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礼拝説教

「あなたは今日わたしと共に楽園にいる」
詩編 6編2~6節
ルカによる福音書 23章39~43節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
先週からルカによる福音書が記すイエス様の十字架の場面から、御言葉を受けております。先週私共は、イエス様が二人の犯罪人と一緒に十字架に架けられた場面から御言葉を受けました。それはイエス様が死に至るまで、どこまでも徹底的に罪人と共におられるお方であることを示していました。そして、イエス様は十字架の上で、あざけられ、ののしられました。人々は、「メシアなら、自分を救うがよい。」「ユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」とイエス様をののしり、あざけりました。その人々のためにイエス様は、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈られた。これは驚くべき祈りです。度外れた祈りです。この祈りは、時代を超えて「自分が何をしているのか分からないすべての罪人」のための執り成しの祈りです。私共もこの祈りの中にいます。この祈りにおいて、イエス様が誰なのか、どういうお方なのか、イエス様の十字架とは何なのか、それが示されました。このような祈りを為されるイエス様こそ、愛であられる神様の独り子であり、すべての罪人の裁きを御身に負うために十字架にお架かりになったお方です。そして、このイエス様の十字架によって救われた者は、神様との関係が変えられます。神様に対して「父よ」と呼ぶ者とされる。そして、神様と共に、イエス様と共に、御心に従って生きていく者に変えられ続けていきます。私共はそのように変えられ続けていく者とされていることを御言葉から教えられました。
 今朝、与えられている御言葉は、その次です。十字架上のイエス様と、イエス様と一緒に十字架に架けられた二人の犯罪人の対話が記されています。ここには、イエス様が与えてくださる救いとは何か、その救いは誰に与えられるのかという、福音の最も大切なところが、イエス様の言葉として明確に告げられています。

2.ユダヤ人の王
 さて、十字架に架けられたイエス様の罪状書きには「ユダヤ人の王」と記されておりました。「罪状書き」というのは、その人が十字架に架けられる理由・罪状を書いた板を、その人の頭の上に打ち付けたものです。「ユダヤ人の王」とは、ダビデやソロモンのような実際の王様という意味がありますけれど、神の民であるユダヤ人の王は本来ならば神様御自身しかおられません。祭司長や議員や律法学者たちは、イエス様が「ユダヤ人の王と称している」と言ってピラトに訴えました。「これはローマに対する反逆ではないか。そのままにしておくことは出来ないでしょう。」そう総督ピラトに訴えたわけです。ピラトはそれを信じたわけではありません。ピラトには、イエス様が実際に反乱を起こすような人ではないことが分かりました。イエス様が訴えられたのは、ユダヤ教の内輪の話だと分かっていました。ですからピラトは、出来ればイエス様を釈放したいと思った。ところが、人々は「十字架につけろ。」と叫び続けた。結局、ピラトはイエス様を十字架につけるという決定をせざるを得ませんでした。総督ピラトにすれば、これは腹立たしかったことでしょう。民衆を扇動して、ローマから遣わされた総督である自分を操ろうとする祭司長や議員や律法学者たち。ピラトは面白くなかった。彼らのことが腹立たしかった。それで、ピラトはイエス様の十字架の罪状書きを「ユダヤ人の王」としたのでしょう。祭司長たちはイエス様の罪状書きに「ユダヤ人の王」と書かれて、さすがにこれはひどいと思いました。これではユダヤ人の王、つまり神様を十字架に架けて殺すということになってしまう。彼らは「ユダヤ人の王と自称した」と書き換えてくれるようにピラトに申し出ました。けれども、ピラトは「書いたままにしておけ」と答えただけでした。この辺のことはヨハネによる福音書の19章に記されています。ピラトにとっては、「ユダヤ人の王」という罪状書きは、祭司長たちに対する当てつけ、腹いせだったのでしょう。けれど、この罪状書きは十字架につけられたイエス様の「名札」のようなものになりました。ここにも、神様の不思議な御業が現れています。

