日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「聞き従うことは犠牲にまさる」
サムエル記上 15章7~23節
ヤコブの手紙 1章22~25節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
 今朝は7月の最後の主の日ですので、旧約から御言葉を受けます。サムエル記上を読み進めていますけれど、6月の最後の主の日は富山地区の交換講壇があり、5月の最後の主の日はペンテコステ記念礼拝、そして4月の最後の主の日は教会定期総会がある日でしたので、サムエル記上から御言葉を受けるのは3月26日以来となります。随分前ですので、少し前回までの所を振り返っておきましょう。
 サムエルは年老いて、自分の二人の息子をイスラエルの裁きを行う者として任命しました。ところが、この二人の息子は、賄賂は受けるし、正しい裁きを行いませんでした。そこで、イスラエルの民は近隣の国々と同じように「王を立てる」ことをサムエルに求めました(8章)。そして、ベニヤミン族のサウルという青年が神様に選ばれ、サムエルは彼に油を注ぎ、サウルがイスラエルの最初の王となりました(9章)。この時代、イスラエルの民と最も厳しく敵対していた民族はペリシテでした。彼らはギリシャのミケーネ文明を担った人々に起源を持ち、大変高度な文明を持っていました。決定的なことは、ペリシテは鉄を造ることが出来たということです。イスラエルは出来ませんでした。ペリシテ人は地中海の沿岸地域に住み、イスラエルはその山側に住んで、うまく住み分けていれば良かったのですけれど、次第に接触するようになり、遂に衝突するようになってしまいました。そのような時代にイスラエルの最初の王として立てられたのがサウルでした。
 前回御言葉を受けましたサムエル記上13章には、ペリシテとイスラエルの最初の大きな戦いが記されていました。イスラエルの兵は三千人が集められましたが、それに対してペリシテの軍勢は「その戦車は三万、騎兵は六千、兵士は海辺の砂のように多かった」(13章5節)と記されています。十倍どころではない、圧倒的な兵力の差です。どう見ても、イスラエルに勝ち目はありません。イスラエルの兵士の中には、このペリシテの軍勢を見て逃げ出す者も出て来ました。そして、サウル王はサムエルが到着するのを待てず、自分で焼き尽くす献げ物をささげてしまいました。サウルとしては、目の前にペリシテの大軍が集結しているのに、戦いの勝利をまだ神様に祈っていない。兵士たちは逃げだすし、サムエルの到着を待っていたら間に合わないかもしれない。それで、サウルは自分で焼き尽くす献げ物をささげて祈ったわけです。しかし、焼き尽くす献げ物をささげるのは祭司の務めです。サムエルがその務めを担っていました。サムエルはサウル王の行動に、神様に対する信頼の欠如を見ました。たとえ兵士がすべて逃げようとも、神様と共にあるイスラエルはペリシテに破れることなどない。神の民イスラエルの王であるサウルが、神様への信頼の上に立てなかったことを責めたのです。このようなことでは、神の民の王であり続けることは出来ない。「あなたの王権は続かない。」(13章14節)とサムエルは宣言しました。しかし、この時の戦いでイスラエルはペリシテに敗北しませんでした。それは、サウル王の息子ヨナタンが、ただ神様の守りと勝利を信じてペリシテ軍に切り込んでいって戦局を打開したからです。そして、ペリシテ軍は動揺し、遂には敗走してしまったのです。それが14章に記されています。これは神様による奇跡でした。サウル王の不信仰と息子ヨナタンの信仰が対比されているようなところでした。

