日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「神を畏れる生活」
創世記 22章11~14節
ペトロの手紙一 1章13~21節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
 イエス様によってすべての罪を赦していただき、救っていただいたキリスト者には、日々の生活における具体的な変化というものが起きます。これを自分で自覚することはあまりないかも知れません。それは丁度、毎日自分の顔を鏡で見ていますと、自分の顔が変わっていっていることに気付きませんけれど、何十年も前の写真を見ますと、随分変わったものだと思うのに似ています。しかし、私共の心を写す写真はありませんので、昔の自分と比べることは出来ません。ですから、中々気付かないのですけれど、私共は確実に変えられています。信仰を与えられたことによって、今日の自分がある。それはすべてのキリスト者に言えることでしょう。信仰と今の自分を切り離して考えることは出来ません。私共の考え方、感じ方、もののとらえ方、人との関わり方、何が大切なのかということ。それらすべてに信仰が関わっています。信仰によって自分がどのように変えられたのかと問われて、ぱっと「私はここが、こんな風に変わった」と挙げることが出来なくても、確実に変えられています。気づかないところで、私共は大きく変えられ、変化し続けています。例えば、このように主の日には礼拝に集うということは、私共の生活における大きな変化でしょう。そこで御言葉を受け、神様を賛美し、祈りを捧げる。これが私共を変えていかないはずがありません。今朝与えられている御言葉は、この変化を自覚的に受け止めて歩んで行くように勧めます。何となくではなくて、「自分はキリスト者である」ということを自覚的に受け止めて歩むようにと勧めます。

2.待ち望む者として
 今朝与えられている御言葉は「だから」と始まっています。これは3~12節に語られてきたことを受けています。つまり、イエス様によって終わりの日に与えられる救いの完成、それを仰ぎ望む大いなる希望。何によっても奪われることのない救いの確かさ。その恵みの中に既に生かされている私共です。「だから」、あなたがたはこのように生きよう、と聖書は勧めるのです。このイエス様の救いに与った者は、イエス様が再び「現れるときに与えられる恵み」(13節)を待ち望みつつ、この地上を歩みます。それは「主よ来たり給え」との祈りと共に生きると言っても良いでしょうし、主の祈りにある「御国を来たらせ給え」との祈りと共に生きると言っても良いでしょう。私共の信仰の眼差しは、このイエス様が再び来られる日に向けられています。日常の生活の中で、このことを自覚することはあまりないかもしれません。日々やらなければならないことに追われるようにして生活している私共です。私もそうです。しかし、私共は主の日にここに集う度に、自分は何者であり、どこに向かって歩んでいる者なのかということを新しく心に刻みます。そして、目に見える何かを得るという希望以上の大いなる希望を心に刻みます。そして、終末に与えられる恵み、救いの完成に与る者として、ここからまた新しく歩んで行くわけです。

3.心の腰に帯を締め
 その歩みについて、聖書は「心を引き締め、身を慎んで」(13節)と告げます。この言葉から、「緊張して、萎縮して、縮こまって」というイメージを持たれるかもしれませんが、聖書が告げようとしているのはそうではありません。「身を慎んで」というのは、放縦でなく、つまり自分がしたいことを何も考えずに勝手にやるのではなく、ということでしょう。そして、「心を引き締め」と訳されている言葉は、口語訳では「心の腰に帯を締め」と訳されていました。「腰に帯を締める」というのは、日本の着物をイメージして頂くと良いのですが、帯をしなかったらとんでもない格好になってしまいます。帯をしていてもそれが緩んでいたら、着物の裾がはだけてしまい、とてもだらしない格好になってしまいます。ですから「心の腰に帯を締め」というのは、心のたたずまいをきちんとして、だらしなくならないように、怠惰にならないようにということです。しかし、それだけではありません。「腰に帯を締める」というのは、着物を着て走り出す際には、着物の裾を帯に入れて、裾が足元の邪魔にならないようにするわけです。