3.二人の犯罪人  ①
 さて、イエス様と一緒に十字架に架けられた二人の犯罪人ですが、十字架は極刑ですから、相当重い罪を犯したはずです。殺人・強盗、或いはローマに対する反乱を企てたのかもしれません。いずれにせよ、彼らはもう十字架に架けられてしまったのですから、何時間後かには確実に死ぬことになります。そのような状況の中で、一人の犯罪人は、十字架の下にいた人たちと同じようにイエス様を罵ります。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」彼もイエス様が本当のメシア、キリストであるとは思っていませんでした。やけくそと言いますか、手と足に釘を打たれた激痛の中で、腹いせにイエス様を罵ったのでしょう。それは、イエス様の罪状書きに「ユダヤ人の王」と書かれていたからです。手と足に釘を打たれた痛みの中で、そしてもう死ぬしかないという絶望の中で、彼はイエス様を罵ることしか出来ませんでした。もう誰かに悪態をつくくらいしか出来なかった。彼は目の前の十字架につけられているイエス様に向かって悪態をついたわけですけれど、その心は神様に対しての悪態だったのではないでしょうか。「何でこんな目に遭わなければならないのか。神様、いい加減にしてくれよ。何でだよ。」そんな思いだったのではないでしょうか。

4.二人の犯罪人 ②
 ところが、もう一人の犯罪人は全く違いました。彼は、こう言ったのです。40~42節「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。』そして、『イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください』と言った。」彼は、イエス様を罵るもう一人の犯罪人をたしなめたのです。彼の告げた言葉から私共は、イエス様の救いに与るための3つのことを示されます。
 第一に、彼はまず「お前は神をも恐れないのか」ともう一人をたしなめました。彼が何をして十字架に架けられることになったのか、具体的には分かりません。ただ、彼はもう自分は死ぬという時になって、「神を恐れる」というところに立ったのです。今まで、彼がどのような歩みをしてきたのかは分かりません。でも、もう本当に死ぬという段になって、彼は神様の御前にある自分というものを受け止めました。これは本当に大切なことです。もう何時間かすれば死ぬというのでは、あまりに遅いのではないか。そう思われる方もいるかもしれません。しかし、遅くないのです。そして、自分の死というものは、神様の御前で受け止めなければならないことなのです。
 第二に、彼は自分の罪を認めています。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。」と告げます。彼は、自分が十字架という刑罰を受けるのは当然だと認めました。自分はひどいことをしたかもしれないけれど、十字架に架けられるほど悪いことはしていない。そう思うのが普通かもしれません。もう一人の犯罪人はそう思っていたのでしょう。しかし、彼はそうではありませんでした。自分のやったことの報いが十字架の死だと彼は認めたのです。これこそは、神様の御前に立った人間の、最も正しい自己認識です。私は少しこのことが分かります。私は教誨師として毎月刑務所に行っていますけれど、そこで「あなたは罪人ですか。」と尋ねますと、「はい、罪人です。」とみんな答えます。塀の外では、そうはいきません。彼は実際に十字架に架けられるような大変なことをしてしまったのでしょうけれど、「自分は十字架に架けられて裁きを受けなければならない者だ」という、神様の御前における人間として最も正しい自己認識に至りました。
 第三に、彼はイエス様に助けを求めました。それも、とても謙遜にです。彼は、自分はそんなことを求める資格なんてない者だけれども、どうか憐れんで、救ってください。そうイエス様に申し出たのです。それが「わたしを思い出してください。」という言葉の意味です。思い出すだけで良いです。何もしてくれなくてかまいません。そんなことではありません。とても「救ってください」とは言えない。そんなことを願い出る資格は自分にはない。だから、「わたしを思い出してください」と彼は言ったのです。
 しかし、どうして彼はここでイエス様に救いを求めたのでしょうか。「この方は何も悪いことをしていない。」と彼は言いましたけれど、イエス様のことを前から知っていたのでしょうか。そうではないと思います。彼は、十字架に架けられたイエス様の一番近くにいて、しかもイエス様と同じ痛み、苦しみの中にいました。ですから、イエス様の十字架上の祈り、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」を聞いた時、彼は本当に驚きました。この方はとんでもない方だ。そうはっきり分かりました。自分と同じ痛みの中にいながら、恨み言一つ言わず、このような祈りをする。この方は自分とは全く違う方だ。そのことがはっきり分かったのです。そして、彼はイエス様の「ユダヤ人の王」という罪状書きを、イエス様が誰であるかを示す名札として悟ったのでしょう。

