教会において起きてしまいました。この対立を放っておいたならば、神様の御支配・神の国を指し示すキリストの教会は、その役目を果たせません。そこで、何とかこの対立を乗り越えさせ、神の国を指し示す共同体、キリストの体としての教会の本来の姿、愛の交わりを取り戻したい、そうパウロは願ってこの箇所を記しました。
 その結果、この手紙を受け取ったローマの教会は、この問題を乗り越えることが出来たのかということに関しては、「キリストの教会はこの問題を簡単に乗り越えました」とは言い切れない所があります。この問題はしばらくの間キリストの教会を苦しめました。しかし、やがて乗り越えていきました。キリスト教の伝道がローマ帝国内に進展していくに伴い、ユダヤ人キリスト者の割合がどんどん少なくなっていったということもありましょう。しかし、このパウロの手紙が果たした役割も大きかったと思います。この手紙はローマの教会に宛てられたものですけれど、ローマの教会の中だけで読まれたのではなくて、その他のパウロの手紙と同じように、近隣の教会に回覧されたと考えられます。そして、この手紙に記されているパウロの思いを受け取り、そのようにして生きていこう、歩んでいこう、そう願ったキリスト者たちが多く生まれ、育っていった。このことが大きいと思います。そして、このパウロの言葉は、食べ物を巡る問題だけではなくて、キリストの教会において起きる様々な問題に対して、どのように対処していくべきなのか、その基本的な筋道を提供したと言って良いでしょう。

2.強い人と弱い人
 ここでは強い人、弱い人という言い方をされますけれど、私共の日常的な感覚で言えば、パウロが語る強い人と弱い人は、私共の考える強い人・弱い人とは逆になっている感じがします。つまり、「キリスト者とはこうすべきである」ということを様々に設けて、それに忠実に従う人、それを実行している人、これが私共の感覚で言えば「信仰の強い人」でしょう。一方、そのようなものに頓着せず、気ままにと言えば言い過ぎでしょうけれど、自由に信仰の生活をしている人は、「信仰の弱い人」と考えているのではないでしょうか。そして、信仰の強い人は信仰の弱い人を裁くということが起きる。これは何時の時代でも、どの教会でも起きることです。それは私共の中に、「自分の真面目さによって」或いは「自分の善き業によって」という、イエス様に出会う前の尻尾のようなものが付いているからなのではないかと思います。この尻尾が中々断ち切れない。パウロはこの「尻尾を断ち切れない人」を「弱い人」と言っているわけです。しかし、私共が弁えておかなければならないことは、どっちが強いか、どっちが弱いかということではなくて、人には違いがあるということです。色々な人がいるということです。大切なことは、その違いをお互いにどのように受け止めるのかということです。
 パウロははっきりこう告げています。1節「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」どっちが強いにしても、その強さは弱い人を担うためにある。自分の救いだけを考えて、これが正しい、これでやっていけば良い、これで私は救われる。そんなところに立っていてはダメだと言うのです。一人の信仰者を見ても、この面では弱いけれど、この面では強い、そういうこともあるでしょう。誰でも、強い面もあれば弱い面もある。大切なことは、その自らの強さを誇ったり、自らの弱さを恥じることではありません。また、自分の弱いところを、自分の強いところで補うということでもありません。私共は強い面も弱い面も全部ひっくるめて、全体としてイエス様によって赦され、救われています。ですから、自分の弱さを恥じて、嘆くことはありません。まして、強いと思っているところで自らを誇り、自らを頼るならば、それは本当は弱いということになりましょう。そこにおいてはキリストを頼っていないからです。大切なことは、その強いと思っているところを、強くない人の弱さを担うために用いようとするかどうかなのです。

3.キリストに倣いて その根拠を、パウロははっきり告げます。それはイエス様がそうだったからだと言うのです。3節「キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。」と告げます。イエス様が「自分を満足させる」、直訳すれば「自分を喜ばせる」ですが、イエス様はそんなことはされなかった。もし、イエス様が自分を喜ばせることを求めておられたならば、天から降って乙女マリアから生まれることはありませんでしたし、十字架にお架かりになることもありませんでした。しかし、イエス様は私共のために十字架にお架かりになり、その尊い血潮をもって私共を一切の罪から贖ってくださいました。そのイエス様によって救われた私共が、どうして「自分の救いだけ」を求めることが出来ましょう。イエス様は私を愛してくださり、弱い人も愛してくださっている。だったら、私共は弱い人の弱さを担うことを求められているのではないか。それがイエス様の愛に生かされ、イエス様に従っていく私共の歩みなのではないか。そうパウロは告げるわけです。
 パウロは1節で「わたしたち強い者は」と言いますが、それは自らの強さを誇っているのではありません。「わたしたちは弱い人の弱さを担う責任がある者なのだ」と言いたいのです。私共はここで、「いえいえ、パウロさんは確かに強いでしょうけれど、私は強い者ではありません。ですから、弱い者の弱さを担うなんてとても出来ません。」と言い訳したくなります。しかしパウロは、「わたしたち強い者は」と告げることによって、この手紙を読む人に向かって「あなたは強い」と語りかけているのです。先ほども申しましたように、私共はすべての面において強いわけではありません。すべての面において強かったのはイエス様だけです。そのイエス様が、十字架の死という最も弱い者の姿を選ばれた。そして、私共の罪という、最も弱いところを担ってくださった。そこに愛がある。とするならば、私共の愛もまた、その歩みに倣うしかないではないかということです。

