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礼拝説教

「御心が天になるごとく、地にも」
詩編 103編17~22節
エフェソの信徒への手紙 1章10~14節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
 「主の祈り」を学んでいます。5回目です。前回は2番目の祈り、「御国を来たらせたまえ」から学びました。御国とは神様の国であり、それはイエス様と共に到来しましたが、まだ完成されていません。この祈りは、その完成を願い求める祈りであり、それを完成してくださるイエス様の再臨を待ち望む祈りであることを見ました。そして、この御国のありようは、イエス様の言葉、御業、その御人格に現れています。イエス様を無視して、御国を知ることは出来ません。そして、その御国を指し示す存在としてキリストの教会があるということも見ました。私共は、悔い改めつつこの祈りと共に歩む中で、神様の御心に喜んで従う者へと変えられていきます。
 さて、今朝は、その次の祈り「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」です。福音書の中で、マタイによる福音書(6章9~13節)とルカによる福音書(11章2~4節)に、主の祈りが弟子たちに与えられたことが記されています。しかし、この2箇所に記されている主の祈りは、全く同じではありません。特に、この「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りは、ルカによる福音書には記されていません。はっきりしたことは分かりませんけれど、この祈りはその前の祈り「御国が来ますように」と内容が同じと理解されて、ルカによる福音書では省かれたのかもしれません。確かに、祈られている内容は重なると受け止めることも出来ます。しかし、強調点の違いといいますか、見ているところの違いはあると思います。「御国が来ますように」という祈りは、天の御国に眼差しが向けられています。一方、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」では眼差しが「天」から「地」に転じられています。勿論、「天」を仰いでいるわけですけれど、そこから目を転じて「地」を見る。すると、御心がなされていない現実があるわけです。そのような「地」に「御心がなりますように」と祈ります。

2.天においては御心がなっている
 「御心」というのは、直訳すれば「あなたの思い・あなたの意思」です。「天」とは神様がおられる所であり、「地」とは私共が生きているこの世界です。天においては神様の思いが完全に実現していることでしょう。そのように、私共が生きているこの地上の世界においてもなりますように、そう祈るようにイエス様は教えられました。
 天において実現されている御心を現されたのがイエス様です。ですから、御心を知るためにはイエス様を見、イエス様に聞かなければなりません。イエス様を抜きに御心を考えることは出来ません。それは「御国が来ますように」という祈りにおいて、御国はイエス様と共に来たのだから、イエス様を見、イエス様に聞かなければならないというのと同じです。天において御心が完全に実現している所、それが御国です。ですから、先ほど申しましたように「御国を来たらせたまえ」という祈りと「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」とは、重なっている点が多いわけです。もっと言えば、最初の祈り「御名が崇められますように」という祈り、そこから展開されたのが第二の「御国が来ますように」であり、第三の祈り「御心が天になるように、地にもなりますように」という祈りなのだと言っても良いでしょう。すべての人が御名を崇める、神様が神様とされ、礼拝され、賛美されるのは、御国においてです。すべての者がそのような神様との親しい交わりに生きるようになることこそ神様の御心です。エフェソの信徒への手紙1章10節に「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」とあり、「神の栄光をたたえる」ようになる(1章12節、14節)。これこそ、御心です。神様の御心がなっている天の国、神の国においては、完全な赦し、完全な愛、完全な信頼、完全な喜び、完全な平和が満ちています。イエス様はそれを教え、御業で示されました。
 イエス様はこのように弟子たちに教えられました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネによる福音書13章34節)「互いに愛し合う」ことが、私共に与えられたイエス様の「新しい掟」です。つまり、これがイエス様によって告げられた「御心」です。ここでしっかり聞き取らなければならないことは、イエス様は「わたしがあなたがたを愛したように」と告げられていることです。私共は、自分の家族や大切な人を愛します。それが愛だと思っています。しかし、弟子たちに対するイエス様の愛は、もっと広く、もっと徹底しています。イエス様は、弟子たちがこの世的な意味で様々な能力を持っていたから愛したのではありません。弟子たちはイエス様に愛されるに価する、特に優れた能力や力を持っていたわけではありません。このことはとても大切です。弟子たちに価値があったからイエス様は彼らを愛したのではなくて、そうではないからこそ彼らを弟子として召し出し、愛された。それは、神様の愛とはそういうものだからです。神様はイスラエルをエジプトから脱出させられた時、モーセを通してこう告げられました。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。」(申命記7章7節)神様がイスラエルを選ばれたのは、イスラエルの側に根拠があったわけではありません。イエス様が弟子たちを選ばれたのもそう。そして、私共が神様に選ばれたのも同じことです。ですから、私共が互いに愛するのは、相手が美しいから、力があるから、気が合うから、自分を大切にしてくれるから、といった理由ではありません。私共が愛の交わりを形作っていくのは、それが神様によって備えられた相手だからです。それ意外に理由はありません。それが、イエス様が「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」と告げられた意味です。