5.福音:善き業によらず
 この犯罪人は、もう何時間かすれば死んでしまうという段になってですけれど、イエス様に出会い、イエス様に救いを求めました。そして、イエス様によって「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という、救いの約束をいただきました。これは救いの宣言です。これほど明瞭に、イエス様御自身から救いの約束をいただいた者はいません。もう、彼は死ぬのです。これから心を入れ替えて、善い行いをします。そんな時間はありません。しかし、イエス様は彼に救いを約束し、救いの宣言を告げられました。ここにはっきりと、イエス様の救いに与るのに必要なことは善い業なんかではないということが示されています。もう、そんな時間はないんです。あと数時間で死んでしまうのですから。ここで示されているイエス様の救いに与るのに必要なことは三つです。①神様の御前に立って、②自らの罪を認め、③イエス様に救いを求める。これだけです。イエス様は、その求めに必ず応えてくださり、必ず救ってくださいます。これが福音です。もっと聖書を勉強してから、もっと善い人になってから、そんな必要は全くありません。神様の御前に立って、自らが罪人であることが分かったのなら、イエス様に救いを求めたらよい。ただそれだけで救われるのです。  病床洗礼というものがあります。これは教会員の家族に対して行われることが多いのですけれど、高齢になったり、病気になって、もう教会には行けないかもしれない。死が近づいている。改めて聖書を学ぶ時間もない。しかし、イエス様の救いに与りたい、洗礼を受けたいという方に対して為される洗礼です。この病床洗礼の聖書的な根拠は、この十字架上におけるイエス様の言葉です。もう善い業も出来ない。聖書を学ぶことも出来ない。しかし、イエス様の救いに与りたい。そのような人の思いをイエス様は退けられませんでした。ですから、教会も退けません。牧師と長老が自宅や病室に行って、その人に洗礼を授けます。洗礼によって、その人の命はイエス様の命と一つに結び合わされます。つまり、救われるのです。

6.イエス様によって与えられる救い ①今日、肉体の死を超えて
 さて、イエス様が告げられた救いの宣言はこういうものでした。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」この時イエス様は「あなたは今日」と告げられました。イエス様もこの犯罪人も、今日死ぬんです。ところが、イエス様は「あなたは今日」と告げられました。それは、死んでも終わらない命があるからです。イエス様の救いに与るいうことは、イエス様の十字架によって罪赦され、神の子としていただくことです。それによって、神様との交わり、イエス様との交わりが与えられます。それが新しい命を与えられるということ、救われるということです。この新しい命は、肉体の死によって終わることはありません。確かに、イエス様に結ばれて、新しい命に生きる者とされた者は、この地上における生き方も価値観も言葉も行いも喜びも変わるでしょう。それは大切なことです。しかし、それだけならば、私共の命が肉体の死と共に終わってしまうのであれば、大したことではありません。それは大切なことですけれど、イエス様によって救われたことの一部分でしかありません。私共が使徒信条において「罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命を信ず」と告白している救いの現実は、肉体の死を超えており、肉体の死では終わりはしません。では、その命に私共は何時与るのでしょうか。「今日」です。今日、私共は既にこの命に生きています。私共はこのイエス様によって救われ、新しい命に生かされている「今日」という日を、一日一日生きているのです。確かに、イエス様の救いが完成するのは、イエス様が再び来られる時です。しかし、その時はもう始まっています。私共は既に、この新しい命に生き始めています。それがイエス様に救われたということです。
 この場面から、思い起こす言葉があります。聖書とは関係ない言葉です。「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」という言葉です。論語の言葉です。「道」というのは「真理」ということなのでしょうけれど、私共にとっては「福音」と読み替えて良いでしょう。イエス様から救いの宣言を受けたのは、まさに朝でした。そして、この犯罪人はこの日の夕方には死ぬ。これからまさに死のうとしている朝にイエス様に出会った、福音を聞いた、救いの宣言を受けた。彼は本望だったのではないでしょうか。「これで安心して死ねる。」そう思ったのではないでしょうか。私共にもこの安心が与えられています。

