日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「神の言葉によって生まれ変わる」
イザヤ書 40章1~11節
ペトロの手紙一 1章20~25節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
 ペトロの手紙一を読み進めています。先週は、イエス様によって救われた私共は「従順な神様の子」としていただいたのだから、イエス様を知らなかった頃の欲望に引きずられることなく、神様のものとされた「聖なる者」として歩もう、との勧めを受けました。そして、イエス様の尊い血によって贖われたのだから、神様を畏れ敬って歩んで行こう、と勧められました。私共が目指すのは、イエス様が再び来られる時です。この時、私共は救いの完成に与り、イエス様に似た者とされ、永遠の命に復活します。私共の目指すところはこのようにはっきりとしているのですから、この地上での私共の歩みは、その恵みを受けるための備えの日々ということになります。ですから、もう、イエス様に救われる前のような、自分の欲に引き回されるだけのむなしい歩みは出来ません。キリスト者の歩みはその日を目指しての、イエス様に救われた喜びと感謝と希望と誇りをもっての歩みとなります。

2.神様の永遠のご計画の中で
 さて、今朝与えられている御言葉は1章20節からですが、20節には「キリストは、天地創造の前からあらかじめ知られていましたが、この終わりの時代に、あなたがたのために現れてくださいました。」とあります。「キリストは…あらかじめ知られていた」と告げられていますが、誰が知っていたのかといえば神様しかおられません。何しろ「天地創造の前から」というのですから、人間が出る幕はありません。イエス様による救いの道筋は神様によって定まっていたけれど、遂にその時が来て、イエス様はあなたがた、つまり私共のために現れました、と言うのです。イエス様は私共のために来てくださったのですけれど、それは私共を救うためです。ということは、私共が救われるのもまた「天地創造の前から知られていた」ということになりましょう。私共は「神様の永遠のご計画の中で」神様の救いに与った。このことをしっかり受けとめることが出来るならば、私共は「大安心」の中で信仰の歩みを為していくことが出来るでしょう。
 私共がイエス様の救いに与りました当初、この「神様の永遠のご計画の中で」ということがよく分かりませんでした。私はキリスト者の家に育ったわけではありませんし、18歳で教会に行くようになるまで、私の知っている人にキリスト者は一人もおりませんでした。ですから、教会に行くようになったのも、洗礼を受けることを決めたのも、すべて「私が決めたこと」だと思っていました。確かに、誰かに誘われたわけでも、強要されたわけでもありません。皆さんも、今朝教会に来ることを決めたのは自分でしょう。しかし、そのように私が決めたことを出来るように、神様はすべてを整えてくださり、導いてくださいました。この神様の恵みの御手、導きの御手がなければ、私共は自分が決めたように歩むことは出来ません。勿論、それは私共が神様の操り人形だということではありません。私共に自由がないのなら、私共に責任はありません。しかし、神様は私共に自由を与えてくださいました。私共が神様から離れ、罪を犯すことさえも出来るほどの自由をです。その自由な歩みをもって私共は人生を歩んでいるのですから、私共は自分のすることに対して、自分の人生に対して、責任があります。私共は自由に決断し、道を選び、歩んでいるからです。しかし、それでもなお、私共は「神様の永遠のご計画の中で」生かされています。神様のご計画というものは、私共が考えてスケジュール帳に記しているようなものではありません。そんな簡単な、単純なものではありません。私共がどんなに自由に決断しても、それもまた神様のご計画の中にあるといった、私共にはとても計り知ることの出来ないほどの大いなる御心、それが「神様の永遠のご計画」というものです。

3.洗礼を受ける者
 今朝、一人の姉妹が洗礼を受けます。当教会で洗礼を受けたお祖母さんから3代目となります。お祖母さんもお母さんも教会員です。ですから、この姉妹は生まれた時から、いえ、お母さんのお腹の中にいた時から、この教会に通って来ていました。教会学校にもずっと来ていましたし、高校を卒業してからは大人の礼拝に出席していましたから、皆さんも良く知っておられると思います。洗礼の試問会で、長老が「どうして洗礼を受けようと思われましたか。」と問いました。それに対して、「そろそろ良いかなと思いました。」と答えられました。これを聞いて、私は「なるほどな。」と思いました。彼女にとって、神様と言えば、天地を造られた神様、イエス様の父である神様、そして自分が朝と寝る時に祈っている神様しかいません。他に神様がいるなんて、考えたこともないでしょう。生まれた時から教会に集っているわけですから、自分で選んで、自分で決断して教会に来るようになったわけではありません。家から教会までは子どもが歩いて来られる距離ではありませんから、お母さんやお父さんの車に乗せてきてもらっていました。そして、そのような自分の歩みを「神様の御手の中にある」ものとして受けとめ、これからもこの神様と共に歩んで行こうという決断をされた。それが「そろそろ良いかな」ということなのでしょう。今日で二十歳になりますので、決して早い洗礼ではありません。聖霊なる神様がこの決断を与えられ、神様が永遠のご計画の中でこの時を備えられたのだと、長老会は受け止めました。洗礼の時は、一人一人違います。年齢も状況も導かれ方も、同じ人は一人もおりません。でも、それを備えてくださったのは、ただ独りの同じ神様です。洗礼はその「神様の永遠のご計画の中で」の出来事なのです。

