日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「イエスは生きておられる」
ダニエル書 6章26~28節
ルカによる福音書 24章13~27節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
 先週、私共はイエス様の復活を喜び祝うイースター記念礼拝を捧げました。まだ礼拝の後の祝会は出来ませんでしたけれど、三年ぶりに記念の集合写真も撮りました。コロナ禍の中を歩んだ三年間でしたが、今年度からは少しずつ元に戻した活動が出来るのではないかと思っています。
 先週は、ルカによる福音書が記す、イエス様が復活された週の初めの日の朝の出来事から御言葉を受けました。婦人の弟子たちがイエス様の遺体を納めた墓に行きました。すると、墓に蓋をしていた石がわきに転がされており、イエス様の遺体は墓の中にはありませんでした。婦人たちは「途方に暮れ」ました。その婦人たちに二人の天使が現れ、「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」と告げます。しかし、この言葉を聞いて婦人たちは「イエス様が復活された」ということをすぐに信じて、喜びにあふれたわけではありませんでした。天使の言葉を聞いても、それが何を意味しているのか良く分からなかったと思います。婦人たちは弟子たちにこの出来事を報告しますけれど、それを聞いた弟子たちも、イエス様が復活されたことを信じたわけではありませんでした。彼らは婦人たちの言葉を聞いて「たわ言のように思」いました。聖書は、イエス様の復活の知らせを聞いてもにわかに信じることの出来ない弟子たちの姿を、正直に記しています。復活という出来事は、それほどまでに度外れた出来事だったからです。
 しかし、弟子たちはやがて信じる者になります。それは、復活のイエス様が弟子たちにその御姿を現し、御言葉を与えたからです。この復活のイエス様が御姿を現して御言葉を与えた出来事を、ルカによる福音書は、エマオ途上の出来事として記しています。このエマオ途上の出来事は、確かにクレオパという弟子ともう一人の弟子の上に起きたことです。しかし、この出来事には普遍性があると言いますか、復活のイエス様に出会うという出来事の典型的なモデルとして、ルカはこの出来事を記していると考えて良いと思います。順に見てまいりましょう。

2.二人の弟子
この日は、イエス様が復活された週の初めの日でした。イエス様の二人の弟子が、エルサレムからエマオという村に戻っていく時のことでした。このエマオという村が、現在のどこにあたるのか、良く分かっていません。エルサレムから60スタディオン、つまり11㎞程離れた所にあった村でした。多分、方角は西の方ではなかったかと思われます。この村に二人の弟子の家があったのでしょう。
 彼らはイエス様に付いてエルサレムに来た人たちでした。エルサレム入城から十字架に架かって死なれるまでのことを、彼らは知っていました。受難週の一週間の間、ずっとイエス様と一緒だったのかどうかは分かりません。でも、十二弟子たちほどではないにしても、神殿でのイエス様の様々な教えにも耳を傾けていたでしょう。そして、イエス様が捕らえられて、十字架の上で死んだことを知っていました。14節に、「この一切の出来事について話し合っていた。」とあります。彼らは、イエス様が捕らえられ、ピラトの裁判によって十字架刑が決まり、十字架の上で死んだこと。そして、婦人たちが墓に行くと、墓が空だったこと。婦人たちに天使が「イエスは生きておられる」と語ったこと。他の弟子たちが墓に行ってみても、やっぱり墓には何もなかったこと。そのようなことを彼らは全部知っていました。彼らはその一切のことを話し合っていたのでしょう。彼らは色々知っていましたけれど、エルサレムから離れていきます。
 どうしてでしょうか。もう終わったと思ったからです。イエス様の復活なんて考えてもいなかったからです。イエス様が十字架の上で死んだのは確かなことでした。これでもうすべては終わった、彼らはそう思った。女の弟子たちが変なことを言っていたけれど、何を言っているのかさっぱり分からない。自分たちはイエス様に付いてエルサレムまで来た。何かが起きるのではないかと期待したけれど、何も起きなかった。もう終わった。彼らはそんな思いを抱きながら、イエス様のことについて話しながら歩いていました。週の初めの日の午後だったと思います。午後の3時くらいでしょうか。話しながら歩いていますので、11㎞を歩くのに3時間くらいかかったでしょう。エマオに着くと日が傾きかけたわけですから、午後の3時頃から午後の6時頃まで歩いていたと考えて良いでしょう。

