日本キリスト教団 富山鹿島町教会ホームページ|礼拝説教

礼拝説教

「かつての自分と今の自分」
ヨシュア記 24章14~15節
ペトロの手紙一 2章6~10節

小堀康彦 牧師

1.はじめに
 今、ヨシュア記の最後の所、ヨシュアがイスラエルの全部族をシケムに集めイスラエルが契約を結んだ所は長いので、ヨシュアが語ったところの一部だけをお読みしました。ここは「シケムの契約」或いは「シケムの再契約」と呼ばれる場面です。イスラエルはモーセに導かれてエジプトを脱出しました。その時、神様は様々な奇跡をもってイスラエルを守り、導いてくださいました。有名なのは「葦の海の奇跡」と呼ばれる、海が二つに分かれて海の中に開かれた道をイスラエルが逃げて行った場面。或いはイスラエルが40年の旅の間、天からのマナによって養われたという出来事でしょう。この出エジプトの旅の最初の方で、モーセがシナイ山において神様の戒めである十戒を刻んだ石をいただき、この戒めを守って生きていきますという契約をイスラエルは神様と結びます。出エジプト記の19章以下に記されていますが、これを「シナイ契約」或いは「モーセの契約」と言います。モーセは約束の地を仰ぎ見ますが、そこに入ることは許されず、その直前で地上の生涯を閉じます。その後継者として立てられたのがヨシュアです。このヨシュアによって率いられて、イスラエルはヨルダン川を渡って約束の地に入っていきます。ヨシュア記には、イスラエルが約束の地に入っていった時の戦いの様子が幾つも記されています。そして、各部族ごとにその土地が分配されたことが記されています。ただ、ヨシュア記に記されている12の各部族ごとに分配された土地の内、7部族の分の土地はまだイスラエルが占領していない土地でした。ヨシュアは約束の地のすべてを占領して、それをイスラエルに分配したわけではありませんでした。ただヨシュアは最後に、全イスラエルをシケムに集めて、モーセの時に神様と結んだ「シナイ契約」の更新を行いました。それが「シケムの再契約」です。どうして、契約更新、再契約が為されたのでしょうか。それは、「シナイ契約」から50年以上が過ぎ、世代も替わりました。そこでイスラエルの信仰はどうなっていたかと言いますと、一言で言えばイスラエルは信仰において崩れてきていました。ですから、ヨシュアは約束の地でイスラエルが神の民としてしっかり歩んで行くように、イスラエルに契約を求めたのです。契約の内容はシナイ契約と変わりません。14~15節でヨシュアは全イスラエルに向かってこう告げました。「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。」これはイスラエルの中に、ヨルダン川の向こうの神やエジプトの神を捨て去ることがまだ出来ていない者がいたことを示しています。そしてヨシュアは「ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」と宣言します。それに対してイスラエルの民は、16節で「主を捨てて、ほかの神々に仕えることなど、するはずがありません。」と答え、「わたしたちも主に仕えます。」と約束しました。これがシケムの再契約です。

2.契約を更新し続ける
 しかし、結果はどうだったでしょうか。その後の顛末が士師記に記されています。イスラエルの民は、主に忠実に従っていくことが出来ず、主に背き、その結果他の民族に攻められるということが起き、その度に神様が士師(つまりリーダー)を立てて窮地を救うということが繰り返されました。このように見ますと、シケムの再契約は、残念なことにあまり効果がなかったようにも見えます。
 このことから示されることは、神様との契約は随時更新し続けられなければならないということです。何十年に1回ではダメなのです。いつも新しく神様との関係を形作っていく。信仰の歩みとは、この神様との契約の中に留まり続けることです。私共にとって、神様との契約式は信仰告白並びに洗礼式です。そして、その更新に当たるのが主の日の礼拝であり、聖餐です。しかし、契約を更新するためには、まずは契約が結ばれなければなりません。かつての自分と今の自分は違う。主なる神様と契約し、神様の子・僕として新しくされた者だということがはっきりしていなければなりません。

