日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

クリスマス記念礼拝説教

「神の御子の誕生」
イザヤ書 11章1~5節
ルカによる福音書 2章1~7節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 今年も、皆さんと一緒にクリスマスを喜び祝うことが出来ますことを心から嬉しく思っています。クリスマスを喜び祝うことが出来るのは何とありがたいことか。年を重ねるごとにその思いを深くしています。そして、ここに集うことの出来ない愛する兄弟姉妹のことを思います。コロナ禍のために、病院や施設から出ることもお会いすることも出来ない人たち。その方々の上にもクリスマスの喜びが溢れるよう、心から祈り、願います。
 今年のクリスマス記念礼拝も午前と午後の2回に分けて行うこととなりました。2020年、21年、そして今年と3年続きました。昨夜のキャンドル・サービスも2回に分けました。祝会のないクリスマスも3回目です。何か寂しいクリスマスだなと感じる方も多いでしょう。それでも、教会学校の生徒たちによる降誕劇(ページェント)は、この礼拝と午後の礼拝の間の時間に行われます。是非、残って観ていただければと思います。
 イエス様はすべての人を救うために来られました。しかし、それは何よりも私のためです。この「私のために」ということを横に置いて、「すべての人のために」と言ったところで意味がありません。それでは、クリスマスの喜びは「私の喜び」にならないからです。クリスマスは「私のクリスマス」です。御子は他でもない私のために来てくださったからです。

2.皇帝アウグストゥス
 今朝与えられた御言葉は、ルカによる福音書が告げるイエス様の誕生の場面です。冒頭にローマ帝国の皇帝の名前が出てきます。アウグストゥスです。世界史の教科書にも出てくる有名な皇帝です。彼はユリウス・カエサル(英語読みではジュリアス・シーザー)の姪と結婚し、カエサルが暗殺された後、色々ありましたが後継者となりました。そして、初代のローマ皇帝となった人です。彼以前に皇帝と名乗った人はいませんでした。彼は紀元前27年~紀元後14年の、41年もの間ローマ帝国の皇帝でした。ちなみに英語で8月をオーガストと言いますが、これはアウグストゥス(英語読みではオーガスト)が自分の誕生月である8月に自分の名前を付けたからです。これは彼が始めたことではなくて、先代のユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)が自分の誕生月である7月に自分の名を付けたことに倣ったものです。それを私たちは今でも使っているわけですから、ローマ皇帝というものが如何に絶大な力を持つ者であったかが分かるでしょう。

3.マリアの出産 
 その彼が、全領土の住民に対して「住民登録をするように」という命令を出しました。それは税金を取るためでした。当時は一人当たりいくらという人頭税が課せられていたからです。それと徴兵する時に成人男子がどれだけいるかを把握するためでした。この人口調査は、ローマ帝国としても大変なことでしたので、毎年行われるようなものではありません。何年かに一度、行われました。それが丁度イエス様の誕生と重なりました。マリアとヨセフはガリラヤの町ナザレからユダヤのベツレヘムまで行かなければなりませんでした。ベツレヘムはダビデの町であり、ヨセフはダビデの家系だったからです。ガリラヤのナザレからユダヤのベツレヘムまで、直線距離で100㎞以上あります。身重のマリアを連れての旅は、本当に大変だったことでしょう。一週間か十日はかかったはずです。やっとの思いで着いたベツレヘムでしたが、そこに彼らが泊まる家はありませんでした。そして、このベツレヘムにいる間に、マリアはイエス様を出産します。それが馬小屋であったとは聖書は記していませんけれど、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とあり、「初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」と記されていますので、きっと馬小屋のような所だったのでしょう。
 この時の情景を思いますと、旅の途中の若い夫婦が馬小屋で出産する。生まれたばかりの子を入れる籠もなく、赤ちゃんはあり合わせの飼い葉桶に布にくるんで寝かされた。旅先ですから、両親のマリアとヨセフの他には、この出産を喜び祝う親戚の人たちも近所の人たちもいない。それは貧しく、寂しく、惨めと言って良いほどの光景です。これが世界で最初のクリスマスの日に起きたことです。

