日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「主イエスの誕生のお告げ」
イザヤ書 9章5~6節
ルカによる福音書 1章26~38節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 アドベント第三の主の日を迎えています。いつもの年ですと、次の主の日がクリスマス記念礼拝となりますが、今年は12月25日が主の日ですので、アドベント第四の主の日を迎えてから、その次の主の日の12月25日にクリスマス記念礼拝を守ります。
 今朝与えられております御言葉は、受胎告知と言われる大変有名な場面です。おとめマリアが、御使いガブリエルから「あなたは救い主であるイエス様を身ごもる」というお告げを受けた場面です。この場面は多くの絵にも描かれています。天使がおとめマリアに現れ、神様の御心、神様の御計画を告げる。ここで神様の大きな物語とマリアの小さな物語が交わります。神様の永遠の救いの御業という大きな物語と、ヨセフと婚約していたおとめマリアの小さな物語です。そして、大きな物語と小さな物語がぶつかり、驚くほどに美しい輝きを放ちます。この場面を描きたいと思った画家たちの思いは分かります。これほど美しい場面はそうはありません。しかし、私共はこの場面を、絵画を見るように外から眺めることは出来ません。私共自身がこの出来事の中に巻き込まれていきます。勿論、私共はマリアにはなれません。しかし、この時に起きた出来事は、私の救い、私の命と繋がっています。そのことを御言葉から共に聞いていきたいと思います。

2.マリアへの予告 ①
さて、天使ガブリエルはおとめマリアに現れ、こう告げました。28節「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」この言葉を受けたマリアは、「この言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込」みました。突然天使が現れたら、それだけでびっくりしてしまいますけれど、更に天使にこのように言われても、何がめでたいのか、何が恵まれているのか、どんな良い事があるというのか、マリアにはさっぱり見当もつきません。戸惑い、考え込んでしまったのも当然です。そして、次に天使ガブリエルに言われた言葉に、マリアは本当に驚き、慌てました。天使こう告げたのです。30~31節「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」マリアはヨセフと婚約はしていましたけれど、まだ結婚していません。マリアは天使ガブリエルが何を言っているのか、さっぱり分からなかったと思います。
 先週は、祭司ザカリアに洗礼者ヨハネの誕生が、天使ガブリエルによって告げられた時の御言葉に聞きました。ザカリアも妻のエリサベトも高齢になっていました。天使ガブリエルによって「妻エリサベトに子が与えられる」と告げられても、にわかに信じられるものではありません。ザカリアはそれを信じることが出来ず、洗礼者ヨハネが生まれるまで口がきけなくなりました。ここでマリアも同じように、天使ガブリエルが告げたことをにわかに信じることは出来ませんでした。だって、まだ結婚していないのですから当然です。当時は、女性は10代の初め頃に婚約し、半年後に結婚というのが普通でした。もし、本当に身ごもったら、大変なことになってしまう。そのくらいのことはマリアにだって分かりました。マリアが「神様によって身ごもった」と言っても、誰が信じるでしょう。誰よりも婚約相手のヨセフがまず信じないでしょう。ヨセフは身に覚えがない。とすれば、マリアは姦淫した者とされてしまいます。当時、姦淫の女は石打刑に処されていました。マリアもそうなってしまうかもしれません。マタイによる福音書では、そうならないようにと、ヨセフは「ひそかに縁を切ろうと決心した」と記されています。婚約解消です。そうすれば姦淫にはならない。ヨセフはそう考えたのでしょう。婚約中に子を宿す。それは、めでたいことでも恵みに満ちたことでもありません。ヨセフとのことを考えれば、とんでもないことでした。マリアにとっては、不幸のどん底に突き落とされるようなことでした。
 しかし、天使ガブリエルは、マリアに対して「恵まれた方」と言い、「神から恵みをいただいた」と告げました。一体、何が恵みなんでしょう。それは、次のガブリエルの言葉を聞かなければ分かりません。

