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礼拝説教

「御名が崇められますように」
詩編 117編1~2節
マタイによる福音書 6章9~13節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
 「主の祈り」を学んでいます。前回は神様への呼びかけ、「天にまします我らの父よ」から学びました。私共の上に、いつでも、どこでも、どんな状態の時でも天は広がっています。そこにおられる神様に向かって私共は祈ります。そして、神様は必ず私共の祈りを聞いてくださいます。私共はイエス様の十字架によって罪を赦され、神様の子としていただきました。そして、神様に向かって「父よ」と呼びかけて祈るようにと招かれています。この恵みの中で、私共は祈ります。どのように祈るかという具体的な祈りの言葉以上に、この神様との親しい交わりの中に生かされているという恵みの中で、私共は安心して祈ればよい。このことをしっかりと受けとめた上で、「主の祈り」の具体的な祈りに入っていきましょう。
 「主の祈り」は前半の3つの「神様のための祈り」と後半の3つの「我らの祈り」という、6つの祈りからなっています。今日は、その最初の祈り、「ねがわくは、御名を崇めさせたまえ」を見ていきます。

2.神様が崇められますように
 今日与えられた御言葉、マタイによる福音書6章9節以下には、イエス様が弟子たちに教えられた「主の祈り」の言葉が記されています。その最初の祈りを、新共同訳では「御名が崇められますように」と訳しています。ルカによる福音書でも、同じ訳です。口語訳でも同じでした。日本語としても「ねがわくは、御名を崇めさせたまえ」よりも「御名が崇められますように」の方が、ずっと分かりやすいですね。今日はこの聖書の訳を用いて御言葉に聞いていきます。
 まず「御名」ですが、これは「神様御自身」と理解して良いです。「御名」という言葉が「神様御自身」を指すようになった背景には、ユダヤの歴史があります。それは、十戒の第三の戒め「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」という戒めを、ユダヤの民が文字通りに受けとめまして、聖書が朗読される時に、神様の名前を示す4つの文字(これを神聖四文字と言い、現在では「ヤーウェ」と読むと考えられています)の所に来ると、「主」という意味の言葉である「アドナエ」と読み替えるということをしていました。その結果、神様の名前を直接出すのではなく、「御名」という言い方で神様御自身を指すということになったわけです。ですから、「御名が崇められますように」というのは「神様御自身が崇められますように」という祈りなのです。
 次に、「崇められますように」というのは、直訳しますと「聖とされますように」となります。「聖とする」というのは、他のすべてのものから区別され、神様のものとされるという意味です。つまり、神様御自身が他のすべてのものから区別され、神様とされますようにということです。ですから、この祈りは「神様が神様とされますように」という祈りということになります。
 このように、この祈りは神様のために祈っているわけです。これは、驚くべきことです。「主の祈り」を知らない人は、「祈り」と聞いたときに神様のために祈ることなど考えないでしょう。私共も「主の祈り」を教えられていなければ、神様のために祈るなどということを思い浮かべることさえなかったでしょう。「祈り」といえば、自分の思いや願いを叶えるための手段くらいにしか考えていなかった私共です。しかし、私共の祈りが、神様を「父よ」と呼ぶ交わりにおける神様との対話であるとするならば、神様のために祈ることは別に不思議なことではありません。自分のことを話す前に、相手のことを聞く。これは当たり前のことでしょう。例えば、大学に行くために都会に行った息子から「父さん、金がなくなった。すぐ送ってくれ。」といった連絡が来れば、今ならば「オレオレ詐欺」ではないかと思うでしょう。普通は、「父さん、元気ですか。母さんも元気ですか。僕は元気にやっています。仕送りの件ですが、4月は教科書を買ったりして足らなくなりました。少し送ってください。」というのが当たり前でしょう。いきなり、自分が求めることを神様にぶつけて平気でいるのは、この交わりの中での祈りになっていない。神様に「オレオレ詐欺」と間違われるような祈りをしていたということではないでしょうか。