まさに、イエス様が再び来られる日に向かって駆けだしていく、そんな躍動した心の姿が「心を引き締め、身を慎んで」ということで告げられているイメージです。ですから、確かにイエス様が来られるのを「待つ」のですけれど、それは「ただぼーっと待つ」ということではありません。ある神学者は、この主を待ち望む私共の姿勢を「待ちつつ、急ぎつつ」と言いました。なるほどと思います。イエス様が早く来て欲しいという思いをはっきり持ちながら、いつ来られても良いように備えをして待つということです。これが私共キリスト者の心のありようであり、この心から具体的な生活が整えられていくということなのでしょう。

4.存在が変わる① ~従順な子~
 キリスト者とは何者なのか。そのことについて、聖書はここで二つの言葉で言い表しています。一つは、キリスト者は「神様の子」とされた者であるということです。キリスト者とは、その存在の根本から変えられた者です。私共が何者であるかとの問いに対して、いろいろな答え方があるでしょう。日本人である、男である、女である、夫である、妻である、父である、母である、会社員である、教員である、主婦である、学生である等々、色々あります。しかし、社会的な私共の属性をいくら挙げても、イエス様に救われた恵みに生かされている私共が何者であるかということを言い表すことは出来ません。イエス様に救われたキリスト者。それは「神の子」です。私共は天地を造られたただ独りの神様の子としていただいた者です。天地を造られたただ独りの神様の子としていただいたということは、あまりにもの凄いことで、私共の頭の中に入りきらないほどです。ですから、中々ピンとこないかもしれません。しかし、この恵みを何とか精一杯受け止める。そして、この恵みに圧倒され、すべてが飲み込まれる。このことが本当に大切だと私は思っています。
 本来、天地を造られた神様の独り子はイエス様だけです。イエス様は永遠に父なる神様と共におられるお方です。その神様の独り子であるイエス様が、人間となり、私共の代わりに十字架にお架かりになり、私共と一つとなるために洗礼を受けられました。私共はイエス様を「我が主、我が神」と告白して洗礼を受けることによって、このイエス様と一つとしていただきました。それによって、私共は「神様の子」としていただきました。イエス様抜きに神様の子としていただくことは出来ません。ここが大切な所です。確かに、私共はイエス様と同じではありません。イエス様は神様ですから。しかし、父なる神様は私共を「我が子」として受け入れ、扱ってくださいます。このことを、イエス様は「神様の実の子」であり、私共は「神様の養子」と言うことも出来ます。ですから、私共は神様に対して「父よ」と呼ぶことが出来るという、あり得ないほどの恵みの中に生きています。この恵みに比べれば、目に見える何かを手に入れるなどということは、実につまらないこと、塵あくたに過ぎません。
 聖書はここで「無知であったころの欲望に引きずられることなく、従順な子となり」(14節)と告げています。神様の子とされた私共ですが、この恵みのありがたさが良く分かりませんと、「従順な子」にはなれません。従順でない子、つまり父なる神様に対して不従順な子になってしまいます。神様に対して反抗的で、頑固で、強情で、偏屈な子になってしまいます。私共が従順な子となるのは、父なる神様の恵みの大きさを知らされるからです。これが分からなければ、従順にはなれません。「無知であったころ」つまり「イエス様を知らなかったころ」の欲望に引きずられたままになってしまいます。聖書は「そうならないように」と告げているわけです。神の子とされた恵みをよくよく知るならば、私共の求めることが変わりますから、欲が変わります。そして、以前の欲に引きずり回されることがなくなるということです。

5.存在が変わる② ~聖なる者~
 さて、ここでキリスト者とは何者であるかということを示す言葉として、「神の子」の他にもう一つ言われています。それが「聖なる者」です。「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。」(15節)とあるとおりです。皆さんは「聖なる者」という言葉からどんなイメージを持つでしょうか。すぐに思い浮かぶのは、「清く正しい」人ということかもしれません。或いは「聖人君子」という言葉かもしれません。このような道徳・倫理において間違いを犯さない人というイメージは、完全に的外れというわけではありませんが、一番大切な所を外しています。そもそも、聖書において「聖なる方」は神様しかおられません。人間がどんなに頑張ったところで完全な聖さに到達することなど出来る話ではありません。では、この「聖なる者となりなさい」とは、どういうことなのでしょうか。
