日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「御国が来ますように」
ダニエル書 3章31~33節
ヨハネの黙示録 22章12~20節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
 「主の祈り」を学んでいます。4回目です。前回は最初の祈り「御名を崇めさせたまえ」から学びました。この祈りは「御名が崇められますように」という祈りですが、それは「神様が神様とされますように」という祈りであり、神様だけが礼拝されますように、神様が賛美されますように、という祈りであることを見ました。そしてこの祈りは、私共人間が神様に造られた本来の姿である、神様を賛美し礼拝する者となっていくようにという祈りでもあります。更に、すべての者が神様を賛美し礼拝するようになるのは終末においてですから、この祈りは、終末を仰ぎつつ為される祈りであることも見ました。またこの祈りによって、私共の中に自分の栄光ではなく神様の栄光を求める新しい私が形作られていき、救いの御業が前進していくようにという伝道のための祈りへと導かれるいうことも見ました。ちょっと盛りだくさんだったかもしれません。この「御名が崇められますように」という祈りから、様々な祈りの視点が与えられ、様々な祈りが生まれてくることが分かりました。今朝は次の祈り、「御国を来たらせたまえ」です。

2.御国は「既に」、しかし「未だ」
 「御国を来たらせたまえ」という祈りは、私共が用いています新共同訳聖書では「御国が来ますように」と訳されています。この「御国」というのは、直訳すれば「あなたの国」です。つまり「神様の国」ということです。ルカによる福音書では「神の国」、マタイによる福音書では「天の国」と言われているものです。「来ますように」と祈るよう教えられているということは、まだ来ていないからです。しかし、全く来ていないのかと言えば、そうではありません。御国はイエス様と共に到来しました。しかし、まだ完全に来てはいない、完成していないということです。神様の救いの御業、罪の赦しによる神様の御支配は既に始まっています。しかし、まだ完成していません。御国は「『既に』来ている。しかし、『未だ』完成していない。」ということです。
 イエス様の救い主としての第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。」(マルコによる福音書1章15節)でした。そして、イエス様は様々な奇跡を行い、教えを語られ、御自身と共に神の国が来ていることをお示しになりました。しかし、まだ完成していません。それは、議論の余地はないでしょう。神の国が完成しているならば、どうしてこんな悲惨なことが起きるのか。戦争・飢餓・差別・貧富の格差等々、挙げたらキリがありません。この世界は問題に満ちています。理不尽なことばかりです。不当な苦しみがあり、嘆きがあります。そして、その最後に登場する最強のものが「死」でありましょう。すべては死んで終わり。そのような世界が御国であるはずがありません。ですから、私共は「御国が来ますように」と祈る中で、本当に「死」を超えた愛と平和に満ちた御国が来て欲しいと願い求めます。
 しかし、少し不思議なことがあります。それは、誰も御国を見たことも行ったこともないのにもかかわらず、私共は御国を知っているということです。いや、憧れていると言った方が良いかもしれません。確かに、私共は「御国」と言った場合、蓮の花が咲いているような所を思い描いているわけではありません。そこには何があるのかということを、私共はあまり考えていないでしょう。何があるかではなく、誰がいるかを考えます。神様がおられ、イエス様がおられ、天使がおり、愛する者たちがいる。そして、はっきり分かっているのは、そこでは人間の罪が清められ、悪しき霊や悪魔が敗北し、ただ神様の御支配が現れているということです。神様の憐れみ、神様の愛、神様の真実が満ちており、人はそこで神様を賛美し、礼拝し、互いに愛し合い、支え合い、仕え合う交わりに生きることになるということです。この「御国のイメージ」と「御国への憧れ」は、イエス様の救いに与り、神様に愛されていることを知ることによって、私共に与えられました。イエス様よって罪を赦されなければ、神様に向かって「父よ」と呼ぶ者とされることがなければ、私共は「御国」を知りませんでした。