3.マリアへの予告 ②
 ガブリエルは続けてこう言いました。32~33節「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」何と、マリアの生む子は「いと高き方の子」つまり「神の子」と言われる。そして、「ダビデの王座」に就く。つまりユダヤの王となると言うのです。更に「その支配は終わることがない」とまで言われます。マリアはこの言葉を聞いても、これがどういうことなのか、ガブリエルが告げたことの意味をきちんと受け止めることは出来なかったのではないかと思います。マリアはまだ幼いと言っても良いような年齢のおとめです。旧約の言葉を良く知っていたとはあまり考えられません。
 ガブリエルの告げた言葉は、マリアが子を産むことは預言の成就であるということを意味していました。先ほどお読みしましたイザヤ書9章5~6節「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。万軍の主の熱意がこれを成し遂げる。」この預言の成就です。この「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」というのが、マリアが生むことになる幼子のことです。その子がダビデの王座に着き、その王国は平和に満ち、今もそしてとこしえに立てられるというのです。しかし、ダビデ王朝はとっくにバビロンによって滅んでいます。マリアの時代の500年も前の話です。このイザヤの預言はもう反故になったと思われていました。しかしガブリエルは、あのイザヤの預言は反故になってはいない、と告げたのです。マリアの産む幼子によって、預言は成就される。その子によって建てられる国は「神の国」であり、神様の正義と恵みによって永遠に立てられる。ガブリエルがマリアに告げたのは、「この神様の救いの御業のために用いられるあなたは、なんて幸いなんでしょう。」ということだったのです。
 このイザヤの預言は、マリアの時代より700年も前のものです。イエス様の誕生は、この700年も前の預言が成就する、つまり神様の永遠の救いの御計画という大きな物語の話でした。しかし、マリアの頭の中には、そんな大きな物語はありませんでした。婚約しているヨセフと幸せな家庭を築いていくという小さな物語しか、マリアの頭にはありませんでした。ですから、ガブリエルの言う「恵まれた方」とか「あなたは神から恵みをいただいた」と言われても、さっぱりピンときませんでした。神様の言う「恵み」とマリアが考える「恵み」にはズレがありました。だから、ぶつかりました。

4.どうしてそんなことがありえましょう
 マリアはガブリエルにこう答えました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」この「知りません」という言葉は、肉体関係を持っていないという意味の言葉です。マリアは単に「そんなことはありえません。」と言っているだけではない。はっきりは言っていませんけれど、匂わすような言い方で、マリアは「嫌です。」と言ったのではないでしょうか。わたしはヨセフと婚約しています。今、子どもなんて出来たら、ヨセフとの結婚はどうなるのでしょう。そして、皆に姦淫の女と言われ、石打の刑に遭うかもしれない。そんなの、嫌です。マリアはそう思ったのではないでしょうか。
 ここで、神様の永遠の救いの御計画という大きな物語とマリアの幸せという小さな物語がぶつかって、火花を散らしています。私共は、このような場面を聖書の様々な所で見て来ました。例えば、モーセが召し出された時(出エジプト記3章)もそうでした。モーセはお尋ね者になってエジプトから逃げてミディアンの地に来ました。そこでミディアンの祭司の娘ツィポラと結婚し、子も出来、羊飼いとして平穏に暮らしていました。その時、イスラエルの民をエジプトから救い出せという、神様の召しがありました。モーセは嫌でした。何度も色々な理由をつけて「出来ません。」と言いました。どうして自分の安定した幸せな生活を捨てなければならないのか。イスラエルの民を導いてエジプトから脱出させるなんて、とてもわたしには出来ません。そういう思いがモーセにはありました。ところが、神様はモーセが挙げる出来ない理由を一つ一つ潰しながら、モーセを説得します。そして遂に、出来ないと言って断る理由がなくなってしまって、モーセは神様に説得され、イスラエルをエジプトから導き出すという役割を担うことになりました。

