日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「キリストがあなたを受け入れたように」
詩編 117編1~2節
ローマの信徒への手紙 15章7~13節

小堀 康彦牧師

1.はじめに
 しばらくぶりにローマの信徒への手紙から御言葉を受けます。私共はずっとローマの信徒への手紙から順に御言葉を受けていましたけれど、アドベント、クリスマス、元日があって、その間ローマの信徒への手紙以外の箇所から御言葉を受けました。ですから、ローマの信徒への手紙から御言葉を受けるのは11月20日(日)以来です。最初にどのような流れであったかを少し振り返っておきましょう。
 ローマの信徒への手紙は12章から、キリスト者の倫理と申しますか、キリスト者の具体的な生活について語っているのですが、特に14章からは教会の中でのこと、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の関係について、「互いに裁いてはならない」「強い者は弱い者を担うべきだ」と告げてきました。そして、今朝与えられている御言葉に繋がっているわけです。ですから、今朝与えられた御言葉も、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の関係において語られているものです。冒頭で「互いに相手を受け入れなさい」と告げていますが、これは直接的にはユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者に対して、「互いに相手を受け入れなさい」と語っているわけです。
 また、ローマの信徒への手紙全体から見ると、今朝与えられている御言葉はローマの信徒への手紙の本文の最後の所となります。15章14節からは長い終わりの挨拶の部分に入りますので、その意味では、今朝与えられている御言葉がローマの信徒への手紙の結論と言いますか、最後にパウロが告げておかなければならないと考えたことと理解して良いでしょう。それが「互いに相手を受け入れなさい」ということだったわけです。これは単に「みんな仲良くしましょう」ということではありません。「みんな仲良くしましょう」と言って、みんな仲良く出来るならば話は簡単です。しかし、そうはならないわけです。それが、私共が生きている罪の現実の世界です。パウロがここで告げている「互いに相手を受け入れなさい」という御言葉は、あなたがたは既にイエス様によって互いに受け入れることが出来るようにされている。あなたがたはそのような者として召されている。そのキリストによって与えられている恵みの現実を見なさい。そこに立ちなさい。そう告げているわけです。パウロはイエス様を抜きにして「互いに相手を受け入れなさい」と言っているわけではありません。それならば「みんな仲良くしましょう」と同じです。

2.互いに受け入れる
 パウロが「互いに相手を受け入れなさい」と告げた理由、それははっきりしています。その理由は「キリストがあなたがたを受け入れてくださった」からです。だから、「あなたがたも互いに相手を受け入れなさい」とパウロは言うのです。ユダヤ人キリスト者にしてみれば、異邦人が救われるはずがない。割礼も受けていないし、アブラハムの子孫でもないではないか。偶像に捧げられたかもしれない肉を平気で食べている。そんな者をどうして兄弟姉妹として受け入れなければならないのか、という思いがありました。逆に異邦人キリスト者にしてみれば、イエス様の十字架によってすべての罪は赦されたのに、どうして律法を守ることにばかりこだわっているのか。どうして、そんなことを自分たちもしなければならないのか。とても出来ないし、意味がない。そんな思いがあったでしょう。確かに、ユダヤ人と異邦人の間には、キリスト者になる前の様々な考え方、生活習慣においてたくさんの違いがありました。ですから、ここが違う、そこが違う、と言い出せばきりがないわけです。しかし、彼らはキリストに受け入れられた。イエス様の十字架によって罪赦され、神の子としていただいた。そこにおいては全く同じです。パウロは、そこを見なさい、そこに立ちなさい、と促すのです。イエス様に救われた。この一点を外してしまえば、お互いに受け入れることなどとても出来ない。しかし、この一点に立つならば、受け入れることが出来る。パウロはそう告げているのです。
 この「受け入れる」というのは、互いに家に迎えて食事をするような関係になるということです。これが教会においてはっきりした形で現れているのが聖餐であり、私共の教会でもクリスマスやイースターの祝会などでなされる愛餐です。今では、毎週愛餐をする教会はほとんどありませんけれど、パウロの時代は毎週の主の日の礼拝において聖餐と愛餐がなされていました。その愛餐が出来なくなるほどに、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の関係が悪くなり、反目していました。悲しいことですし、愚かなことです。これが生まれたばかりのキリストの教会において起きていたことです。教会は神の国ではありません。様々な問題や課題がいつもあります。しかし、それは神の国に向かって歩んで行く以上、乗り越えていかなければならない課題です。教会はこの問題を乗り越えました。すぐにではなかったかもしれませんけれど、乗り越えました。そして、それを乗り越える中でとても大切なことをキリストの教会は学びました。それは、「キリスト者の交わりは、ただ信仰によって与えられるものだ。キリストによって与えられるものだ。」ということでした。ただ信仰によって、ただキリストによってです。それ以外の何によっても形作られていくことはないということです。そしてそれ故に、人間の罪によって壊されてしまうものではないということでした。

