日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「見ずに愛し、信じ、喜ぶ」
出エジプト記 33章18~23節
ペトロの手紙一 1章6~9節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
週報にありますように、教会員のY・K姉が一昨日、逝去されました。ご遺体が母子室にあります。昨日は前夜式がここで行われました。そして本日礼拝の後、午後1時30分から葬式を行います。ぜひ皆さん出席して、祈りと賛美を共にして、主にある姉妹の葬りの営みに参加していただければと思います。先週の火曜日に、息子のHさんから「医者に、母は今日、明日中ですと言われました。」と聞いておりました。ですから、先週はずっとK姉の逝去の知らせが来るかということが頭から離れない日々を過ごしておりました。そのような中で、この主の日の礼拝の備えをしてまいりました。そして今日の御言葉は、愛する者を失った人に対しても、また困窮のただ中にいる人たちに対しても、実に慰めに満ちた御言葉であると思いました。
 前回は3~5節までの御言葉を受けました。そこで、私共は既にイエス様の十字架と復活の御業によって示された神様の「豊かな憐れみ」の中で、新たな命に生きる者としていただいている。そして、天にある朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としていただいている。それは、イエス様が再び来られる「終わりの時」に明らかにされます。私共はその希望の中で生かされています。ですから、私共は神様を誉め讃えないではいられない者、神様を賛美する者とされているわけです。

2.試練に悩まねばならなくても
 この「終わりの時」に明らかにされる恵み、それはキリストに似た者として復活し、良きものすべてに与るという、実に栄光に輝くものです。私共はそこに向かって歩みを続けています。しかし、今朝与えられた御言葉においては、6節「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」と告げられています。この「いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」というのは、「試練に悩む人もいれば、悩まない人もいる。あなたがたも悩むことがあるかもしれません。」というような意味ではありません。この地上の歩みにあっては、私共はいろいろな試練に必ず遭うのです。しかし、それは神様が知らないところで起きるのではありません。神様の大いなる御支配の中で起きるのです。試練とは、それを乗り越えていくことを期待されているものです。私共を潰すために起きるものではありません。その試練によって、私共はより強く、より純粋に、より堅く神様を愛し、信頼する者へと変えられていきます。ですから、それは「しばらくの間」です。未来永劫、ずっと続くのではありません。
 ペトロはこの試練を、金が精錬されることに重ねて語ります。7節「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。」金は、金を含む鉱石の中にほんの少し含まれます。鉱石の質にもよりますけれど、1トンの金鉱石から取れる金はわずか5グラム程度と言われます。金の鉱石は採掘されますと、細かく砕かれ、それが鉛と一緒に溶かされ、鉛の合金にされます。その合金を灰を敷き詰めた皿の上で熱していくと、金と銀以外のものは酸化して灰の中にしみ込み、金と銀だけが残ります。更にそれを精錬して純度の高い金にしていきます。大変な手間をかけて金になるわけです。私共の信仰にも様々な不純物が含まれていて、神様はそれを精錬されます。私共の地上の信仰の歩みは、この不純物が取り除かれていく過程の中にあります。金の精錬の過程で出てくる不純物を「金糞(かなくそ)」と言ったりしますが、やがては朽ちるしかない金でさえも火で精錬して金糞を取り除いて、純度を高めていきます。まして、決して朽ちることのない、天にある尊い財産を受け継ぐ者とされる私共は、その信仰が試練によって精錬されていきます。つまり、私共の出会う試練には意味があるということです。信仰の純度を高めていくという意味があるのです。

3.信仰の純度が高められる
 試練にはいろいろありますので、このように信仰の純度が高められていく、と一括りには出来ないのですが、その内の幾つかの面を見てみましょう。