4.信仰と希望は神にかかっている
 21節には「あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。」とあります。イエス様は私共の罪を贖うために、十字架にお架かりになられました。このイエス様の血、イエス様の命によって、私共の罪は神様に赦していただけることとなりました。このことについては、旧約における犠牲(いけにえ)というものを知る必要があります。イエス様による救いは、「神様の永遠のご計画の中で」の出来事ですから、神様の御心を示している旧約に、既にイエス様による救いは指し示されていました。色々なあり方でイエス様による救いの出来事が指し示されているのですけれど、その中でとても大切なものに犠牲、いけにえというものがあります。旧約における礼拝は、主に動物の犠牲を神様に捧げるというあり方で守られました。その犠牲の捧げ方については旧約のレビ記などに記されています。何を願い求めるのかによって、捧げる動物を何にするかということも記されています(レビ記1~4章)。犯してしまった罪を赦していただくためには、自分の身代わりとして犠牲を捧げます。旧約と新約で神の民のあり方が大きく変わったことの一つは、この礼拝です。私共は、罪の赦しを求めて牛や山羊や羊などを焼き尽くして神様に捧げることはしません。それは、この旧約における犠牲はイエス様の十字架によって完成されたと理解しているからです。私共の罪の赦しのために、真の神にして真の人である主イエス・キリストが、私共の身代わりとして十字架の上で犠牲となってくださいました。ですから私共は、もう羊や牛といった不完全な捧げ物である犠牲を捧げる必要はなくなりました。イエス様の十字架の死によって、私共の罪は完全に赦され、完全に受け入れられ、神様から「我が子よ」と呼んでいただく者となりました。そのことを覚え、心から神様に感謝して、私共は礼拝を捧げているわけです。
 そして大切なのは、イエス様は復活させられたということです。イエス様は十字架の上で死なれて、この地上の歩みのすべてを終えられました。しかし、神様はそのイエス様を復活させられ、真の神の御子としての栄光を弟子たちに示されました。弟子たちは、この復活のイエス様に出会って、イエス様が真の神の御子であることを知らされ、信じる者とされました。そして、ここにキリスト教が始まりました。もし、イエス様が十字架の上で死んで終わりだったならば、弟子たちはイエス様を神の独り子、真の神として拝む者とはならなかったでしょう。「イエス様の話は素晴らしく、多くの奇跡もしてくださった。けれど、やっぱり死には勝てなかった。偉い人だったけれど。」と言って終わったことでしょう。イエス様は弟子たちの記憶の中には残ったとしても、それで終わりです。しかし、イエス様を「我が主、我が神」と信じる者たちは世界中に増え広がり、地球の裏側の富山にまで広がりました。そして、二千年にわたって毎週、イエス様が復活された主の日に礼拝を捧げています。十字架の死で終わっていたのであれば、イエス様をこのように信じる者が起こされ続けることはなかったでしょう。しかし、現に私共はイエス様を信じ、イエス様が復活された週の初めの日である日曜日に、このようにイエス様を神様として礼拝しています。それは、主なる神様がイエス様を復活させられたからであり、聖霊を私共に注いで信仰を与えてくださったからです。そのことによって、私共はこの肉体の死では終わらない命に生きるという希望を与えられました。実に私共は、イエス様の十字架と復活によって神様を信じるようになりました。その信仰と希望は、神様の永遠の救いのご計画の中で与えられました。私の信仰心や真面目さによるのではありません。ですから、私共は安んじて、信仰の歩みを為していくことが出来るのです。

5.深く愛し合いなさい
 そのような私共に、今朝、神様が求められることは「清い心で深く愛し合う」ということです。22節に「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい。」とある通りです。イエス様に救われたということは、「真理を受け入れ」たということです。イエス様は御自身で「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネによる福音書14章6節)と言われました。ですから、イエス様が真理です。イエス様を我が主として受け入れることが、真理を受け入れるということです。このイエス様を受け入れることによって、イエス様は私共の中に宿ってくださり、私共の魂を清めてくださいます。私共が良い人になろうと努力して、その結果「魂が清められる」ということではなく、イエス様が清めてくださいます。この「魂の清め」とは、神様に対して二心無き者とされるということです。神様に対する純心、純情と言っても良いでしょう。その結果、「偽りのない兄弟愛を抱くようになった」。だから、実際、その兄弟愛をもって互いに深く愛し合う交わりを形作っていきなさいと、神様は今朝私共に求め、命じておられます。
 ここで注目すべきは、「真理を受け入れる」「魂を清められる」というのは、神様との関係のことであるのに対して、「清い心で深く愛し合いなさい」というのは人間同士の関係だということです。信仰が与えられ、罪赦され、神様の子とされ、神様との関係が新しくされます。そうすると、隣人との関係、兄弟姉妹との関係が変わるということです。キリスト者は、キリストの教会は、「清い心で深く愛し合う」交わりを形作っていくことが命じられているということです。特に、ここで告げられているのは「偽りのない兄弟愛」とありますから、兄弟姉妹との関係、つまり教会の交わりを指しています。キリストの教会というものは、この「偽りのない兄弟愛」によって「清い心で愛し合う」交わりを形造り、「ここにある」と証明する存在なのだということです。
 しかし、教会にはそれがあると簡単に言えるでしょうか。これを自問すれば、いささか自信がなくなるかもしれません。確かに、自分の教会は人間関係において全く問題がない、そのように言い切れる教会はそうはないでしょう。現実の教会は、罪人の集まりですから、色々なことがあります。しかし、ここで大切なことは「教会はこうあるべきという姿を知っている」ということです。教会は「清い心で深く愛し合う」交わりとなっていく、そういう責任があるということを知っているということです。それが完成されるのは御国においてです。キリストの教会は、この御国の姿を心に刻んで、そこに向かって歩み続ける共同体です。この愛の交わりとしての共同体を形造っていく責任が教会にはありますし、それによって、この世に対してイエス様の福音の素晴らしさを証ししていくことになります。