3.御心は愛
では、私共が生きているこの世界ではどうでしょうか。私共は自分の家族や大切な人を愛しています。ですから、それなりの愛はあります。この世界には全く愛がないということではありません。もしそうならば、私共は誰も生きていけないでしょう。それなりにあるのです。けれども、それさえもしばしば破れます。家族が互いに愛し合うことが出来ればそれは幸いなことですけれど、それさえもしばしば破れるという現実が、私共が生きている地上の世界です。「御心がなりますように」というのは、私共のそれなりの愛の交わりが守られれば良いということではありません。もしそうならば、この祈りは「家内安全」の祈りと同じです。勿論、そのような家族のため、大切な人のために祈ることも大切です。しかし、この祈りは私共がそこに留まることを許しません。この祈りは、もっと広く、もっと徹底された愛を求めます。
 ここで大切なことの一つは、「広さ」ということです。この祈りは、自分の家族、友人、そのような枠を超えています。神様の御心は実に広いからです。神様の愛はすべての人を含みます。神様がすべてをお造りになったからです。しかし、この愛を私共の罪は小さくします。極限まで小さくなれば、それは自分のことだけを愛するということになります。この罪と戦うようにと神様は促します。私共が祈るように求められているのは「御心がなる」ことです。私共は、自分のために、自分の家族のために、自分の友人・知人のために祈る。それは自然なことです。しかしイエス様は、更に一歩を踏み出していくように促します。私共は、この富山に住む人々のために祈ります。日本の人々のために祈ります。また、世界の人々のために祈ります。困窮した人々、弱った人々、その人たちのために祈ります。その人たちが困り果てた状態にあることを神様はお望みにならないことを知っているからです。勿論、キリストの教会のためにも祈ります。けれど、キリスト者以外の人たちのためにも祈ります。祈りは、キリストの教会の枠をも超えていきます。
 ここで「善いサマリア人のたとえ」(ルカによる福音書10章25~37節)を思い起こすことが出来るでしょう。ある律法の専門家がイエス様に、「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と尋ねました。イエス様は「律法には何と書いてあるか。」と逆に問い返します。律法の専門家は「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」と答えます。イエス様は「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」と言われました。しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」とイエス様に問い返したのです。ここでのポイントは、この律法の専門家が「わたしの隣人とはだれですか」とイエス様に問い返したのですけれど、その意図は「自分の隣人」の範囲を狭くしようとした、隣人を制限しようとしたということです。それでイエス様は「善いサマリア人のたとえ」を話された。このたとえ話は、皆さんも良く知っておられる話です。ある人が追いはぎに襲われて、半殺しにされて、道端に放置されてしまう。この人のそばを祭司、レビ人が順に通りかかります。けれど、祭司もレビ人も見て見ぬ振りで通り過ぎる。最後にサマリア人が通って、この人を介抱し、宿屋に連れて行き、必要な費用まで出すという話です。この三人の中で、だれがこの追いはぎに遭った人の隣人になったか、とイエス様はこの律法の専門家に問います。当然、「助けた人です」と答えます。イエス様は、「行って、あなたも同じようにしなさい。」と告げました。イエス様はこのたとえで、誰が自分の隣人かということではなくて、あなたが目の前の人の隣人になるかどうかなのだと教えられたわけです。もし、この追いはぎに遭って倒れていた人が自分の家族だったならば、誰でも介抱するでしょう。通り過ぎる人なんていません。しかし、その人が見知らぬ人だったらどうか。イエス様は、その人の隣人となりなさいと告げられました。つまり、愛を狭くしてはならない。神様の愛に生きなさい。そう告げられた。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りは、この善いサマリア人のたとえで示された愛、そしてその愛こそイエス様の愛であり、父なる神様の愛です。その愛がこの地上に満ちていきますようにというのが、この祈りなのです。

