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礼拝説教

「洗礼者ヨハネの誕生のお告げ」
創世記 17章15~19節
ルカによる福音書 1章5~25節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 アドベント第二の主の日を迎えています。今年は、ルカによる福音書に記されているクリスマスに関する記事から順に御言葉を受けていきます。
 四つの福音書はどれも、イエス様が活動される前に洗礼者ヨハネの活動を記しています。洗礼者ヨハネの位置づけは、旧約の預言者イザヤがイザヤ書40章で預言した、主の救いの御業が為される前に来る「呼びかける声」、「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」と告げる者です。つまり、イエス様が来られることによって為される救いの御業のために道を備える者です。福音書は、洗礼者ヨハネのことを記すことによって、イエス様の誕生、イエス様による救いの御業は、旧約において預言されていた神様の救いの成就なのだと告げているわけです。その中でもルカによる福音書は、洗礼者ヨハネの誕生の出来事から記すことによって、神様の救いの御業はイエス様の誕生の前から始まっているということを告げています。神様の御業というものは、ある日突然に起きるのではなくて、長い長い神様の御計画の成就として為されるものです。私共はそのことがよく分かりません。しかし、私共がよく分からなくても、既に神様の御業は為され、今も着々と進行しています。私共は、そのような神様の大いなる救いの御業の中で生かされています。

  2.ザカリアへの予告
 洗礼者ヨハネの父はザカリアという祭司であったと聖書は告げています。彼が「聖所に入って香を焚く」という、祭司として一生に一度有るか無いかの大切な御用を務めていた時のことです。イエス様の母マリアに受胎告知をした天使、ガブリエルがザカリアにも現れ、ザカリアの妻エリサベトが子を産むということを告げました。13節「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」7節には、ザカリアもエリサベトも既に年をとっていて、エリサベトは不妊の女であったと告げられています。実際の年齢は記されていませんので分かりませんけれど、60歳くらいと考えて良いのではないかと思います。「あなたの妻エリサベトは男の子を産む。」と言われても、にわかに信じることが出来ないのが普通でしょう。
 私共はこの記事を読んで、先ほどお読みしました旧約の創世記17章に記されております、アブラハムとサラに子が与えられると告げられた時に、彼らが信じられずに「笑った」という出来事を思い起こします。高齢になってからの出産。そんなことは、あるはずがありません。しかし、このあるはずのないことを為されるのが私共の神様なのです。天地を造られた神様に不可能なことはありません。アブラハムでさえ信じられなかったのです。ザカリアが信じられなかったのも無理はありません。来週見ますマリアの受胎告知の時もそうでした。マリアだって信じられなかった。神様のお告げをアブラハムもサラも、ザカリアも、マリアも信じられなかった。しかし、その信じることが出来ないことを為されるのが聖書の神様、私共の神様なのです。そして、神様はその「信じることの出来ない者」を用いられるお方なのです。

3.聞き入れられたザカリアの願い
 この時、天使ガブリエルはザカリアに向かって「あなたの願いは聞き入れられた。」と告げました。ここで神様に聞き入れられたザカリアの願いとは何だったのでしょうか。二つ考えられます。一つは、素朴に「子どもが与えられるように」という願いだったと思います。二人には子がなかったからです。しかし、この願い、この祈りは、ザカリアとエリサベトが若い時に捧げられた祈りだったでしょう。年を重ねるに従って、自分たちのこの祈りは聞き入れられない、これが御心なのだ、二人はそのように受け止め、子が与えられることは諦めていたことでしょう。現代のように不妊治療といったものがあるわけではありません。10代半ばで結婚したであろうエリサベトが、30歳を迎える頃にはもう諦めていたのではないでしょうか。それから30年も経ったでしょうか。神様は、祈った本人が忘れていた祈りを受け止め、願いを聞かれ、子を与えられたのです。これは驚くべきことです。私共は神様に「こうして欲しい」と祈ります。しかし、なかなかその願いが叶えられない時、ザカリアとエリサベトと同じように諦め、しばらくすれば祈ったことさえも忘れてしまうでしょう。しかし、神様は忘れません。神様は私共の都合のよい時にではなくて、神様のよい時に、私共の願いを叶えてくださるということです。
 もう一つの願い。それは、旧約において約束されていた「神様の救いの御業の成就」いうことではなかったかと思います。彼は祭司でした。祭司として、彼は日々イスラエルのために祈っていたことでしょう。そして、その祈りの中心にあったのは、神の民イスラエルの救いということであったに違いありません。神様は、この祈り、この願いも聞き入れてくださたのです。
 この二つの願いを同時に聞き入れてくださるというあり方で、神様はザカリアの願いを聞き入れられました。しかし、この二つの願いは全く別のことです。この二つが結びつけられ、一つの出来事として叶えられるなどということは、ザカリアは思ってもいなかったでしょう。私共の頭の中では全く違うこと、どう考えても交わることのないようなこと、それが神様にあっては何の矛盾もない一つの出来事となる。驚くべきことです。まさにパウロが、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。」(ローマの信徒への手紙11章33節)と感嘆したとおりです。