 

3.イエス様が近づいて来られる
 すると、復活されたイエス様が、この二人の弟子に近づいて来て、一緒に歩き始めました。復活のイエス様はこの時、この二人の弟子の前に現れて、両手を広げて「ジャーン、わたしは誰でしょう。あの十字架に架かったイエスです。復活しました。」そんな感じで、この二人の弟子たちに復活の御姿を現したのではありませんでした。また、イエス様の復活を信じて、復活のイエス様に会いたいと願っていた弟子たちに、復活されたイエス様が姿を現されたというのでもありません。この二人の弟子たちは、イエス様の復活なんて信じていません。十字架の死ですべてが終わったと思っていた。それは17節で、イエス様がこの二人に「『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた。」わけですが、「二人は暗い顔をして立ち止まった。」と記されていることから分かります。彼らは「暗い顔」をしていたのです。それは、自分たちが期待していたイエス様が死んでしまい、もうすべてが終わったと思っていたからです。
 ここではっきり分かることは、復活されたイエス様は、弟子たちに御自分からその姿を現されたということです。この弟子たちは、イエス様が復活されたことも信じていませんし、復活されたイエス様に会いたいとも思っていませんでした。しかし、復活のイエス様は彼らに御姿を現されました。それは、イエス様が彼らに御自身の復活を信じて欲しかったからです。弟子たちが信じたかったのではありません。イエス様が信じて欲しかった。十字架で終わってなんかいない。死がわたしの最後ではない。神様は死をも打ち破られた。だから、あなたがたは何も恐れることはない。何も終わってなんかいない。そのことを、イエス様は弟子たちにはっきり伝えたかったからです。

4.イエス様に対する誤解 ①力ある預言者
ここで、もう一つ示されていることがあります。それは、復活されたイエス様が近づいて来ても、イエス様に語りかけられても、それでもまだ彼らはイエス様が共にいてくださるということが分からなかったということです。16節で、「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。」と記されています。道々歩きながら話しているのだから、なんぼ何でも分かるだろう。私共はそう思います。しかし、彼らは分からなかった。目が「遮られて」いたからです。ここで、この二人の弟子にとって「イエス様は死んだ」ということは揺るぎようのない事実で、これがくつがえるなんてことは全く考えられない。だから、復活のイエス様と道々話していても、それがイエス様とは分からなかった。そのように理解する人がいます。そうかもしれません。それほどまでに、復活という出来事は度外れたことであり、死というものは絶対的なものだということです。しかし、「目は遮られていて」という表現は、そこには神様の意図があった、神様が意図をもって遮っておられたということが暗示されているように私には思えます。では、それはどんな意図でしょうか。
 それは、彼らのイエス様に対する期待と信頼、それを正した上で復活のイエス様に出会わせ、イエス様の復活によって与えられる救いの恵みをはっきりさせる。そのために、イエス様は彼らの目を遮られたのではないでしょうか。では、彼らのイエス様への期待とはどんなものだったのでしょうか。19節には、「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。」とあります。この弟子たちはイエス様を「力ある預言者」として受け入れ、信じていました。神の御子、神様としてではありません。「力ある預言者」と「神の御子」とは、全く違います。「力ある預言者」は、どんなに力があっても人間に過ぎません。ですから、すべての罪人を救うことなんて出来ません。しかし、それはイエス様に対する正しい信仰でしょうか。
 ちょっと横道に行きます。イエス様を神様と認めない人たちがいます。固有名詞は出しませんが、その人たちは「自分たちはキリスト教だ。」と言っていますけれど、世界のキリスト教会は決してキリスト教とは認めない人たちです。彼らの信仰のありようは、必ず律法主義になります。イエス様は神の御子であり、神様だから、イエス様の十字架の贖いは、イエス様を信じるすべての人に及びます。神様に限界はないからです。もしイエス様が「偉い人」程度であったならば、イエス様の十字架によって贖われる人などいないことになります。つまり、イエス様の十字架による救いは完全ではなく、その分、自分の正しさによって救いに至らなければならなくなります。それが「律法主義」です。イエス様が神様であることを信じない人の信仰は、必ず律法主義になります。それは、とてもキリスト教と呼べるようなものではありません。イエス様が神様でなければ、十字架による救いは成り立たない。私共は救われないのです。