4.国家は神様ではない
今、私共の罪は愛を小さくしようとするということを見て来ました。ここで私は、昨年2月に始まりましたウクライナ戦争のことを思わないではおれません。あの状況を見て、御心がなっていると考える人は誰もいないでしょう。何万という人たちが命を落とし、何十万という人たちが傷つき、今も戦闘は続いています。日本の国際政治の問題としては、これを対岸の火事としてはならないと言う人もいます。しかし、今、この戦争の悲惨な状況をここで述べるつもりはありません。話し出せばきりがないし、本当に心が折れそうになってしまいます。
 しかし、今朝、「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」という祈りによって私共に示されることは、国家は神様ではないし、国家は必ず御心を行うわけではないということです。国家なんて要らないと言っているのではありません。国家がなければ、人はどんなに悲惨な状況に陥るのか、紀元後70年に祖国を失ったユダヤ人の二千年の歴史が示しています。国家は必要です。しかし、だからといって国家はいつも正しいわけではないということです。国家は神様ではないからです。しかし、人類の歴史において、様々な国家が何度も、自分たちは神様によって選ばれた特別な国家であり、それ故に自国が強大になることが正しいのだと主張し、悲惨な戦争を繰り返してきました。日本もそう主張したことがありました。「神国日本」という言葉がありますけれど、それは人間の罪が作り出した幻想です。神の国はイエス様によってしかもたらされることはありません。私共が祈るのは、神様の御心が地上でも行われるようにということであって、国家の意思が成就するようにということではありません。神様の御心に適った戦争なんてありませんし、正しい戦争なんてありません。やむを得ぬ防衛のための戦争はあるかもしれません。しかし、それとて正しい戦争なんかではありません。罪に満ちた、愚かで、悲惨な戦争でしかありません。そうするしかなかったと、神様の御前で悔いて赦しを求めるものでしかありません。このことを忘れて戦争の正当性を語るのは、神様の御前における間違いです。国家の意思よりも大いなる神様の意思、御心があるからです。そして、神様は互いに愛し合うことを私共に求めておられます。
 神様の御心は、イエス様によって現されました。では、イエス様はどんな力によって十字架につけられたのでしょうか。それははっきりしています。当時のユダヤの支配者たちにねたまれ、彼らの自己保身のためにローマに売られたからです。そして、イエス様はローマの総督ピラトによって十字架につけられました。イエス様を殺したのはローマの国家権力でした。

5.十字架で成就された御心:御心は必ず成ります
イエス様はポンテオ・ピラトによって十字架につけられて死にました。ローマ帝国という巨大国家の力の前に、イエス様は虫けらのように殺されました。しかし、ここに御心が成りました。イエス様は三日目に復活させられ、神様は勝利を証しされました。神様の御心が成るということは、こういうことです。私共が願い求めていた結果になるということではありません。神様の御心は、私共の計画や見通しとは全くの別物です。私共は、自分にとって都合の良いことが起きれば「これが御心だ」と言い、都合の良くないことが起きると「どこに御心があるのか」と嘆きます。それは私共が御心を求めているのではなくて、自分の願いが叶うことを求めているからでしょう。しかし、イエス様が教えてくださったのは「御心がなりますように」という祈りです。そして、イエス様は十字架にお架かりになる前に、ゲツセマネにおいて「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」(マタイによる福音書26章39節)と祈られました。そして、十字架の上で息を引き取られる時、「成し遂げられた」(ヨハネによる福音書19章30節)と言われました。これは、イエス様の十字架が、まさに御心が成し遂げられたことなのだということを示しています。ローマ帝国の力によってひねり潰されたように見えるイエス様の十字架。敗北にしか見えない十字架の死。人間の罪が最も露わに現れた行為。神様の御子を殺して亡き者にするという、神様に対する正面からの反逆行為。しかし、その事によって、すべての罪人の罪を赦すという神様の御心は成就しました。驚くべきことです。ここに、「神様の御心は必ず成就するものなのだ」ということが示されています。たとえ、私共が見ている現実が御心に適わないことでしかなかったとしても、それでも神様は御心を必ず成し遂げられます。