3.十戒から(御名が崇められる=神様として礼拝される)
 先ほど「御名が崇められる」とは「御名が聖とされる」ということを見ましたが、「御名が聖とされる」の反対は「御名が汚される」です。「御名が聖とされる」を考えるときに、その反対の「御名を汚す」とはどういうことなのかという所から考えると分かりやすいと思います。「御名を汚す」というのは具体的にはどういうことでしょう。これは十戒を見れば分かります。十戒の第一の戒めは「あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。」であり、第二の戒めは「あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。」です。十戒は、神様が神の民と健やかな交わりを保つためにお与えになった戒めです。ですから、この戒めを破ることは神様が最もお嫌いになることであり、これを破れば神様との関係が健やかなものではなくなってしまいます。この十戒の第一、第二の戒めは、「神様以外のものを神とするな」「偶像を拝むな」と言われているわけです。そして、これこそが神様のお嫌いになることであり、神様との交わりを壊すことであり、神様の御名を汚すことなのです。ですから、神様の御名が聖とされる、御名が崇められるということは、神様が神様として拝まれ、礼拝されるということなのです。つまり、この祈りは「神様が神様として礼拝されますように」という祈りだということです。

4.神様を神様として礼拝しているか
ここで、私共は「神様を神様として礼拝しているか」という問いの前に立たされます。この世界は神様によって造られました。人間もまた、誰一人例外なく、神様によって造られ、命を与えられました。しかし、その神様に感謝することもなく、自分の思いのままに生きていたのが、イエス様に救われる前の私共でした。当時の私共は、それが普通だ、当たり前だと思っていました。しかし、それは「御名を汚す者」として生きていたということでした。この祈りは、私共を悔い改めへと導きます。「御名を汚して歩んでいた私を赦してください。御名を崇める者として歩ませてください。」という祈りへと私共は導かれて行くでしょう。
 また、世界を見てみれば、神ならぬものが神様のように扱われ、頼りにされている現実があります。それは富であったり、名誉であったり、武力を含む力であったり、組織であったり、国家であったり、挙げればきりがありません。それらは大切なものであり、必要なものではあるでしょうけれど、何よりも大切にされなければならないものではありません。まして、神様よりも大切にし、神様よりも頼りにするようなことがあってはなりません。
 先週は富山・金沢でもG7の教育担当相による会議が行われ、今日は広島で首脳会議が開かれています。昨年から続いているウクライナでの戦争の当事者であるウクライナの大統領も出席することになりました。G7の首脳たちが原爆記念公園に行き、花を手向けました。誰もが戦争のない平和な世界を求めています。しかし、平和は中々やって来ません。その根本には、神ならぬものが崇められているという罪の現実があるのではないでしょうか。ですから、「御名が崇められますように」という祈りは、神様に造られたこの世界がそして人間が、神様の御心に適った歩みをするようにという祈りに繋がっていきます。それが第二の祈り「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」へと展開されていくわけです。神様以外のものが崇められるならば、人は人としての道を踏み外してしまい、世界は混乱していくしかありません。