5.イエス様に対する誤解 ②この世の王としてのメシアではなく
 21節で彼らは、「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」と言っています。イエス様の弟子たちでさえ、このように「地上のメシア」、ローマの支配からユダヤ民族を解放してくれる地上の王としてのメシア、そのようにイエス様を受け止めて期待していたということです。これは、イエス様の弟子たちだけではありません。当時のユダヤ人にとって、メシアの理解は一般的にこのようなものでした。実際「自称メシア」が何人も出て、ローマに対する反乱が起きました。しかし、イエス様はそのような地上の王国のメシアではありませんでした。ローマと対抗して、これを蹴散らし、ユダヤ民族に繁栄をもたらすメシアではありませんでした。イエス様にこの世の王であるメシアとして期待することと、神の独り子であるイエス様がもたらしてくださった救いとの間には、大きなずれがありました。このずれをなくさなければ、イエス様の復活がきちんと弟子たちに受けとめられることはありません。このことが正されることなく復活のイエス様と出会ったならば、人々は「イエス様は本当は死んでいなかった」と理解したでしょう。この地上でのことしか考えられない人にとって、復活とはあり得ないことだからです。あるいは、「死んでも生き返る不思議な力」でローマを殲滅してくださいとお願いし、イエス様を神輿に担いで、ローマとの戦いを始めたかもしれません。それは全く神様の御心に適わないことです。それで、イエス様は彼らの目を遮り、御言葉の説き明かしをされました。御言葉を説き明かすことによって、イエス様は御自分が誰であり、十字架と復活とは何なのか、そのことをこの弟子たちに教えられたのです。

6.聖書の説き明かし
 その時の様子を聖書はこう告げています。25~26節「そこで、イエスは言われた。『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』」とイエス様は二人の弟子に告げました。イエス様は御自身が苦しみを受け、十字架に架けられて死に、しかし復活するということを、三度も弟子たちに予告していました。そして、実際に十字架に架けられて死なれましたけれど、弟子たちは誰もイエス様の復活を信じていない。もう終わったと思っている。空の墓を見ても、それでもイエス様の復活に思いを至らせることが出来ない。何と愚かな、何と不信仰な者たちなのかと、イエス様は嘆かれました。しかし、それほどまでに復活という出来事は、想像することさえも出来ないほどに、あり得ないことなのです。実にイースターはあり得ないことが起きた、喜びの日なのです。
 イエス様は聖書を説き明かされました。27節「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。」と記されています。これが、キリスト教会最初の説教と言っても良いでしょう。イエス様御自身による説教です。この時は勿論、新約聖書はありませんから、イエス様は旧約聖書を説き明かされたわけです。御自身の十字架のこと、復活のこと、御自身がメシアであること、この十字架と復活によって一切の罪が赦され、神の子とされ、永遠の命が与えられるようになったこと。旧約聖書を説き明かすあり方で、イエス様は福音をこの二人の弟子たちにお話しになった。イエス様の説教ですから、どんな名説教家もかなわない素晴らしい説教であったはずです。2時間くらい、イエス様は説き明かされたのでしょう。長くて寝てしまいますか?イエス様は旧約聖書から説き明かされましたけれど、その時明かされた内容が記されているのが新約聖書です。
 この時の復活のイエス様の説き明かしについて、32節を見ますと、「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。」とあります。イエス様直々の説教を聞いたのですから、「心が燃える」のも当然だと思いますが、この出来事はこの二人だけに起きたことではありません。私共もこの二人の弟子と同じような体験をしたことがあるでしょう。聖書の説き明しを聞いて心が燃える、御言葉体験とでも言うべき出来事です。「そうだ、これは私のことだ。神様が私にお語りくださっている。」そう思ったことがあるでしょう。私にもあります。自らの罪を明確に指摘され、神様の御前に引き出され、ただ涙して罪の赦しを願い求めたこともあります。確かに、その時イエス様の姿を直接見たわけではありません。しかし、その時私はイエス様に出会いました。そして、イエス様を我が主、我が神としとて受け入れ、生涯この方と共に生きていこう、生きていきたいと思いました。心が燃えました。
 イエス様がこの二人の目を遮られた理由がここにあります。自分の願望を投影したメシア像ではなくて、聖書が語っているメシア、聖書を通して神様が明らかにしてくださったメシア。自分が願っている救いではなく、神様が与えてくださる救いです。それをきちんと受けとめて、イエス様を神の御子、まことのメシアとして受け入れ、信じる。そうでなければ、復活のイエス様と出会っても、私の願望をイエス様に投影していくだけです。それは、イエス様を信じるということではありません。イエス様は、天地を造られて以来の、父なる神様の救いの御計画の成就として、十字架にお架かりになり、そして復活されました。私共に代わって、私共のためにです。イエス様を信じるとは、この方を聖書が告げているメシアとして信じ、受け入れることです。まことの神の御子として崇め、拝むということです。そして、この方と共に生きるということです。