6.信仰・希望・忍耐・知恵
私共が「御心がなりますように」と祈るとき、私共は「必ず御心は成る」と信じて祈ります。それは、イエス様が必ず来られることを信じて「御国が来ますように」と祈るのと同じです。御心が成るかどうか分からないけれど祈るのではありませんし、イエス様が来られるかどうか分からないけれど祈るのでもありません。私共は、御心が必ず成ることを信じ、イエス様が来られることを信じて祈ります。しかし、それが何時なのか、それは分かりません。ですから、終末を待ち望みつつ祈ります。しかし、御国において完全に御心が行われる前に、部分的であっても、暫定的ではあっても、御心は成っていきます。それは、御国が完成されてはいないけれど、既に来ているのと同じです。確かに、「御心がなりますように」と祈っても、少しも現実が変わっていかない。或いは、いよいよ御心から離れていっていると思える、そういう時もあります。ですから、忍耐が必要です。また、自分が望んでいない結果になり、それを受け入れなければならないときもあります。そのようなときにも、忍耐が求められます。私共の信仰の歩みに、忍耐は欠かせません。その忍耐を支えるのは、希望です。「必ず御心が成る」「イエス様が来られる」「御国は来る」という信仰によって与えられる希望です。この希望によって、どんな状況の中でも、私共は「これが最後ではない。御心が成る次がある。」ということをはっきり弁えることが出来ます。この「これが最後ではない」という認識は、神様が私を愛しておられるのだから、神様がこの世界を愛しておられるのだから、これが最後ではないと私共は確信出来るわけです。御国が完成していないのだから、これが最後ではないと確信出来るわけです。これは信仰によって与えられる知恵です。このように、愛と信仰と希望と忍耐と知恵は結びついています。

7.出来ないという賜物
 さて、神様はどのようにして御心をなしていかれるか、具体的な状況の中では私共にはよく分からないことが多いでしょう。神様は自由なお方ですから、まことに自由に事を運ばれ、御心をなしていかれます。ただ、最後に一つだけ確認しておきたいと思います。私共は自分に与えられている能力や才能や力を用いて、神様は御心をなしていかれると考えるかもしれません。確かに、そのような用い方も神様はなさいます。しかし、神様のなさり方はそれだけではありません。自分にはこれが出来ない、この能力はない、そのように自分が思っていることをも用いて神様は御心をなしていかれます。出来ないより出来た方が良いし、持っていないより持っていた方が良いと私共は考えます。しかし、出来るとか出来ないとか、持っているとか持っていないとか、それも神様が備えてくださった現実です。その意味では、出来ないということもまた「神様の賜物」なのです。神様はその私共が「出来ない」ということをも用いて、御心を為していかれます。出来ないから私共は助けを必要とします。そして、それを求めます。そこに助け手が来てくれるならば、私共は主を誉め讃えるでしょう。とすれば、そこに御心が現れている、御心が成っていると言えないでしょうか。私共が求めているのは、御心が成ることです。私の計画や思いや見通しが成っていくことではありません。私共の人生には良いときもあれば、悪いときもあります。概して、私共は良いときには自惚れるものです。しかし、それは御心が成っている時ではないのかもしれません。そして、逆に、悪いと思われるときに私共は神様に助けを求め、不思議に道が開かれ、神様を誉め讃えることになることもある。それは御心が成っている時なのではないでしょうか。大切なことは、時が良くても悪くても、信仰と忍耐と希望をもって「御心が成るように」と祈りつつ歩み続けることです。そこで私共は、自分の思いを超えた「御心が成る」出来事を見ていくことになります。それが主の証人として立てられた私共に与えられた、特別な恵みです。まことにありがたいことです。

   祈ります。 

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
あなた様は、私共に「御心がなりますように」という祈りを教えてくださいました。自分の思い、自分の願いが叶えられ、自分の見通し通りに事が運ぶようにと願ってしまう私共です。しかし、あなた様の御心が成ることが一番正しく、一番良いことです。そのことをしっかり弁えて、あなた様の御心が成っていくことを第一に求める者であらしめてください。私の近しい者たちだけではなくて、あなた様に造られたこの世界の者たちが、あなた様の御名を誉め讃え、あなた様の備えてくださる平和の中を歩んでいくことが出来ますように。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

                                        

[2023年6月11日]