3.戦争さえも超えて
 この「互いに相手を受け入れる」ということは、何もユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の関係に限ったことではありません。キリストの教会は、この「イエス様を信じて、救われた」という一点に立つことによって、国籍・人種・民族・文化・貧富の差・社会的立場・思想の違い、そのようなものを超えて、一つの交わりとして形造られ、歩んで来ました。それがキリストの体である教会です。しかし、「本当に国籍や民族を超えているのか。一つなのか。実際にはそうなってはいないではないか。」そう指摘される現実があるのもそのとおりです。現在の問題で言えば、「ロシアとウクライナの戦争を見よ。同じ正教会の国同士ではないか。」と言われれば、返す言葉もありません。あってはならないことが起きています。しかし、教会と国家は同じではありませんし、一つでもありません。国家の間で対立が起き、たとえ戦争になったとしても、教会の交わりは保たれるし、兄弟姉妹としての交わりは破壊されない。私はそう信じています。今までもそうだったからです。為政者の間違った指導によって戦争がたとえ起きたとしても、その為政者がキリストの体を破壊することは出来ないし、キリスト者の兄弟姉妹の交わりを破壊することも出来ません。何故なら、その交わりはキリストの尊い血によって与えられたものだからです。そこに、私共の希望、そして世界の希望があります。たとえ人間の罪がこの世界を破壊しようとも、破壊出来ないものがある。それがキリストの体である教会であり、キリストの尊い血によって与えられた交わりです。この交わりは、人間の造る様々な垣根を越えていくだけではありません。時代も超えます。そして、私共の肉体の死さえも超えて保持されます。私共は、目に見える不和、対立、争いがすべてであるかのように思ってしまいます。しかし、そうではありません。キリストの体は、それらを超えて有り続けます。

4.仕える者として
イエス様はユダヤ人も異邦人も受け入れてくださいました。それは、イエス様の十字架はユダヤ人のためだけではなかったし、異邦人のためだけでもなかったということです。イエス様の十字架は、ユダヤ人のためであり、異邦人のためでした。イエス様は十字架にお架かりになるというあり方で、究極の「仕える者」の姿を示されました。そのイエス様によって救われた私共が「互いに受け入れる」とは、「互いに仕える」ということ以外にありません。そこにイエス様によって与えられた者の交わりの、特別な姿があります。
 イエス様がお生まれになったのはおとめマリアからです。そして、ヨセフとマリアの子として育ちました。それは、イエス様がユダヤ人として育ったということです。律法に従って八日目に割礼を受け、命名されました。安息日も守っておられたことでしょう。それは、律法を全うする方、律法を完成する方として来られたからです。そして、十字架にお架かりになり、神様の真実を現し、神様の栄光を現わされました。それはこういうことです。神様はアブラハム選び出し、神の民をそこから生み出されました。このアブラハムが召命を受けた時に神様は、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」(創世記12章3節b)と約束されました。この約束は、アブラハムの祝福はアブラハムの子孫であるユダヤ人だけが受けるものではなく、アブラハムによってすべての民に祝福が与えられるというものでした。このアブラハムの祝福をすべての民に与える方としてイエス様は来られました。そして、そのために十字架に架かられたわけです。ここに神様の真実が現れました。イエス様より二千年近く前のアブラハムに約束されたことが実現する。神様の約束は反故にされることはない。そのことが明らかにされたからです。そして、この神の真実は、神様の栄光を現します。何故なら、アブラハムの祝福を受けたすべての者の唇は、共々に神様をほめたたえることになるからです。

