日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

花の日礼拝説教

「生まれる前から」
エレミヤ書 1章4~10節
エフェソの信徒への手紙 1章3~7節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
 今日は花の日の礼拝です。教会学校の子どもたちと一緒に礼拝を守っています。講壇の前にはたくさんの花が飾ってあります。花の日というのは、150年くらい前にアメリカの教会で始まった「教会の子どもの日」です。この日にはたくさんの花を飾って、子どもたちがこの花のように健やかに育っていくことを願って礼拝を守りました。それで「花の日」と呼ばれるようになりました。教会学校はこの礼拝の後、焼きそばを作って食べます。それから、お隣の富山まちなか病院へお花とカードを持って訪ねます。大人の人たちも、お花やカードを持ってお年寄りの方や病気の方を訪ねます。

  2.礼拝を守る教会
 さて、私たちは毎週、礼拝を捧げています。いつもは、大人はこの礼拝堂で、子どもたちは一階の部屋で礼拝しています。イエス様は日曜日に復活されましたので、キリストの教会では日曜日に礼拝を捧げています。礼拝を捧げない日曜日はありません。この日曜日のことを、教会では「主の日」と呼んでいます。日曜日はお休みの日だと思っている人が多いと思います。でも、どうして日曜日はお休みなんでしょう。月曜日でも火曜日でも良いじゃないかと思いませんか。実は、日曜日は礼拝を守る日なのでお休みになったんです。日曜日はお休みなので、この日に礼拝をしているのではありません。礼拝をする日なのでお休みになったんです。ですから、日曜日には礼拝を守るのが、一番正しい日曜日の過ごし方なんです。でも、どうして一週間は7日で一巡りするんでしょうか。10日で一巡りした方が、数えやすいと思いませんか。これも聖書から来ています。神様は天と地とその中にあるものを6日間で造られ、7日目に休まれました。それで7日で一巡り、つまり一週間となりました。そして、神様が最後に休まれたように、日曜日は休みになりました。ですから、キリストの教会は、ずーっとずーっと主の日に礼拝を捧げ続けてきました。どんな時もです。戦争の時も、大きな地震があった時にも、どんな時もです。富山では大雪になる日もあります。そんなとき、学校はお休みになるかもしれません。でも、教会は、礼拝に来れる人は少なくなりますけれど、それでも礼拝を休むことはありません。それが教会です。

  3.聖霊によって
教会が主の日に礼拝を守るようになったのは、イエス様が復活されて50日後に聖霊が弟子たちに降った時からです。この日をペンテコステと言います。今年は5月の最後の主の日がペンテコステの日でしたね。弟子たちに神様の霊・イエス様の霊である聖霊が降って、弟子たちは人々に、「イエス様は神様の御子、キリストです。イエス様は十字架に架けられて死んだけれども、三日目に復活されました。わたしたちは復活されたイエス様に会いました。これは本当のことです。」そのように話し始めました。それ以来、このことがずっと主の日の礼拝の中で語り続けられています、そして、イエス様を神様として拝み、礼拝しています。
 この主の日の礼拝においては、イエス様が神様の御子であり、復活されて私たちを救ってくださったということが語られ、聞き取られ、神様・イエス様が誉め讃えられます。これはペンテコステの日と同じように、聖霊なる神様がここにも働いてくださっているからです。実は、皆さんが今朝ここに集うことが出来たのも、聖霊なる神様が働いてくださったからです。でも、「眠いと思ったけれど、頑張って起きて礼拝に来た。だから、聖霊なる神様の働きなんかじゃなくて、僕の頑張りだ。」と思う人もいるでしょう。聖霊なる神様は、「これがわたしの働きですよ」というように、御自分を目立たせることはあまりしません。謙遜な神様なんです。わたしじゃなくて、神様・イエス様が誉め讃えられれば良い。それが聖霊なる神様なんです。それに、私たちは「おっ、今、聖霊が働いているぞ」なんてあまり感じません。聖霊なる神様のお働きに気がつかないことの方が多いでしょう。でも、気がつかなくても、聖霊なる神様は働いておられます。私たちが聖書の言葉を聞いて、「あっ、そうか」と分かったなら、そこに聖霊なる神様は働いてくださっています。神様に向かって「天の父なる神様」と言って祈るならば、そこに聖霊なる神様は働いてくださっています。勿論、聖書の話をする私にも働いてくださっていますし、神様を賛美する皆さんにも働いていますし、奏楽する人にも働いています。

