日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「天にある資産を受け継ぐ者」
列王記上 7章48~51節
ペトロの手紙一 1章3~5節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
 先週から「ペトロの手紙一」から御言葉を受けています。先週はその冒頭の1節2節、この手紙の挨拶の所から御言葉を受けました。その挨拶は、「恵みと平和が、あなたがたにますます豊かに与えられるように。」という言葉で閉じられていました。神様の恵みと平和、主イエス・キリストの恵みと平和がますます豊かにあるように。この祝福の祈りが挨拶の最後でした。キリスト者は、この祝福を互いに祈り合う交わりの中に生きる者としていただきました。ありがたいことです。私共は既に神様・イエス様の恵みと平和をいただいています。神様・イエス様の恵みと平和の中に生かされています。しかし、それをいよいよい明確に、はっきりと受け止めて歩んで行って欲しい。それがペトロの願いでした。この手紙を読んだ者たちが信仰による慰めを受け、励まされ、御国に向かっての信仰の歩みを健やかに為していけるように、その願いをもってこの手紙は書かれました。その思いはこの手紙の隅々に表れています。今朝与えられた御言葉にもはっきりとその思いが表れています。

2.ほむべきかな
ペトロは挨拶を終えると、3節「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。」と神様を賛美します。口語訳では「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。」と訳されていました。私は、こちらの訳の方が神様への賛美がはっきりしていると思います。ペトロは挨拶に次いで神様を賛美しているのですが、これはエフェソの信徒への手紙やコリントの信徒への手紙二などと同じです。その他の手紙、ローマの信徒への手紙やコリントの信徒への手紙一、コロサイの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一などでは、挨拶のすぐ後に記されているのは、賛美ではなく感謝です。しかし、感謝にしても賛美にしても、眼差しを天に向けるという点では同じです。神様・イエス様に眼差しを向けて、視線を一つに合わせて、そこから本題に入っていく。それはとても自然な心の動きだと思います。パウロにしてもペトロにしても、これから世間話をしようというのではありません。信仰の話をするのです。その話は、天におられる父なる神様と御子イエス様に眼差しを向けながら、共にこのお方の御前に立つことによって、初めて通じる話です。信仰の話とはそういうものでしょう。それに、先週申しましたように、この手紙を受け取った人々は、キリスト者であるが故に、周りの人々から差別されたり、あなどられたり、辛い目に遭わせられている人たちでした。その彼らに慰めを告げようとすれば、共に天を見上げるしかありません。私共は、人間の知恵による近未来の予測に基づく慰め、「きっと、こうなるから大丈夫だよ。」といった人間の見通しに基づく慰めを与えようとします。また、そのような慰めを人は求めるものです。具体的で現実的な、この状況が打開される見通しによって慰められようとします。けれども、このような慰めは、見通しが外れてしまえば何の力にもならないどころか、全く希望を失わせることになりかねません。しかし、聖書が告げる慰めはそのようなものではありません。もっと普遍的で、どんな時代、どんな場所、どんな状況にあっても、きちんと受け取ることが出来る慰めです。その慰めは、人間の知恵からではなく、ただ天の父なる神様の御許からやって来ます。ペトロはそれを与えたいのです。

3.賛美歌の効用
 神様を誉め讃える、神様を賛美する。その時私共の心の眼差しは、天におられる神様・イエス様に向けられます。これは私共が賛美歌を歌う一番の効用です。神様への賛美はいつも歌であるわけではありませんけれど。賛美歌を歌ったり奏でたりするのは、私共の神賛美の典型的なものです。私は音楽のことはよく分かりませんけれど、楽器を演奏したり合唱する時に、その心が自然と神様に向かうということはあまりないのではないかと思います。人は音を合わせ、表現することに集中するのでしょう。しかし、私共が賛美歌を歌う時は別です。勿論、音を合わせることも考えますけれど、歌詞に言い表されている信仰が目覚め、その信仰と一つとなって、天におられる神様・イエス様に心を向けるということが起きます。これが賛美歌の効用であり、賛美歌の力と言っても良いでしょう。賛美歌は祈りの歌です。祈りにメロディーが付いたものが賛美歌です。その一番古いものが詩編です。詩編は元々すべて歌われていました。楽譜というメロディーを表記する方法がなかったので、そのメロディーは忘れられてしまいましたけれど、詩編は歌われていたものです。賛美歌を歌うとき、私共は祈りの心へと整えられていきます。そのように、神様を賛美して、ペトロはこの手紙の本文を書き始めました。
 ペトロは「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。」と神様を賛美するとすぐに、神様が何をしてくださったのか、何をしてくださっているのかを告げます。順に見ていきましょう。

