日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「神様の救いのご計画」
イザヤ書 25章1~9節
ペトロの手紙一 1章10~12節

小堀康彦 牧師

1.聖書は教会の書
 神様は天と地のすべてを造られ、すべてを支配しておられます。神様のその憐れみの御手の中で、私共はこの地上での命を与えられ、更に主イエス・キリストによる救いに与りました。一切の罪を赦していただき、神様の子として新しい命に生きる者にしていただきました。「この救い」の恵みについて教えてくれるのが、聖書です。聖書は信仰の書ですから、信仰抜きに読みましてもチンプンカンプン、さっぱり分からないということになります。皆さんも経験がおありでしょう。教会に通い始めた頃、キリスト教を知るには聖書を読まなければいけない、そう一念発起して読み始めた。だけど、新約聖書の1ページ目の最初にイエス様の系図が長々と記されていて、しかもカタカナの聞いたことのない名前ばかりで、最初の日で挫折。でも、あの無味乾燥としか思えないイエス様の系図にも、神様の憐れみに満ちた御心というものが豊かに示されているのです。しかし、それを読み取ることは、初めて聖書を読む人には無理でしょう。「信仰がなければ聖書は分からない。しかし、聖書の中身を知らなければ信仰が与えられない。」これでは、信仰が先か、聖書が先か、という「鶏と卵、どちらが先か」という議論になって、よく分からないということになってしまいます。
 この議論に欠けているのは、実は「聖書は教会の書」であるということです。聖書は、教会の主の日の礼拝において説き明かされます。私共はそこに身を置き続けることで、聖霊によって信仰が与えられ、そして信仰が養われていきます。これが一番大切なところです。これ無しに聖書が分かるということは起きません。しかし、それがすべてかといいますと、そうではありません。この礼拝における霊の養いを受けると同時に、私共は聖書を自宅でも読みます。この時に、読んでもよく分からないところに必ず出くわします。しかし、そこで止めてはダメです。それでも読み続ける。分からなくてもいいから読み続ける。そうすると、不思議なことが起きます。それは、自分が家で独りで聖書を読んでいても分からなかった聖書の言葉が、礼拝の中で別の聖書の箇所を説き明かされる中で、「ああ、そういうことだったのか。」と腑に落ちると言いますか、「分かる」ということが起きます。或いは、日々の生活の中で、「あの聖書の言葉はこういうことだったのか。」と気付かされることが起きます。そのようにして、少しずつ少しずつ聖書が分かっていく。そして私共の信仰も育まれていく。そういうことなのでしょう。

2.聖書は金太郎飴
 聖書という本は不思議な本で、読み終わるということがありません。どんな本でも、二回か三回も読めば十分でしょう。ところが、聖書は読み終わるということがありません。洗礼を受けて何十年と経った人が読む聖書も、まだ洗礼を受けていない人が読む聖書も、みんな一緒です。でも、心に響くところとか、なるほどと思うところ、ありがたいと思うところ、或いは、よく分からないと思うところが、信仰の歩みと共に変わっていきます。聖書は変わらないのですけれど、聖書を読む私が変わっていく。そして、それに伴って、聖書の言葉の響きが違ってきます。だから、聖書は神の言葉なんですね。聖書を分かり尽くすということは、人間には出来ません。いつまでも謎が残ります。牧師は聖書のすべてを理解している。そんなことはありません。聖書を完全に分かっているのは、神様だけです。その神様が時に応じて聖書の言葉を通して私共に語りかけ、私共は信仰の成長を与えられていきます。聖書の言葉が、なるほどなるほどと、一つ一つ分かっていく。そのようにして、私共は信仰の歩みを続けていきます。 しかし、聖書はそんなに難しいことが記されているわけではありません。神様が私共を愛してくださっていること、その神様のなさったこと、その神様の御心の真実が記されています。そして、その神様の愛と真実が、イエス・キリストというお方によってはっきりと示されました。そして、このお方によって私共は救われました。何とありがたいことか、その喜びの調べが聖書には鳴り響いています。その意味では、聖書は金太郎飴のようにどこを開いても、このイエス・キリストに現れた神様の愛が記されているわけです。この愛を読み取らなければ、聖書を読んだことにはならないし、救われた喜びの調べを共に歌うようにならなければ、聖書を読んだことにはならないとも言えるでしょう。
 逆にいいますと、聖書は金太郎飴ですから、聖書の中の一箇所が本当に分かれば、すべて分かることになります。私が若かった頃、ある先生から「聖書を一度に全部分かるなんてことはありません。一句で良いんです。これが私の聖書の言葉だという一句、『私の聖句』が与えられたら十分です。それから、一書に広げましょう。聖書はたくさんの書から出来ていますけれど、その中の一書を『私の書』として丁寧に学んだら良い。それを一つから二つに増やしていく。時間がかかりますけれど、それで良いんです。」と言われたことがありました。