2.聖絶
 さて、今朝与えられている御言葉は、サウル王に率いられたイスラエルが、次にアマレク人と戦った時のことが記されています。ペリシテは地中海の海岸地方に住んでいた民でしたが、アマレク人はイスラエルと同じ遊牧民で、死海より南からシナイ半島にかけての荒れ野にいた民です。イスラエルの民とアマレク人とは少なからぬ因縁がありました。出エジプト記17章に記されておりますが、出エジプトの旅をしていた時に、イスラエルはアマレク人に襲われて滅ぼされそうになりました。イスラエルの民は葦の海の奇跡によってエジプト軍からやっと逃れて、荒れ野の旅が始まったばかりの時でした。アマレク人に襲われたイスラエルの民は、ヨシュアに率いられて戦いました。モーセはどうしていたかといいますと、丘の頂に登り、神様に祈りました。祈る時のスタイルは、両手を上げるというものです。モーセが手を上げていると、イスラエルは優勢になり、手を下ろすと、イスラエルは劣勢になりました。ずっと手を上げてはいられませんので、アロンともう一人がモーセの手を支え続け、そしてアマレク人に勝利することが出来ました。
 さてこの時、神様はサムエルを通じて、サウル王にこのように命じます。2~3節です。「イスラエルがエジプトから上って来る道でアマレクが仕掛けて妨害した行為を、わたしは罰することにした。行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」サウル王に下された神様の命令は、サウル王の時代から数百年前の出来事、イスラエルの民が出エジプトの旅をしていた時にアマレク人がイスラエルを襲ったという行為に対して罰を与えるというものでした。そんな昔のこと、もう良いではないかと思うかもしれません。しかも、「アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」という無茶苦茶なものでした。これは、現代の言葉で言えば「民族浄化」「ホロコースト」「ジェノサイド」とでも言うべきものです。神様は何ということを命じるのか、と思って当たり前です。ただ、この箇所をもって「民族浄化」「ホロコースト」「ジェノサイド」といったことを、神様も認めていることだと言って、正当化することは決して許されません。このような「すべてを滅ぼし尽くす」という行為、これは「聖絶」とも呼ばれますが、神様の裁きとして為されるものです。ただ、私は実際のイスラエルの歴史において、このようなことが為されたことはなかったと考えています。しかし、このように聖書に記されているではないか、これはどういうわけなのか、と疑問を持たれるでしょう。これをどう理解するかということですが、これは富やこの世の誘惑というものに対して、神の民は徹底的に戦わなければならない。この点において妥協してはならない。そのことを示していると私は理解しています。このことは後にも述べますので、先に進んでみましょう。

3.アマレク人との戦い
サウル王はアマレク人と戦うためにイスラエルの軍隊を招集しました。集まったのは21万人でした。前回のペリシテとの戦いの時は3千人でしたので、その数は70倍と飛躍的に増えています。ペリシテとの戦いに勝利してサウル王の権威が増大したということなのでしょう。14章47節にはこう記されています。「サウルはイスラエルに対する王権を握ると、周りのすべての敵、モアブ、アンモン人、エドム、ツォバの王たち、更にはペリシテ人と戦わねばならなかったが、向かうところどこでも勝利を収めた。」このようなことがあって、サウル王はイスラエルの王としての地位を確立し、21万人もの兵士を集めることが出来るようにまでなりました。そして、アマレク人討伐を神様から命じられました。彼は21万の軍勢をもってアマレク人を攻撃しました。この時、サウルはカイン人に対してこう告げています。6節「サウルはカイン人に言った。『あなたたちはアマレク人のもとを立ち退き、避難してください。イスラエルの人々がエジプトから上って来たとき、親切にしてくださったあなたたちを、アマレク人の巻き添えにしたくありません。』カイン人はアマレク人のもとを立ち退いた。」イスラエルが戦うのは、アマレク人だけです。他の者を巻き添えにはしません。これは神様の裁きとしての戦いだからです。
 そして、いよいよアマレク人との戦いです。結果はイスラエルの勝利でした。9節「サウルと兵士は、アガグ、および羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くした。」とあります。神様の御命令は「アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」だったのに、です。サウル王に率いられたイスラエルは、アマレクとの戦いには勝ちましたけれど、ここで問題が起きました。サウル王も兵士たちも問題が起きたとは思っていなかったでしょう。彼らは戦いに勝利し、喜びに沸いていたに違いありません。しかし、この勝利は神様から見れば「問題に満ちた」ものでした。そして、神様はサムエルにこう告げました。11節「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない。」神様はサウルを王として立てたことを悔やまれたのです。どうしてサウルを王としてしまったのかと悔やまれたのです。この時、イスラエルの王として立てられたサウル王への神様の選びは終わりました。この言葉を神様から聞かされたサムエルは、「深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ。」とあります。サムエルは何を夜通し神様に向かって叫んだのでしょうか。サムエルはサウル王のために、夜通し神様に叫んで、執り成しの祈りをささげた。これしか考えられません。しかし、神様の御心は変わりませんでした。サムエルはサウル王に神様の御心を伝えなければなりません。サムエルは辛かったでしょう。でも、神様に立てられた者は告げなければならないのです。それが、神様に与えられたサムエルの務めだったからです。神様の言葉を告げるということは、楽なことではありません。言いたくないことでも、言わなければならないのです。