7.イエス様によって与えられる救い ②イエス様と一緒
 この肉体の死では終わらないイエス様に救われて与えられた命、この命の中核にあるのは「イエス様と一緒」ということです。罪を赦され、永遠の命に生きるようになったとしても、「イエス様と一緒」でないのならば、その命はつまらないものです。そこに愛はないからです。イエス様と一緒である、イエス様と共にあるということは、愛に包まれるということです。これこそ、イエス様に救われた者の命の喜びであり、輝きであり、平安であり、祝福です。イエス様と一緒にいるということは、イエス様との愛の交わりの中に生きるということです。このイエス様との愛の交わりは、肉体の死によっても終わることがありません。そのことを、神様はイエス様を復活させることによって、はっきりと示されました。イエス様が復活されたということは、イエス様と一緒にいる者もその復活の命と共にあるということです。確かに、私共はその肉体の死の後どうなるのか、よく分からないところがあります。これは終末の問題とも関連しています。昔から様々な議論がされて来ました。しかし、聖書の中にも色々な表現があって、絵を描いて見せるように、死んだらこうなりますとは簡単に言えないところがあります。それは、人間には隠されているところがあるということなのでしょう。しかし、それでもはっきり分かることがあります。それは、イエス様に救われた命、イエス様と共にある命、イエス様に結ばれた命は、肉体の死では終わらないということです。それは、はっきりしています。
 終末についての代表的な記述がテサロニケの信徒への手紙の4章15節以下にあります。「主の言葉に基づいて次のことを伝えます。主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません。すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」ここで、「合図の号令」「大天使の声」「神のラッパ」「空中で主と出会う」「雲に包まれて引き上げられ」るといったイメージ豊かな表現が幾つも出て来ます。勿論、このとおりのことが起きると考えても構いません。でも、ここで最も大切なことは、「主が天から降って来られ」て、「わたしたちはいつまでも主とともにいることにな」るということです。これを外しては、終末も、救いの完成も、さっぱり分からなくなってしまいます。

8.イエス様によって与えられる救い ③楽園
 イエス様はこの犯罪人に、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われたわけですが、この「楽園」とは何か。この「楽園」と訳されている言葉は、新約聖書で三回しか使われていない言葉で、パラダイスの語源になった言葉です。元々、エデンの園のようなものをイメージしている言葉です。これを天国と受け止めても間違いではないでしょう。しかし、「死んだら天国に行く」ということがイエス様によって与えられる救いではありません。天国・楽園ということで、何を考えるでしょう。そこがどんなに美しく、快適なところであったとしても、たとえそこに先に亡くなった家族やペットがいたとしても、それがイエス様が言われた楽園・天国であるわけではありません。大切なことは、その楽園・天国には「イエス様がおられる」ということです。この楽園・天国は、イエス様がおられるところであり、私共がいつまでもイエス様と一緒にいるところです。そうであるならば、私共が「イエス様と一緒」にいるということをはっきり受け止めることが出来るならば、施設の中であろうと、病室であろうと、そこは楽園です。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」とのイエス様の言葉は、既に私共の上に成就しています。主が私共と共にいてくださっているからです。

 お祈りします。

   恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 あなた様は今朝、十字架上のイエス様の言葉を、私共に告げてくださいました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」との約束、救いの宣言を、私共に与えてくださいました。ありがとうございます。この御言葉は、私共の上に成就されています。イエス様と共にあること、これこそ私共の喜びです。この喜びを私共から奪うことは、誰にも出来ません。私共がこの一週間、まことにイエス様と共にある幸いを受け止めて、御名をほめたたえつつ歩んで行くことが出来ますように。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2023年3月19日]