 それは、唯一の聖なる方である神様の聖さに与る、もっとはっきり言えば、聖なる神様のものとされるということです。元々、「聖なるものとする」という言葉は、「聖別する」とも訳されますが、それは、「神様に捧げられたもの、神様への供え物として、他のものから区別される」ということです。つまり、私共が「聖なる者」となるということは、神様に捧げられた者となるということです。ここで、ローマの信徒への手紙12章1節の有名な御言葉を思い起こすことが出来るでしょう。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」私共は、神様に捧げられた者として生きる時、最も神様の御心に適っているということです。私共は礼拝の献金の祈りにおいて、「これは私共の献身のしるしです。」と祈ります。献身とは、我が身を神様に捧げるということです。ですから、私共が献身しないのならば、この祈りは嘘ということになってしまいます。
 先ほど創世記22章のアブラハムが我が子イサクを捧げる場面の御言葉を読みました。ここは、旧約聖書の中でも最も難解な、深い謎を持った箇所と言われています。この箇所を単純に「我が子の命さえ惜しまずに捧げることを神様は求めておられる」と読むことには、私は疑問があります。いわゆるカルト宗教はそのように読み、そのように神様にすべてを捧げることを信徒に求めます。とんでもないことです。そもそも、アブラハムはこの時、結局はイサクを捧げることにはなりませんでした。これは大切なことです。私は、この箇所はイエス様の十字架の出来事を指し示す預言となっていると受け止めています。旧約では父アブラハムが我が子を捧げようとした。そして、新約では父なる神様が我が子イエス様を捧げられた。このイサク奉献の場面で、私共はイエス様を思い起こさなければなりません。イエス様は十字架の上で、自らを神様へのなだめの供え物として捧げられました。このイエス様の歩みこそ、最も聖なる方の姿であり、最も神様の御心に適ったものでした。聖書が私共に「聖なる者となりなさい」と勧める時、私共はこのイエス様のお姿に倣うことを勧められているのだということです。勿論、イエス様に倣っていくならば、神様を第一として、神様の御心に従うことを喜びとする者として歩んでいくことになるでしょう。ここで、最初のイメージ「清く正しく」ということと重なってくることにもなりましょう。大切なことは、イエス様を抜きにして、私共の信仰心や、倫理観や、優しさで「聖なる者となる」のではないということです。大切なのはイエス様です。イエス様と一つにされて、イエス様の導きの中で、イエス様に倣って、イエス様と共に歩むことによって、「聖なる者」として歩んでいくことになるということです。 

6.歩みが変わる ~神様を畏れて~
 そして、そのようなキリスト者の歩みは「父なる神様を畏れる生活」(17節)となると告げられています。この「畏れる」というのは、恐怖の「恐れる」ではなく、「神様を畏れ敬う」「神様を畏怖する」という時に用いる「畏れる」です。何か悪いことをすれば、神様が私共に罰を与えるから、そうならないようにしようという心は、神様を怖い方として恐れるということになりましょう。しかし、私共が神様を畏れるのは、神様が私共の父となってくださり、神様は私共を愛し、私共を救い、私共に天にある驚くべき資産を与えようとしてくださっているということを知らされたからです。真にありがたく、かたじけなく思うからです。神様の子としていただいたのですから、「親の顔を見てみたい」と言われるような、神様の顔に泥を塗るようなことはしたくありません。この神様への畏れは、神様への感謝の思いと結ばれています。
