日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「主があなたのとこしえの光となる」
イザヤ書 60章19~22節
ヨハネの黙示録 21章22~27節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
 2023年度が始まりまして、ひと月になろうとしています。今日はこの礼拝の後で、2023年度の定期教会総会が開かれます。2022年度の歩みを振り返り、神様の守りと支えを思い、感謝する。そして、新しい2023年度もまた神様の恵みと平安の中を歩んでまいりたいと祈り、願います。この教会総会において大切なことは、長老・執事の選挙と予算や宣教計画の審議です。何よりも長老・執事の選挙に、神様の具体的な選びの御心が現れることを祈り、願うものです。  さて毎年、定期教会総会が開かれる主の日の礼拝の御言葉は、その年の教会聖句となります。今年の教会聖句は、旧約のイザヤ書60章19節bの御言葉です。週報の表紙に4月の第一の主の日から記されています。「主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。」この御言葉です。
 私共は2020年2月から始まったコロナ禍の中を3年間歩んで来ました。3年前のことを思い起こしますと、毎週のように長老会を開いて対応を考え、実施しました。どうなっていくのか全く見通しがつかない状態でした。感染者が増えれば礼拝出席は減り、感染者が減ると礼拝出席者が戻る。そんなことを何度も繰り返してきました。そのコロナ禍もそろそろ出口が見えてきたように思います。しかし、その間に私共は3歳年をとりました。また、1年前に始まったウクライナ戦争は何万という死傷者を出し続けて、なお戦闘は激しく続いています。核兵器の使用まで案じられています。さらに、スーダンでも内戦が激しくなり、外国人が国外退去しています。世界で難民になっている人は一億人を超えました。台湾有事も語られるようになってきています。教会では高齢化が進んでいます。また献身者が少なくなり、一教会一牧師という私共が当たり前と思っている教会のあり方を維持出来るかどうかが問題になってきています。当教会は、今年度・来年度の教会婦人会連合の地区委員長と教区委員長を出さなければならないことになりました。誰が引き受けてくださるか、婦人会の役員の方々は心を痛め、祈り、そして何とか決まりました。本当に大変でした。将来に対しての漠然とした不安が、教会を、日本を、そして世界を覆っています。そのような中で、私共は2023年度の歩みを始めました。その私共に与えられた御言葉が、イザヤ書60章19節bの御言葉です。「主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。」この御言葉に聞いていきましょう。

2.イザヤ書60章の歴史的な背景:第三イザヤ
 ここで、イザヤ書60章が記された時代背景について確認しておきます。イザヤ書は、20世紀になるまではイザヤという一人の預言者が記したと考えられてきましたけれど、近年は研究が進んで、おおよそ三つの時代背景の中で記されたと考えれています。1~39章を第一イザヤ、40~55章を第二イザヤ、そして56~66章を第三イザヤと呼んで区別しています。今朝与えられている60章は第三イザヤです。第一イザヤ、第二イザヤ、第三イザヤは、それぞれ記されている時代背景が違います。第一イザヤはアッシリアに圧迫され北イスラエル王国が滅ぼされる紀元前8世紀、第二イザヤはバビロニアに南ユダ王国が滅ぼされてバビロン捕囚となった後の紀元前6世紀前半、そして第三イザヤはバビロン捕囚から解放された後の紀元前6世紀後半の状況において預言されたものと考えられています。紀元前8世紀から6世紀の中東における覇権国家がアッシリアからバビロニアそしてペルシャへと変わっていく激動する時代の中で、神様は御言葉を与え続けられました。それがイザヤ書です。
 イザヤ書60章は第三イザヤです。南ユダ王国はバビロニアによって滅ぼされ、人々は遠いバビロンの地に捕囚されていました。その人々がエルサレムに帰還します。バビロニアがペルシャによって滅ぼされ、ペルシャの王はバビロニアが捕囚した人々を解放して元の国に帰還させたからです。彼らは捕囚された次の世代、或いはその次の世代の人々だったでしょう。ユダの人たちはエルサレムに戻って来ました。そこで彼らが目にしたのは、城壁が崩れ、廃墟となったエルサレムでした。ダビデによって建てられた神の都エルサレムは瓦礫の山と化していました。また、ソロモンによって建てられたエルサレム神殿も同様でした。そのようなユダの人たちに告げられたのがこのイザヤ書60章です。

3.起きよ、光を放て 
1節から見てみますとこうあります。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」これは、皆さんもよく知っている御言葉でしょう。クリスマスやキャンドル・サービスの時などによく読まれる御言葉です。それは、「あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。」「あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。」と告げたイザヤの預言は、イエス様の到来、クリスマスの出来事によって成就された、そうキリストの教会は受けとめてきたからです。
 「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。」これは瓦礫の山と化したエルサレムを目の当たりにしたユダの人たちの心そのものだったのではないでしょうか。彼らは瓦礫の山と化したエルサレムを前にうなだれ、途方に暮れ、これからどうなるのか何の希望もありませんでした。そのようなユダの人たちに神様は、「わたしが暗黒を照らす光を輝かす。あなたはその光に照らされる。だから、うなだれているな。頭を上げ、わたしが与える将来の出来事を見よ。そして、わたしが与える光に照らされて、輝け。希望に輝け。眼差しをわたしが与える光に向けよ。」と告げられた。それが「起きよ、光を放て。」とイザヤが告げた意味です。
 イエス様は確かに神様の光として、世の光として来られました。しかし、この60章で神様が告げられた将来の希望の出来事は、イエス様の到来で終わってはいません。この光の到来の出来事は、終末において与えられる神様の救いの完成、神の国の完成へとその射程は伸びています。それが今年度の教会の聖句とされた19節以下の預言です。