4.預言者エレミヤ
今朝の聖書の箇所は、旧約聖書のエレミヤ書の最初の所です。「花の日」の礼拝の時は、教会学校の教案誌の聖書箇所にしています。ここは、エレミヤという人が神様に召し出されて、預言者として立てられた場面です。今から2600年くらい前のことです。あまりに昔のことで、ピンとこないでしょう。突然神様が、エレミヤに「わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」と言われました。預言者というのは、神様の言葉を伝える人です。この時、エレミヤは「はい、分かりました。」とは言いませんでした。エレミヤがこの時何歳だったのかは、正確なところは分かりません。けれど、まだ若かったということは分かります。20歳くらいだったのかもしれませんね。エレミヤはこう神様に言いました。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから。」エレミヤは、「預言者として立てた」と神様に言われても、自分は若く、経験もなく、とても神様の言葉を語るなんて出来るはずがない、と思いました。そもそも、何を語れば良いのかも分からない。だから、無理だと思いました。でも、若くなければ、また人生の経験が豊かならば、話すことが上手ならば、預言者になれるのでしょうか。神様の言葉を語ることが出来るのでしょうか。
 神様の言葉を語るというのは、本当は誰にも出来ないことなのではないでしょうか。神様は、エレミヤが「無理です、出来ません」と言うのなら仕方がない、とは言われませんでした。神様はエレミヤにこう告げます。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ、遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。」神様は「若者にすぎないと言ってはならない。」と告げます。若いから、経験がないから、語るべき言葉を持っていないから、上手く人前で話せないから、そんなことは理由にはならないと、神様は言われるのです。それどころか、神様は、遣わされるならだれのところにも行って、語るようにと命じる言葉を語らなければならない、とエレミヤに言われました。エレミヤが語る言葉を聞いても、神様の言葉だと受けとめない人もいるでしょう。皆から「嘘つき」と言われるかもしれませんし、ひどい目に遭わせられるかもしれません。それでも語らなければならない、と神様はエレミヤに言われます。これは大変ですね。でも神様は、それが出来るようにちゃんと「わたしがあなたと共にいて、あなたを守る」と約束してくださいました。神様が共にいてくださって、どんな時でも神様が守ってくださる。これなら安心ですね。更に、神様はエレミヤの口に触れて、「見よ、わたしはあなたの口に、わたしの言葉を授ける。」と言われました。エレミヤは自分が語るべき言葉を、自分で考えたり、生み出したりしなくて良いのです。エレミヤは神様が与えてくださった言葉を語れば良いのです。それが預言者の役割、預言者の使命です。逆に、神様に語るべき言葉を与えられていないのに、勝手に自分で考え出して、これが神様が言われる言葉だなんて言いだしたら、とんでもないことになってしまいます。これが偽預言者です。

5.神様の言葉は実現する
 さて、神様は確かにエレミヤを預言者として召し出し、預言者としてお立てになりました。彼はこの時から長い間、預言者としてユダの人たちに神様の言葉を語り続けました。それは、ユダ王国がバビロンという大きな国に攻められて滅んでいく、そういう時代でした。彼は「悲しみの預言者」とも呼ばれています。それは、神様が人々に告げよとエレミヤに言われた言葉は、ユダの人たちが聞きたくないような内容が多かったからです。エレミヤが神様の言葉を語っても人々は聞いてくれない。人々は、エレミヤと正反対の言葉を語る偽預言者の言葉の方を信じるわけです。エレミヤが神様の言葉を語れば語るほど、笑いものにされ、人々に罵られました。もう、神様の言葉なんて語るまい。エレミヤはそう思いました。しかし、そうすると神様の言葉が火のようにエレミヤの体の中で燃えあがり、押さえつけることが出来ませんでした。それで、エレミヤはやっぱり神様の言葉を語り続けました(エレミヤ書20章7~9節)。人は自分が聞きたい言葉を聞くんですね。聞きたくない言葉は聞かない。神様の言葉であっても聞かない。聞いても「これは嘘だ」と言って受け入れない。そういうものなんですね。でも、エレミヤの語った言葉はことごとく実現していきました。エレミヤが語ったように歴史は動いていきました。そして最後には、エレミヤの言葉に人々は頼るようになりました。エレミヤは神様が与えられた将来の希望を人々に告げ、ユダの人々はこの言葉を頼りに、バビロンに連れて行かれた日々を生きる希望を失わずに、生き続けました。