4.新たに生まれさせ
 まず、神様は私共を「新たに生まれさせ」(3節)てくださったと告げます。神様は罪の奴隷であった私共を、イエス様の十字架によって贖い、御自分のものとしてくださいました。神様の子としてくださいました。それが「新しい命に生まれさせてくださった」ということです。「生まれさせられる」という出来事は、完全に受け身です。自分からこの世に生まれ出てきた者はおりません。みんな「生まれさせられた」のです。中学・高校の頃でしょうか、私の亡くなった母は台所で洗い物をしながら、独り言のように「独りで大きくなったような顔をして。」と何度も呟いていました。それは私が、まるで独りで生まれてきて独りで大きくなったような、感謝することを知らない生意気な子どもだったからです。命が与えられた、自分は生かされているということを忘れ、感謝することもない。与えられたことを当然のことだと思っている。そして、気に入らないことがあれば文句ばかり言う。それが罪というものです。私共が神様に対して罪を犯していたというのも同じことです。私共は自分で生まれてきたのでもありませんし、自分で大きくなったわけでもありません。地上の命もそうですけれど、この肉体の死によって終わらない命、永遠の命、復活の命もまさにそうです。私共は洗礼によって、新しい命に生きる者へと、聖霊なる神様によって新しく生まれさせていただきました。だから「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。」「ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。」なのです。神様を賛美することは、この新しい命に生きる者とされた確かな「しるし」です。そしてこの新たな命は、洗礼によって、復活されたイエス様と一つに結ばれた命です。
 この新しい命に生まれるという恵みは、ただ神様の「豊かな憐れみ」(3節)によって与えられました。神様の憐れみは、御子を与えるほどに豊かで徹底した愛です。私共が神様を愛する前に、神様が私共を愛してくださり、憐れんでくださり、御子イエス・キリストを与えてくださいました。本当にありがたいことです。この神様の「豊かな憐れみ」に、眼差しを向けるのです。この神様の「豊かな憐れみ」は、具体的なイエス・キリストというお方によって現れました。そして、そのお方の十字架と復活という出来事によって私共に提示されました。そこに眼差しを向けることです。
 そして、この神様の「豊かな憐れみ」は、私共がキリスト者として、神の子として新しく生まれた時だけ注がれたのではありません。私共がこの地上の命を与えられる前から今に至るまで、そしてこれからもずっとです。この神様の「豊かな憐れみ」が私共から取り上げられてしまうことはありません。病気になっても、年老いても、苦しくても、悲しくても、私共はこの神様の「豊かな憐れみ」の中に生かされています。だから「ほむべきかな」なのです。