4.サウルの嘘 ① 自ら栄誉のために
 サムエルはサウル王に会おうとしますが、「サウルはカルメルに行って自分のために戦勝碑を建て、そこからギルガルに向かって下った」との知らせが届きました(12節)。サウル王はアマレク人に対して大勝利を収めたことを、自分の戦勝碑を建てて後世に残そうとしました。これは、普通の国では当たり前の行為です。普通の王様がみんなやることです。しかし、神の民であるイスラエルにおいてはどうでしょうか。ここにはサウル王が、この戦いの意味をきちんと理解していなかったことが示されているように思います。この戦いは「主の戦い」でした。「サウル王の戦い」ではありません。しかし、サウル王はこの「主の戦い」「主の勝利」を「自分の戦い」「自分の勝利」にしてしまったのです。
 しかも、サウル王はその罪に気付いていません。彼は自分のもとに来たサムエルに対して、「わたしは主の御命令を果たしました。」(13節)と告げ、全く悪びれることもありません。彼は気付いていませんし、疑ってもいません。彼は本気で「自分は神様の御命令に従って、アマレク人と戦い、勝利した」と考えています。では、どうしてアマレク人の王アガグを生かしておいたのでしょうか。上等な家畜を生かしておいたのでしょうか。聖書にはその理由は記されていませんけれど、多分、戦勝パレードのためだろうと私は思います。戦いに勝利した王様や将軍は戦勝パレード、凱旋パレードをしました。その時には、捕虜や戦利品を人々に見せ、人々から喝采を受けます。それは、命がけで闘った者に対して、最高の栄誉が与えられるときでした。そして、アマレクの王アガグや上等な家畜たちは、サウル王が賞賛を受けるための大切な戦利品でした。

5.人からの栄誉は何のため?
では、どうしてサウル王は人々からの賞賛を求めたのでしょうか。人は誰でもそれを求めるのであって、特に理由を考えるまでもないのかもしれません。しかし、ここでサムエルはこれについて、驚くべき洞察をもって語ります。17節「あなたは、自分自身の目には取るに足らぬ者と映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエルの諸部族の頭ではないか。主は油を注いで、あなたをイスラエルの上に王とされたのだ。」ああそれなのに、です。サウル王よ、どうして人からの賞賛を得ようとするのか。あなたは主によって油注がれたイスラエルの王ではないか。神様があなたを認めている。それだけでは不足なのか。
 ここで私共はイエス様のお姿を思い起こします。イエス様は神の御子であり、救い主・メシアとしてこの世に来られました。しかし、イエス様は人々からの賞賛を求めることはありませんでした。賞賛どころか、イエス様が受けたのはののしりであり、さげすんだ笑いでした。そして、イエス様は神様の御心に従って十字架にお架かりになりました。イエス様は、神様の御心に従う、それだけで十分でした。使徒パウロもそうでした。同胞のユダヤ人たちから裏切り者と呼ばれ、石を投げられました。しかし、彼の中にはいつも喜びと感謝と誇りがありました。イエス様によって一切の罪を赦されて、使徒とされて、神様の御業に仕える者とされた喜びと感謝と誇りです。
 私共はどうでしょうか。私共は神様によって選ばれ、神の子としていただきました。それで十分です。それ以上、何が欲しいというのでしょうか。人は誰でも他の人に認められたいという思いを持っています。これを承認欲求と言います。しかし、他の人の評価を求め始めますと、中々面倒なことになります。他の人は自分が願うように評価してくれるとも限らないからです。評価が低ければがっかりし、評価が高ければ有頂天になる。心はいつも揺れ動くことになります。しかし、神様は私共に神の子という身分を与え、揺らぐことのない評価をしてくださいました。ありがたいことです。ここに立つならば、揺れることはありません。この時、サウル王はこの世の誘惑、人々からの賞賛という誘惑に負けてしまいました。私共も心していなければなりません。「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。」です。