4.弱さを担う
コロナ禍が始まって、もう2年と9ヶ月になります。今は第8波が始まったと言われています。一体、第何波まで数えていくのだろうかと思いますけれど、このコロナ禍が始まりまして、私共の状況も随分変わりました。教会の中で一番変わったと思いますのは、インターネットを使って主の日の礼拝を配信するのが当たり前になったこと、そして教会の会議や研修もインターネットを使うことが当たり前になったことです。今日の午後も、北陸連合長老会の巡回長老会をインターネットを用いて行います。勿論、対面で行う良さはありますし、すべてをこれに変えれば良いとは思いませんけれど、私の出張はほとんどなくなりました。これは、体力的にも経済的にも、本当に助かります。もう3年前には戻れないなと感じています。
 主の日の礼拝のインターネットでの配信は、主の日の礼拝に集うことが出来る人が、礼拝に集うことの出来ない「弱さ」を持つ人を担うために行うことにしました。もっとも、インターネットを使うことが出来ないという人もいますので、そのような人には礼拝説教と週報を郵送しています。これは、コロナ禍の中で私共の教会が「強い者は、強くない者の弱さを担うべきである」との御言葉に従って行うことになった、一つの具体的な業と言えます。
 私共は「自分が何を担えるのか」、そのことをイエス様の御前で受け止める必要があります。キリストに倣って歩む。その歩みの鍵は、この「弱さを担う」というところにあります。勿論、イエス様の歩みと私共の歩みが一致する、一致出来るというのではありません。しかし、私共の歩みがイエス様の歩みと重なる、ずれてはいても重なる。これが大切です。イエス様の歩みと私共の歩みが、全く関係ない、全く別々であるとするならば、やっぱりおかしいと思います。丁度、雪の降った後、前の人が歩んだ足跡に自分の足を重ねるようにして歩む。多少ずれようとも、このイエス様の足跡に重ねていこうとする歩みがキリスト者の歩みなのであり、その歩みを為そうとする中で、神様の御支配が現れてくる交わりが形作られていくのでしょう。私共の一歩一歩の歩幅は違います。元気な人は大股で、小さい人は小股で続きます。そして、イエス様はそれぞれに合わせた歩幅で、私共の前を歩んでくださいます。だから、イエス様の足跡に重ねていくことが出来る。何よりも、イエス様が「わたしの足跡に重ねるように歩んで来たらよい。」そう励ましながら歩んでくださいます。

5.忍耐と慰め = 聖書から、神様から
 パウロは、そのイエス様に倣って歩んでいくためには、「忍耐と慰め」が必要だと言います。そして、それは聖書によって導かれることで与えられると告げます。4節で「かつて書かれた事柄は」と言われているのは、現在の旧約聖書に記されている事柄は、ということです。パウロの時代、まだ新約聖書はありません。4節b「それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。」とあるとおりです。
 「愛に生きる」ということは、「忍耐と慰め」がなければ為し続けることは出来ません。自分のしていることは無駄ではないか。これが本当に弱さを担っていることになっているのか。様々な疑念や不信というものが私共の心に湧いてくることもありましょう。心も体も疲れるということもありましょう。ですから、キリストに倣って愛に生きようとする時、私共にはどうしても「忍耐」が必要ですし、「慰め」も必要です。この「慰め」は「励まし」とも訳せる言葉です。これを与えられ続けないと、私共は愛の業を続けられなくなってしまう。それが私共の誰もが持つ弱さです。その弱い私を慰め、励まし、忍耐を与えてくださるのは神様です。ですから、5節で神様は「忍耐と慰めの源である神」と呼ばれています。この神様との交わりの中で、私共は「忍耐と慰め」を受けることが出来るわけです。そして、それは更に具体的に言えば、聖書の言葉によって与えられるのです。
 パウロはここで、各自が「聖書を読む」ということは考えていないと思います。聖書が一冊の書になったのは13世紀になってからと言われています。それだって、高価で、大きなものです。紙に印刷されるのは15世紀になってからです。だったら、人々はどこで聖書の言葉に触れたのでしょうか。それは礼拝においてです。礼拝で聖書の言葉が告げられ、説き明かされ、神様との交わりを与えられました。そして、旧約聖書において告げられる神様は、実に忍耐強く、慰めに満ちたお方でした。神様を裏切り、他の神様に走ってしまうイスラエルを、何度も何度も数えられないくらい赦し、イスラエルを助け導くために出来事を起こし、人を遣わし、言葉を与え続けた神様です。気が遠くなるほどに忍耐強いお方です。「仏の顔も三度」と言いますが、聖書の神様はそんなお方ではありません。気が遠くなるくらいに忍耐強いお方です。そして、その神様の御心を私共に明確に示されたのが、主イエス・キリストというお方です。イエス様に神様の御心、愛と恵みと真実は現れました。そして、そのお方を仰ぎ見る時、私共は「忍耐と慰め」を受け取ります。そして、この方と共に歩んでいこう、この方に従って歩んでいこうという心が与えられるわけです。それは、今も、パウロの時代も変わりません。
 その心には希望があります。「どうせダメだろう」じゃありません。ダメかもしれませんけれど、何度でもやる。ドリームズ・カム・トゥルーというバンドの曲に、「何度でも」という曲があるのですが、その歌詞の中に「10000回だめで へとへとになっても 10001回目は 何か 変わるかもしれない」というフレーズがあって、それが繰り返されます。この曲はそんな意味で歌われているわけではないでしょうが、私はこれが希望の中で忍耐と慰めを受けて歩むキリスト者の歩み、教会の歩みだと思って聞いています。本当に凄いことです。それが出来るのは、この神様との交わりにおいて「聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができる」からです。