3.御国はイエス様と共に
 「御国」は人間の理想が実現する所ではありません。理想郷ではありません。神様の御心が実現する所、神様の御支配が完全に行われている所です。そこには完全な赦し、完全な愛、完全な信頼、完全な喜び、完全な平和が満ち満ちています。私共が御国はそのような所だと考えるのには理由があります。それは、イエス様がその御業と御言葉と存在とをもって、そのような御国を現してくださったからです。イエス様には完全な赦し、完全な愛、完全な信頼、完全な喜び、そして完全な平和がありました。
 イエス様を知らなかった時、私共は完全な赦しを知りませんでした。イエス様はペトロに、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と問われて、「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と答えられました(マタイによる福音書18章21~22節)。このような赦しを私共は知りませんでした。そんなに赦し続けたら本人のためにならない、いいところ「仏の顔も三度まで」というのが私共の常識でした。しかしイエス様は、そうではないと告げられました。理由ははっきりしています。もし三度までしか赦しがなかったのならば、私共は誰一人として赦されることはないからです。7の70倍どころか、7千倍も7万倍も赦していただいても足らないほどです。また、イエス様は十字架の上で、御自分を十字架につけた者たちのために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」(ルカによる福音書23章34節)と祈られました。あり得ない祈りです。自分を殺す者をどうして赦さなければならないのか。人間には出来ません。しかし、イエス様はこの赦しを与えるために、この赦しを示すために来られました。イエス様はこの完全な赦しに生きられ、完全な赦しというものを示し、神様の御支配される御国とはどのような所なのかを現されました。
 イエス様を知らなかった時、私共は完全な愛、徹底して仕えるということを知りませんでした。イエス様は弟子たちの足を洗い、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」(ヨハネによる福音書13章14節)と告げられました。足を洗うのは、当時は奴隷の仕事でした。イエス様は弟子たちの奴隷となり、仕えることを示されました。またイエス様は、当時は罪人と見なされていた徴税人のマタイを御自分の弟子とされ(マタイによる福音書9章9節)、徴税人の頭であるザアカイと食事をし、「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。」(ルカによる福音書19章9節)と告げられました。イエス様がこの家に来たから、救いが来た。神の国が来たのです。そして、姦通の現場で捕らえられた女性には、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」(ヨハネによる福音書8章11節)と告げられました。
 私共は、その人の社会的な地位や立場、今までの生活、そういうもので人を判断してしまいます。そして、「この人はちょっと」と思いますと、私共は心の中でその人との間に境界線を引きます。こうして、私共は心の中で様々な境界線を引いています。その数は一本や二本ではありません。無数に張り巡らされていると言っても良いほどです。その無数に張り巡らされた境界線の中でじっとしている自分がいます。それは自分を守るための知恵なのかもしれません。しかし、イエス様はそうではありませんでした。イエス様の前では、この世界の国と国とを分ける境界線も、私共の心の中に引かれているたくさんの境界線も、全く意味を持ちません。イエス様はこの世界の主であられ、父なる神様はこの世界を造られたお方だからです。御国にはそんな境界線は存在しません。イエス様は、その愛によって御国を現されました。
 ですから、私共はイエス様を知ることによって、御国がどのようなところなのかを知ります。御国はイエス様が王であられる国です。それは何と素敵なところでしょう。私共は御国に憧れ、御国が来ることを心から待ち望みます。イエス様を愛しているからです。イエス様と共にいたいからです。イエス様は復活されて、死を打ち破られました。そのイエス様が支配される御国においては、私共の死もまた打ち破られ、私共はイエス様と永遠に共にいることになります。