3.かなめ石、隅の親石
 さて、モーセやヨシュアによって導かれたイスラエルの民が神様と結んだ契約と、私共がイエス様によって与えられた契約は違います。私共が神様と結んだ契約は、イエス様の十字架と復活によって、ただ恵みによって一切の罪を赦していただくという、恵みの契約です。この恵みの契約において決定的なことは、神の御子であるイエス様が為してくださった贖いの業です。私共のために、私共に代わって十字架の上でイエス様が裁きを受けてくださったという出来事です。
 この出来事は神様の永遠のご計画の中にありました。ですから、イエス様が生まれる前からこの救いの御業は旧約に預言されていました。そのような箇所は旧約にたくさんあるのですけれど、今朝与えられている御言葉においては、旧約の3箇所から引用されています。
 6節「聖書にこう書いてあるからです。『見よ、わたしは、選ばれた尊いかなめ石を、シオンに置く。これを信じる者は、決して失望することはない。』」これはイザヤ書28章16節の引用です。この「かなめ石」がイエス様です。「かなめ石」というのは、神様が建てられる霊的な家、神様の御臨在が明らかになる建物、すなわち神殿の「かなめ石」です。「かなめ石」は、その石がなければ建物全体が崩れしまう、最も大切な石、文字通り肝心要の石です。勿論、「かなめ石」というのはたとえです。イエス様とその救いの御業によって、新しい神の民である教会が建てられ、イエス様がその「かなめ石」となるということです。そして、「これを信じる者は、決して失望することはない。」つまり、必ず救われるということです。
 しかし、イエス様を神の子・救い主と信じない者にとっては、この「かなめ石」であるイエス様など何の意味もありませんので、彼らはこの石を捨てました。そう、イエス様は神殿の祭司長・律法学者・ファリサイ派の人々によって捨てられ、十字架に架けられました。神様はそのことをも預言しておられました。それが7節で引用されている「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」という、詩編118編22節の御言葉です。彼らはイエス様を捨てました。十字架に架けて殺しました。しかし、神様はイエス様を復活させられ、その「捨てられた石」を「隅の親石」としたのです。この「隅の親石」というのは「かなめ石」と同じように受け止めてよいでしょう。不思議なことです。神の御子・救い主を殺すという最も罪深い行為によって、神様の救いの御業は貫徹されました。イエス様を捨てたのは「家を建てる者」たちでした。つまり、自分たちこそ神様が御臨在されるエルサレム神殿における信仰を守り、支えている者だと自負していた者たち、彼らが本当の「尊いかなめ石」を捨てたのです。しかし、そのことによって人間の手によらないまことの神殿、キリストの体なる教会が建てられ、新しい神の民が生まれることになりました。神様の御心、神様の御業は、いつも私共の思いを超え、私共の罪の業さえも用いて、その御心を貫徹されます。それが、神様が全能であるということです。

4.つまずきの石、妨げの岩
イエス様を神の御子・救い主と受け入れない人にとって、イエス様は「つまずきの石、妨げの岩」(8節)でしかありません。これはイザヤ書8章14節の引用です。イエス様が復活されたというよき知らせを聞いても、「そんなバカな。」としか思わない人にとっては、イエス様は「つまずきの石」でしかありません。まことの神様の救いに与ることの「妨げの岩」になってしまう。これは、いつの時代、どの国、どの文化においても同じです。イエス様の御復活の出来事を受け入れて、イエス様は今も働き、私と共にいてくださり、すべての道を開いてくださっている、そして私共を永遠の命へと導いてくださる。そのようにイエス様を信じることが出来るのは、奇跡としか言いようのない、聖霊なる神様の御業です。
 ここで聖書は、「彼らは御言葉を信じないのでつまずくのですが、実は、そうなるように以前から定められているのです。」と告げます。神様の永遠のご計画の中で定められていたことだと言うのです。これは、イエス様を信じない人に対して言われているわけですけれど、この逆も同じです。つまり、私共が「御言葉を信じて救われるのは、そうなるように以前から定められている」からです。私共は、このように主の日にここに集い、神様に向かって「アバ父よ」と呼んで礼拝を捧げていますが、それは神様の永遠の選びによることなのです。ですから、私共の中に誇るべき所など、何一つありません。ただ、神様の憐れみ、ただ神様の恵みです。まことに有り難いことです。このことを改めて受け止めて、御名を誉め讃えたいと思います。

