日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「父なる神の右におられるキリスト」
詩編 100編1~3節
エフェソの信徒への手紙 1章15~23節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
 祈ることが大切である、祈ることを抜きにして信仰の歩みはない、ということは、私共は信仰の歩みの初めの時から聞いてきたことです。これに異論を唱える人はいないでしょう。しかし、何を祈るのかということについては、私共は十分に弁えているとは言えないかもしれません。「あなたは何を祈っているのか」と、今朝与えられております御言葉は私共に問います。私共は家族や友人・知人が病気になったり、厳しい状態に陥ったならば、神様に守ってくれるようにお祈りします。勿論、自分自身のためにも祈ります。しかし、それはイエス様の救いに与る前から、私共はそうしていたのではないでしょうか。初詣の祈りなどはその典型です。それがいけないというのではありません。求めることを、幼子が父に求めるように素直に神様に願い、祈ったら良いのです。しかし、私共の祈りは、目に見える幸を求めるというところに終始してしまって良いのか。今朝与えられている御言葉はそのように私共に問うています。

2.何を祈るのか
今朝与えられているエフェソの信徒への手紙1章15節以下において、使徒パウロはエフェソの教会の人たちのための祈りを記しています。17~19節「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように。また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。」これをざっくり申しますと、①神を深く知ることが出来るように。②与えられている希望と受け継ぐ栄光を悟るように。③神の力を悟るように。この三点についてパウロは、エフェソの教会の人たちのためにいつも祈っていると告げています。この三つは別々のことではありません。十字架・復活・昇天・再臨というイエス様の救いの御業について、よくよくその意味とそこに顕れた力と真実とを弁えるようにという祈りです。この祈りは、エフェソの教会の人たちだけのためのものではなく、パウロは愛する者たちのために、いつもこのような祈りを捧げていたのでしょう。そう考えるのが自然だと思います。
 皆さんの祈りはどうでしょうか。教会も教会員も具体的な様々な課題をいつも持っています。牧師はそれを知る立場にいます。ですから、ついその具体的な課題を神様が何とか導いてくれるようにと祈ります。勿論、それは大切なことですし、必要なことです。しかし今朝、私共が聖書からはっきり告げられていることは、「その人の信仰のために祈りなさい」ということです。愛する者の信仰のために、この教会に集う者たちの信仰のために、祈るということです。神様を深く知ることが出来るように、与えられている希望がはっきりするように、与えられる栄光を悟るように、そして神様の力がどれほど絶大であるかを知ることが出来るように、そう祈る。どうして、このような祈りをするのか。それは、これらのことが分かれば、私共は恐れや不安に押しつぶされない者になるからです。健やかな信仰の歩みを為していくことが出来るからです。このことをしっかり弁えることが出来れば、どんな不安も、嘆きも、悲しみも、肉体の死さえも、私共の信仰を潰すことなど決して出来ないからです。だから、パウロはこのことをエフェソの教会の人たちのために祈ったのです。①神を深く知る。②与えられている希望と受け継ぐ栄光を悟る。③神の力を悟る。このことをきちんと弁えるならば、信仰がしゃんとします。そして、信仰が「しゃんとする」なら、私共はどのような試みの時も乗り越えていくことが出来る。だから、何よりも信仰がしゃんとするように互いに祈り合う。それが、この御言葉から私共に示されている「私共の祈りの第一の課題」です。勿論、信仰がしゃんとすれば、恐れも不安もなくなるというわけではありません。しかし、これに潰されることはありません。生きる力や勇気や希望がなくなることはありません。
 誤解がないように申し上げますが、パウロはエフェソの教会の人たちの具体的な問題について祈っていないわけではありません。それはいつもパウロの念頭にありました。それはこの手紙の最初を見れば分かります。パウロはほとんどの手紙の冒頭の挨拶の所で、「父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(1章2節)という祈りを告げています。「恵みと平和」を祈る。これは具体的な目に見える様々な課題に対する神様の守りと支えと導きを求める祈りです。しかも、これは「挨拶」です。日常の挨拶が神様・イエス様からの「恵みと平和」を祈るものになっている。それほどまでに、互いに具体的な課題について祈り合うということが当たり前のこと、日常のことになっていたということでしょう。その上でなお、パウロは「信仰がしゃんとするように」と祈っているわけです。