3.この救い
 さて、今朝与えられている御言葉は、10節「この救いについては」と始まっています。「この救い」とは、3~9節で言われてきた救いですけれど、中でも3~4節の「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」ということを指しています。イエス様の十字架の死そして復活。この出来事によって、私共は「新たに生まれさせ」られました。肉体の死によって終わってしまう命から、肉体の死によっても終わらない命、永遠の命、復活の命に生きる者、天に蓄えられている莫大な財産を受け継ぐ者していただきました。私共は「この救い」に与っております。ですから、既に喜びの中に生きています。「この救い」は、まことの神の独り子であるイエス・キリストというお方が、私共が犯した罪に対する神様の裁きを私共に代わって受けてくださった、あの十字架の出来事によって与えられました。そして、三日目に復活されたことによって、このお方と一つに結び合わされた私共の命は、肉体の死によって終わるものではないことを示されました。私共に与えられている「この救い」は、イエス様を知る前の私共には思いつきもしないものでした。私共は神様なんて関係ないと思って生きていましたし、自分の命は死んだらお終いだと思っていました。まして、天地を造られた神様がおられ、その神様が私を愛してくださっているなどということは考えたこともありませんでした。しかしこれが、聖書が私共に告げている救いです。
 神様が私を愛している、しかも我が子を十字架にお架けになるほどに愛してくださっている。このことを知ることによって、私共は変えられました。私共の生きる意味、生きる目的、そして自分たちはどこに向かって生きているのかを知ったからです。最早、私共は、棺桶に向かって生きているのではありません。神無き世界においては、肉体の死によってすべてが終わってしまうと人は考えています。その人に、人生は素晴らしいと言ったところで、棺桶に向かっての一日一日の連続でしかありません。しかし、私共にとっての人生は、永遠の命に向かっての一日一日となりました。そして、その一日一日は、神の国における救いの完成に向かっての備えの日々という意味を持ちます。ですから、私共にとって、良く生きる、正しく生きる、神様に喜んでいただけるように生きるということが、とても大切なこととなりました。地上において何を手に入れるかという以上に、大切なこととなりました。地上において手に入るものはすべて、肉体の死と共に意味の無いものになってしまうからです。

4.旧約と新約
 「この救い」は、イエス様があのクリスマスの時に地上に来られるに当たって、神様が急遽そうすることにされたから与えられたのでしょうか。聖書は、そうではないと告げます。「この救い」は、天地を造られる前から神様がお決めになっていたことだったと聖書は告げます。代表的な聖書の箇所は、エフェソの信徒への手紙1章4~5節です。こうあります。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」イエス様が救い主として来られるということも、そして私共がその救いに与るということも、神様は天と地を創造される前からお決めになっていました。「神様の永遠のご計画」の中でイエス様は二千年前に来られ、十字架と復活の出来事をもって、私共の救いの道を拓いてくださいました。そして、その「神様の永遠のご計画」の中で、私共はその救いに与る者としていただきました。これは天地が創造される前から、神様がお決めになっていたことでした。まことにありがたいことです。
 ここに、聖書に旧約があることの意味があります。旧約には、イエス様が生まれる前に、神様がイスラエルの民に与えられた神様の言葉が記されています。そして新約には、イエス様の救いが与えられた、その救いの出来事、その意味について記されています。旧約の神様は厳しく裁かれる神様だけれども、新約の神様は愛の神様だというようなことが、教会以外の所でよく言われることがあります。しかし、それは全く見当違いの読み方です。旧約の神も新約の神も、ただ独りの同じ神様です。そして、旧約に記されていることは、イエス様によって成就される神様の救いの御業を預言している。そして新約は、旧約において預言されていた神様の救いの御業が成就したことが記されているわけです。