7.既に復活のイエス様がここに
私共は肉眼で復活のイエス様を見ることは出来ません。ヨハネはこのことについて、あの有名な御言葉を告げています。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」(ヨハネによる福音書20章29節)です。「見て信じた」のは、弟子たちのような人のことです。そして「見ないで信じる者」が私共です。私共はイエス様の復活を信じ、イエス様をまことの神の御子として信じています。それは実に幸いなことだと、イエス様御自身が告げられました。復活のイエス様の御姿が見えないということは、それは復活のイエス様が私共と共におられないということではありません。私共は、聖書の説き明かしを通して、復活のイエス様の語りかけを聞くことが出来ます。それは、イエス様が既に私共と共に歩んでくださっているということです。この二人の弟子たちはイエス様が来られて共に歩み、共に語らってもイエス様が分からなかったように、自分はイエス様と共に歩んでいるわけではないと思っている人であっても、既にイエス様が共に歩んでくださっている、既にイエス様の語りかけを聞いている。そのことを示しています。
 皆さんは、家族みんながキリスト者になっている、そういう方もいるでしょうけれど、家族の中でキリスト者は私だけという人もおられるでしょう。では、その未だイエス様を知らない家族は、イエス様と共に歩んでいないのでしょうか。正確に言いましょう。言い方が逆ですね。その家族の者と共に、イエス様は歩んでくださっていないのでしょうか。家族の者には分からなくても、イエス様は既に皆さんの家族と共に歩んでくださっている。イエス様が皆さんと共に歩んでくださっているのに、皆さんと共に生きている家族とはイエス様は共に歩んでいない。そんなことはあり得ないでしょう。そして、皆さんの家族は、皆さんの言葉を通して、イエス様が誰であるのか、どんな方なのか、聞いていることでしょう。復活のイエス様は、私と共に、そして私の家族と共に既に歩んでくださっている。そのことを信じて良いのです。復活のイエス様が共にいてくださるのですから、私共は何も恐れることはありません。やがて、その遮られていた目が開かれる時が来ます。その時、自分は分からなかったけれど、イエス様が共に歩んでくださり、守ってくださり、支えてくださっていたということを知ることになるでしょう。私共もそうでした。その日が来ることを信じて、安んじて、為すべきことをしっかり為していけば良いのです。

 お祈りします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 あなた様は、愛する独り子イエス様を私共のために十字架に架けて、私共の一切の罪を贖ってくださいました。そして、イエス様は三日目に復活され、その御姿を弟子たちに現し、復活の命を証しされました。この命が私共にも与えられています。イエス様と信仰において一つに結ばれた者としていただいたからです。まことにありがたいことです。私共が御言葉に聞き従い、いつでもあなた様と共に御国への歩みを健やかに為していくことが出来ますように。どうぞ私共の家族も導いてください。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2023年4月16日]