5.旧約以来の神様の御心
 さて、9節から12節まで、パウロは旧約の言葉を引用します。旧約のどこから引用されているかを見てみますと、「そのため、わたしは異邦人の中であなたをたたえ、あなたの名をほめ歌おう」はサムエル記下22章50節の引用です。「異邦人よ、主の民と共に喜べ」は申命記32章43節の引用であり、「すべての異邦人よ、主をたたえよ。すべての民は主を賛美せよ」は詩編117編1節の引用です。そして、「エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける。」はイザヤ書11章10節の引用です。
 ここでパウロが旧約の4箇所から言葉を引用をした意図は、はっきりしています。この引用された聖書の言葉はすべて、異邦人と神の民(ユダヤ人)が共に主を喜び、主を賛美し、主に望みをかけることになるということを告げています。つまり、ユダヤ人と異邦人が共に神様の救いに与ることが、神様の旧約以来の御計画なのだ。その御心がイエス様によって成就したのだ。そうパウロは告げているわけです。旧約全体に神様のその御心が現れていることを示すために、パウロは意図的にこの4箇所から引用しました。今、旧約からという言い方をしましたけれど、パウロの時代には「旧約」という言葉も「聖書」という言葉もありません。パウロの時代、私共が旧約聖書と言っているものは、その内容を示す「律法と預言と詩」と呼ばれていました。パウロはこの区分に従って、律法は申命記から、詩は詩編から、そして預言は前の預言書のサムエル記下と後の預言書のイザヤ書から引用しているわけです。これも少し説明が必要かもしれません。パウロの時代の旧約聖書の並びは現在の私共のそれとは違っていて、最初に「律法」。これはモーセ五書(創世記・出エジプト記・レビ記・民数記・申命記)で今と同じです。次が、私共が歴史書としてまとめているものですが、これが「前の預言書」と呼ばれ、私共の聖書のイザヤ書以降のものを「後の預言書」と言っていました。そして、最後にヨブ記・詩編・箴言・コヘレトの言葉・雅歌のまとまりがありました。この部分は、詩編に代表させて「詩」と言ったり、「その他」とされていました。つまり、パウロは律法・前の預言書・後の預言書・詩から一箇所ずつ引用して、旧約全体がこう告げている、これが神様の御心なのだと示したわけです。
 ユダヤ人も異邦人も、みんなイエス様の救いに与って、ただ独りの神様をほめたたえる。それが旧約以来の神様の救いの御計画であり、それがイエス様によって成就した。この大いなる神様の救いの恵みの中に私共は生かされている。何とありがたいことか。その大いなる恵みをはっきり弁えるならば、互いに相手を受け入れることなど造作もないことではないか。そうパウロは告げているのです。

