日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「マリアの賛歌」
サムエル記上 2章1~10節
ルカによる福音書 1章39~55節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 アドベント第四の主の日を迎えています。この礼拝で、一人の姉妹の信仰告白式が行なわれ、また一人の姉妹の転会式が行われます。通常ですとクリスマス記念礼拝において行われるのですが、今年のクリスマス記念礼拝はコロナ禍ということで2回に分けて行いますので、分けずに行われる今朝の礼拝において実施することが相応しいと考えました。聖餐には来週のクリスマス記念礼拝において共に与ります。
 今朝与えられております御言葉は、「マリアの賛歌」と呼ばれる所です。先週の礼拝では受胎告知の場面から御言葉を受けました。おとめマリアは天使ガブリエルによって、「あなたは身ごもって男の子を産む。」と告げられ、マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか。」と答えました。しかし、ガブリエルに「神にできないことは何一つない。」と告げられ、マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」と神様の御心、御計画を受け入れたのでした。これは大変な決断でしたけれど、マリア自身はこの時、そんなに大それた決断をしたとは思っていなかったでしょう。大いなる神様との出会いの中で、そのようにするのが自然であり、それ以外のことは考えられなかったのではないでしょうか。勿論、マリアは嫌々そう答えたわけではありません。しかし、色々考えた末に決断したということではなかったのではないか。聖なる神様に出会う、大いなる神様に言葉を与えられ、神様に触れられた時、小さな存在に過ぎない人間には神様の御心を受け入れる以外の選択などあり得ないのではないでしょうか。そして人はその時、苦悩の末に決断するというよりも、神様の守りの中で自然と、特に不安もなく、その道を選び取り、歩み出していくのでしょう。
 今日、信仰告白をする方も転会する方も、ここに至るまでには色々あったでしょうけれど、信仰告白をする、転会すると決めた時は、色々考えた末にということではなかったのではないかと思います。そうするのが良いと自然に思えたのではないでしょうか。神様が道を備えてくださるとは、そういうことなのだと私は思います。

2.マリアとハンナ
 さて、今朝与えられている「マリアの賛歌」ですが、先ほどお読みいたしました旧約の「ハンナの祈り」ととても良く似ていることが昔から多くの人によって指摘されてきました。ハンナというのは、サムエルの母です。ハンナには子がおりませんでした。彼女は聖所において、子が与えられるように心を注いで神様に祈ります。そして、与えられたのがサムエルでした。サムエルはハンナによって幼くして神様に捧げられ、祭司エリのもとで育ちます。このハンナの祈りは、サムエルを祭司エリにあずける時にささげられたものです。
 ハンナの祈りの中で、1節「主にあってわたしの心は喜び」と祈り出すところはマリアの賛歌と同じです。また、4~5節の「勇士の弓は折られるが、よろめく者は力を帯びる。食べ飽きている者はパンのために雇われ、飢えている者は再び飢えることがない。子のない女は七人の子を産み、多くの子をもつ女は衰える。」などは、この世界における立場が逆転するということを告げていることにおいて、マリアの賛歌と重なります。これは偶然ではありません。
 ハンナからサムエルが生まれ、このサムエルによってダビデ王が立てられます。ダビデに油を注ぎ、イスラエルの王として立てたのがサムエルです。そして、ダビデ王朝が始まり、神の民の王国としての歩みが始まります。このダビデ王朝が実際に繁栄したのはダビデとソロモンの時代、約100年程の期間だけでした。ソロモンの死後、国は北イスラエル王国と南ユダ王国の二つに分裂してしまいます。そして、その後は次々と大きな国に飲み込まれ、支配されていきます。しかし、とにもかくにもこの時、神の民の王国が出来たわけです。そしてそれを始めたのはサムエルであり、さらにその母ハンナの出産から神様の御心として出来事は進んでいった。そう聖書は理解しています。ですから、サムエル記上・下なのです。サムエル記上・下の内容は、大河ドラマのように読めば、明らかにダビデ一代記です。ところが書名はサムエル記であって、ダビデ記ではありません。それは、サムエルによってダビデ王朝は始まった、そう聖書は理解しているからです。そして、ダビデ王朝の始まりのサムエルの誕生の時のハンナの祈りと重なるように、イエス様の誕生に際してマリアの賛歌がある。これは偶然ではありません。それは、ハンナから生まれるサムエルよってダビデの王座が、ダビデによる神の民の国が建てられたように、このマリアから生まれるイエス様によって新しい神の民の王国、つまりイエス様による神の国が始まる。そう聖書は理解しているということなのです。