 第一には、神様だけを頼り、信頼する者とされていくということです。私共は神様を、天地を造られたただ独りの神様と信じており、この方を信頼し、この方と共に生きることが最も幸いであると一応は信じています。今、一応と申しましたのは、本当にただ神様だけを信頼しているかというと、そこには様々な不純物が混じっているからです。それは、神様も大切だけど健康が第一というものであったり、神様も大切だけどお金も大切でしょうというものであったり、神様も大切だけれども人間の絆も大切でしょうといったものであったり、言いだせばキリがありません。健康もお金も人間の絆も、どれもが大切であることは言うまでもないことです。しかし、この「神様も大切だけれど」という言い方、考え方の中で、神様がいつも二の次にされてはいないかということです。健康もお金も絆も、結局、目に見える「自分が頼りとしているもの」です。そこで、自分で手に入れることの出来るものを頼るということになってはいないかということです。健康もお金も絆も、やがては無くなります。しかし、そのすべてが無くなったとしても、神様がおられる。そして、この方が私の人生を支え、守り、導いてくださる。ただ、そこに立つということです。更に言えば、この方だけが、私共のこの地上の生涯が閉じられた後の命を与えてくださることの出来るお方です。神様以外は、この地上の生涯においてしか意味がありません。形あるものは、すべて消えていきます。それをはっきりと弁えるということです。
 もう一つの側面は、信仰が何かを得るための道具になってはいないかということです。神様を愛し、神様を信頼し、神様にお仕えする信仰は、それだけで意味があり、尊いものです。何にも換えがたい価値があります。それは、天に蓄えられている度外れた財産へと私共を導いてくれるものです。しかし、信仰していれば平穏無事に生きていけるとか、信仰していれば災いに遭わないといった理解は、神様を自分の幸いのために利用していることにはならないでしょうか。信仰していても、誰も老いを避けることは出来ませんし、病気にもなります。宝くじが当たるなんてことも、めったにありません。家庭の中での問題だって起きます。
 私はこのことについて、とても辛い、とても苦い、しかし信仰の姿勢を根本から変えられた恵みの経験があります。この話は礼拝の中で、以前にも話したことがあったと思います。もう45年も前のことです。洗礼を受けたばかりの頃でした。私は自分で言うのも何ですが、実に真面目な青年キリスト者でした。CSの教師をやり、礼拝は休まず、大学でも聖書研究会を開いていました。こんな真面目で立派な信仰者である私に、神様は良いことしかしないはずだと思っていました。そのような明確な自覚があったわけではありません。しかし、それが明らかにされる出来事がありました。とても辛い出来事に遭ってしまったのです。もう生きる気力も出ないほどでした。多分、あの時私は客観的には鬱状態になっていたと思います。私の神様への信頼は零、零どころかマイナスになってしまいました。しかし、教会学校の教師をしていましたので、日曜日には教会には行かなければなりません。でも、礼拝に出ても説教を聞く気はありません。当然、何を聞いても全く私の心には響きませんでした。そんな信仰生活が何ヶ月か続いた頃、説教の中で「神様は私の幸せのためにおられるのではない。」という一言が耳に飛び込んできました。それが心にストレートに届きました。ヨブ記の説教でした。私はこの説教の言葉に驚きました。そして、自分の不信仰、神様を侮っている自分、神様を勝手に利用しているだけだった自分の信仰のありようを神様に見抜かれた思いでした。神様の御前に立たされ、涙がこぼれて止まりませんでした。そこから、私の信仰は変えられていきました。良いことがあろうとなかろうと、神様の愛は少しも揺らいでいない。私は、神様の僕として為すべきことを為していくだけだ。そんな信仰になりました。
 神様が試練を通して、信仰の純度を上げていってくださるとは、こういうことなのではないかと思います。その時は辛い、悲しいことであっても、そのことを通して、私共の信仰がきちんとされていく。神様を本当に信頼するということ、本当に愛するということ、本当に仕えるということがはっきり分かっていく。そういうことなのではないでしょうか。

4.イエス・キリストが再び来られる時