 先ほど「心を引き締め、身を慎んで」という御言葉を思い巡らす時にも申し上げましたけれど、この神様への畏れもまた、私共を萎縮させ、脅えさせ、これをしたら神様に裁かれるのではないかといったビクビクした心持ちのことではありません。この神様への畏れは、神様をないがしろにしない、馬鹿にしない、まるで神様無しで生きているかのような思い違いをしないということです。そうではなくて、すべてが神様の御手の中で導かれていることを信頼し、与えられた場所で為すべきことを、感謝と喜びと希望と誇りをもって為していく。イエス様の救いに与る前の欲望に引きずられて生きていた生活に別れを告げ、神様の恵みの中を、神様の子として、健やかに歩んで行くということです。今、「健やかに歩む」と申しましたが、キリスト者としての健やかさ、それはとても大切です。神様を畏れ敬う私共の歩みは、健やかです。明るく、自由で、伸びやかなのです。神様との愛の交わりの中に生きるからです。

7.キリストの尊い血によって
さて、私共が神の子とされ、聖なる者とされ、救いの完成へと導かれているのは、主イエス・キリストの尊い血によって与えられたものです。18~19節「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」と告げられているとおりです。「贖われた」とは、現代ではキリスト教会の中でしか使われなくなった言葉ですけれど、「買い取られた」という意味です。罪の支配から神様の支配へ、死の支配から命の支配へと、私共が生きる所を変えていただくためには、イエス様の尊い血潮という代価が支払われました。イエス様の尊い血という代価によって、私共は神様のものとしていただきました。私共が神様のものとしていただくために支払われた代価は、「金や銀のような朽ち果てるもの」ではありません。何にも比べることが出来ないほどの尊い代価、イエス様の血潮、イエス様の命が支払われました。この代価を支払うほどに、神様は私共を徹底的に愛され、徹底的に赦し、徹底的に新しい者に造り変えようとしてくださいました。
 このイエス様の尊い血潮がなければ、私共は新しくされることも、神の子とされることも、聖なる者とされることもありませんでした。それは、今私共に与えられている、何によっても潰されることのない「強靱な希望」を知らずに生きるしかなかったということです。それが「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活」(18節)に留まるしかなかったということです。「先祖伝来のむなしい生活」というのは、偶像礼拝に代表されるような、まことの神様を知らず、自分の欲を満たすことを幸いだと思い、不品行なことも平気で行い、人と比べては優越感に浸ったり、劣等感にさいなまれたりし、自分が何者であるかも知らず、結局は死に向かって行くしかなかった生活ということです。しかし、イエス様は私共のために、私共に代わって、十字架にお架かりになり、私共を罪の闇から救い出してくださいました。新しい命に生きる者にしてくださいました。死で終わらない命に生きる者にしてくださいました。この恵みの中に生き、主の御名を誉め讃えつつ歩むことは、何と幸いなことでしょう。確かに、色々なことがあります。辛いこともあります。しかし、それらが私共から喜びと感謝と希望と誇りを奪うことは出来ません。
 ただ今から、私共は聖餐に与ります。イエス様は、私共の信仰が真に頼りないことを知っておられ、そのような私共を励ますために、聖餐を制定してくださいました。イエス様の体と血とに与り、イエス様が私共と一つになって歩んでくださっていることをしっかり受けとめ、いよいよい健やかな歩みを御前に捧げてまいりたいと願うものです。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。御名を畏れ敬います。
 あなた様に与えられている救いの恵みに感謝して、神の子として、聖なる者として、喜びと感謝をもって歩んでまいりとうございます。どうか、私共の信仰の眼差しを、イエス様が再び来られる日にしっかり向けさせてください。この地上の日々にあっては、様々なことが起きます。辛い日も苦しみの日もあります。しかし、そのような時でも、私共が健やかなキリスト者として一日一日を歩んで行くことが出来ますよう、聖霊なる神様の導きと支えとを、心からお願いいたします。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2023年10月1日]