3.マリアとエリサベト
 さて、天使ガブリエルから御告げを受けたマリアは、急いでザカリアの家に行きました。それは天使ガブリエルがマリアに御告げを告げた時、高齢になっていたエリサベトが子を宿したという出来事を、「神にできないことは何一つない」ことの実例として挙げたからです。マリアは、神様の御業によって身ごもることを受け入れたけれど、それがどういうことなのか、神様の御業として身ごもったエリサベトと話をしたい、そう思ったのでしょう。ナザレからユダの町(町の名前が記されていませんので、はっきりしたことは言えませんけれど)まで、100km以上ありました。ちょっと行ってきますという距離ではありません。それでも、マリアは行きました。どうしても会いたかったのです。
 そして、マリアがザカリアの家に着いて挨拶をすると、「エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った。『あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました。』」という出来事が起きました。エリサベトはマリアがどういう者なのか、すぐに分かりました。挨拶の声を聞いただけで分かりました。それはエリサベトが「聖霊に満たされた」からです。そして、聖霊なる神様がエリサベトにマリアのことを教えたからです。マリアはびっくりしたと思います。マリアは自分の身に起きたことを何一つ話していません。それなのに、エリサベトはすべてを知っているかのようです。エリサベトは、自分の産む子ヨハネが、次に来られるまことの主のために備える者だということは知らされていました。しかし、その主がいつ、誰から、どのように生まれるのか、それは何も知らされていませんでした。けれども、マリアが来て挨拶をした時、聖霊がこの人が主の母だと知らせました。それで、エリサベトはマリアのことを「わたしの主のお母さま」と呼びました。年齢だけを見るならば、エリサベトにとってマリアは自分の孫くらいで、少女と言っても良いほどでした。この時エリサベトはマリアの前に跪いたかもしれません。それほどまでにマリアを大切な方、神様に特別に選ばれた方として迎えました。この時、「胎内の子(洗礼者ヨハネです)は喜んでおどりました。」と言います。お腹の子がおどるというのは、男性には全く分かりません。しかし、出産をしたことのある女性はこのことがよく分かるでしょう。お腹の子が特別な動きをして、エリサベトにマリアのこと、そしてマリアのお腹に宿った子のことを教えたのでしょう。
 そして、なんとマリアはここに3ヶ月ほども滞在したのです。随分長いと思いますけれど、二人にとって忘れることの出来ない、喜びに満ちた3ヶ月だったことでしょう。マリアが天使ガブリエルのお告げを受けたのは、エリサベトがお腹に子を宿して6ヶ月後のことでした。そして、マリアはすぐにエリサベトの所に出かけました。それから3ヶ月ですから、もう少しで出産という時までマリアはエリサベトの家にいたことになります。この時、エリサベトとマリアは、お腹に宿した生まれてくる子のことを話し合ったに違いありません。エリサベトとマリア。この二人は本当に心が通い、嬉しい楽しい交わりの時を持つことが出来ました。エリサベトは我が身に起きたことをマリアに告げ、マリアもまたエリサベトに話したに違いありません。そして、二人はそれぞれの上に起きたことを信じた。マリアの身に起きたことを最初に信じ受け入れたのは、エリサベトでした。二人の心は深く結ばれ、主をほめたたえたことでしょう。