5.選ばれた民、祭司、聖なる国民
更に聖書は、その神様の恵みの選びによって救いに与ったキリスト者である私共、キリストの教会に連なる私共は、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」と言うのです。どれも、自分のような者がそのように言われるのは畏れ多いような、穴があったら入りたいような、自分はそんな大それた者ではありませんと言いたくなるような言葉です。しかし、これは「私も中々たいしたものだ。」などと思わせる言葉では全くありません。この言葉は、私共の与えられている恵みの驚くべき大きさを告げているのです。  「選ばれた民」「聖なる国民」「神のものとなった民」とは、同じような意味を持っています。「選ばれた民」とは、旧約においては神様によって選ばれたイスラエルに対して用いられていた言葉ですので、私共は新しいイスラエルだということです。前回も申しましたが、「聖なる国民」とは、聖なる神様の聖さに与った民、つまり、神様に捧げられた民ということです。神様に捧げられ、神様のものとなったから、聖なる神様のものとされ、神様の聖さにあずかり、「聖なる国民」となった。ですから、これは次の「神のものとなった民」と同じことを意味しています。神様に捧げられ、神様のものとされ、それ故に神様の聖さに与った、神様に選ばれた民だということです。それは、他の人が私共を見て、このように見てくれるということではありません。神様が私共をそのように見てくださるということです。これが大切です。他人が私をどう見るかでもなければ、私が自分をどう見るかでもありません。神様がこのように私共を見てくださっているということです。有り難いことです。

6.王の系統を引く祭司
 ただ、ここにあるもう一つの言葉「王の系統を引く祭司」という言葉には注意が必要です。旧約において「王の系統」と「祭司の系統」は基本的には全く別です。王の系統と言えばダビデの家系であり、ユダ族です。一方、祭司の家系はアロンの家系であり、レビ族です。この二つが交わることはありません。しかし、この交わることのない二つの系統が、一人の方によって一つになりました。それがイエス様です。まことの王であり、まことの大祭司としてのイエス様です。私共は、このイエス様と一つとされ、イエス様は私共の兄弟となってくださいました。そのことによって、私共も「王の系統を引く祭司」とされました。祭司の務めは何でしょうか。それは、執り成しです。
 聖書は、私共がこのような者とされた目的を記しています。それが9節b「それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」と告げられていることです。「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。」と言われて「それほどの者ではありません。」などと謙遜している場合ではありません。このような者としてして神様が私共を見てくださっているということは、そこには神様の目的、神様の意図、神様の私共に対しての期待があるということです。その期待とは、私共を救ってくださった方であるイエス様・神様の力ある御業を、私共が広く伝えていくことです。代々の聖徒たちは、この神様の期待に応えて歩んできました。私共も「うまずたゆまず」主の御業の素晴らしさを伝え続けていきたいと思います。それが、神様が私共に期待しておられることだからです。