4.終末的祈り:マラナ・タ
 では、この御国はいつ完成するでしょうか。それは、イエス様が再び来られる時です。その時、私共の御国への憧れは現実となります。私共は神様・イエス様が御支配される御国において、イエス様に似た者とされ、イエス様のように完全に赦し合い、愛し合い、仕え合う者とされます。そのような世界を求めないキリスト者がいるでしょうか。キリストの教会は、ずっとこの祈りを祈り続けてきました。そして、その祈りの言葉は現在まで伝えられています。それが「マラナ・タ」です。この言葉はコリントの信徒への手紙一の最後、16章22節に「マラナ・タ(主よ、来てください)。」とあります。今朝与えられている御言葉、ヨハネの黙示録22章20節「アーメン、主イエスよ、来てください。」と同じです。イエス様が再び来られることを待ち望み、捧げられて来た祈りです。「御国が来ますように」と「主よ、来てください」とは同じ祈りです。
 キリスト者は、キリストの教会は、この祈りと共に歴史の荒波の中を歩んで来ました。キリスト者の歩み、キリストの教会の歩みは、いつも順風満帆であったわけではありません。嵐の中を歩む時もありました。そのような時も、御国が来る、イエス様が来られる、その日を待ち望みつつ歩んで来ました。辛い時が永遠に続かないことを、この祈りと共に心に刻んで来ました。私共の教会の伝道開始から142年の間にも、本当に厳しい時代がありました。富山講義所の時代、長い間、伝道は中々進展しませんでした。会堂も中々持つことが出来ませんでした。そして、総曲輪教会時代、先の大戦の時には、教会員は主の日の礼拝に人目を避けるようにしてしか集うことが出来ませんでした。そして、8月1日の富山大空襲で会堂を焼失し、少ない教会員だけではもう再建は出来ないのではないかという時もありました。しかし戦後、不思議なように私共の教会は復興することが出来ました。  キリストの教会はこの祈りを祈りつつ、御国が来ることを、イエス様が来られることを、ただボーッと待っていたわけではありません。自分たちに与えられた特別な業に励んで来ました。それは伝道です。伝道の御業は、イエス様が再び来られる日まで続けられる、キリストの教会に与えられた「永続的な」「聖なる業」です。この業は前回も見ましたように「御名が崇められますように」という祈りと共にあります。また同時に「御国が来ますように」という祈りと共にあります。この祈りにキリストの教会は励まされ、支えられて、歩み続けて来ました。困難な時は過ぎ去っていきます。永遠に続くことはありません。永遠に続くのは御国だけだからです。ニカイア信条において「その御国は終わることがありません。」と告白されている通りです。

5.神の国を指し示す教会
 さて、この世界にあって、神の国を指し示す存在があります。それがキリストの教会です。勿論、キリストの教会が赦しに満ち、愛に満ち、信頼に満ち、喜びに満ち、平和に満ちているというのではありません。そうであったらどんなに良いだろうかと思います。しかし、教会は御国ではありません。新約聖書に記されている教会の姿が、既にそのようなものではありませんでした。例えば、コリントの信徒への手紙に出てくる教会の姿は、内部で争いがあり、性的な倫理においても目を覆うようなことが起きており、この世の団体とどこが違うのかと思うほどです。いつの時代の教会も、そのような状況はありました。しかし、それでもキリストの教会は、この世にあって御国を指し示す特別な存在ですし、そうあり続けています。
 それは、主の日の度毎に主なる神様に向かって礼拝が捧げられ、父・子・聖霊なる神様が賛美されているからです。そこでは、確かに御国が映し出されています。そして、イエス様の御業による罪の赦しが宣言され、洗礼が施され、神様の救いの御業が為されています。神の国が指し示され、御国への憧れが醸成されています。そして、「この世界は未だ御国ではない」ことを示し続けています。それは、世界中で悲惨な出来事が起き続けているからだけではありません。この世界において、国家やイデオロギーやある主張が、つまり人間が、自らの正義を振りかざしているからです。御国においては、正義は神様にしかないことが明らかだからです。
 私共がイエス様に教えていただいた祈りは「御国が来ますように」という祈りです。使徒パウロは、「わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリピの信徒への手紙3章20節)と告げました。私共が祈り求めるのはこのことです。アメリカ、ロシア、中国、或いはインドやトルコが、そして日本がこの世界の秩序の中心になることではありません。御国においては、国境はありません。また、神様の御前において民主主義が絶対に正しいわけでもありません。御国における統治は、民主主義ではありません。御国における主権は、人民にあるのではなく、神様にあります。御国が来るまでの世界は、どんなに永続的に見えたとしても、暫定的なものです。絶対的な、永続的なものはありません。勿論、この世界において、私共は真剣に、多くの者が幸いである国のあり方、政治形態を求めていかなければならないのは言うまでもありません。しかし、たとえ私共が最良のものであると確信するものであったとしても、それは暫定的なものでしかないことを、御国を求める者は知っています。