5.生き生きとした希望
 私共に与えられているこの新しい命に生きる者とされた「しるし」が、「神様を賛美すること」であると申しましたが、もう一つ明らかな「しるし」があります。それが「生き生きとした希望」(3節)です。私共は希望を持っています。しかも、その希望は生き生きとしています。富山弁で言うならば「きときとの希望」となりましょうか。私は聖書における希望という言葉を知るまで、本当の希望を知りませんでした。聖書では「信仰・希望・愛」と言われるように、希望は、神様が私共に与えられた代表的な恵みの一つに数えられています。そして、その希望は「生き生きとした希望」「きときとの希望」です。それは私共を生かし、支え、力と勇気を与えるものです。しかも、私共がどんな境遇にあってもそれは失われることなく、死に至るまで私共に力を与え続けるほどのものです。
 しかし、私がイエス様に出会う前に知っていた希望は、そのようなものではありませんでした。それは「こうなったらいいなという願望」であったり、「何の根拠もない将来の夢」のようなものでした。それは現実の厳しさの前には何の力もなく、シャボン玉みたいにはじけてしまうようなものでしかありませんでした。とても人を生かしたり導いたりする力があるものではありませんでした。「希望に生きる。」と言えば、「何を夢みたいなことを言っているのか。」と言われるのが関の山でした。私は「希望」という言葉を思うと、岸洋子が歌い1970年にレコード大賞をとった「♪希望という名のあなたを訪ねて 遠い国へとまた汽車に乗る♪」という歌を思い出すのです。そこには、淡く、子どもの時の夢のように、大人になると消えてしまう希望というものが歌われていました。日本の文化には、まだこの「希望」というものが確かな位置を持っていないように思います。
 聖書が告げている希望は、そんなぼんやりした、淡いものではありません。イエス様を信じる者に、生きる力と勇気を与え続けるものです。私はこれを「強靱な希望」と呼んでいます。これが「生き生きとした希望」です。どうしてキリスト者には、この強靱な希望が与えられているのでしょうか。それはイエス様が復活されたからです。この手紙を書いたペトロは、イエス様が十字架にお架かりになる前の夜、イエス様を三度「知らない」と言ってしまいました。しかし、イエス様は三日目に復活され、ペトロたちにその御姿を現されました。そしてペトロに対して三度「わたしを愛しているか」と言われ、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」と答えるペトロに対して、イエス様は「わたしの羊を飼いなさい。」と三度告げて、再びペトロを弟子として召し出されました(ヨハネによる福音書21章15~17節)。ペトロは、イエス様が十字架の上で死んで、すべてが終わったと思っていたはずです。しかし、終わりませんでした。死んでも終わらない命がある。死んでも終わらない方がいる。この方こそ救い主、メシアだ。ペトロは復活の主に出会ってはっきりと知らされました。そしてペトロは、三度知らないと言った自分をも赦してくださるイエス様の徹底的な赦し、豊かな憐れみ、度外れた愛を受けました。そこで彼は新しくされました。それはペトロの気分の問題、気持ちの問題ではありません。命の問題です。ペトロはあの日から、新しい命、イエス様の命、永遠の命、復活の命に生きる者になった。死んでも終わらない者とされた。もうダメだと思っても、もうこれで終わりだと思っても、終わりじゃない。死さえも砕くことが出来ない「強靱な希望」「生き生きとした希望」に生きる者となりました。
ペトロは、そのイエス様の復活によって与えられた希望が、あなたたちにも与えられている。そのことを、今、困窮のただ中にいるキリスト者たちに伝えるために、この手紙を書きました。ペトロに与えられた「生き生きとした希望」は、ペトロや使徒たちのような特別な者にだけ与えられたものではありません。すべてのキリスト者に与えられています。私共にも与えられています。このことをしっかり受けとめたいと思います。

6.この世界にも希望はある
 私共はこの地上での歩みにおいて、困り果てた状態に陥ることがあります。経済的な問題もあるでしょうし、人間関係でも、あるいは家族のことでも、色々あります。何もやる気が出ない、そんな状態になってしまうことだってあります。八方塞がりに思え、にっちもさっちも行かない時もあるかもしれません。しかし、その自分を取り巻く壁がどんなに高く、厚くても、神様の御手によって崩すことの出来ない壁などありません。神様にとっては、肉体の死さえも壁ではないのですから。
 8月は日本人にとって、平和を願う月です。今年はウクライナの戦争があり、本当に戦争の無い世界は来ないのだろうかと思わされた人も少なくないでしょう。ウクライナの戦争だけではありません。世界が大きく二つの陣営に分断され、その溝は日々広く深くなっているという現実もあります。ベルリンの壁が壊れ、東西冷戦が終わって、これで何とかなるのではないかと思いましたけれど、そうはいかなかった。新しい火種が次々生まれてきます。それが罪の現実なのでしょう。しかし、私共はなお希望を捨てません。人類の明日、世界の明日に絶望なんかしません。何故なら神様がおられるからです。神様はその全能の御腕をもって、この世界を支配し、導いておられるからです。具体的にウクライナの戦争がどのようになっていくのか、私には分かりません。分かっている人など、世界に一人もいないでしょう。思惑を持っている人は沢山いますけれど、きっとそのような人たちが考えるようにはならないでしょう。しかし、神様は御存知です。そして、神様は必ず愛と平和に満ちた世界へと導いて行かれます。私は8月が来る度に、そのことを新しく受け止めて、祈るのです。「御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ。」と祈るのです。この祈りは、希望の祈りです。神様がおられる故に、神様の豊かな憐れみがある故に、イエス様が復活された故に、決して失われることのない希望の中で祈られる祈りです。この祈りが私共の唇から消えることはありません。