4.口が利けなくなったザカリア
 ザカリアは、この時天使ガブリエルの御言葉を信じることが出来ず、この時から口が利けなくなりました。勿論、永遠に口が利けなくなったわけではありません。エリサベトが身ごもり、無事に息子を出産し、ガブリエルが告げたとおりにその子を「ヨハネ」と名付けた時、ザカリアの口は再び利けるようになりました。そして、彼が口が利けるようになって真っ先にしたことは、神様を誉め讃えることでした。このことは、1章57節以下に「洗礼者ヨハネの誕生」という小見出しで記されています。
 ですから、ザカリアは洗礼者ヨハネの誕生まで、最低10か月は口が利けなかったことになります。「口が利けないなんて、一日でも無理。」という人もいるでしょう。ザカリアにとって、この10か月間はどんな時だったのでしょうか。
 口が利けなくなった当初、ザカリアは困ったし、どうして自分はこんな目に遭わなければならないのか、とも思ったでしょう。口が利けなくなるということは、少しも嬉しいこと、喜ばしいことではありません。ザカリアは、時にはイライラして、エリサベトに当たったことだってあったかもしれません。しかし、1か月過ぎ、2か月過ぎ、そして5か月が過ぎる頃には、妻エリサベトに本当に子が宿ったということがはっきり分かります。そして、エリサベトのお腹はどんどん大きくなっていくわけです。エリサベトは自分のお腹が大きくなっていく中で、神様の御業というものを体で感じ、本当に神様は生きて働いておられるということを味わったに違いありません。私は、エリサベトのお腹が大きくなるに従って、ザカリアもまた、自分が口が利けなくなったということが、本当に神様は生きて働いておられるのだということを身をもって受け止めるための出来事となったのではないかと思うのです。
 ザカリアは祭司でした。当然、神様を信じていました。聖書の言葉も知っていました。神様が全能のお方であるということも知っていました。しかし、神様が生きておられるということを、我が身に刻むというあり方で知ったのはこの時だったのではないでしょうか。ザカリアはこの10か月の間に、「主よ、信じます。」という者に変えられていったに違いありません。これは「神様の出来事に起こされる信仰」と言っても良いでしょう。そして、この出来事はザカリアの場合、天使ガブリエルによって与えられた御言葉と結びついていました。ガブリエルによって告げられた御言葉が出来事となった。そのことによって、ザカリアの信仰は新しくされました。勿論、御言葉を受け入れ、信じることによって信仰を与えられます。しかし、その御言葉が出来事となって経験される時、神様が本当に生きて働いておられる、神様は真実な方だ、神様の言葉は本当だ、ということを身をもって知ることになります。ザカリアに起きたことは、そういうことでした。だから、彼が口が利けるようになった時、その口から出たのは神様への賛美だったのです。

5.裁きか、恵みか
 では、ザカリアの口が利けなくなったということは、一体何を意味するのでしょう。ザカリアの口が利けなくなる時、天使ガブリエルはこう告げました。20節「あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである。」この言葉のとおり、その時からザカリアは口が利けなくなりました。ですから私共は、ザカリアの口が利けなくなったのは彼の不信仰が裁かれたためだ、と考えがちです。しかし、今見ましたように、ザカリアがこれによって変えられていったということを考えるならば、それは単に「裁き」とは言い切れないのではないでしょうか。これは、ザカリアの信仰を新しくする、恵みの出来事でもありました。ザカリアを悔い改めさせ、信じられない者から信じる者へと導く、神様の訓練の時であったと言えないでしょうか。「神様の裁き」とは、その人を切り捨ててしまってお終いというものではなくて、私共を悔い改めさせ、信仰を新たにさせる「招きの御業」でもあるということです。神様は私共を訓練し、より強く、より真実な信仰者にするために、ザカリアにこのような時を与えました。ヘブライ人への手紙12章11節に、「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。」と言われているとおりです。