7.暗闇から光の中に
 さて、私共がイエス様の救いに与ったことを、「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れ」られたと、聖書はここで告げます。私共がイエス様を知らなかった時、私共は勿論まことの神様を知りませんでした。ですから、神ならぬ偶像を平気で拝み、自分の願いを込めて祈っておりました。神様を知らなかったので、本当の自分のことも知りませんでした。自分のことしか考えられない狭さを、当然のことだと思っていました。愛するのは、自分の身内や親しい人だけ。それも当然だと思っていました。そして、自分も家族も愛する者も、すべて神様の守りと支えの御手の中にあることを知りませんから、神様に感謝することも知りませんでした。この世の目に見える富や地位を得ることが幸いだと思っていました。まことの幸い、まことの平安、まことの喜びを知らなかったからです。また、死んだら終わりだと思っていました。それが「暗闇の中にいた」ということです。しかし、それらを当然だと思っておりましたので、特に闇の中にいるとも思っていませんでした。闇は、光が差し込んできて、初めて闇であったことに気付かされる。そういうものです。自分が闇の中にいるということに気付きませんから、そこから変わろうとはしません。私共自身がそうでした。
 しかし、今や、です。イエス様の救いに与り、私共は天からの光を浴びました。まぶしいくらいの光の中に招き入れられました。それは、まことの光であるイエス様と一つとされ、イエス様と共に生きる者とされたからです。死では終わらない世界に生き始めたからです。何によっても失われることのない希望を与えられたからです。私共は変えられました。かつての自分から、神の民である今の自分に変えられました。神様の憐れみを受け、神様の憐れみの中で生きる、今の私に変えられました。

8.光の中に留まる
 このように、光の中に招かれた私共にとって、何より大切なことは、その光の中に留まり続けるということです。最初にヨシュア記から見たように、イスラエルは神様とシナイ山で契約しました。しかし、イスラエルの民はその契約から外に出て、契約を結ぶ前の自分に戻ろうとしてしまいました。或いは、光の中に生き始めたのに、闇の時代のものを捨てられずにいました。そこで、ヨシュアはシケムにおいてイスラエルに再契約を求め、イスラエルの民は再契約しました。しかし、それでもダメでした。士師記を見れば分かります。どうしてでしょう。それは、私共の罪というものは、それほどまでに根深く、徹底的だということなのでしょう。光の中に生き始めたのに、すぐに闇の中に戻ろうとする。ゴキブリはたまたま明るいところに出て来ても、すぐに暗いところに戻ります。暗いところが好きなんですね。それと似ています。物理学に「慣性の法則」というものがありますが、私共には、心の慣性の法則、行動の慣性の法則、生活の慣性の法則というものもあるのではないかと思います。ですから、放っておくと闇の中に戻り、人の悪口を言って憂さを晴らし、自分は大した者だと思いたいというところに戻ってしまう。ですから、私共は何度でも、何度でも何度でも、神様との契約を更新していく。そして、新しくされていく。それが本当に大切です。私共は主の日の度にここに集い、礼拝し、聖餐に与る。神様との契約を更新する。そして、新しい神の民としてここから歩みだしていく。その営みが本当に大切なのです。その先にあるのは、神の国の完成です。聖書は告げます。10節「あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです。」これが、私共に与えられている恵みの現実、救いの現実です。私共は今は神の民であり、今は神様の憐れみを受けている。有り難いことです。

 お祈りいたします。

 恵みと慈愛に満ちたもう、全能の父なる神様。御名を畏れ敬います。
 あなた様は、今朝、私共をそれぞれの所から召し出し、ここに集わしめ、御言葉を与えてくださいました。イエス様の御苦しみによって私共に与えられている救いの恵みを感謝します。私共がこの光の中に留まり続けることが出来ますように。そして、この恵みの現実を、まだこの恵みを知らない人たちに伝えて行くことが出来ますように。私共は喉元過ぎれば熱さを忘れるように、何度も同じような過ちを犯し、あなた様の子とされている恵みの外に這い出してしまおうとするような愚かな者です。どうか、何度でも何度でも、あなた様の赦しの中で、あなた様との契約を更新し続けさせてください。神の民としての健やかな歩みを与えてください。
 この祈りを、私共の救い主、主イエス・キリストの御名によって祈ります。 アーメン

[2023年11月5日]