7.天の資産
 さて、私共はイエス様によって新しい命に生きる者にしていただきました。その私共に備えられているものがあると聖書は告げます。それは「天の資産」です。それは私共のために、私共が受け継ぐことが出来るように、既に蓄えられています。既に天にあるのです。それは「朽ちず、汚れず、しぼまない財産」(4節)です。地上の財産は、地上でだけのものです。先ほど列王記上7章を読みました。そこで、神殿を建てたソロモンは金や銀で沢山の祭具を作り、宝物庫に納めたと記されています。その宝は今、どこにあるでしょうか。すべて朽ちました。すべて盗まれました。神殿そのものも、跡形もありません。私はお城が好きで、出張すると近くのお城に寄ったりするのですけれど、沢山の富をつぎ込んで造ったお城も、その多くは石垣を残すだけです。地上の財産は、必ず朽ちていきます。永遠のものなどありません。そして、私共の地上での生涯が閉じられたら、それを天に持っていくことは出来ません。
 でも、がっかりすることはありません。天の御国においては、地上の財産など何の意味もないからです。そして、天には既に大いなる財産が私共のために備えられています。それは何とイエス様と共に相続する財産です。「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。」(ローマの信徒への手紙8章16~17節)とあるとおりです。イエス様が持っておられる良きものすべてが私共のために備えられています。それは永遠の命であり、全き信仰であり、全き愛であり、完全な平和です。尽きることのない感謝と喜びと賛美です。これは挙げていけばきりがありませんけれど、みんな神様・イエス様が支配される御国において完成されるものです。この地上においては、どんなに良きものでも、どれも欠けに満ちています。信仰も愛も欠けだらけです。しかし、御国においてはすべてが完全となります。私はそんな御国に憧れます。そして、そこに招かれる日を楽しみにしています。勿論、それは早く死にたいというようなことではありません。でも、御国への憧れははっきりとあります。代々の聖徒たちは、みんなこの憧れを持っていました。その憧れを持って、御国に招かれるまでの地上の生涯を、諦めることなく、希望の中で罪と戦い、御心に適う者へと整えられつつ歩み続けてきました。何としても最後までキリスト者として、御国を目指して歩み通す。それがこの手紙によってペトロが告げたかったことです。

8.あなたは守られている
しかし、そのために私共は歯を食いしばって歩まなければならないということではありません。それは、キリスト者は「神の力により、信仰によって守られて」(5節)いるからです。私共は全能の神様の御力によって守られています。神様は私共が救いの完成に与るように、私共を選び、信仰を与え、肉においても霊においても日々必要なものを備え続けてくださっています。だから、私共は今朝もこのように集うことが出来たのでしょう。だから、安心して良いのです。試みの時はあるでしょう。誰にでもあります。でも、その時は神様に「助けてください」と叫べば良いのです。本気で神様の助けを願い求めれば良いのです。神様は私共の思いを超えて出来事を起こし、私共の考えていなかったような道を開いてくださいます。そして、その道は御国に続く道です。忘れないでください。私共は御国に向かっての歩みを歩み続けている者なのです。

 お祈りします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
今朝も私共をそれぞれの場所から導いてくださって、この主の日の礼拝において御言葉を与えてくださったことを感謝します。あなた様は私共に御子を与えてくださり、御子の十字架と復活の出来事によって、ただ信仰によって一切の罪を赦してくださり、生き生きとした希望に生きる者としてくださいました。この地上の歩みにおいて、私共は様々な試練に遭います。しかし、信仰と希望と愛とを見失うことなく、あなた様が備えてくださっている御国に向かって、一日一日健やかに歩ませてください。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2023年8月20日]