5.旧約の祈り:神様が賛美される
 神様が神様として崇められ、礼拝されるようにという祈りは、旧約においても祈られてきました。例えば、先ほどお読みしました詩編117編です。「すべての国よ、主を賛美せよ。すべての民よ、主をほめたたえよ。主の慈しみとまことはとこしえに、わたしたちを超えて力強い。ハレルヤ。」とあります。ここで私共は、神様が礼拝されるということは、神様が賛美されること、神様がほめたたえられることであるということを知らされます。「主を賛美せよ」「主をほめたたえよ」という言葉は、旧約聖書の中に何度も出て来ます。特に詩編にはたくさん出て来ます。今では世界中で普通に使われている「ハレルヤ」という言葉は、元々「主を賛美せよ」という意味の言葉です。「主の祈り」は旧約の祈りが集約されていると先週申しましたけれど、まさにこの「御名が崇められますように」という祈りは、「ハレルヤ」に代表される、旧約における主を賛美する祈りが集約されていると言えるでしょう。
 ここで、詩編102編19節bの御言葉「主を賛美するために民は創造された。」を思い起こされた方もおられるでしょう。この御言葉は、人間は何のために造られたのか、何をすることが神様の御心に適っているか、ということを明確に示しています。「何のために生きるのか」という問いは、多くの哲学者たちによって昔から考え続けられてきた問題です。この問いに、聖書は明確に答えます。「主を賛美するために民は創造された。」私共は神様を賛美するために造られたと言うのです。それは、神様を礼拝するために造られたと言っても同じです。私共は主の日の度毎にここに集って礼拝を捧げているわけですけれど、これは神様に造られた私共が、最も御心に適ったことを神様の御前に為しているということなのです。
 「御名が崇められますように」は、神様のための祈りなのですけれど、同時にそれは私共がそして世界が、神様を礼拝するという神様に造られた本来の姿を取り戻すことが出来ますようにという祈りなのです。

6.すべての者が主を崇めるように:終末的祈り
「御名が崇められますように」という祈りは、私だけの祈りではありません。私だけが御名を崇めればもうそれで良いということではなく、神様に造られたすべての者が御名を崇めますように、という祈りです。私共はこの祈りを、父なる神様の御前に立って、多くの人々と連帯して祈ります。「主の祈り」はそれぞれの国の言葉で祈られますから、言葉は違っていますけれど、同じ祈りです。何億、何十億という人たちが同じ「主の祈り」を祈り、「御名が崇められますように」と祈っている。これはちょっと想像すれば、何と凄いことが今、世界で起きているのか分かるでしょう。戦争が始まった、難民がたくさん出た、ということはニュースになります。しかし、世界中で何十億という人たちが「主の祈り」を祈っているということは、ニュースにはなりません。けれど、これは実にもの凄いことが起き続けているということです。
 しかし、まだ、この祈りは地球上のすべての人に祈られているわけではありません。この祈りを全く知らない人もたくさんいます。そして、すべての人が御名を崇めているわけではありません。すべての人がこの祈りを祈るのは、終末において神の国が完成するときです。ですから、この祈りはその日を目指して祈るという性格を持つことになります。この祈りは「終末的な祈り」「神の国の完成を仰ぎつつ為される祈り」と言うことも出来ます。
 この日本では、大多数の人がこの祈りを知りません。そして、神ならぬものが神として崇められています。現人神(あらひとがみ)という宗教的伝統がある日本では、様々な宗教が次々に生まれ、その教祖が簡単に神に祭り上げられるということが起きます。実際、日本には何百という大小様々な生き神様が現在でもおります。これがカルト宗教が生まれる宗教的土壌の一つです。この「御名が崇められますように」という祈りは、それに対して敢然と「NO!」と言うことになります。崇められるべきは、ただ父なる神様だけだからです。