5.神様の説得 
 この時も天使ガブリエルはマリアを丁寧に説得します。
 まず、35節「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。」と告げます。あなたは「そんなことはあり得ない」と言うけれど、あなたは聖霊によって身ごもるんです。天地を造られた神様の霊である聖霊によってです。聖霊の力を見くびってはなりません。天地を造られた方、無から有を生み出されるお方、全能の神様の力を見くびってはなりません。
 そして次に、その聖霊なる神様の御力の実例を挙げます。親類のエリサベトです。高齢の祭司ザカリアと妻エリサベトに子が与えられた。このことは、驚くべきこととして皆の口に上っていました。エリサベトはマリアの親類でしたので、マリアもこの話は知っていたでしょう。あなたの親類のエリサベトも高齢になったけれど身ごもった。エリサベトも神様の御業によって身ごもったんです。それでも信じられませんか? あなたが「聖霊によって身ごもった」と言っても普通は誰も信じないでしょうけれど、信じる人がいる。エリサベトとザカリアです。彼らはあなたの言葉を信じます。だから、大丈夫。そう説得したのです。
 マタイによる福音書の1章には、マリアが身ごもったことを知ったヨセフはひそかに縁を切ろうとしたとあります。ヨセフもマリアの言葉をすぐには信じられなかったのです。しかし、天使はヨセフの夢の中に現れて、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。」と告げます。そして、ヨセフもマリアの言葉を信じる者になりました。これはマリアにとって大きな大きな支えとなりました。神様はマリアを御自身の大きな救いの御業に用いられますけれど、その際にマリアの小さな物語はどうでもよい、そんな風にはされません。ちゃんとマリアを支える態勢を作ってくださるのです。
 そして最後に、37節「神にできないことは何一つない。」と告げます。これは神様の宣言です。神様が権威と力をもって、マリアを叱りつけている言葉と言っても良いでしょう。この宣言を受け入れるかどうか。しかし、これは神様の権威と力を帯びた宣言ですから、この御言葉の前にマリアには、これを信じない、受け入れないという選択肢はなかった。私はそう思います。

6.マリアの受諾
 この天使の説得により、人間の口から出た最も美しい言葉がマリアの口から溢れます。38節「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」これは、人間の口から出た、最も美しい言葉です。この場面は多くの人によって描かれ、さらに多くの人たちがその絵を見てきました。彼らはこのマリアの言葉を美しいと思い、この言葉に憧れたのではないでしょうか。私もこの言葉を語れる者になりたい。そう思ったのではないでしょうか。
 「はしため」というのは奴隷の女性という意味の言葉です。マリアは、「神様、あなたはわたしの御主人です。わたしは女の奴隷に過ぎません。」と告げたのです。彼女は自分を卑下してこう言ったのではありません。マリアは大いなる神様の御前に出ました。天使ガブリエルによって引きずり出されたと言っても良いかもしれません。そして、自分の小ささをはっきりと思い知らされたのです。自分の小ささを知るということと、神様の大きさを知るということは、一つのことです。これは神様との出会いの中で起きることです。マリアはここで神様と出会ってしまったのです。マリアが求めたわけではありません。神様が天使ガブリエルを遣わして、御前に立たせたのです。この時まで、マリアは自分の幸いを求めていました。それしか求めていなかったと言っても良いでしょう。それも、目に見える幸いです。マリアは自分の小さな物語の中に生きていました。しかし、天使ガブリエルの言葉によって、神様の大きな物語を知らされました。そして、これとぶつかりました。そして、はっきり知らされました。自分は何も知らなかった。マリアの小さな物語が、神様の救いの大きな物語の前に砕かれました。そしてマリアは、「わたしはあなたの御計画と御心に、どうして異を唱えることが出来るでしょう。」そう言ったのです。これは、神様に向かって語られたマリアの信仰告白と言っても良いでしょう。マリアは自分の小さな物語が、神様の大きな物語の中に入れられ、自分が考えて求めていたものと全く違ったものになることを受け入れたのです。これが悔い改めというものです。神様とぶつかって、神様に砕かれて、神様の御業に用いられる者に変えられる。ここに、新しい人間が誕生しました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」は、マリアが新しい人間に変えられることによって生まれた言葉です。キリスト者とは、新しい人間です。ぶつかり、砕かれ、新しくされた者です。マリアの新しさと同じ新しさに、私共は生きています。