5.神様の永遠のご計画の中で
 旧約が預言であり、新約が成就であるとは、イエス様がお生まれになったのは旧約で預言されていたことの成就であるということです。イエス様が来られる前から、イエス様による救いは預言者たちによって示されておりました。それを示しているのが旧約聖書です。今朝与えられている御言葉はこう告げます。10~11節「この救いについては、あなたがたに与えられる恵みのことをあらかじめ語った預言者たちも、探求し、注意深く調べました。預言者たちは、自分たちの内におられるキリストの霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光についてあらかじめ証しされた際、それがだれを、あるいは、どの時期を指すのか調べたのです。」私共は今、私共に与えられている救いが、イエス様の十字架と復活によって与えられたものだと知らされています。このイエス様の救いの御業を、神様は旧約の預言者たちを通して語って来られました。ここで言う「預言者」というのは、イザヤやエレミヤやエゼキエルといった預言者だけを指しているのではなくて、旧約を記した者たちすべてを指していると考えて良いでしょう。新約には、いわゆる預言書からだけではなく、旧約の様々な所から、イエス様の救いの御業についてこのように預言されていると引用されています。その引用が一番多いのは詩編です。詩編は信仰の詩、信仰の歌ですけれど、この中にイエス様の救いが預言されている。それは、詩編を記した人たちに「キリストの霊」つまり聖霊が宿って、キリストによる救いについて預言したわけです。ここで、聖書の著者は誰かという問いが生まれます。私共は、イザヤ書はイザヤが書いたし、エレミヤ書はエレミヤが記した、詩編は詩編の詩人が記したと考えるでしょう。当然、イザヤやエレミヤや詩編の詩人が著者だと考えるわけです。それは確かにそうなのですけれど、イザヤにしてもエレミヤにしても詩編の詩人にしても、彼らはただ自分が考えたことを記したわけではありません。聖霊なる神様によって促され、言葉を与えられて、彼らは記したわけです。その意味では、聖書の本当の著者は聖霊であり、神様だということになります。ですから、聖書は「神の言葉」と言われるわけです。
 それでは、旧約の預言者たちが記したのは何であったかといいますと、「キリストの苦難と栄光」であったと告げます。これは、私共の言い慣わしている言葉で言えば、「イエス様の十字架と復活」となります。旧約において、イエス様による救いは預言されているのですけれど、一体その預言が具体的には何を意味しているのか、旧約の人たちはよく分からなかったのではないかと思います。旧約がイエス様の預言であるということについてですが、私共が預言を天気予報のようなイメージで捉えますと、間違ってしまいます。天気予報は、「明日は富山では午後に大雨が降るでしょう。」と告げるわけですけれど、「明日」とか「富山」とか「大雨」は文字通りの意味しかありません。しかし、旧約のキリスト預言は、そんな単純なものではありません。イザヤ書などは、これから起こる具体的な出来事を告げていると同時に、幾重もの意味を持たせて、イエス様による救い、終末における救いの完成ということが告げられています。
 また、旧約を読んでいた人たちの中で、イエス様が来られた時、十字架に架かられた時、これが旧約で預言されていた救いの成就だと理解出来た者はいませんでした。そして、イエス様が復活され、天に上られ、弟子たちに聖霊が降って初めて、旧約に告げられていたことはこういうことだったのかと、はっきり分かった。実に、聖霊によらなければ、誰も聖書を神様の御心に沿って受け止め、理解することは出来ないのです。これが、「信仰が無ければ聖書は分からない」ということです。