3.何を悟るのか
 ここでパウロは、神様の力がどれほど絶大であるか、そのことを悟るということは具体的には二つのことを悟ることだと告げています。一つは「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。」つまり、「イエス様の復活と昇天の出来事」をきちんと受け止めるということです。もう一つは「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。」つまり、「イエス様が教会の頭である」ということを悟ることです。このことを悟ることによって、私共は神様の絶大な力を知り、この力に守られ、支えられ、導かれていることが分かる。そうすると、何も案ずることなく、健やかに信仰の歩みを為していくことが出来る。そのようにパウロは考えて、こう祈っているわけです。

4.ハイデルベルク信仰問答:問50、51、52から
さて、私共は今朝、北陸連合長老会の交換講壇の礼拝を守っています。北陸連合長老会は、日本基督教団の北陸にある長老教会と改革派教会の信仰の伝統を重んじていこうする教会によって構成されています。私は今朝、富山鹿島町教会から来ました。富山鹿島町教会は、トマス・ウィン宣教師が金沢教会を設立した年の8月に伝道旅行をした時をもって、伝道開始の時としています。富山鹿島町教会の最初の定住伝道者は、長尾巻でした。長尾巻はトマス・ウィンによって洗礼を受け、伝道者として訓練された、北陸における最初の日本人伝道者です。金沢元町教会も小松教会も富山鹿島町教会も、長尾巻によって伝道された教会です。長尾巻の伝道はいつも困難を極めました。彼は貧困・困窮と共にありました。しかし、彼はキリストによって新しい命に生きる者とされて、歩み通しました。
 今このことをお話ししたのは、この北陸連合長老会の交換講壇においては、改革派・長老派の教会にとって信仰の大切な遺産である「ハイデルベルク信仰問答」を用いて御言葉を説き明かすことになっているからです。今回は、皆さんのお手元にあります問50、51、52を用いることになっています。この箇所は使徒信条の、「全能の父なる神の右に坐したまえり。かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん。」の所で、私共は何を信じ告白しているのか、またそれを信じることによってどのような益を受けるのかということが告げられている所です。

 問50は、イエス様が天に昇られ、「神の右に座したまえり」とはどういうことか。
 問51は、わたしたちの頭であるキリストの栄光はどんな益をもたらすのか。
 問52は、キリストの再臨はどのような慰めを与えるのか。

ということが告げられています。これは、今朝与えられている御言葉とよく重なります。

5.神の右に座したまえり
イエス様は十字架にお架かりになり、復活され、天に昇られたわけですが、この天に昇られたとはどういうことなのか。使徒信条は「全能の父なる神の右に坐したまえり」と告白します。ここで「神の右に」とありますけれど、この「右」というのは方向や位置関係を表しているわけではありません。もう45年も前になるでしょうか、洗礼を受けてからも随分長い間、私はこの「神の右」というのが、こちらから向かって右なのか、神様から見て右なのかが分からずに、悶々としていました。ある時、牧師にこのことを聞いたところ、牧師は笑いながら、「この右は、社長の右腕というような時に使う右と同じで、方向や位置を示しているわけではない。父なる神様と同じ権威と力を持っておられるという意味です。」と教えてもらいました。聞いてしまえば「なんだ、そうか」というだけの話です。皆さんも、分からないことがありましたら、悶々としないでさっさと牧師に聞いたら良いです。
 イエス様は天におられて、全能の父なる神様と同じ権威と力を持って、すべてを支配しておられます。そして、そのイエス様が「教会の頭」なのだとハイデルベルク信仰問答は問50で告げています。