 その信仰は「イエス・キリストが現れるとき」、つまりイエス様が天から再び来られる時、再臨の時、「称賛と光栄と誉れとをもたら」します。称賛と光栄と誉れを、神様が与えてくださるのです。神様に称賛されるというのは、何か変な感じがしますけれど、それは神様から私共が「忠実な良い僕だ。よくやった。」(マタイによる福音書25章21節、23節)と言っていただくということです。それは何と光栄なことでしょう。使徒パウロがローマの信徒への手紙8章18節で「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。」と告げている通りです。イエス様が再び来られる時、終末が来て、私共はイエス様に似た者として復活します。この終末の栄光を思うならば、私共がこの地上で出会う試練で耐えられないものはありません。しかし、このイエス様が再び来られる時の栄光をしっかり受けとめることが出来なければ、どんな些細な試練であっても、私共を打ちのめし、神様から離れさせるには十分すぎるほどです。私共はそれほどに弱いですし、私共の信仰はまことに頼りないものなのです。私共はこの終末を待ち望む信仰によって、強められ続けていきます。この終末を待ち望む信仰によって、私共は強靱な希望を与えられていきます。
 私は年齢が上がるにつれて、また牧師としての歩みが長くなるにつれて、このイエス様の再臨の時に与えられる栄光、神の国の輝き、私共に与えられる救いの完成、これらに対して強い憧れを抱くようになりました。皆さんはどうでしょうか。私は若い時には、終末なんてほとんど興味もありませんでした。「イエス様が再び来られるんだ。ふ~ん。」でお終いでした。しかし、今は違います。これを見失ってしまえば、私共の信仰は強靱な希望を失ってしまいます。そして、自分の見通し、計画、そういうなもので自分の人生が何とかなるかのように思い違いをしかねません。しかし、私共の人生も、この世界の明日も、私共が見通していたようには展開していないということを、私共は何度も知らされてきたのではないでしょうか。ベルリンの壁が壊れた時、もう東西冷戦は終わりだ、世界は平和になると思いました。しかし、そうはなりませんでした。コロナ禍やウクライナの戦争。これを誰が想定していたでしょうか。いつも想定外の所を私共は歩んでいるのではないでしょうか。キリストの教会も、想定外の歴史の中を二千年歩んで来ました。そして、このイエス様の再臨への信仰がぼんやりしてしまえば、私共の信仰は単なる生き方の問題、考え方の一つといった程度のものになってしまうでしょう。勿論、生き方も考え方も大事です。しかし、この終末への期待と憧れによって、私共の生き方や考え方というものは、いよいよはっきりしていきます。神の国の光に照らされて、私共はこれが御心に適うことだと信じて歩み出していきます。こう言っても良いでしょう。私共の地上での歩みは、過去のイエス様とやがて来られるイエス様によって規定されます。つまり、あの十字架にお架かりになったイエス様の歩みとイエス様の言葉によって規定されます。そして、再び来られるイエス様の御姿、その時に実現される完成した神の国、そして完成される私共の救い、この二つに挟まれるようにして規定されていきます。

5.見ていないのに
 私共はイエス様を見たことがありません。しかし、聖書は告げます。8節「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」これはとても不思議なことです。この手紙を受け取った時代から今に至るまで、すべてのキリスト者はイエス様を見たことがありません。私共もそうです。ところが、見たこともないのに愛し、信じています。どうしてそんなことが出来るのでしょう。見てはいないけれども、聖書の言葉を読めばイエス様の人となりは分かる。だから信じたということでしょうか。しかし、それで見たことのない方を本当に愛せるでしょうか。
 先ほど、過去に来られたイエス様、そしてやがて来られるイエス様、この二つのイエス様から私共の歩みは規定されると申しました。しかし、ここにはもう一つ決定的なことが欠けています。それは、今おられるイエス様です。見たことがないのに愛し、信じ、喜んでいる。それは、キリスト者には不思議でも何でもありません。今、イエス様は私共と共におられるからです。そのことを代々の聖徒たちも、そして私共も知っています。そして、そのことを知らされる決定的な場が、主の日の礼拝です。主の日の礼拝において、私共は現臨されるイエス様に出会います。聖霊なる神様として臨んでおられるイエス様に出会います。説教を通して私共にイエス様が語りかけてくださるからです。聖餐において私共と一つになってくださるからです。