6.悔い改め
ここでもう一度、イエス様が宣教されたときの第一声に聞きましょう。「時は満ち、神の国は近づいた。」(マルコによる福音書1章15節)でした。しかし、このイエス様の御言葉には続きがあります。「悔い改めて福音を信じなさい。」です。神の国がイエス様と共に始まりました。この御国に入り、ここで生きるためには、「悔い改めて福音を信じる」ことが必要です。ということは、「御国が来ますように」と祈る時、私共には「悔い改めて福音を信じる」ことが求められているということです。悔い改めることなしに、御国を求めることは出来ません。私共は御国が来ることを祈り願います。イエス様が来られ、すべてを新しくされ、私共が造り変えられ、イエス様に似た者とされ、イエス様と共に永遠に生きる者とされる日を待ち望んでいます。しかし、その救いの恵みに与るためには、自らの罪を認め、神様の御前に悔い改めて、赦しを求めなければなりません。私共は、神様の前において、どこまでも罪人でしかありません。しかし、そのような私共を、イエス様は自らの十字架をもって御国へと招いてくださっています。まことにありがたいことです。このイエス様の御前に立って、私共は「御国が来ますように」と祈ります。その時、私共は自らの罪を悔いるしかありません。そして同時に、御国となっていないこの世界のために、執り成しの祈りへと導かれて行くでしょう。

7.この祈りと共に変わる私:神様に喜んで従う者に
 最後に、この祈りを祈り続ける中で、私共はどのような者へと変えられて行くのかを考えてみましょう。「御国が来ますように」という祈りは、神様の御支配が完全に行われる御国の完成を祈るものです。そうであるならば、この祈りと共に、神様の御支配に喜んで従う新しい私が、私の中に生まれてくるはずです。「自分は神様の御支配なんて関係ない。自分の思いの中で生きていく。」そう思っている人が、御国が来ることを求めることはありません。私共は何を考え、何を行おうと自由です。けれど、この祈りと共に生きる中で、その自由を自分の思いを満たすために用いるのではなくて、神様の御心に喜んで従うために用いる。そういう者に変えられていきます。勿論、完全に御心に適う歩みを私共が出来るわけではありません。どこまでも罪と欠けに満ちた私共です。しかし、それでも神様の御支配を心から願い、この御心に従って生きたいと思う。それが一番良いことだと分かる。だから、徹底的に赦したいと願い、真実に愛したいと願い、心から信頼し合う交わりを作っていきたいと願う。この祈りと共に、私共はそのような者に変えられ続けていきます。それは本当に幸いなことでしょう。私共は御国を求めて、御国を目指して歩んで行くのですけれど、そこには既に御国に生き始めている私がいるからです。私共の中に、御国は既に来ているからです。

   祈ります。

   恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
私共に祈ることを教えてくださり、主の祈りを与えてくださったことを感謝します。祈りといえば、自分の願いを叶えてもらうことしか知らなかった私共でした。そのような私共にあなた様は、イエス様を通して御国を求めることを教えてくださいました。ありがとうございます。どうか、イエス様が再び来られるその日まで、私共が御国を求め、御国を目指して、与えられた持ち場においてあなた様に喜んで従って歩んで行くことが出来ますように。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2023年6月4日]