6.聖霊によって:神の言葉によって
 「清い心で深く愛し合う」交わりを形造っていこうと本気で思っている共同体は、多分キリストの教会だけだろうと思います。勿論、会社や職場、地域社会も学校も、そうなれば良いとは誰もが思っているでしょうけれど、そうでなくてもそれは仕方がないとも思っているでしょう。そのような交わりの形成は難しいし、大変だし、そもそも「清い心で深く愛し合う」交わりを形造ることが、その共同体の目的ではないからです。しかし、キリストの教会は、このことを決して諦めない課題として正面から受け止め続けてきましたし、受け止めています。その理由は、はっきりしています。それは、このことは神様が私共に求め、命じておられることだからです。
 そしてその理由は、23節「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。」とありますように、キリスト者が、そしてキリストの教会が、「神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれた」ものだからです。キリスト者に信仰が与えられたのは聖霊によってです。洗礼もまた聖霊なる神様の御臨在によって為される神様の御業です。ですから、私共が神の子として「新たに生まれた」のは聖霊なる神様によってです。では、聖霊なる神様によって新たに生まれるとは、更に具体的に言えばどういうことになるのでしょうか。それが「神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれた」ということです。これは、言葉だけを聞くと分かりにくいかもかもしれませんけれど、この出来事を経験した者にとっては、説明の必要もないほどに当たり前のことでしょう。
 「神の生きた言葉によって新たに生まれる」とは、聖書の言葉が生き生きと神様の言葉として語られ、そしてその言葉が自分に告げられた神様の言葉として聞き取られる。そのことによって私共は神様に撃たれ、神様との出会い、神様との交わりが与えられました。これを御言葉体験とも言います。この出来事こそ聖霊なる神様の御業であり、神様が生きて働かれるお方である証しです。これはまことに不思議な出来事です。人間が作り出すことは出来ません。

7.イザヤ書が告げる神の言葉
 この神の言葉について、ペトロはイザヤ書の40章の言葉を引用し、24~25節「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない。」と告げました。このイザヤ書40章は、南ユダ王国がバビロニア帝国によって滅ぼされ、ユダの人々は遠く離れたバビロンの地に連れて行かれた、いわゆるバビロン捕囚の時です。紀元前6世紀のことです。その神の民に対して預言者イザヤは、神様によって解放されることを預言し、慰め、励ましました。バビロンがどんなに強く、世界に君臨しているように見えたとしても、「人は皆、草のようで、その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、花は散る。」のです。バビロニアもやがて、その地位を奪われ、滅びることになります。しかし、「主の言葉は永遠に変わることがない。」あなたがたは、この変わることのない神の言葉に示された、「神様の永遠の救いのご計画」の中に生かされている民だ、神の民だ。だから、案ずることはない。そのようにイザヤは神様から言葉を与えられて、神の民を励ましました。
 時代は移り、人も変わっていきます。それは草や花のはかなさと変わりません。しかし、時代が変わろうとも、変わらないものがあります。それが「神様の永遠の救いのご計画」であり、その御心を記した聖書の言葉です。この聖書の言葉によって私共は神様と出会い、新たに生まれ変わり、神様の子としていただきました。今朝、神様がこの聖書の言葉によって、私共に「清い心で深く愛し合う」交わりを形造っていくように命じておられます。ですから、私共はこの課題にきちんと向き合って、この完成される御国に向かって歩む民として、神様の御心に適う愛の交わりを形作り、変わらぬ神様の力と愛と真実とを証ししていきたいと願います。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。御名を畏れ敬います。
 私共は今朝、あなた様の御言葉によって新しく生まれた者であり、あなた様の子とされ、御言葉によって導かれている者であることを教えていただきました。ありがとうございます。どうか、私共が御心に適った愛の交わりを形作っていくことが出来ますように。そして、そのことによってあなた様の恵みと真実を証ししていくことが出来ますように。聖霊なる神様の導きを心から祈り、願います。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

[2023年10月8日]