4.主の言葉が実現すると信じた者の幸い
エリサベトはマリアにこう告げました。45節「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」マリアは、「主がおっしゃったこと」を確認するために来ました。自分に告げられた天使ガブリエルの言葉が本当に実現するのか、出来事となるのか、そのことをエリサベトと会って確認したかった。エリサベトの場合はどういうことが起きたのか、聞きたかった。それはもうマリアが挨拶をした途端に、その目的は達成されたようなものでした。マリアはガブリエルの告げた言葉が本当に我が身に実現する、そのことを確信することが出来ました。
 このエリサベトがマリアに告げた言葉は、この言葉を読み、聞く私共にも告げられています。主が語られたことは必ず実現する。そのことを信じる者は、なんと幸いなことでしょう。この「幸い」は、神様の御手の中に自分の明日を見出す者の幸いです。神様の与える希望と共に生きる者の幸いです。「私の願うこと」は実現されないこともありましょう。しかし、神様の言葉は必ず実現します。神様の御心は必ず実現します。イエス様は言われました「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。」(マタイによる福音書5章3~4節)このイエス様の御言葉は、私共の上に出来事となります。だから、私共は決して希望を失いません。悲しい時もあります。「どうしてこんな目に遭うのか。」と嘆きたい時もあります。しかし、慰められます。神様が慰めてくださいます。必ずです。更に聖書は、イエス様が再び来られると約束しています。イエス様は再び来られます。そしてその時、神の国は完成し、私共はイエス様に似た者にしていただき、永遠の命に生きる者にしていただきます。それを信じて、私共はこの地上を生きていきます。私共は「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた者」の幸いへと招かれ、召されています。

5.マリアの賛歌 ① ~主をあがめる~
 さて、このマリアの賛歌は、ラテン語の最初の言葉を取って「マグニフィカート」と呼ばれてきました。この最初の言葉、「わたしの魂は主をあがめる」とは「主を大きくする」という意味の言葉です。マリアは主を大きくし、自分を小さくします。もし自分を大きくすれば、神様は小さくなります。これは一つのことです。マリアはただ自分を卑下して、自分を小さくしているのではありません。ただ自分を卑下するだけならば、それは自分が惨めになるだけです。しかし、マリアはここで喜んでいます。主を大きくして、自分が小さくなる。それは喜びと共にあります。嬉しいこと、喜ばしいことがあったからです。
 その嬉しいこと、喜ばしいことの第一は、48節「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。」と告げているように、神様が特別に私に目をとめてくださったということです。神様は私に御顔を向け、注目し、憐れんでくださった。マリアは特別身分が高いわけではありませんでした。大工のヨセフといいなずけだったのですから、いわゆる庶民の一人の少女です。その自分に神様は特別に目をかけてくださった。
 そして、第二に49節「力ある方(つまり神様)が、わたしに偉大なことをなさいました」です。それは、聖霊によって身ごもるということであり、その独り子はメシア、キリストだということです。神様はすべての民を救うお方であるメシアを遣わし、大いなる救いの御業を始められた。神様はこの大いなる救いの御業を為すために、私を選んでくださった。何という幸い。何という栄光。
 確かに、神様はマリアを選んで大いなる救いの御業をなさいました。しかし、マリアはだからといって、少しも偉ぶることも高ぶることもありませんでした。エリサベトから「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは」と言われても、「わたしは主のお母さまになるのだから、特別で、もの凄く偉い者なの。他の人たちとは違うの。」というように、自分を大きくしたりはしません。どこまでも、「自分は身分の低い、はしため(奴隷の女)に過ぎません。」というところに立ちます。それは、マリアが大いなる神様の御前に立つ者だったからです。大いなる神様の御前に立てば、自分は小さく、弱く、貧しく、愚かで、卑しい、罪に満ちた者でしかありません。私共もそうです。しかし、その私が、神様に愛され、選ばれ、神の子としていただいた。何とありがたいことでしょう。使徒パウロもまた、自分は主の僕、主の奴隷であるというところに立ち続けました。彼は大いなる神様と共にあり、この方の御業に触れ、この方の眼差しの中に生きていたからです。私共もここに立ち続けます。クリスマスの喜びは、この「神様は大きく、私は小さく」という心と共にあります。もっと言えば、「私は小さく」ということは、敢えて言わなくても良いのかもしれません。「神様は大きい」という賛美の中で、「私は小さく」ということは必然的に起きるからです。神様は大きい。とてつもなく大きい。偉大なお方。神様の大いなる御業、神様の限りない憐れみが私と共にある。何という幸い。何という喜び。インマヌエルです。これがクリスマスの出来事です。