7.秘密の出来事
今、マリアの受胎告知の場面を見てきました。これはマリアだけが知っている出来事です。ということは、何時の時か分かりませんけれど、これはマリアが自らの口で語ったことです。彼女以外に知る人はいないのですから、それ以外に考えようがありません。マタイによる福音書1章にある、ヨセフの夢に天使が現れて告げたという出来事も、ヨセフによって語られたことでしょう。彼の夢の話など、彼以外に知るはずがありません。また、羊飼いに天使が現れて救い主の誕生を知らされたという出来事も、羊飼いの口によって語られたことでしょう。このように、聖書にはその人しか知らない出来事が、幾つも記されています。神様はそのように、一人一人と関わり、大いなる救いの御業の中に人間を招き、用い、事を為されます。私共一人一人にも、そのような出来事があったでしょう。自分の願ったように、自分がこれが良いと思ったように事が進まないこともありました。しかし、そのような中で、神様の御業を知らされる。神様には神様の御計画というものがある。そのことを知らされて、御国へと私共は歩んでいる。代々の聖徒たちも皆そうでした。

8.神様の大きな救いの御業の中で
 マリアがお腹に宿した子は、聖霊によって宿った神の御子、主イエス・キリストでした。しかし、どうして神様はおとめマリアから御子を生まれさせるというようなことを為されたのでしょうか。天地を造られる前から、父なる神様と共に天におられた独り子を、神様はどうして人間の赤ちゃんとして誕生させたのでしょうか。マリアやヨセフに守られて育てられなければならない小さな赤ちゃんとして生まれた。それは、私共を神の子とするためです。神の独り子を人間とすることによって、人間が神の子となる道を開いてくださったのです。これが天地創造以来の、神様の永遠の救いの御計画でした。そのためにマリアは用いられました。マリアはやがて、我が子が十字架の上で殺されるところを見なければなりませんでした。母として最もつらいことであったに違いありません。マリアはそのことも引き受けていくことになります。
 私共は神様の大いなる救いの御計画の中で、神の子としていただきました。そのために、イエス様は聖霊によっておとめマリアから生まれ、苦しみを受け、十字架に架かり、死んで葬られました。私共の罪の裁きをすべて一身にお受けになるためです。そのために、イエス様は天から降ってこられ、弱く、小さく、貧しい一人の人間となられたのです。弱く、小さく、貧しい私と一つとなり、私を神の子としてくださるためです。ありがたいことです。そして、そのためにマリアは用いられました。マリアが天使のお告げを「お言葉どおり、この身に成りますように。」と受け入れたのは、マリアだけに起きたことですけれど、マリアにとってだけ意味のあることではありませんでした。実に、この受胎告知の出来事は私のためでした。マリアの悔い改めと天使のお告げを受け入れるということがあり、ヨセフはマリアを受け入れ、イエス様を大切に育てました。そのことが、私の救いへと繋がっています。まことにありがたいことです。クリスマスの出来事は、昔々、遠い外国で起きたことではなくて、私が神の子としていただくために、神様が私のために備えてくださった出来事なのです。だから、私共はクリスマスを喜び祝うのです。

 お祈りいたします。

 主イエス・キリストの父なる神様。
あなた様は、私共を救ってあなた様の子とするために、御子キリストをこの世に遣わされました。そのためにマリアを選び、御子をまことの人間として生まれさせました。マリアは私共のために、自分の体を、そして自分の人生のすべてを、神様の救いの御業が為されるために差し出しました。ありがたく感謝いたします。私共もまた、あなた様の大いなる救いの御業に与った者として、あなた様の御業に存分に用いていただきたく願います。ただあなた様の栄光が現れますように。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

                                        

[2022年12月11日]