4.奇跡の赤ちゃん
聖書は、この飼い葉桶に眠る赤ちゃんこそが神の独り子、救い主、メシア、イエス・キリストであると告げます。確かに、この出産の出来事は、貧しく、惨めにさえ見える光景でした。しかし、この出来事は驚くべき奇跡、愛の奇跡と呼ぶべき出来事が、幾つも重なって起きたことでした。
 第一に、この赤ちゃんは、おとめマリアに聖霊によって宿った子でした。
 第二に、そのことを夫であるヨセフが信じ、受け入れたということです。
 おとめマリアが身ごもるということは、文字通り、神様の御業、神様による奇跡です。天地を造られた全能の神様、無から有を生まれさせる神様によってしか出来ないことです。大いなる奇跡です。しかし、この神様の奇跡は、マリアのいいなずけであったヨセフとマリアの関係を破綻させる出来事でした。いいなずけの女性が婚約中に身ごもる。婚約中の男性には身に覚えがない。そのような場合、婚約している男性がこの女性を妻として迎え入れることは、おおよそ考えられないことでしょう。マリアはヨセフに、「お腹の子は聖霊によって宿りました。」と言ったはずです。また、天使が自分に告げた言葉もヨセフに伝えたはずです。しかし、それをまともに信じて受け入れる男性がいるでしょうか。マタイによる福音書はその時のことを、1章19節「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。」と記しています。ヨセフにはいいなずけのマリアをそのまま受け入れることなど、到底出来なかったのです。縁を切ろうとした。つまり婚約破棄です。もし、ヨセフが決心したように事が運んでいれば、マリアがこの日ベツレヘムでイエス様を産むことはありませんでした。しかし、ヨセフはマリアとそのお腹の子を受け入れたのです。マリアを妻として受け入れ、お腹の子を自分の子として育てることにしたのです。それは、ヨセフの夢に天使が現れて、「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」(マタイによる福音書1章20~21節)と告げたからです。マリアに告げたことと同じことを、天使は夢の中でヨセフにも告げました。そして、ヨセフはその天使の言葉を信じ、マリアとその子を受け入れました。これは奇跡でしょう。実に麗しい奇跡です。こうして、世界で最初のクリスマスの日、おとめマリアからイエスと名付けられる赤ちゃんが誕生しました。
 おとめマリアが身ごもるという神様の奇跡が、ヨセフがマリアとお腹の子を受け入れるという奇跡へとつながり、クリスマスの出来事となりました。神様の奇跡は、マリアやヨセフがそれを受け入れるということがあって、出来事となりました。これはとても大切なことです。神の御子イエス様の誕生は、人間を用いて、何も知らない者から見れば「ごく普通の、どこにでもある出来事」として起きました。しかし、それは奇跡が幾重にも重なって生まれた出来事でした。
 私共がクリスマスを喜び祝うのは、私共の上にも神様の愛の奇跡が起きたからです。おとめからどうして子どもが生まれようか。そう思っていた私共でした。自然には、そんなことは起きません。しかし、神様は自然の中におられるお方ではありません。自然を造られたお方です。私共の上に聖霊が働いてくださって、このクリスマスの出来事をありがたいことだと受け入れる者としてくださいました。神様には出来ないことは何一つありません。神様は、信じない者を信じる者に変えてくださいます。これは奇跡です。私共はこの神様の奇跡の中を生きる者とされています。ありがたいことです。

5.どうして飼い葉桶に?
 しかし、神の独り子であるイエス様は、どうして飼い葉桶に寝かされたのでしょうか。天使は羊飼いたちに、11~12節「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」と告げました。救い主・メシアが生まれた「しるし」が、飼い葉桶に寝かされているということだったのです。この「神の独り子であるイエス様はどうして飼い葉桶に寝かされたのか」という問いは、「どうして神の子が貧しい大工の子として生まれたのか」という問いと重なります。この問いの背後には、神の独り子が生まれるのは、王様の家、お金持ちの家、立派な学者の家、預言者の家、のような所が相応しいと考えるからでしょう。しかし、神様はそのようにはお考えになりませんでした。
 神様の御心は、イエス様を、どんなに貧しい人、弱い人、小さい人とも共に歩まれる方として遣わすということでした。神様の愛からこぼれ落ちてしまっている人は一人もいない。そのことを示すためにイエス様は来られました。事実、イエス様は、ユダヤ教では決して救われないと考えられていた罪人たちと共に食事をしました。病人を癒やしました。小さな村々、町々を巡り、福音を告げ知らせました。そして、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。」(ルカによる福音書6章20節)と告げられました。そして最後には、イエス様は犯罪人と一緒に十字架にお架かりになりました。また、イエス様の弟子たちの多くは漁師という、まさに庶民でした。イエス様の誕生が最初に告げられたのも、羊飼いという庶民でした。偉い人も金持ちも、一人も出てきません。更に、私共がイエス様の救いに与り、神の子としていただいたのは、ユダヤ教においては決して救われることはないと考えられていた異邦人にまで、イエス様の救いが及んだからです。東方の博士たちがイエス様を拝みに来て黄金・乳香・没薬を献げたのは、そのことを暗示しています。イエス様が単にユダヤ民族の王ということではなく、すべての民に広がっていく神の民の王であることを示しています。きっと東の博士たちは、世界の王、自分たちの王としてイエス様を拝んだのでしょう。イエス様の救いに与る者は、ただ一つのことが求められます。それは、イエス様を我が主・我が神として迎え入れ、この方を拝むことです。
 何も出来ない赤ちゃんとして飼い葉桶に眠るイエス様を拝むということは、私共が神様の御前において謙遜になることを求めています。目に見えているところだけを見るならば、そんなことは出来ないでしょう。赤ちゃんですから、可愛らしいとは思うでしょう。しかし、拝むでしょうか。目に見える赤ちゃんイエス様の向こうに、飼い葉桶に眠るイエス様の向こうに、神様の奇跡、神様の御計画、神様の愛を見なければなりません。それは信仰の眼差しをもってイエス様を見るということです。飼い葉桶のイエス様に、十字架のイエス様を見、復活のイエス様を見、やがて来られるイエス様を見る。その時私共は、神様の御前に本当に謙遜になります。