6.マリアの賛歌 ② ~神様による逆転~
 さて、マリアの賛歌の後半は、その神様によって何が為されるのかということが告げられています。51~53節「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、 飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」と告げられます。これをそのまま受け止めるならば、現在の世界の秩序の逆転が起きることが告げられています。それで、マリアの賛歌は「革命的だ」と言われてきました。しかし、ここで誤解してはならないのは、マリアはここで、いわゆるこの世の政治的な意味での革命が起きると告げているのではないということです。今、政治的な革命ということについて丁寧に論じるつもりはありません。このマリアの賛歌が語られてから、幾つもの革命が起きました。確かに、「権力ある者がその座から引き降ろされる」という出来事は、何度も起きました。私共も幾度もその場面の映像を見て来ました。これからも見るでしょう。しかし、そのことによって「身分の低い者が高く上げられた」ことがあったでしょうか。「権力ある者がその座から引き降ろされた」後に起きたのは、「新しい権力ある者がその座に着く」ということでしかなかったのではないでしょうか。「飢えた人が良い物で満た」されたことがあったでしょうか。一時は、そのようなことも起きたでしょう。しかし、「新しい飢えた人」が生まれました。これがこの世界の出来事であり、「革命」という名の下に起きたことです。マリアが告げたのは、「主がその腕で力を振るう」ことによって起こされることです。神様の御業です。ここで告げられているのは、神の国のことです。人民の国でもなければ、民主主義の国のことでもありません。「人民の国」も「民主主義の国」も、それは「神の国」ではありません。マリアが告げているのは神の国です。聖霊によってマリアに宿った御子によって始められる神の国です。神様によって建てられる国です。英雄によってではなく、多くの人の流された血によってでもなく、ただ神様によって建てられる国です。
 ここで大切なのは「思い上がる者を打ち散ら」されるということです。自分の力や能力を頼み、神様を頼みとしない者の企てはすべて打ち散らされるということです。ここで対比して告げられているのは「権力ある者」と「身分の低い者」、「飢えた人」と「富める者」です。しかし、本当に対比されているのは、「神の御腕」と自分の力を求めてこれに頼る「思い上がる者」です。つまり、神様御自身と神様なんて要らないと思い上がる人間の罪が対比されています。そして、神の御業だけが勝利するとマリアは歌っています。どんなに巨大な世界帝国も滅びてきましたし、これからも滅びます。世界の富を一手に握った権力者も滅んでいきます。私共が頼るべきは、ただ神様のみです。イエス様によって建てられる神の国は滅びることはないからです。やがて神の国は完成の時を迎えます。マリアが見ているのはその時です。その国です。私共は、その国が来ることを信じて歩み続けます。クリスマスは、マリアと共にこの神の国の希望をしっかり心に宿す時です。神の国は、既に私共の中で始まっています。弱く、小さく、愚かで、罪に満ちた私共が、神の子としていただいたからです。高く挙げられたからです。マリアはただの幼いおとめに過ぎませんでしたが、神の母と呼ばれる者とされました。マリアは高く挙げられた者として、ここで私共の先頭に立って歌っています。私共もマリアと共に、心を合わせて、主を大きくして誉め讃えたいと思います。

 お祈りいたします。

 主イエス・キリストの父なる神様。
 あなた様は今朝、マリアの賛歌を通して、私共が「神様が大きくなる」幸いの中に生かされていることを知らせてくださいました。マリアのように実際にお腹にイエス様を宿すことは、私共には出来ません。しかし、信仰をもってイエス様を「我が主、我が神」として受け入れ、神の国の完成の時を目指して、一日一日を歩ませてください。あなた様は、私共一人ひとりを心に留め、愛し、選び、全能の御腕の中で導いてくださいます。その御手の中に私共の明日を見出し、委ね、希望と喜びをもって歩ませてください。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2022年12月18日]