日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「父よ、彼らをお赦しください」
出エジプト記 32章1~6、30~35節
ルカによる福音書 23章32~38節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
レント(受難節)の日々を歩んでいます。今年のイースターは4月9日(日)です。今日から4月23日(日)まで6回にわたって、ルカによる福音書におけるイエス様の十字架・復活の記事から御言葉を受けてまいります。皆さんがもう何度も何度も教えられてきた御言葉です。しかし改めて、イエス様の十字架のお姿を、そしてそこで告げられた言葉を、しっかり心に刻ませて頂きたいと願っています。  そこで大切なことは、この場面に出てくる様々な人々と自分とを重ねるようにして御言葉を味わうことです。確かに、イエス様が十字架にお架かりになったのは二千年前のことですし、遠いエルサレムで起きたことです。しかし、私共は今朝、霊の眼差しをもってイエス様の十字架を仰ぎ、霊の耳をもってイエス様の十字架上の言葉を聞きたいと思います。それは視覚に訴えてイメージを鮮明にするということとは、少し違います。もう40年も前になるでしょうか。教会学校の中高科の生徒たちと、イエス様の映画を見に行きました。「ジーザス」という映画でした。「ルカによる福音書を忠実に再現した」という宣伝文句で、世界中で58億人が見たと言われています。確かに、聖書に忠実に描かれていました。イエス様が鞭で打たれた場面も、十字架の場面もしっかり描かれていました。それを見た後で、中高生の生徒たちに「どうだった?」と聞きますと、全員が「イエス様が可哀想だった。」と言いました。確かにそう感じるのだろうなと思いつつも、「あれ?」という感じを受けました。中高生たちはスクリーンに映るイエス様の姿を見たのですけれど、イエス様の苦しみそして十字架が、「私のため」そして「私に代わって」ということにはならなかったのです。しかし、私共がイエス様の十字架を心に刻むということは、この「私のため」そして「私に代わって」というところで受け止めませんと、「ありがたい」とはならないのです。私共は、イエス様の十字架をまことにありがたい出来事として受け止めたいと思う。そこで大切なことは、この場面に出てくる様々な人々と自分とを重ねる、「ここに私がいる」と受け止めることなのです。

2.三本の十字架① 死に至るまで罪人と共に
今朝与えられております御言葉は、32~33節「ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。『されこうべ』と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。」と告げています。イエス様の十字架は、一本だけ立てられたのではありません。イエス様の十字架は、三本の十字架の真ん中に立てられました。イエス様の十字架の右と左には、二人の犯罪人が十字架につけられました。イエス様の十字架は、特別な十字架ではありませんでした。犯罪人を処刑するための、普通の十字架でした。
 これは文字通り、イエス様が死に至るまで罪人と共に歩まれた方であったということを示しています。十字架というのは極刑ですから、ちょっと何かを盗んだくらいでは架けられることはありません。イエス様と一緒に十字架に架けられた人は、強盗とか殺人とか、相当ひどいことをしたはずです。イエス様の十字架は、そのような罪人と共にありました。イエス様は罪人を愛し、罪人と共に食事をし、罪の現実の中で喘ぎ苦しむ者を癒やされました。そのイエス様の歩みは、十字架の上で死ぬまで変わることはありませんでした。それは、イエス様はどんな罪人であっても最後まで共にいてくださるということを示しています。ですから、イエス様は私共と共にいてくださる方なのです。このイエス様の愛からこぼれる者はいません。イエス様は私共とだけ共にいてくださるのではありません。イエス様を知らない人は、イエス様が共にいてくださるということを知りません。しかし、それは知らないだけであって、その人がイエス様の愛からこぼれているわけではありません。

3.三本の十字架② 私に代わって十字架に架かり
 しかしイエス様は、右と左の十字架に架けられた犯罪人のような、十字架に架けられるような罪を犯したでしょうか。何もしていません。それなのに十字架に架けられました。聖書が記すところによれば、祭司長や議員たちといった、当時のユダヤ教の指導者たちがイエス様を訴え、ローマの総督ピラトによって十字架に架けることが決定されました。しかし、イエス様がその御力を用いるならば、十字架に架けられないことも、或いは十字架から降りてくることも出来たでしょう。しかし、イエス様はそうはされませんでした。罪なき神の御子が十字架に架かり、私共の一切の罪を担って、私共に代わって裁きを受ける。それが父なる神様がお定めになった、私共に対する救いの御計画だったからです。十字架に架けられなければならなかったのは、本当は私でした。しかし、イエス様が私に代わって、十字架にお架かりになってくださいました。ここに、私共の救いの道が拓かれたのです。イエス様の右と左の十字架に架けられた人は、私です。私共の救いは、このイエス様の痛ましい十字架によらなければなりませんでした。イエス様が苦しまれ、私共が救われました。イエス様が死に、私共が生きる者とされました。まことにありがたいことです。