4.聖書の約束
19節から見てみましょう。「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず、月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。あなたの太陽は再び沈むことなく、あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日々は終わる。」とイザヤは告げました。19節では「太陽は照らす光とならない。月の輝きがあなたを照らすことはない。」と言います。太陽も月もなければ、世界は真っ暗闇になってしまうではないか。そうではありません。「主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。」からです。この「とこしえの光」となってくださる主、わたしの輝きとなってくださる神様が、わたしの太陽、わたしの月となってくださるからです。太陽は昇れば沈みます。太陽が沈めば夜が来る。しかし、わたしの太陽である神様は沈むことがありません。いつもわたしを照らしてくださいます。月は新月から満月まで、満ちては欠けることを繰り返します。しかし、わたしの月である神様は満ちることも欠けることもありません。これが「主があなたのとこしえの光となり」ということです。その結果どうなるでしょう。「あなたの嘆きの日々は終わる。」というのです。
 ここで告げられていることは、ヨハネの黙示録が告げる「新しい天と新しい地」のことです。イエス様が再び来られて、全き神の国が現れるとき、新しい天と新しい地が現れます。ヨハネの黙示録21章22節「わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである。」とあります。新しい天と地における都、新しいエルサレムには神殿がありません。神殿は、神様の家、神様が御臨在するところであり、その神様を礼拝するところです。しかし、新しい天と地においては、私共はいつでも神様の御臨在のもとに生きます。神様と、顔と顔を会わせるようにして交わります。いつでも礼拝し、賛美します。ですから、もう神殿は要らないのです。そして、23節で「この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。」と告げられていることと、イザヤが60章19~20節で告げていることとは重なります。
つまり、今年度の教会聖句である「主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。」という御言葉は、イエス様が再び来られて、神の国が完成され、神様が、イエス様が私共の光となり、私共を照らしてくださり、愛・信頼・喜び・感謝・平安そして永遠の命が私共に注がれ、私共の嘆きの日々は終わる。私共はイエス様に似た者に変えられ、主の栄光を身にまとうことになる。何という栄光でしょう。何と輝かしいことでしょう。これが私共に与えられている約束です。だから、その日を目指して私共は歩んで行きます。

5.速やかに行う
さて、イザヤ書60章22節は、「主なるわたしは、時が来れば速やかに行う。」と告げます。これもまた、ヨハネの黙示録の最後、22章20節「以上すべてを証しする方が、言われる。『然り、わたしはすぐに来る。』アーメン、主イエスよ、来てください。」と対応しています。イザヤは「速やかに行う」という神様の言葉を告げました。そしてヨハネの黙示録においては「然り、わたしはすぐに来る。」と告げられました。しかし、イザヤがこの預言を告げてから2600年ほど経ち、ヨハネの黙示録が記されてからでも2000年近くが過ぎました。まだ、再臨のイエス様は来られていません。神の国は完成していません。少しも「速やか」でも「すぐ」でもないではないかと思う方もおられるでしょう。しかし、聖書は「時が来れば速やかに」と言っています。ですから、まだ時が来ていないということです。この時は「神様の時」「神様の御心において満ちる時」ですから、私共はその時を知ることは出来ません。イエス様御自身が、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。」(マタイによる福音書24章36節)と言われたとおりです。「○年後に終末が来る。」と言っている人は、すべて嘘つきです。私共はこの「新しい天と地」「新しいエルサレム」を待ち望みつつ歩みます。再臨のイエス様がいつ来られるのかは分かりませんけれど、その時に備えて、その日がいつ来ても良いように、眼差しをそこに向けて歩んで行きます。イエス様が再び来られてから慌て、「もう少し待ってください。」と言っても間に合いません。「こんな時に来るんなら、もっと準備していたのに。」と言っても間に合いません。私共はその時、「主よ、お待ちしていました。よく来てくださいました。」と言って、再臨のイエス様を迎え入れます。実に、その日に備えて、一日一日を自覚的に歩んで行く。それを私共のこの2023年度の歩みとしたいのです。