6.イザヤ書25章
 それでは、先ほどお読みしましたイザヤ書25章を見てみましょう。この書はイエス様が生まれる700年ほど前に記されたものです。ここでイザヤは、1節b「あなたは驚くべき計画を成就された、遠い昔からの揺るぎない真実をもって。」と告げています。イザヤは神様のご計画というものがあるということを知らされています。当時、アッシリア帝国によって、イスラエルは風前の灯火でした。そして、やがて滅ぼされるということも知らされていました。しかし、それで終わりではない。その救いの御業をイザヤは預言しました。それは単に祖国が復興するということにとどまらず、イエス様による救い、更には終末における救いの完成までの射程を持ったものでした。
 8節には「死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を地上からぬぐい去ってくださる。」と告げます。これは明らかに祖国の復興などというレベルの話ではありません。イエス様の十字架と復活による救いが預言されています。更に9節には「その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう。」と告げます。これはイエス様の救いに与った者の喜び、更には終末における救いの完成の日の喜びが告げられているわけです。
 このように、旧約において告げられていた神様の救いの御心、救いのご計画は、イエス様による救いを預言しているわけです。他にも例を挙げようとするならば、幾らでも挙げることが出来ます。しかし、この預言を聞いた旧約の人たちが、イエス様による救いを知ることが出来たかというと、それは出来ませんでした。それはイエス様の十字架・復活・昇天・聖霊降臨の出来事によって、イエス様の弟子たちによって明らかにされたことでした。

7.預言者たちも天使たちも
私共は今、イエス様による救いがどういうものなのかを知らされています。そして、それに与っています。これはとてつもない、大変な事です。何故なら、それは神様の秘義を知らされた、永遠のご計画を知らされたということだからです。12節に「彼らは、それらのことが、自分たちのためではなく、あなたがたのためであるとの啓示を受けました。それらのことは、天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。」とあります通り、旧約の人々は、この預言が自分たちの時代ではなく、後の世に実現されると神様から知らされました。そして、私共は実にその時代に生きているわけです。何という恵みかと思います。更にそれは「天使たちも見て確かめたい」と思っていたことでした。天使たちさえはっきりとは知らされていなかったイエス様の救いの出来事を、私共は知らされている。それは何と光栄なことでしょう。

8.公然の秘密
 神様の救いの秘義としてのイエス様の救いの御業は、世界中の人に知られています。キリスト者が少ないこの日本においても、イエス・キリストの名前は誰でも知っています。教科書にも載っています。十字架も復活もクリスマスも知っています。誰にも隠されていません。しかも、この恵みを受け取るには、高度な知識が必要なわけでもありません。聖書を全部読んで理解しなければいけないわけでもありません。ただこの恵みを感謝して受け取れば良いのです。小学生でも出来ることです。しかし、すべての人がこの救いの恵みを受け止めているわけではありません。不思議なことです。誰にも隠されていません。でもそれを自分のこととして受け止めることが出来ているわけではない。もったいないことです。どうしてでしょう。そこに神様の選びと聖霊の導きというものがあるわけですが、人間の側にも原因はあります。
 それは、神様の御前にへりくだることが出来ない傲慢という罪。これが神様の救いの恵みを受け取れなくさせています。神様が天地を造られたことを信じるということは、自分自身もまた神様に造られたことを認めるということです。自分を造った方がいるということは、自分はその方の前では偉そうにしてはいられません。へりくだらなければなりません。しかし、人間は本当に傲慢で、誰でも自分は中々大した者だと思っている。まして、自分がその方に対して、また隣人に対して罪を犯しているなんて、到底認められない。「自分も悪いけど、相手も悪い」と考えるのが精一杯です。問題は、自分も悪いけどの「けど」です。これがついている限り、本当に自分が悪いとは思っていない。神様の御前に立つということは、この「けど」を取るということです。その時、徹底的な神様の赦し、圧倒的な神様の愛、神様の永遠のご計画、驚くほどの神様の力、その中に生かされている自分を見出すことになります。そこには全く新しい世界が広がっています。私共は、この驚くべき恵みの世界に生きる者とされました。まことにありがたいことです。

 お祈りします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 あなた様は私共に聖書を与えてくださり、その御心を私共に教えてくださいます。私共は愚かで、傲慢で、自分勝手な者ですから、聖書の言葉をすべて理解出来るわけではありせん。しかし、あなた様は聖霊を与えてくださり、聖書の言葉を通して私共に語りかけ、必要な霊の糧を与えてくださいます。感謝します。どうか、私共がイエス様の十字架と復活の出来事によって与えられた救いの恵みの中を、健やかに歩んで行くことが出来ますよう、聖霊なる神様の導きを心から願い、祈ります。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2023年9月10日]