6.サウルの嘘 ② 責任は兵士たち
 サムエルに「何故あなたは、主の御声に聞き従わず、戦利品を得ようと飛びかかり、主の目に悪とされることを行ったのか。」(19節)と言われ、サウル王は、「わたしは主の御声に聞き従いました。主の御命令どおりに出陣して、アマレクの王アガグを引いて来ましたし、アマレクも滅ぼし尽くしました。兵士が、ギルガルであなたの神、主への供え物にしようと、滅ぼし尽くすべき物のうち、最上の羊と牛を、戦利品の中から取り分けたのです。」(20節)と応えました。これは「わたしが悪いのではない。兵士たちがやったことだ。それも、神様に犠牲としてささげるためにやったことだ。」と言っているわけです。これは本当のことなのかもしれません。サウル王が「滅ぼし尽くせ」と言っても、兵士たちは何の戦利品もない戦いなど考えられなかったでしょう。命がけで戦って勝利して戦利品一つないとなれば、兵士たちは納得したでしょうか。そして、サウル王はその兵士たちの思いをよく分かっていたので、戦利品を取ることに目をつぶったのでしょう。或いは、兵士たちが納得しないで不平・不満が爆発するのを恐れたのかもしれません。いずれにせよ、ここでサウル王は、戦利品を取ったのは兵士たちがやったことだとして、自分に責任はないと言っているわけです。これが罪を犯した者の特徴です。創世記3章においてアダムとエバが、神様から食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまった時、神様に対してアダムは女のせいにし、女は蛇のせいにしたのと同じです。他人のせいにするということは、自分の罪を認めないということです。ですから、そこに本当の悔い改めは起きません。サウル王としては、後で犠牲としてささげれば同じじゃないか、と言いたかったのでしょう。

7.主が喜ばれるもの:主の御声に従うこと
サウル王の言いわけを聞いてサムエルは、「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。」(22節)と告げました。主の御声に従うこと。これこそ主が喜ばれることです。悔い改めなきサウル王は、神様によってイスラエルの王の座から退けられることになりました。28節で「サムエルは彼に言い渡した。『今日、主はイスラエルの王国をあなたから取り上げ、あなたよりすぐれた隣人にお与えになる。』」と告げられたとおりです。この「あなたよりすぐれた隣人」というのが、後のダビデ王のことです。この後、サウルはすぐにイスラエルの王でなくなったわけではありません。ダビデが選ばれ、サムエルによって油注がれますけど、実際にダビデが王として即位するのはずっと後のことです。しかし、この時サウルに対する、神様のイスラエルの王としての選びは終わりました。神様の言葉に従わなかったからです。
 今、「聖書を学び祈る会」ではヘブライ人への手紙を読み進めていますけれど、その3章・4章で繰り返されているのが、詩編95編から引用されている「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、…心をかたくなにしてはならない。」です。「心をかたくなにする」とは、聞いても心に留めない、聞き従わない、ということです。また、先ほどお読みしましたヤコブの手紙1章22節には「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」とあります。これも同じことです。聞いて従う。聞くだけではありません。聞いて従うのです。神様の言葉を聞いたならば、心を柔らかにしてこれを受け入れ、これに聞き従って歩んでいく。それが神様が喜ばれることであり、神様が私共に求めている歩みです。毎週、私共はここで御言葉を聞きます。そして、この言葉に従って歩んで行く。その歩みは、確実に御国へと続いています。

 お祈りします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 私共に日々御言葉を与え、私共に語りかけてくださいますことを感謝します。私共が、そのあなた様の御言葉、あなた様の御声を聞いて、それを心に宿し、これに従って歩んで行くことが出来ますように。あなた様の御声に従おうとする時、様々な誘惑が私共を襲います。どうか、イエス様が私共のために、私共に代わって、私共と共にこれと戦ってくださり、私共に信仰の勝利を与えてくださいますように。 私共が「神の言葉」の力と真実を味わい知りつつ歩んで行くことが出来ますように。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2023年7月30日]