4.十字架の下① 服を分け合う
 しかしこのことを、イエス様の十字架の下にいた人たちは誰も知りませんでした。34節c「人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。」とあります。他の福音書には、このイエス様の服を分け合ったのは兵士たちであったと記されています。十字架で処刑するのはローマ兵の仕事でした。気持ちの良い仕事ではなかったでしょう。この服を分け合うというのは、そんな彼らのささやかな役得とでも言うべきものでした。昔の日本でもそうでしたけれど、布地は大切でしたので、縫い目をほどいては別の服に仕立てられました。十字架に架けられる人は上等な服を着ていたわけではありませんから、これは本当にささやかな役得でした。彼らはこの時、十字架の上でイエス様が苦しんでおられることなど、全く興味がありませんでした。彼らの興味は、目の前に分けられた服のどれだけ大きな部分を自分が手に入れることが出来るかということだけでした。目の前の損得だけがすべて。そして、くじでそれが決まる。このくじ引きには力が入ったことでしょう。勝った者は喜び、負けた者は悔しがった。イエス様なんて関係ない、目の前の損得にしか興味がない人。ここに、イエス様と出会う前の私共の姿があります。

  5.十字架の下② イエス様を罵る者たち
 イエス様の十字架の下には、もう一種類の人たちがいました。それは、十字架に架けられたイエス様をあざけり、ののしった人たちです。35節を見ますと「民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。『他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。』」とあります。37節には「言った。『お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。』」とあります。これは兵士たちの言葉です。民衆、議員たち、兵士たち。彼らは十字架に架けられたイエス様を見て、あざけり、ののしり、笑ったのです。イエス様の十字架は「見せしめ」という意味合いもありましたから、鞭打たれるところから、十字架の横木を担いで町を歩き、十字架に架けられるところまで、すべて人々が見ている前で行われました。そして、その見物人たちは、みんなでイエス様をあざけり、ののしり、笑ったのです。
 彼らがあざけり、ののしった理由ははっきりしています。「十字架に架けられて、何も出来ないのか。それでもメシアか。ユダヤ人の王なのか。自分も救えないで、他人を救うことが出来るはずがないではないか。もし、メシアだというのならば、そこから降りてきて、自分を救ってみろ。そうしたなら、信じてやっても良いぞ。でも、降りられないだろう。そんなのメシアであるはずがない。偽物メシア。偽物のユダヤ人の王。」といったところでしょう。彼らは、全く勘違いをしていました。自分を救って、余力があったら他人を救う。それが彼らの常識、この世の常識でした。もし、イエス様がただの人間であるならば、この世の常識の中で生きておられる方ならば、このようなののしりは的を得ているとも言えましょう。しかし、イエス様はただの人間ではありませんでした。神の独り子でした。神の独り子であるイエス様は、自分を救わない、そしてそのことによってすべての人を救うという、全く常識では考えられない道を歩まれました。