6.聖書を通して
 さて、それでは私たちはどうやって神様の言葉を聞くのでしょうか。エレミヤのように、神様から直接言葉をいただくのでしょうか。私は牧師を37年間していますけれど、直接神様の言葉を聞いたことはありません。神様からこのようにするようにと促されたことは、何度もあります。そして、それに従ってきました。でも、神様の言葉を直接聞いたことはありません。では、どうやって私たちは、神様の御心を受け取っていけば良いのでしょうか。それは聖書です。神様は御自分の御心を聖書によって、聖書を通してお語りになります。ですから、私たちは聖書をよく読まないといけないんですね。そして、主の日の礼拝において語られる聖書の言葉に聞いていかなければならないんです。
 実は、今朝のエレミヤが預言者としての召命を受けた箇所は、私が会社を辞めて神学校に行く時に与えられた御言葉です。洗礼を受けて7年くらいしか経っていなくて、教会に行き始めてからも8年くらいしか経っていない、まだ20代だった私は、神様から牧師になるように促され(これはまた別の出来事がありました)ても、これは何かの間違いだと自分に言い聞かせていました。しかし、神様がエレミヤに告げた言葉「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ、遣わそうとも、行って、わたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」との御言葉が、自分に向けられた言葉として迫ってきました。そして、勤めていた会社に辞表を出しました。今思えば、聖霊なる神様が働いてくださって、聖書の言葉を神様の言葉として、私に聞き取らせてくださったのでしょう。

7.生まれる前から
そして、その時、私の心に響いたもう一つの言葉は、「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた。」でした。この言葉に、私は本当に驚きました。自分の人生は自分で決めていくものだと思っていたからです。今では、自分で決めているように思っているけれども、本当は聖霊なる神様のお働きの中で出会いを与えられ、道が開かれ、歩んでいるのだと思っています。けれど、まだ若かった私は、自分の人生は自分で決めるものだとばかり思っていました。自分が行きたい学校に行き、自分が働きたい仕事をする。全部、自分が決めることだと思っていました。しかし、神様は「あなたが生まれる前から、それどころかお母さんのお腹の中に胎児として存在する前から、わたしはあなたが預言者となるように決めていた」と言うのです。びっくりです。同時に、何て素敵なことなんだろうと思いました。そして、神様が決めてくださっているなら、何の心配も要らないと思いました。
 私たちは、自分のこれからのことが分かりません。若い方たちは、自分が将来、何になるのかさっぱり分からないでしょう。当たり前です。でも、分かっている方がおられます。それが神様です。天地を造られた神様は、私たち一人一人を生まれる前から知っておられ、こういう人になるようにとお決めになっておられるのです。だから安心して良いんです。何も心配は要りません。ただ、しっかり聖書の言葉に聞いて、お祈りをして、神様の御前に歩んで行きましょう。神様が一番ふさわしい道を、私たちに必ず備えていってくださいます。「一番ふさわしい道」というのは、私がなりたい道、自分がこうなったら良いなと思う道ではありません。私たちのことを生まれる前から知ってくださっている神様が、一番良いとお考えになる道です。それが私たち一人一人に備えられています。だから安心して良いんです。

   お祈りします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 あなた様は私たちを造ってくださいました。私たちには分かりませんけれど、私たち一人一人に、あなた様の御計画があります。どうか、聖霊なる神様が働いてくださって、聖書を通してあなた様が私たちに語りかけてくださり、私たちがそれを聞き取り、あなた様の御計画に従って生きていくことが出来ますように。そして、あなた様を愛し、信頼し、従って行くことが出来るよう導いてください。
この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2023年6月18日]