7.ただ神様にのみ栄光あれ
今、崇められるべきはただ父なる神様だけであって、それ以外のいかなるものも礼拝しない、崇められてはならないということを見てきました。ここでもう一つ大切なことは、その崇められるべきではないものの中には、自分が入っているということです。これはとても大切な点ですけれど忘れやすい、抜け落ちやすいことです。しかし、これが抜けてしまいますと、結局、人は神様ではなく自分が崇められることを求めてしまう、ということをしっかり覚えておきましょう。私共の心の底に巣くっている罪は、自分自身の栄光を求めるようにと、私共を絶えず誘惑してくるからです。
 ここでもう一つ、旧約の祈りの言葉を聞いてみましょう。詩編115編1節「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、あなたの御名こそ、栄え輝きますように、あなたの慈しみとまことによって。」ここで詩編の詩人は「わたしたちではなく、主よ、わたしたちではなく、あなたの御名こそ、栄え輝きますように」と歌います。「わたしたちではなく」「わたしたちではなく」と繰り返されます。それは、私共は放っておけば、神様の栄光ではなく、自分の栄光を求めてしまう者だからです。「神ではなく、わたしが。神ではなく、わたしが栄えるように。」これはとても強い誘惑です。
 この誘惑と戦い勝利されたのがイエス様です。荒れ野においてイエス様は悪魔に誘惑されました。「荒れ野の誘惑」です。マタイによる福音書4章8節以下にこうあります。マタイによる福音書では三番目の誘惑です。「更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、『もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう』と言った。すると、イエスは言われた。『退け、サタン。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある。』そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。」イエス様はこの荒れ野の誘惑において、私共に代わって、私共のために悪魔の誘惑に遭われました。そして、これを退けられました。
 私共は、誰でもこの誘惑に遭います。勿論、イエス様が遭われた誘惑とスケールは違います。私共はこの世のすべての栄華を手に入れるような誘惑には遭いません。私共の出遭う誘惑はもっと小さなものですが、でもこの誘惑と無縁な人などいません。しかし、「御名が崇められますように」という祈りを祈り続けていく中で、その誘惑に勝利する者へと変えられていきます。それは、この祈りに応えて、神様がイエス様の霊である聖霊を与えてくださり、聖霊なる神様が私共に代わって戦ってくださり、勝利してくださるからです。イエス様と一つとなって、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」と告げる者とされていくからです。ですから、この世の栄華も繁栄も、私共の心を奪うことはありません。
 更に、イエス様のゲツセマネの園における祈りをも思い起こします。イエス様は十字架にお架かりになる前に、ゲツセマネにおいてこう祈られました。マタイによる福音書26章39節「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」これは皆さんも良く知っているイエス様の祈りです。「御名が崇められますように」という祈りを教えてくださったイエス様は、この祈りに生きられました。まさしく「わたしではなく、主よ、わたしではなく、あなたの御名こそ、栄え輝きますように」という祈りに生きられた。十字架に架かりたくはない。しかし、それが御心ならば、御心のとおりになりますように、とイエス様は祈られました。この祈りはまさに、「御名が崇められますように」という祈りが展開したものです。「御名か崇められますように」という祈りを捧げ、この祈りに生きていく中で、私共はこのイエス様に似た者へと変えられていきます。

8.この祈りと共に変わる私
 この祈りによって、自分の栄光ではなく、ただ神の栄光を求めて生きる人間という、全く新しい人間が生まれてきます。それがキリスト者です。改革長老教会の信仰の大切な遺産の一つである「ウェストミンスター小教理問答」の問1とその答えはこうです。
 問1 人のおもな目的は、何ですか。
 答  人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。
ここに示されているのは、「御名が崇められますように」というイエス様が与えられた祈りを祈り続ける中で変えられていく人間の姿です。聖霊なる神様のお働きによって、私共の中に生まれてくる神の子・僕であるキリスト者という「新しい私」の姿です。それは、生きる目的、人生の目的が、「神の栄光を現す」という一点に集約された新しい人間です。この「御名が崇められますように」という祈りは、神様のための祈りなのですけれど、実にこの祈りによって私共自身が変えられていく。変えられ続けていく。何と幸いなことかと思います。

 お祈りします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 「主の祈り」を与えていただき、まことにありがたく感謝いたします。「御名が崇められますように」との祈りを教えられるまで、私共は自分のために祈ることしか知りませんでした。しかし、この祈りを教えられ、この祈りを祈りつつ歩む中で、私共は変えられ続けてきました。今も変えられ続けています。ありがとうございます。どうか、この祈りを祈りつつ、御国を目指して、ただあなた様の栄光を現す者として歩んで行くことが出来ますように。すべての者の唇に、あなた様の御名がほめたたえられますように。そのために、あなた様の救いの御業がいよいよ前進していきますように。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2023年5月21日]