  6.自分のしていることが分からない①
 この世の常識の外におられる方であることを、イエス様は十字架上の祈りによってはっきりと示されました。34節「〔そのとき、イエスは言われた。『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。』〕」これは、実に驚くべき言葉です。この言葉に最初に出会った時の驚きを、私はいまだに覚えています。まだ洗礼を受ける前でした。もう50年近く前のことです。
 何も悪いことをしていない自分を十字架に架けて殺そうとしている人たち。自分をあざけり、笑い、ののしっている人たち。このイエスという人はそんな彼らのために、神様に赦しを求めて祈っている。「こんな人はいない。絶対にいない。」そう思いました。普通だったら、「自分は十字架に架けられるようなことは何もしていない。」そう叫ぶでしょう。無実の罪で自分を殺そうとする人に対して、「忘れるな。末代までも呪ってやる。」と言うでしょう。まだイエス様を知らず、神様を知らない私はそう思いました。このイエス様の十字架上の祈りの言葉に、私は本当に驚きました。そして、「こんな人はいない。」と思いました。しかし、その時こうも思いました。「もしこれが本当ならば、自分が全く知らない世界がある。」そして、その世界への憧れのようなものも感じました。「こんな祈りをする人と、自分も一緒に生きてみたい。」そう思いました。
 それからしばらくして、私は洗礼を受け、キリスト者となりました。イエス様は「(彼らは)自分が何をしているのか知らない」と言われましたけれど、これは本当です。この時、イエス様を十字架に架け、イエス様をあざけり、ののしった人たちは、この十字架に架けられている方が神の独り子であるなんて、知りませんでした。ですから、十字架に架けました。自分たちがとんでもないことをしているかもしれないなんて、考えもしなかった。自分がしていることがどういうことなのか、全く分からなかったのです。それは、私も同じでした。キリスト者になる前、私は自分の罪も知らず、神様を崇めることも、感謝することも知らない者でした。自分の力だけで生きていると思っていました。自分の欲に引きずられ、それを満たすためにそれなりに一生懸命努力はしました。勿論、努力すること自体が美しいということはあるでしょうけれど、何のために努力しているのかも分かっていませんでした。ですから、本当に自分は何をしているのか分からない者でした。それで、この人と一緒に生きていこうと思って、洗礼を受けたわけです。

7.自分のしていることが分からない②
 それからキリスト者として47年、牧師として36年歩んで来ました。そのような歩みをして来て、今、「自分が何をしているのか分かっているか」と問われますと、「分かっています。」とは言い切れないところがあります。勿論、キリスト者として、牧師として歩み続けてきたわけですから、洗礼を受ける前の自分とは比べようがありませんけれど、それでも「自分が何をしているのか分かっているか」と問われれば、「よく分からないことがある。」と正直に答えるしかありません。それは「自分の罪の問題」なのです。つまり純粋に、混じりけなく「ただ神様の栄光のために」という一点に立って、「一切を神様に委ねて歩んでいるか」と自問しますと、その時々の自分の立場であるとか、自分の見通しとか、自分の願望というものを完全に捨てているとは言えない自分がいるわけです。また、どうしてあの時ああいう言い方をしてしまったのか、もっとこう言わなければいけなかったと反省したり、その時の感情に流されて言ったりやったりしてしまうことなど、しょっちゅうです。或いは、自分の家族のこと、特に我が子のことなどは、神様に対して「何とか、このようにしてください」というような思いを断つことは出来ません。神様が一番良いように導いてくださると思いつつも、やっぱり「こうなって欲しい」というような思いを持つ。神様に委ね切れない自分がいるわけです。更に言えば、自分は正しいつもりでやっているけれども、それが神様の御前においてどうなのか、それは分かりません。「風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉がありますように、自分のしたことが考えてもいなかったような結果に繋がってしまうことがあります。それが良い場合もあれば、悪い場合もある。自分がしていることが、どういう結果をもたらすのかなんて、さっぱり分からない。私共はそれなりの見通しを立てているわけですけれど、そんな風には大抵ならないわけです。まして、歴史を支配されている神様の御前で、自分のしていることがどのような意味を持つことになるのかなんて、全く分かりません。その意味でも、私共は自分がしていることが分からない。そういう限界の中で私共は生きています。それが、神様ではない、罪ある人間の限界であり、現実です。
 「それではダメだ。もっと徹底せよ。」とか、「もっとよく先のことまで考えよ。」と言いたいわけではありません。私共はそういう者だということです。ですから、このイエス様の祈り、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」を私共は今も必要としています。このイエス様の執り成しの祈りは、イエス様を知らない人にだけ向けられたものではありません。キリスト者を含めた、すべての者のために捧げられている祈りです。私共は、今もこのイエス様の祈りの中にいる。この祈りに支えられて、私共は神様の御前にこのように集い、神様の御前に出ることが赦されている。まことにありがたいことです。