6.御国の希望に生きる
 私共は毎日やらなければならないことがあります。この目の前のことは大切です。おろそかにすることは出来ません。しかし、それがすべてであるかのように思い詰める必要はありません。上手く行くときもあれば、上手く行かないときもあります。私共は目の前の為すべきことを誠実に為しつつ、眼差しを主が再び来られる日に向けます。主が来られる。その時、すべてが明らかになります。自分の為してきたことが、御心に適うことだったのか、神様の御計画の中でどんな意味があるのか、その時に明らかにされます。失敗だと思っていたことが、とても素敵な救いの出来事へと繋がっているかもしれません。この地上では、私共には明らかにされていないことがたくさんあります。ほとんどすべてと言って良いほどです。しかし、その日には明らかになります。
 自分としては精一杯、出来るだけのことをしたつもりだ。しかし、それが神様の御心に適ったかどうか…。ああすれば良かった。もっとこうすべきだった。私共は反省し始めればきりがありません。反省しなくても良いとは言いませんけれど、どんなに立派にやったと自分で思っていたとしても、神様の御前にあっては、私共の為すことは欠けと愚かさと罪に満ちたものでしかありません。これははっきりしています。2022年度の私共の歩みも、神様から見れば欠けと愚かさと罪に満ちていることでしょう。しかし、それでも神様は憐れんでくださり、私共の歩みを支えてくださいました。大切なことは、私共が捧げるどんなに小さな、つまらないものであっても、神様はそれを主イエス・キリストの十字架の故に「良きものとして受け止めてくださる」ということです。私共の為したことが素晴らしいからではありません。神様の憐れみの故にです。私共を愛してくださっている故にです。ありがたいことです。ですから、この神様の愛と憐れみに信頼して、私共は一日一日為すべきことを為していきたいと思うのです。「主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる」のですから、たとえ不安や嘆きが私共を襲ってきても、その栄光に輝く日を待ち望みつつ、神様に一日一日をお捧げする歩みを為していきたいのです。

7.献身者としての歩み
 それは、献身者としての歩みです。イエス様の救いに与った者は、献身者として歩みます。献身者という言葉は、狭い意味では牧師や伝道者を指す言葉として使われます。しかし、本来的にはすべてのキリスト者は献身者です。イエス様の救いに与った者は、自分の歩みのすべてを神様への献げ物として歩んでいきます。それは、自分が意識して「これは神様が喜んでくださるだろう。」と思って為す業だけを捧げるわけではないということです。神様は私共以上に私共を御存知であり、そのすべてを受け取られます。特に何も考えずに為している当たり前のこと、取るに足らない日常の一言、小さな業、神様はそのすべてを見ておられます。そして、それがどんなにつまらないものであったとしても、神様への愛、隣人への愛によって為されたことならば、神様は良きものとして受け取ってくださいます。
 イエス様はこう言われました。「『さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』」(マタイによる福音書25章34節b~40節)神様は、このように私共の歩みのすべてを受け止めてくださいます。そして、大いなる永遠の御計画の中で、その取るに足らないつまらないものをも大きな意味あるものとしてくださいます。私共の為すことに意味を与えてくださるのは神様です。私は、それが明らかになる日をとても楽しみにしています。

8.2023年度の歩みに向けて
 この3年間のコロナ禍の歩みにおいて、様々な対策もし、対応もしました。しかし、それが本当に正しかったのかと問われれば、これが一番正しかったと言い切れるわけではありません。しかし、何とか神様の御委託に応えようとして、コロナ禍の3年間を歩み切りました。この3年の間に教勢は随分落ちました。私共も3歳年を取りました。しかし、ここから仕切り直しです。時期を見て、家庭集会も再開していきたいと思っています。2分の1にしている礼拝堂の定員も、半分しか歌っていない讃美歌も、時期を見て元に戻していきます。食事を共にすることも出来ませんでしたけれど、これも戻していきたいと思っています。先週、教会学校ではいちご狩りに行きました。少しずつ、戻って来ています。完全に3年前と同じことは出来ないでしょう。特に病院に入院していたり、施設に入所している人への問安や訪問聖餐は、まだ難しいところがあるでしょう。しかし、ここから始めていくしかありません。やれることを、やれるように、精一杯為してまいりましょう。神様の導きを大らかに信じて、御国の栄光に与る備えの日々を歩んでまいりましょう。
 世界の情勢は、私共の心配をよそに、悪いことばかりですし、本当にどうなるのだろうかと思います。しかし、この世界の主は父なる神様です。この世界が人間の手によって滅びることはありません。イエス様が再び来られるのではなく、人間の手によって滅びるというのは、救いのない疑似終末です。神様がそのようなことを許されることはありません。そのことを信じて良い。そして私共は、この世界が神様の与えてくださる真の平和へと導かれるように祈り続けてまいりましょう。それは神様に与えられている務め、私共の為していかなければならない務めだからです。

 お祈りします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 あなた様の御名を畏れ敬います。あなた様はすべてを造り、すべてを支配しておられます。その御手の中で生かされている私共です。3年続いたコロナ禍の歩みも終わりに近づいているように思われます。何とか歩み通せたことを感謝します。あなた様が備えてくださっている、イエス様が再び来られて御国が完成される時に与る栄光を思いつつ、どうかあなた様の御前に、出来ることを、出来るように、精一杯、愛の業に励み、御言葉を宣べ伝え、信仰の交わりを篤くしていくことが出来ますように。2023年度の歩みを守り、支えてください。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2023年4月30日]