 過去のイエス様、現在のイエス様、そして将来のイエス様と言っても、イエス様は何人もおられるわけではありません。ただ独りです。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」(ヘブライ人への手紙13章8節)とヘブライ人への手紙で告げられている通りです。しかし、過去のイエス様と現在のイエス様と将来のイエス様は、その私共に現される御姿は全く違います。過去のイエス様は、おとめマリアから生まれ、十字架に架かり、死んで葬られ、三日目によみがえり、天に上られたお方です。そして、現在のイエス様は、天におられます。しかし、聖霊として私共に望んでおられます。そして、再び来られるイエス様は、「この方こそ再臨されたイエス様だ」と誰にでも分かるあり方で、誰一人疑うことのないあり方で来られます。栄光に輝く御姿で来られます。現在、見たこともないのに愛し、信じているのは、私共はただ見ていないだけで、聖霊として現臨されるイエス様には何度も何度も出会っているからです。先ほど、礼拝の中で涙が止まらなかった45年前の私の話をしました。あの時、私は確かにイエス様に出会っていました。私共に御言葉を与えてくださるイエス様です。聖餐によって、我が肉を食べよ、我が血を飲めと、私共に御自身を差し出されるイエス様です。私共は見ていません。しかし、この聖霊として現臨されるイエス様との交わりの中で日々を生かされている私共です。この交わりがあるからこそ、この方がやがて再び来られるということを信じることが出来るし、そこから決して失われることのない希望を受け取ることも出来るのです。

6.既に救われている
そして、私共は喜んでいます。イエス様との交わりを与えられたこと、この方を「我が主・我が神」と崇めて生きる者とされたことを喜んでいます。この肉体が滅びようとも、決して滅びることのない永遠の命に生かされていることを喜んでいます。やがて神様の御前で「忠実な良き僕よ」と言っていだけることを喜んでいます。イエス様に似た者に変えられることを喜んでいます。愛する兄弟姉妹との交わりの中に生かされていることを喜んでいます。この喜びは「言葉では言い尽くせないすばらしい喜び」です。それは、私共が「信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」 つまり、既に救われているからです。私共は既に救われています。確かに、まだその救いは完成はしていません。完成されるのは、イエス様が再び来られる時です。しかし、既に救われています。それは丁度、青虫がさなぎになり、更に蝶になるのに似ています。そこには同じ命が息づいています。私共は、今は青虫かもしれません。しかし、やがて蝶になります。既に救われているとは、まだ蝶にはなっていないけれど、青虫かもしれないけれど、救いの完成に至ることになっています。青虫は自分が蝶になることを知らないかもしれませんけれど、蝶になります。私共は信仰によって、蝶になることを知らされています。だから、その日を待ち望み、憧れています。喜びつつです。私共の信仰は、この喜びと共にあります。喜んでいる。それは救いに与った者に与えられている、最も大きな賜物の一つです。この喜びをもって、御国に向かっての新しい一週を歩んでまいりたいと願います。

 お祈りします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 私共に信仰を与えてくださり、救っていただき、心から感謝いたします。私共はこの目でイエス様を見ることはありませんけれど、聖霊なる神様の御臨在のもとで、主の日のたびごとに御言葉をいただき、父・子・聖霊なる神様を賛美し、祈りを捧げ、あなた様との交わりを与えられております。聖霊なる神様によって、あなた様を愛し、信じる者としていただきました。その信仰によって、既に救いに与り、何によっても奪われることのない強靱な希望を与えられ、喜びの中を歩む者としていただいております。まことにありがたいことです。どうか、試練の中にある者にも、あなた様が御言葉と出来事をもって道を開き、慰め、支えてくださいますように。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2023年9月3日]