8.救われる:神様に赦される:神様との交わりに生きる
 さて、イエス様は自分が何をしているのか分からない人間のために、罪を犯し続けている私共のために、執り成しの祈りをしてくださいました。そして、私共の一切の罪の裁きを御身に負って、十字架にお架かりになりました。ですから、「父よ、彼らをお赦しください。」という執り成しの祈りは、「父よ、彼らをお赦しください。彼らの罪の裁きは、わたしがここで受けます。わたしが代わって十字架に架かります。ですから、どうか赦してください。」という祈りなのです。
 先ほど出エジプト記32章をお読みしました。ここは、モーセが十戒を神様からいただくためにシナイ山に上って行って、イスラエルの民はそのふもとで待っていました。しかし、いくら待っても帰ってこないものですから、イスラエルの民はアロンに言って金の子牛を造ってしまいました。最もしてはならないことをしてしまったイスラエルでした。怒ったモーセは、十戒が刻まれた石の板を粉々に砕いてしまいました。そして、モーセは再びシナイ山に上り、イスラエルの民のために神様に執り成しをします。それが31~32節のモーセの言葉です。「モーセは主のもとに戻って言った。『ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください。』」モーセはこの時、自分の命と引き換えにイスラエルの民の赦しを求めました。このモーセの姿は、イエス様の十字架の贖いを指し示しています。イスラエルの民は、このモーセの執り成しによって、この後も出エジプトの旅を続けました。神様は、イスラエルと共に約束の地までの旅を続けてくださいました。神様が共に歩み続けてくださる、これが罪赦されて救われるということです。
 キリスト教において「救われる」とは、「神様に罪を赦される」ことです。そしてそれは、「神様との交わりに生きる者とされる」こと、「神様と共なる歩みに生きる者となる」ことです。私共は「救われる」という言葉を色々なニュアンスで使います。病気が治るとか、経済的な危機を脱するとか、人間関係が壊れてしまうことを免れるとか、危うく事故に遭いそうになったけれど大丈夫だったとか、色々使います。それもまた、神様の御手の中での出来事なのですから、確かに「救われた」と言っても良いのでしょう。けれど、聖書が私共に与えてくださっている救いは、もっと根源的であり、全体的なことです。私共の存在そのものが救われるということです。私共が神様との交わりを回復される。神様に対して「父よ」と呼ぶ者となる。神の子とされるということです。

9.神の子となる:キリストに似た者に:ステファノ
神様に罪を赦され、神様との交わりを与えられ、神の子とされ、神様を父よと呼ぶ者となる。この新しい私は、不完全ではあっても「イエス様に倣って歩む者」となります。先ほど、イエス様の十字架上の執り成しの祈りなど、人間にはあり得ないと思ったと申し上げました。ところが、何とこれと同じことをした者が聖書に記されています。使徒言行録7章のステファノが殉教する場面です。使徒言行録の6章で、7人の弟子が十二使徒たちによって主の御用をするために選ばれました。これが「執事」が立てられた最初の時と言われています。この最初の執事の一人がステファノであり、彼がキリスト教会最初の殉教者となりました。彼は、エルサレムにおいて石打ちの刑に処せられてしまうのですけれど、この時彼は「『主よ、この罪を彼らに負わせないでください』と大声で叫んだ。」(使徒言行録7章60節)と記されています。まさに十字架上で祈られたイエス様の言葉そのものです。彼も自分に石を投げつける者を呪ったりしませんでした。驚くべきことです。イエス様の霊である聖霊がステファノに宿って、このように彼を導いたのです。このような変化が、私共の中にも起きる。聖霊なる神様の導きの中で、このような者へと造り変えられ続けていく。そのことを私共は信じて良いのです。赦す者として生きる。理不尽であっても、心が怒りに燃えてしまうようなことがあったとしても、それでも赦す。神様に向かって、その人のために執り成しの祈りを為す者として生きる。それが、イエス様によって神様に赦されて生きる者にしていただいた者であり、新しくされた私共の歩みなのです。

 お祈りします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 あなた様は今朝、御言葉によって、私共がイエス様の十字架によって罪赦され、新しく神様との交わりの中に生きる者とされていることを教えてくださいました。なおも愚かな歩みをしてしまう私共でありますけれど、イエス様の執り成しの祈りの中に置かれておりますことを、まことにありがたく、感謝いたします。どうか私共が、いよいよ聖霊なる神様の導きの中で、イエス様の御足の跡に倣って歩むことが出来ますように。赦す者として歩むことが出来ますように。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2023年3月12日]