 問50 なぜ「神の右に座したまえり」と付け加えるのですか。 
 答 なぜなら、キリストが天に昇られたのは、
  そこにおいて御自身がキリスト教会の頭であることをお示しになるためであり、
     この方によって御父は万物を統治なさるからです。

とあります。またエフェソの信徒への手紙1章22~23節において「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」と告げています。これはとっても大切なことです。イエス様が神様の右に座しておられるということは、父なる神様と同じ権威と力を持って天におられるということですが、それが私共にとってどういう意味があるのか、どういう益があるのか、それがこのことにおいて明らかにされるからです。このことがはっきりしませんと、イエス様の十字架も復活も昇天も「昔々のお話」になりかねません。イエス様は天に昇られ、今は父なる神様の右におられるわけですが、それは「教会の頭」としてだと言うのです。教会は「キリストの体」であり、キリストは「教会の頭」です。私共は父・子・聖霊の御名によって洗礼を受け、キリストの命と結び合わされました。キリストの体である教会に繋がり、その「キリストの体のえだ」とされています。つまり、イエス様は今、天におられるのですけれど、何よりも「私共の頭」として君臨し、すべてを支配しておられるということです。
 そして更に、教会の頭であるということは、問51にこうあります。

 問51 わたしたちの頭であるキリストのこの栄光は、
     わたしたちにどのような益をもたらしますか。
 答   第一に、この方が御自身の聖霊を通して、
      御自身の部分であるわたしたちのうちに
      天からの賜物を注ぎ込んでくださる、ということ。
     そうして次に、わたしたちをその御力(みちから)によって
      すべての敵から守り支えてくださる、ということです。

 イエス様は聖霊を通して、「御自身の部分であるわたしたちのうちに」天の賜物を注いでくださいます。よいですか、私共はイエス様の一部分なのです。教会はキリストの体であり、私共はその一部です。イエス様の命と結ばれている。私共は、主の日のたびごとに御言葉を受け、信仰を新しくしていただき、神様の子・僕として、それぞれの所に遣わされていきます。そこで、私共は様々な具体的な問題・課題に遭遇します。そんなものには遭いたくないのですけれど、仕方がありません。キリスト者は、困難や厳しい状況には遭わない、などということはありません。病気にもなります。人間関係においてしんどい状況に陥ることだってあります。しかし、イエス様が天におられ、父なる神様の右に座し、教会の頭であるということは、私共にそのような様々な試練を乗り越えることが出来るだけの力・勇気・希望・助け・支え・御言葉・祈りといった様々な賜物、つまり「天の賜物」を私共に与えてくださるということです。この神様が与えてくださる賜物によってキリスト者は守られ、支えられ、この世の旅路を御国に向かって歩み通すことが出来ます。それは、二千年の間、代々の聖徒たちが自分の人生を賭けて証ししてきたことです。