6.そもそも、どうして人に?
しかし、飼い葉桶に寝かせられたという以前に、そもそも何故神の独り子が人間の赤ちゃんとなって生まれたのか。天地が造られる前から神様と共におられ、全能の神と同じ力と権威を持つ聖なる御子、神の独り子が、天のいと高きところから地に降り、何も出来ない、弱く小さな赤ちゃんとなられたのか。使徒パウロは、「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです。」(コリントの信徒への手紙二8章9節)と告げました。「主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるため」これはイエス様が人となられたこと、そして十字架に架けられたことを指しています。イエス様が天から降られたのは私共のため、イエス様の十字架も私共のためです。私共が豊かになるためです。神の御子が人となり、罪人と同じ姿をとり、すべての罪人の身代わりとして十字架に架けられる。徹底的に低きに下られ、徹底的に貧しくなられた。そして、罪人である私共の一切の罪が赦され、神の子とされ、豊かにされ、上げられた。御子は貧しく、私共は豊かに。御子は下られ、私共は上げられる。このためにイエス様は来てくださいました。神様は天を引き裂いて、我が子を地に降らせ、人間と同じ姿にならせ、永遠の救いの御業を成し遂げられました。私共が謙遜になる前に、神様が徹底的に低きに下られました。クリスマスの出来事と十字架は別々のことではありません。神様の同じ救いの御心の中での出来事です。

7.二人の王
ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスとイエス様という二人の王が、ここには出て来ます。この世の国の王と神の国の王です。絶大な権力を持った王と何も出来ない生まれたばかりの赤ちゃんです。赤ちゃんのお父さんとお母さん、ヨセフとマリアも絶大な権力を持ったこの世の王である皇帝アウグストゥスの命令には逆らえませんでした。そして、身重の体で長い旅を強いられて、ベツレヘムまで旅をしなければなりませんでした。そして、馬小屋でイエス様を出産しました。この世の国の王は神の国の王よりも力があるように見えます。実際、イエス様はローマ帝国の総督ピラトによって十字架に架けられました。しかし、ベツレヘムで生まれたことも、馬小屋で生まれたことも、神様の御心に適ったこと、神様の御計画の中での出来事でした。
 最初のクリスマスから二千年経って、今はもうローマ帝国はありません。皇帝が自分の誕生月に自分の名前を付けたことも、クイズ番組の問題になるようなことで、ほとんどの人は知りません。しかし、クリスマスは世界中で喜び祝われています。それは、イエス様の国が私共の国だからです。イエス様が私共の王だからです。アウグストゥスの国は私共の国ではありません。しかし、イエス様の国、神の国は、私の国であり、イエス様は私の王です。イエス様は弱い者を支え、小さな者を守ってくださいます。そして、どんな者とも共に歩んでくださいます。ヨセフとマリアはイエス様が生まれるとすぐに、ヘロデ王から逃れるためにエジプトに行きました。今で言えば、エジプトで難民になったのです。イエス様は難民の人たちの嘆き、悲しみ、苦しみ、貧しさを御自分のこととして知っておられます。御自身が同じところまで下ってこられたからです。そして、神の国はあなたがたのものだと言ってくださいます。御自分の命を捨てて、私共に命を与えてくださった方。それが私共の王、主イエス・キリストです。

8.イエス様を迎える聖餐
私共は今から聖餐に与ります。イエス様を我が主・我が神として心に迎え、御子の御前に額ずいて聖餐に与ります。この聖餐において私共は、イエス様が私共と一つになってくださり、私共と共におられる方であることを味わいます。イエス様の命と一つとされていることを味わいます。神の国は目で見ることは出来ません。しかし、私共は代々の聖徒たちと共にこのイエス様の国、神の国の住民となりました。やがて、私共は代々の聖徒たちと共に、イエス様と同じ食卓を囲むことになります。神の国は決して滅びることなく、成長し続け、やがて完成するからです。主は私と共に、皆さんと共に、代々の聖徒たちと共におられます。今、神の国の王であられるイエス様がおられるここに、神の国はあります。

 お祈りいたします。

 主イエス・キリストの父なる神様。
 今朝、愛する御子の御降誕を喜び祝えますことを、心から感謝します。御子は私共を神様の子とし、高く挙げるために、御自分は天の高きから降り、徹底的に低きに下られました。まことにありがとうございます。御子の歩みを心に刻み、へりくだって、あなた様と隣り人とに仕える者として、ここから歩んでまいります。どうか、聖霊なる神様が私共の歩みのすべてを導いてくださり、あなた様と共なる歩みを為していくことが出来ますように。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2022年12月25日]