6.礼拝においてこそ
 5~6節で「忍耐と慰めの源である神が、あなたがたに、キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、心を合わせ声をそろえて、わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように。」と告げるわけですが、私共に「互いに同じ思いを抱く」「心を合わせる」「声をそろえる」なんてことが出来るのだろうかと思います。教会は色々な人がいますし、何をするにしても色々な意見が出るでしょう。それは当然のことです。しかし、パウロがここで想定し、イメージしているのは礼拝です。礼拝において、父と子と聖霊なる神様を礼拝し、救いに与った恵みの中で、私共は「互いに同じ思いを抱く」ことが出来るし、「心を合わせる」ことが出来るし、「声をそろえる」ことが出来るし、そうしています。「わたしたちの主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえる」この礼拝において、私共はそうしています。そして、そこで私共はイエス様に倣って歩んでいこうという思いが与えられる。それが私共の礼拝において起きていることです。それはパウロの時代も、今も、少しも変わりません。この礼拝に聖霊なる神様が臨んでくださっているからです。聖霊なる神様によって、私共が父なる神様と出会い、その忍耐と慰めを受ける。そして、聖霊なる神様によってイエス様と一つに結び合わされて、イエス様の歩みをなぞるように歩んでいきたい、イエス様に従って歩んでいきたいという心を与えられる。それは「礼拝の心をもって歩む者」とされるということです。それは礼拝に与り続ける中で、私共の一番深い所から私共自身が変えられるからです。変えられ続けていくからです。それは、キリスト者個々人がそのように変えられ続けるというだけではなく、そのような者たちによって形作られる交わりも変えられていくということです。
 パウロと言えば、私共は伝道者・牧会者と考えます。その通りです。しかし、パウロはそれ以前に、何よりも礼拝者でした。礼拝において自らの原点を確保し、伝道者・牧会者として歩み出す。それが彼の日常でした。そして、ローマの教会もコリントの教会も、どこの教会も、人と人とが集まっているところですから、色々なことが起きます。しかし、みんな礼拝者なのです。教会は礼拝者の共同体です。だから、「互いに同じ思いを抱く」ことが出来るし、「心を合わせる」ことが出来るし、「声をそろえる」ことが出来る。そのことをパウロは信じることが出来ました。私共もそうです。私共はこの礼拝の心において、一つとされる。それ以外の何によっても、私共はそうそう一つになることなんて出来ないでしょう。しかし、礼拝がある。ここに私共の希望の根拠があります。礼拝において起き続けている出来事、私共が与り続けている出来事に、私共の希望の根拠があります。

7.祈りへ
今朝与えられた御言葉は「たたえさせてくださいますように。」で終わっています。これは6節の言葉が祈りであることを示しています。パウロは、礼拝に与ることによってキリスト者が変えられ、教会も変えられていくことを信じています。パウロ自身が礼拝者として経験してきたことだからです。そのことを確かな信仰をもって確信しています。それでも祈る。いや、確信しているからこそ祈る。そういうことではないかと思います。私共の祈りは、そういうものではないでしょうか。勿論、どうなるか分からないから祈り、願うということもありましょう。しかし、神様の御業を信じるが故に祈る。それも私共の祈りの姿です。主の祈りで示されている祈りの世界は、そのような祈りです。日用の糧が今日与えられるかどうか分からないので、与えてくださいと祈るのではないでしょう。与えられることを信じています。その上で祈る。この祈りと共にキリスト者は歩んで来たし、教会は建てられ続けてきました。今もそうです。

 お祈りいたします。

 主イエス・キリストの父なる神様。
 私共は、あなた様の御前に立っていることを忘れると、自分が何者であるかを忘れ、どこに向かって歩んでいるかも忘れてしまいます。しかし、主の日の度ごとにここに集うことによって、イエス様の救いに与り、イエス様と一つに結び合わされた者であることを思い起こします。そして、新しくイエス様に倣う者として歩んでいこうという心を与えられます。ありがとうございます。どうか、私共が互いに弱さを担い合い、神様の御支配がここに始まっていることを証しすることが出来ますように。忍耐と慰めを学び、確かな希望の中で、心を一つにして、御国に向かって歩ませてください。
 この祈りを、私共の主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2022年11月20日]