6.証人に囲まれ、証人として立てられて
信仰は理屈ではありません。勿論、信仰の筋道としての理屈は大切です。しかし、それがただの理屈ならば、実につまらないものです。信仰は理屈じゃないと申しますのは、その信仰に生きて、その信仰によって神様の恵みと真実、力と憐れみが本当であることが証しされなければ意味がないということです。
 私共はここで、神様が与えてくださる賜物によって守られ、支えられ、信仰の歩みを歩み通した具体的な人の名前を幾らでも挙げることが出来ます。この金沢教会を設立したトマス・ウィン宣教師夫妻、或いは北陸学院を開校したメリー・K・ヘッセル、或いは先ほど名前が出ました長尾巻。長く北陸学院の院長をされた番匠鐵雄氏、また先の大戦の時にこの教会の牧師をしていた上河原雄吉牧師。そんな有名な人でなくてもいいんです。私共が良く知っている信仰の先達たち、その顔を思い起こせば十分です。みんな、大変な時代を、厳しい状況の中をくぐり抜けて、御国への歩みを全うしました。それはイエス様が、聖霊を通して天からの賜物を一人一人に注いでくださったからです。そして今、私共もそれらの方々と同じように、イエス様によって天の賜物を注がれて、御国への歩みをさせていただいてます。それは、私共自身が次に続く者たちに対して証しを立てる者とされているということです。この教会に集うことによって、天におられるイエス様が、聖霊を通して天の賜物(=信仰・希望・愛・生きる力・忍耐・感謝・賛美・祈り・喜び等々)をくださり、そして具体的な信仰者の交わりが与えられ、信仰の歩みを歩み通す。このことによって、イエス様の御支配・御力・憐れみ・真実が確かにここにあるということが証しされていきます。
 私はいつも教会で申し上げているのですけれど、大変な時、苦しい時、しんどい時。それは試みの時であり、まさに「証しが生まれようとしている時」です。そのような時にこそ、私共がただイエス様を見上げて、助けと守りと導きを願い求めて歩むならば、イエス様は出来事を起こすなり、助け手を与えてくれるなり、私共が思ってもいなかったあり方で必ず道を拓いてくださいます。ここに証しが立ちます。

7.再臨
最後に、問52にあります「キリストの再臨」について見ます。
 イエス様は十字架に架かり、三日目に復活され、天に昇られました。そして、今も天におられます。では、そのイエス様は永遠に天におられるのでしょうか。そうではありません。イエス様は再び来ると約束してくださいました。その日がいつなのかは、誰も知りません。しかし、「すぐに」「突然」来ると言われました。ですから、私共は何時イエス様が再び来られても良いように、御国に迎えられる備えとして、この地上の歩みを為していきます。それは、イエス様が再び来られる日を目指しての歩みとなります。
 イエス様は再び来られる時、「生ける者と死ねる者とを審く」お方として来られます。しかし、私共は少しも恐れることはありません。イエス様は私共のために十字架にお架かりになってくださったお方です。その方が裁かれるのですから、私共は完全な赦しに与ることになります。そして、この裁きによって、私共の救いは完成へと至ります。私共は「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ」(ペトロの手紙一1章4節)ことになるからです。それはイエス様に「似た者となる」(ヨハネの手紙一3章2節)ということです。イエス様の復活の体に与り、イエス様の愛・謙遜・真実をも注いでいただきます。私はその日を楽しみにし、憧れています。今、私共はイエス様からの天の賜物を頂いているわけですけれど、そこにはこのイエス様が再び来られる日に与えられる救いの完成を信じ、期待し、その日に向かって歩む信仰も勿論含まれています。
 昔来られたイエス様は、今は天におられ、教会の頭として私共に良きものを与え続けてくださっています。その歩みは、天におられるイエス様が再び来られるその時に完成します。代々の聖徒たちは、この日を待ち望みながら、耐え忍び、持ち堪えて歩み続けました。私共も、この地上での歩みを、最後の日に至るまで「しゃんとしたキリスト者」として歩んでいけるように、互いに祈り合ってまいりたいと心から願うのです。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。
 あなた様は今朝も私共をこのように御前に召し出してくださり、恵みの御言葉をくださいました。感謝いたします。イエス様は十字架に架かり、三日目に復活されて、天に昇られました。今もそこにおられ、父なる神様と同じ権威と力をもって、すべてを支配しておられます。そして、聖霊を通して、私共に必要な良きものすべてを備えてくださいます。そのあなた様の恵みの中で、御国への歩みを一日一日為している私共です。どうか、私共の心に、イエス様が再び来られる日に対する期待と信頼と憧れをいよいよ満たしてください。そして、どのような状況になろうとも、あなた様の子・僕としての歩みを全うさせてください。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2023年9月17日夕礼拝]