6.希望の神
さて、パウロは旧約の言葉を引用した後、13節で祈りをもって閉じます。こういう祈りです。「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように。」  パウロはここで神様を「希望の源である神」と呼びます。直訳すれば「希望の神」です。私共の神様は、希望の神なのです。それは私共を「希望に満ちあふれさせてくださる」お方だからです。この希望は、あるかないか分からない、ぼんやりしたものではありません。キリストを知らない人は、まだこの希望を知りません。そして、この希望の力を知りません。この希望は私共を励まし、支え、生かします。力ある希望です。何ものもそれを押しつぶすことの出来ない、強靱な希望です。誰も私共から奪うことの出来ない希望です。イエス様の十字架によって一切の罪を赦していただき、神の子とされた私共に与えられている希望です。それは、イエス様が再び来られる時に復活し、キリストに似た者とされ、永遠の命に生きる者とされるという希望です。そして、この希望は私共に満ちあふれるほどに注がれ、私共から外にあふれていくものです。心の中にほんのりと灯火がともるような、弱々しい、はかない希望ではありません。闇を駆逐し、自分の周りの人々にまであふれ出し、この世界に生きる力と勇気を与える希望です。
 この希望をもって、私共は「互いに受け入れる」という歩みへと導かれて行きます。この希望をもって、お互いに心を一つにして主をほめたたえる日が来ることを信じます。確かに、互いに受け入れられないという現実、対立や争いを、キリストの教会は何度も何度も経験してきました。今も経験しています。しかし、それでもキリストの教会は希望を失ったことはありません。もう互いに受け入れることは出来ないと諦めることはありません。人間の知恵や工夫では、もう無理だろうと思うこともあるでしょう。万策尽きたと思うこともありましょう。しかし、希望はなくなりません。そもそもこの希望は、「私が何とか出来る。何とかする。」というところに根拠を持つものではないからです。神様から、信仰と共に注がれる希望です。神様が出来事を起こし、新しい時代を開いていってくださる。そして、きっと、今互いに受け入れることが出来ないでいる者たちが、喜んで互いに受け入れる時が来る。共に主をほめたたえる日が来る。私共はそう信じています。希望の神が、私共をその希望で満たし続けてくださるからです。

7.喜びと平和
 この希望の神は、「信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とで私共を満たし」てくださいます。私共は「喜び」と「平和」で満たされるのです。その喜びと平和は「信仰によって得られる」ものです。その意味では、あの力ある希望・強靱な希望と繋がっています。私共は目に見えるものを求めます。それが叶えられれば喜ぶ。それは誰でもそうです。しかし、その喜びはそう長く続くものでもありませんし、良くないことが起こればすぐに凹んでしまいます。しかし、私共を満たす信仰によって与えられる喜びと平和は、神様が私共を愛してくださっている。神様が生きて働いて、私共をその恵みの御手の中に置いてくださっている。だから、私の明日は神様と共にあり、たとえ死んでも生きる。だから、何も怖がることはないというものです。この喜びと平和はクリスマスの時に天使によって告げられ、歌われたものと同じです。そして、この喜びと平和もまた、私共の中にただ留っていくだけではありません。希望と共に私共からあふれ出ていきます。
 イエス様に救われたという恵みの事実は、この希望と喜びと平和で私共を満たし、外へとあふれ流れていきます。初めて教会に来られた方は、この希望と喜びと平和に触れます。何故私共に希望と喜びと平和があるかは分からないでしょう。しかし、この希望と喜びと平和は必ず伝わります。何故なら人は皆、それを求めているからです。そして、「ここには何かがある」と感じるでしょう。私もそうでした。この「何か」というのが、神様であり、神様の愛によって救われるという福音です。私共は、それを証しする者として召され、立てられ、遣わされているのです。
 分断の時代と言われます。社会の様々な所で分断が起きています。そのような現実の中で人々は不安を抱えています。このような時であるからこそ、私共は希望の神に支えられ、和解の福音を携えて、希望と喜びと平和をもって隣り人の一人一人と出会っていきたいと思うのです。

 お祈りいたします。

 主イエス・キリストの父なる神様。
 あなた様は希望の神であられます。私共がどのような状況にあっても、決して失われることのない希望を与え続けてくださいます。喜びと平和で満たしてくださいます。ありがとうございます。私共を、あなた様が与えてくださる希望と喜びと平和を証しする者として遣わしてください。
 私共は、ただあなた様の憐れみによって、御子の尊い血潮の恵みに与り、あなた様の子とされました。それなのに、なおも自分を誇り、自分と違う者に対しては見下し、敵対し、排除しようとしてしまうような者です。どうか憐れんでください。私共の信仰の眼差しをしっかり御子の十字架に、そして天におられるあなた様とその右におられる復活された御子に向けさせてください。そして、御子と一つにされている恵みの中を歩み続けさせてください。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2023年1月8日]