6.洗礼者ヨハネ
 ザカリアにとって、口が利けなくなった10か月という時は、神様の御心や天使ガブリエルに告げられた言葉に思いを巡らすための時ともなりました。天使ガブリエルに「あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。」と言われた時、ザカリアはその後に告げられたガブリエルの言葉をきちんと聞き、その意味を考え、それを受け止めることが出来ませんでした。「あなたの妻エリサベトは男の子を産む。」と告げられて、「そんなバカなことがあるはずがない。」そう思ってしまいましたから、その後に続く言葉の意味を考えることもしませんでした。この時天使ガブリエルはこう告げたのです。15~17節「彼は主の御前に偉大な人になり、ぶどう酒や強い酒を飲まず、既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて、イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」これは、一度聞いてすぐに分かる言葉ではないかもしれません。しかし、本当に大変なことが告げられていたのです。ザカリアは10か月の間、何度も何度も天使ガブリエルのこの言葉を思い起こしては、自分の持っている聖書の知識を総動員して、どういう意味なのかを考え抜いたことでしょう。そして、以下のような結論に達したのだと思います。
 ガブリエルが告げたことは、第一に、その子は「主の御前に偉大な人になる」ということでした。「主の御前に」です。「人の前」ではありません。つまり、この世的に大きな事をする人になるとか、高い地位に就く人になるということではなく、神様の御業に用いられて、大きな役割を果たす者となるということでした。祭司であったザカリアにとって、これは何より嬉しいことでした。何と素敵なことか。ザカリアは心から喜んだことでしょう。そして、「ぶどう酒や強い酒を飲まず」というのは、この子はナジル人として歩むようになる、とザカリアは理解したでしょう。
 ガブリエルが告げたことは、第二に、その子は「エリヤの霊と力を受ける」。エリヤというのは、旧約における最大の「力の預言者」です。旧約の預言者と言いますと、イザヤやエレミヤを思い起こす人が多いでしょう。彼らは「言葉の預言者」の系譜です。しかし、旧約にはもう一つの預言者の系譜があります。それが「力の預言者」です。エリヤはその「力の預言者」の系譜における、最も偉大な、最も力ある業を行った預言者でした。「エリヤの霊と力を受ける」と聞いて、ザカリアはただただ驚き、何と畏れ多いことかと思ったに違いありません。我が子が、イスラエルの歴史の中で最も力ある奇跡を行った預言者と同じ霊と力を受けるというのです。何と素晴らしい、なんて凄いことか。何と畏れ多い、何ともったいない、何とありがたいことか。そう思ったでしょう。
 ガブリエルが告げたことは、第三に、その子は「イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる」そして「準備のできた民を主のために用意する」ということでした。これこそ、とてつもないことが告げられていたのです。それは「主が来られる」ということです。そして、「我が子がその方のための備えをする」ということでした。神の民が待ちに待った主、救い主が来られる。ザカリアは祭司でしたから、イザヤの預言を思い起こしたことでしょう。何百年も前に預言者イザヤが預言したことが成就する。救い主が来られる。神様の救いの御業が始まる。その大いなる御業のために、我が子が主のために備えをする。我が子が用いられる。何という喜び、何という光栄。ザカリアは天使ガブリエルによって告げられた言葉を思い巡らす内に、心の底から湧き上がる喜びを、光栄を覚えたに違いありません。
エリサベトのお腹は大きくなっている。わたしの口はあの日以来利けないままだ。とするならば、天使がわたしに告げたことは幻ではない。本当のことだ。救い主が来られる。何と素晴らしいこと。彼は口が利けませんので、心の中で「ほめたたえよ、イスラエルの主である神を。ほめたたえよ。」と何度も何度も叫んだに違いありません。

7.ザカリアもまた
そして、ザカリアもまた用いられたのです。第一に、1章の68節以下に記されております「ザカリアの預言」、伝統的には「ザカリアの賛歌」と言われてきた、神様の救いの御業を賛美する歌を歌った者として、ザカリアは覚えられてきました。この歌は「ベネディクトゥス」と呼ばれ、修道院などでは毎朝唱えられる歌となり、今も歌われ続けています。
 第二に、ザカリアは洗礼者ヨハネの父して、洗礼者ヨハネを神様の御業に仕える者として育て育むという役目を与えられました。こうしてザカリアもまた、神様の大いなる救いの御業に仕える者となりました。
 当たり前のことですが、私共は洗礼者ヨハネの父や母、ザカリアやエリサベトになることは出来ません。神様に与えられている役割は、一人一人が違うからです。しかし、ザカリアとエリサベトに特別な役割が与えられたのは、二人がその役割を自覚的に受け止めることが出来たのは、二人が高齢になってからでした。高齢になるということは、去年出来ていたことが今年は出来なくなるという面があります。私もそうです。しかし、それは人間の目から見た話です。神様から見るならば、また別のことがあるはずです。高齢であるが故に、神様の恵みの御業に用いられる。そういうことがあるはずです。神様は、イエス様の父と母として、若いヨセフとマリアを用いられました。しかし、洗礼者ヨハネの父と母には、年をとっていたザカリアとエリサベトを用いられました。神様は、年齢も能力も全く関係なく、用いたい者を、用いたい時に、用いたいことのために用いられます。ですから、私共は安心して、存分に主の御業のために用いていただきましょう。私にしか出来ない主の業が、それぞれに与えられています。そのことを自覚してその業を為していく時、私共は主が与えてくださる平安の中を、主をほめたたえつつ歩んで行くことが出来るのです。

 お祈りいたします。

 主イエス・キリストの父なる神様。
 今朝、あなた様は御言葉によって、あなた様がどれほど大いなる御力を持って私共の上に臨んでくださっているかを教えてくださいました。私共は、自分の尺度ですべてを測ろうとします。しかし、あなた様とあなた様の御業は、私共の間尺に合うものではありません。あなた様は天と地とを造り、私共を造られたお方だからです。どうか、あなた様の御心のままに御業を為し、御言葉をもって私共の心を照らし、私共を存分に用いてください。あなた様を見上げることによって、私共の唇から不平と不満とが取り除かれ、私共の口があなた様を誉め讃えるために開かれていきますように。
   この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2022年12月4日]